鬼神の角

ヴィルヘルミナ

鬼神の角

 残業帰りで午前零時の街角は人通りも無く、冷たい風が吹き抜ける。コンビニで買った肉まんもから揚げも、その温かさを風に奪われていく。


(あ、また寝てる)

 暗い暗い公園の木々の中、一際大きく育ったクスノキの枝で眠る灰色の髪の男が見えた。真冬だというのに、袖なしの藍色の着物に薄汚れた毛皮のベスト。指貫さしぬきの袴の足元は裸足で草履。……あきらかに人間ではない何か。


 新しい上司のパワハラに悩み始めてから、私の目にはおかしなモノが見えるようになっていた。十センチあるかないかの老人や美男美女。二メートルはありそうな赤子。空を飛ぶように駆ける白狐や色とりどりの龍。


 心療内科かカウンセリングに行った方がいいのかと悩みつつも、この仕事を失ったら生活できないから黙って見ているだけ。上司のパワハラは私が所属するチームの全員が受けていて、一人、一人と辞めていくから、仕事は増える。


 前の上司は全員の体調を気遣い、調整し過ぎて結果を残せなかったと評価されていても、それは嘘。数字は十分上げていたし、成果も結果もどこのチームよりもあった。今の上司がグラフの視覚マジックを駆使して社長に嘘を吹き込んで、前の上司は閑職へと追いやられた。


 数字で出す結果が全てと日頃公言する三代目社長は、異業種の社長や経済界との交流優先で、そもそも私たちが具体的に何をして稼いでいるのか、会社が持つ技術や特性を理解すらしていなかった。


(転職先、探そうかな)

 そうは思っていても、朝から夜まで続く業務は個人の思考を奪う。もしも私が辞めてしまったら、同僚たちに負担を押し付けることになる。


 クスノキの近くを歩いている時、近くの茂みから、老人の話し声が聞こえてきた。視線を向けると小さな三人の着物姿の老人たちが火を焚いて、カップ酒で酒盛りをしている。


『ツマミが欲しいのう』

『から揚げが良いなあ』

『ああ、喰いたい喰いたい』

 

(要求されてる? ……ま、いいか)

 疲れ切った私は深く考えることもなく、コンビニ袋ごと茂みへと放り投げた。


『おや。何かと思えばツマミが降ってきた』

『有難く頂くとするか。おお、肉まんもあるぞ』

 どうやら無事に届いたらしい。ふらふらと歩き始めた私の耳元に、老人たちの笑いと話し声が追ってくる。


『それにしても、あの鬼神おにがみは随分と気が抜けておるのう』

さくの日に落ちた角を誰かに拾われたら、言う事を聞かなければならないのに』

『おや。それなら、角が落ちてくるのを待とうかの』

『角を見つけられたら、喰われてしまうぞ。それでも良いのか?』

『粗塩の中に角を隠すと、鬼神には見えなくなるそうだぞ』

『そんな迷信、誰も試したことが無かろうて』


(鬼の神様なのに、野宿って寒くないのかな)

 そんなことを考えながら、私は独り暮らしの部屋へと帰った。


      ◆


 ある日、業務の増大に耐えきれなくなった同僚が、資料を揃えて人員の補充を社長に訴えた。何も理解していない社長は畑違いの新人を三人入れ、私たちの仕事はさらに増えた。


 日々の業務をこなす中、私はどうやったら綺麗に逃げられるかという思考へと陥っていた。普通に辞めれば同僚に恨まれる。恨まれないように辞めるには……そもそも恨まれても罪悪感を抱かないようになれば……。


 ふと考えたのが、鬼神に食べられてしまうこと。事故や自殺だと誰かに責任が行ってしまうけれど、鬼神なら誰も悪くはならない。


 私はいつしか鬼神に食べられることばかりを考えるようになっていた。


      ◆


 年が明けた一月。残業帰りの午前零時。新月の夜の公園は、街灯だけが煌めいている。防犯用に設置された街灯は青白い光を放ち、以前小さな老人たちを見かけた茂みの中も容赦なく照らし出していた。


 老人たちの話を聞いてから三ヶ月。新月の夜には木の下で立ち止まってみても、鬼の角は落ちてはこなかった。鬼神は起きる様子もなく深い眠りについている。


(嘘だったのかな……)

 あきらめて歩き始めた時、何か小さい物が頭の上に落ちてきた。木の実か何かかと手をやると、ほんのりと温かな三センチくらいの茶褐色の円錐形。


(もしかして、これが鬼神の角……!)

