第5話:縄結び


「うっ、まぶしっ……」


 闇に慣れた目に奥宮の明かりが飛び込んできた。八千代は咄嗟に目をつむり奥宮に身体を滑り込ませると、後ろ手でさっと扉を閉めた。


「……ふぅ」


 目が慣れるまでその場で待機しつつ、辺りの気配を探る。奥宮は九業よりも暖かく、古い木の香りと土の香りがした。


「……これが、奥宮」


 薄目を開けていると、徐々にぼやけた景色が鮮明な輪郭を帯びてきた。奥宮は「宮」という名が付いてはいるが、「間」くらいが相応しい広さのこじんまりとした空間だった。部屋を「回」の形とした時に内側の「ロ」のそれぞれの角で、誰が灯したとも分からない太い蝋燭の火が揺らめいており、その炎だけで部屋の四隅までがしっかりと照らされている。


 九業を上がってきた八千代の正面には縄神様の祭壇が祀られており、見慣れた五芒星の輪っかが宙に浮かんでいた。祭壇の周辺は階段一段分高くなっており、両脇にはお酒と空っぽのお皿が供えられていた。


 祭壇の右奥には三和土たたきがあり、壁の竹筒から湧水が手水鉢に注がれていた。その向こうには厚い錠の下りた扉が鎮座しており、縄神様の象徴である丸い縄がかけられている。


「なんか……普通……」


 これまであまりにも濃い闇奥の存在感におびえ続けてきた八千代は奥宮の何てことなさに拍子抜けした。重要な儀式の場と聞いていたが、この部屋にはむしろ妙な生活感さえあり、儀式とは正反対の場所のように思える。


「……まあ、怖くないならいいか」


 八千代は祭壇の前に立って印を結ぶとお祈りを始めた。祝ぎ言の調べに乗って、奇妙なイメージが現れてくる。八千代は本堂の側からこの部屋にやって来たが、本来は山側から祭壇奥の扉を通ってこの部屋に入ってくるのが正しいのではないか。三和土で履き物を脱ぎ、手を洗ってこの間に入る。その者の正体は山神様だった縄神様だろう。すると、この奥宮は縄神様をもてなすための饗応の場なのかもしれない。それにしては質素すぎるのが気になるが。


「……よしっ」


 お祈りを済ませた八千代は祭壇に上り、手順通りに左回りで縄神様の五芒星の後ろに回って振り向いた。祭壇側から見る奥宮の室内は少しだけ広く感じたが、やはり何の変哲もない普通の小屋だった。ちょうど八千代の目の高さに輪の最下部があり、風もないのにぶらぶらと左右に少しずつ振れていた。


 本殿の闇の中で見た縄神様の依り代は心底恐ろしかったのに、ここにある依り代はただの縄でしかないように思える。手首、腕首(肩)、足首、腿首(脚の付け根)、首、このどれかを縄神様の縄に通して、自らの紐を縄に結べば〈縄結び〉は完了だ。


 八千代はほとんどの者がそうするように足首に縄を通そうと考えていた。縄神様の祀られている位置は高く、手首に通すならつま先立ちして手を思い切り上に伸ばした状態で結ばなくてはならない。それではギリギリ過ぎて紐が結べないかもしれない。腕首は背伸びをすれば何とか結べそうだが、それならばしゃがむだけでいい足首で十分だろう。同様に背伸びして首に縄をかけるのは怖すぎるし、腿首に結ぶにはそもそも足が長いか身体が極めて柔らかくなければならないため、八千代には初めから無理だった。第一、奥宮で片足立ちしてバランスを欠くなど怖くてできない。


「……んっ、しょ」


 それなのに、どういうわけか気が付けば八千代は背伸びをしていた。眼前に縄神様の首縄が迫っている。そこに結ばれた紐はどれも古びており、ここ最近首を通した者がいないことが窺われた。


 右、左、右、左、右、左、右、左。


 規則正しく揺れる縄の輪。


 八千代はその動きから目が離せない。顎を上向きにして縄を超えるように顎先を掛ける。そのままくいっと顎を引き、縄を喉の辺りまで手繰り寄せた。そして、礼をするように首を曲げ、頭頂部を輪の中へと通していく。