 想像していた角とは違って小さいから、違うかもしれない。一つしかないのかと足元を見回すと、ほのかに白く光る角が地面に転がっていた。


 慌てて拾い上げて、部屋に向かって走り出す。公園から三分の距離を一分で駆け抜けた。


 玄関の扉に鍵を掛け、戸棚から出した粗塩の袋を開けて、ガラス瓶へと流し込む。半分まで入った所で角を埋め、さらに粗塩で覆い、蓋を閉めて息を吐く。


 戸棚の奥に仕舞いこみ、鬼が追いかけてくるのを待っても誰も訪れない。


(まさか、角じゃなかった?)

 私は一体何を拾ってきたのか。落胆で確認する気力も無くしてシャワーを浴び、パジャマに着替えてカップスープを飲もうとした時、インターホンが鳴った。画面を確認しても、誰も映っていない。


「どちら様ですか」

『俺の角を返せ』

 インターホンのマイクで問いかけると男の声で返事が返ってきた。鬼神はカメラには映らないのか。


 玄関の扉を開けると、身長一メートル八十五センチはありそうな大男が立っていた。ぼさぼさの灰色の髪が顔を覆い隠し、薄汚れた灰色の毛皮のベストからは筋肉質な太い腕。藍色の袖なしの着物と指貫袴も土汚れがついている。


「寒いでしょう? どうぞ中へお入り下さい」

 微笑む私を前に、鬼神は明らかにうろたえる様子を見せた。

『な、中へ? 家の中へか?』

 玄関の中に入った途端、鬼神の装束が綺麗になった。灰色だった毛皮は白へ。藍色の着物は土汚れが消えた。ぼさぼさだった灰色の髪がさらりと落ちて、赤い瞳の美貌が現れて驚く。歳は私と同じか少し上くらいに見えた。


「え?」

『……知らぬ者の家へ招かれたのだから、当たり前だ』

 屈んで草履を脱ぐ背中を見ながら、人を食べる鬼では無かったのかと首を傾げる。


 十二畳のワンルームに、誰かを招いたのは初めてだった。鬼神が座ると、小さな一人用テーブルがさらに小さく見える。


「カップスープはいかがでしょう? 温まりますよ」

『あ、ああ。頂こう』

 湯たんぽ用のお湯も兼ねていたから、やかんにはたっぷりお湯が沸いていた。マグカップでは小さいかと、スープボウルに三杯分のスープの素を入れてお湯を注ぐ。


 鬼神は角を探しているのか、部屋を忙しなく見回している。それでも引き出しや戸棚を開けるようなことはしなかった。


「どうぞ」

『ああ。馳走になる』

 鬼神とカップスープを飲むことになるとは想像もしていなかった。手のひらで包み込むマグカップは温かく、ほっと息を吐く。無言でも、誰かと一緒というだけで不思議と優しい気持ちになれる。


『……美味かった』

「それは良かったです。お口直しにお茶を淹れますね」

 何か言いたげな鬼神を置いて、緑茶を淹れる。再びの礼儀正しい鬼神とのやり取りの後、お茶を一口飲んだ鬼神が意を決したように口を開いた。

  

『……角を持ち去ったのはお前だな?』

「はい。私です」

 素直に答えた私の顔を見て、鬼神の赤い瞳が戸惑うように揺れる。


『……お前は俺に何をさせたいのだ?』

「えーっと……鬼神さんのご予定をお聞きしたいのですが、まずは一日のスケジュールを」


『一日? ……日が昇ると神界へ戻る。そこで衆生の声や願いを聞く。日が落ちると人界へ戻って、寝る』

 衆生とは人間のことか。願いを聞く為に神界へ行って、戻って来ると聞くと、勤め人と変わらないような気がする。


「木の上で眠るより、神社かどこかで眠った方が安全ではないですか?」

『昔はそれでも良かった。だが、人間の活動が一日中になって、深夜でも参拝する者がいて眠りを妨げられる。一晩中、光で照らされるのも苦手だ』

 それはライティングのことらしい。あちこちの神社仏閣を転々として、今の公園の木の上に落ち着いたと聞くと、本当に気の毒になってきた。


「あ、あの……日中のお休みは無いのですか?」

『休み? 年末年始以外は、休もうと思えばいつでも休める』


「十二月末と一月初めですね……」

『待て待て。俺の言う年末年始というのは、旧暦の立春、つまり節分前後だ』


「節分……豆をぶつけられるお仕事ですか?」

 枝の上で寝ていた状態ならいざ知らず、この美形に豆を投げるのは勇気がいりそう。


『俺は邪鬼ではないから豆をぶつけられることはない。外に出た邪鬼や瘴気、悪しきモノを黄泉へと追い立てる役目を担っている。……まぁ、間違って豆を投げつけてくる者もいるが』


 鬼神とは、鬼の上位存在と思えばいいのだろうか。すっきりと理解はできなくても、私の目的を告げようとした所でふと思いついた。


「来年の二月十四日まで、私の恋人のふりをして頂けませんか?」

『恋人のふり? ……何をすればいいのだ?』

「月に一度、私とデートしてください」

 

 結局は鬼神に喰われるのだから、好き勝手しようと考えた。こんな美形とデートするなんて、今後生きていても機会は訪れそうにないし。鬼神は、明らかに困惑した顔で承諾した。


「あ、それから、夜は公園ではなく、ここでお眠り下さい。狭いですがベッドでどうぞ」

 シングルサイズのベッドは、背の高い鬼神には狭い。それでも木の上よりは快適なはず。


『お前はどこで眠るのだ?』

「私は床で」


『女を床で眠らせる訳にはいかん』

 そういった鬼神が何か呪文のようなものを唱えると、大男の姿が灰色の動物へと変化した。猫の顔と体に狐の耳としっぽ。その可愛らしさに頬が緩む。


『これなら同衾できるだろう』

 元は神様とはいえ、男性で。迷う心もありながらも眠さもピークに達していた私は、かろうじて歯磨きを終えて、灰色のもふもふと一緒にベッドの中へと入った。


      ◆


 翌朝、目が覚めると鬼神は姿を消していて、死ぬ覚悟が決まった私は憑き物が落ちたようにすっきりとして出社した。


 正常な思考能力を取り戻した私は、上司をおだてて新入社員教育を全て任せて、代わりにスケジュール管理等の業務を奪い取った。前の上司が行っていたことを思い出しつつ、各個人の得意分野に合わせて業務を割り振ると、その処理速度は改善し、残業時間も短縮できるようになった。


 一方で私は最期の時間を迎える為に、自分自身の手入れを始めた。思い付きで恋人のふりを頼んだものの、今の自分では美形の隣に立つのは厳しい。


 まずは肌の手入れとダイエット。コンビニ弁当や買い食いを止めて、簡単でも自炊。ジャージやスエットを捨てて可愛らしい部屋着に替え、美容院に行って髪を切り、何年も使っていなかった化粧品を新しくした。


 毎夜眠りに訪れる鬼神は何も言わないながらも、変わっていく私に驚いているのがわかって楽しい。毎日、鏡の中の私に笑いかけて「今日も可愛い!」と言えば、気分も上がる。


 月に一度のデートでは、鬼神は普通の服で現れて、私の行きたかった場所へ付き合ってくれた。


 半年もしないうちに上司は難しいプロジェクトのリーダーへと抜擢されて移動になり、前の上司が戻って来ると職場は完全に快適さを取り戻した。私は半年後に仕事を辞めると告げ、業務のシステム化と引継ぎに勤しんだ。