「……わ、私、どうして首に」


 我に返った八千代は動揺したが、とにかく早く結んでしまおうと懐から紐を取り出した。


「む、結びづらいな……」


 背伸びして首を縄に通した状態では手元を見ることが難しく、縄と首の隙間がぴったりと埋まっているのもあって結ぶのに苦戦してしまう。緊張しているのか指先が汗で湿っており、紙製の紐がくっついてしまって苦労する。


「よ、よし、これで……」


 それでもなんとか作った輪の中に片っぽを通すことができた。あとは両端を引けば縄に紐を結び付けられる。別の指で抑えつつ八千代はいったん抓んでいた指先を離して、しっかりと紐の両端を握り直そうとした。


「んっ、えっ……ぐっ、ぐぅぅ!」


 すると突然、八千代の首にかけた縄がきゅうっと締まり始めたのである。天井から思い切り縄を引かれているようで、喉元の肉に縄がぎりぎりと食い込んでくる。


「ぐっ、ぅぅ、んぅぅ!」


 八千代は縄と肉の間に両手を押し込み、何とか頭を輪から外そうとさらに思い切り背伸びした。けれども、天井から引かれているせいか食い込みは大して緩和されない。


「んっ、んぐぅぅ……うっ、こ、このぉ……っ」


 八千代は必死に手足を動かし、縄から逃れようとばたつく。呼吸は辛うじてできているが、血管が圧迫されれば意識が飛んでしまうだろう。それはすなわち死を意味する。


 死にたくない、まだ死にたくない。やっと幸せを知ることができたのに。もっとお姉様や学園の仲間たちと一緒に日々を生きていたいのに。


「ぐっ、ぁう……ぅう……」


 けれども、いくら八千代が生きようと望んでも縄の締め付けは緩まらない。一方で、八千代の抵抗はどんどん弱くなっていく。首の肉に縄が食い込み、痛みに涙が溢れてくる。疲れ切った身体にはもう、抵抗するだけの力がほとんど残されていない。


「ひっ、ぅ、ぐぅ……かっ、ぁ……っ」


 黒く歪んでいく瞳の奥で、八千代は自分の首を絞める化け物を幻視した。奥宮の四隅は照らされていたが、天井までは照らされていただろうか。ここまでずっと自分を着けてきた毛だらけの獣が、今まさに天井にへばりつき、うねうねと蠢きながら八千代の首を絞めている。そうに違いない。九業を抜けて安全だと心が緩んだ隙をつかれた。七鳴お姉様に「心を強く持て」と言われていたのに、最後の最後で油断した。


「うっ、ぁ……かはぁ、ぁ……ぁ」


 縄を抑える指の力が徐々に抜けていく。これまでの短い九年間が走馬灯となって八千代の脳裏をよぎる。思えば痛みと苦しみばかりの人生だった。九郷女学園に来てからの幸せな時間はだから、死ぬ前のご褒美だったのだろうか。でも、こんな形で終わってしまうのなら、幸せなんて知らなければよかった。


「あっ、ぁ……ぅ……くっ、や、ぁ……」


 もう駄目だ。八千代の両手は完全に力を失い、もはや縄と肉に押し潰されるだけの小枝でしかなくなった。酸素は肺から絞り出され、もうどこにも残っていない。薄れていく意識の中で、八千代は一つのイメージを見た。


 青白い丘に並んだ卒塔婆のような凍り付いた塔。互いに縄で結ばれたその塔の周囲にはあらゆる季節の花が咲いている。一本の巨大な桜が丘の頂上で満開に咲いており、その枝の一本から首に縄をかけた八千代が垂れ下がっている。血の気の失せた肌、だらりと垂れた舌、引き伸ばされた首。遠いのに近い。手を伸ばしても届かないのに、瞼のすぐ裏側にそれはいる。そして、死した紫色の瞼がゆっくりと開き、虚ろな瞳がイメージの壁を越えて奥宮で吊られた八千代を捉えた。