      ◆


 楽しくも忙しい日々はあっという間に過ぎ去って、ついに約束した二月十四日がやってきた。


 私はお気に入りの服に身を包み、夜景が美しく見える寂れた公園で鬼神と待ち合わせた。現れた鬼神は流行りのカジュアルコーデ。灰色の髪がお洒落に見えるから不思議。


「……私のワガママに付き合って下さって、ありがとうございます。貴方の角をお返しします」

 粗塩の瓶から取り出した角は、拾った時のまま。白くほのかに光っていて、温かい。


『恋人ごっこは終わりということで良いのだな?』

「はい」


 鬼神に食べられる覚悟は出来ていた。鬼神と過ごした時間は私にとって幸せしかなくて、未練はたっぷり感じている。それでも、角を隠して無理矢理言う事を聞いてもらっているという罪悪感が日々大きくなってしまって、これ以上は耐えられそうになかった。


 鬼神が角に触れると光になって消え、鬼神の額に牛のような角が生えた。その姿はとても凛々しく見えて頬が緩む。彼に食べられるのなら、それでいい。


『……今のお前は浄化され過ぎていて、喰ったら腹を壊しそうだ』

「お腹を壊す?」


『いいか。俺は鬼だぞ。出会った頃のお前は、実に美味そうだった。穢れと闇をその身の中に溜めていたからな。……ところがどうだ。今のお前からはそれがほとんど感じられない』

 大きな溜息を吐いて、鬼神は肩をすくめる。


『……正直に言えば、俺はまだ人を喰らったことがない。……人の味を知ると狂うとは伝え聞いている。人を喰らうと体から瘴気を発して、呪いや祟り、病を振りまく穢れた存在となり果てて、最後は同胞に裁かれて消え失せる。……人を喰うということは、人間でいえば自死と同じだ』


 そう聞いてしまうと、鬼神に食べられてはいけないと思った。人に迷惑を掛けない自死の方法を考え始めた私に向かって、鬼神が口を開いた。


『物は相談だが、これからは宿代を払うからお前の部屋に泊めてくれ』

「え?」


『木の上は寒い』

 真顔で告げられた言葉が衝撃的過ぎて、笑いが込み上げてきた。


「……それなら、新しい部屋を探さないといけないんですが……」

 部屋は昼間に引き払って解約したばかり。家具や服はリサイクルショップに売ったし、どうしても手放せなかった思い出の品が詰まったカバン一つが今の私の持ち物。


『ならば、しばらくは一緒に宿へ泊まろう。金はある』

 そう言って、鬼神はカーゴパンツのポケットから、分厚い長財布を取り出した。


『持っていた石を一つ売ってはみたが、財布に金が入りきらなくてな。銀行口座を作る為に戸籍を作ってきた』

「戸籍が作れるんですか?」

『ああ。昔から日本には、俺たちのような存在に戸籍を作る役所がある』


 神様が戸籍を作れる役所があるのか。驚く私に向かって、鬼神は優しい笑顔を浮かべた。


『……俺は昔からの暮らしにこだわり過ぎていた。自然も変わり、人間の暮らしも変わったのだから、俺も変わってもいいだろうと、お前を見ていて思った』

 ぱちりと指を鳴らすと、彼の額から角が消えて目が黒くなった。こうしてみると普通の人間に見える。


『俺は少しずつ、人間と関わることにした。お前はこれから、どうしたい?』

「そうですね……。新しい部屋を見つけて……新しい仕事を探したいと思います」

 元の職場に戻るよりも、生まれ変わった気持ちで新しい可能性を探してみたいと思う。


『そうか。お前の好きな仕事を探せばいい。俺が憑いているからなんとかなる』

「……ついてるって、何故か不穏な響きがしたんですが……」


『気のせいだろ』

「絶対気のせいじゃないと思います」


 彼は変わった。そして、私も変わった。

 角を隠し持っていなくても、隣に立てることが本当に嬉しい。

 これからも二人でいられるのなら、一緒に笑っていたいと思う。


 話しながら歩いていると、派手なネオンサインが目に入った。宿泊と休憩料金が書かれた看板を鬼神が指さす。

『あの宿はどうだ?』

「……あ、あれはラブホじゃないですかっ! ダメです!」


『らぶほ? 宿ではないのか?』

「つ、連れ込み宿ですっ!」

 私が叫ぶように答えると、鬼神の頬が赤く染まっていく。


『…………責任は取る』

「なっ、何をっ! 寝言は寝てから言って下さいっ!」

 鬼神に食べられる覚悟は出来ていても、その覚悟は想定外。

 私は全速力で逃げ出した。

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