「あっ……」


 視線を避けるように無意識に上を向いた瞬間、八千代の身体から体重が消え去った。そして、ドガッと大きな音と共に臀部に鈍い痛みが走った。


「うっ……うぐっ……」


 八千代はお尻を撫でながら頭を左右に振った。意識が覚醒するとすぐに八千代は頭上を見上げた。奥宮の天井は夜空のように真っ黒で、蝋燭の光を吸収してさらに濃さを増していた。そこに化け物の姿はなかったが、善き物がいるはずもない昏さが淀んでいた。


「紐は……あるっ」


 もがいている時に知らず知らず結びが引っ張られていたのだろう。さっきまで八千代の首を絞めていた縄に白い紐がしっかりと結びつけられていた。


 八千代は飛び跳ねるようにして立ち上がり、祭壇から距離を取って三和土のある方の壁にくっついた。ぶらぶらと揺れ続ける縄とその影以外、奥宮に動くものの姿はない。しかし、八千代は目に見えるものが信じられないことを、ここまでの道中ですでに知っていた。心臓の鼓動が痛いほどに速まっている。きょろきょろと辺りを見回すと、錠が下りて閉まっていたはずの扉がわずかに開いているのが目に入った。


 その扉の先は彼岸であると言われている。けれどもこの場にはあと少しも居たくない。一刻も早く逃げ出さなければ、今すぐにでも縄神様が動き出しそうな気さえする。八千代はたまらず扉を大きく開け、奥宮のさらに奥へと逃げ出した。


 大階段と似たような狭い道には石段すらない。八千代は必死に走りながら、お姉様のことを思い浮かべた。「よくやったわね」と頭を撫でて抱きしめてほしかった。


 走り出してすぐに、山の上の方から何者かが八千代を観察しているのが分かった。行く手の闇の奥から痛いほどの視線を感じたのだ。そして、それはどうやら一体きりではないようだった。大階段で八千代を追ってきた化け物が何匹も犇めいている様が脳裏に浮かんできた。このままではすぐに鉢合わせしてしまう。


 八千代は咄嗟に付近の藪に頭から突っ込んだ。そんなことで視線から逃れられないのは分かっていたが、やみくもに突き進んで自ら危険に飛び込んでいくよりはましだった。


「うわっ、っぁぁあ!」


 手入れなどされていない原生林は九歳の身体で走るには深すぎた。一度躓くと、立て直すことはできなかった。八千代はほとんど転がり落ちるようにして山肌を落下していった。両手を頭の付近に突っ張ってなんとか致命傷だけは避けたが、小枝や岩石が八千代の肌を容赦なく引き裂き、いくつもの打撲を負わせた。


 そのまま数十秒転がり続け、ふいに身体が宙に浮かんだ。死んでしまったのかと思ったが、直後再び臀部に衝撃が走った。


「ふぎゃっ!」


 屠殺される鶏のような声が出た。八千代の身体はごろごろと前転し、三度ほど世界の上下が入れ替わったところで止まった。


「あー……」


 ぐわんぐわんと世界が回転していた。身体中が痛くて何が何やら分からなかった。視界に広がるのは星だった。麓から九九里巳山に踏み入った際には真っ暗だった空に、いくつも星が瞬いている。ものすごく時間が経ってしまったのか、それとも超常現象に巻き込まれて別世界にでも飛ばされたのだろうか。ぼんやりした頭でとりとめもないことを考えていると、少し離れたところから女性の声が聞こえてきた。


「八千代? 八千代なの?」


 澄んだ空気を切り裂く、悲鳴にも似た声だった。世界の回転が収まってくるにつれ、八千代の記憶も返ってきた。脳内物質が忘れさせていてくれた痛みと共に、声の主の正体が八千代の中によみがえる。


「お、お姉様……」


 渾身の力で片手を上げ、声のした方に伸ばしてみる。すぐに力が抜けてしまうが、地面に垂れる前にひしと受け止められた。


「よくがんばったわね、八千代」


 星空ばかりの視界に現れた愛しいお姉様の笑顔。その目に光る大粒の一等星が、八千代の頬にぽつりと垂れた。


「あったかい……」


 夢にまで見たその温度に八千代は身を任せ、意識の手綱を手離した。


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なわむすび 洲央 @TheSummer

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