第4話:九業巡り
パタン、と後ろ手で扉を閉めると、九業の痛いほどの静寂が八千代の耳に圧力をかけてきた。この渡り廊下は入り口と出口で傾斜しており、建物にして一階分ほど下ったところから右に曲がっている。それを進んでいくと今度はヘアピンカーブが現れ、さらに曲線を描いてもう一度ヘアピンカーブを経て、奥宮側の上がり傾斜へと到達できる。すなわちローマ字の「S」の形になっているわけである。
この九業の形は無限回帰を現しており、九業巡りを経ることであらゆる邪なものは出口のない闇に迷って祓い落とされるとされている。裏を返せば、縄九巳神社の結界に入り、禊を経て、本殿を抜けてもまだ憑いてくるものしかこの九業の中には存在していないわけであるから、神社の中でもとりわけ恐ろしい場所であるということもできた。
九業巡りに際しては一切の灯りは禁じられているため、八千代は右手を木の壁に這わせて歩いていくことにした。初めの傾斜を下るのは、深い水の中にとっぷりと沈んでいく感覚とよく似ていた。壁や天井の外には風の音や木の軋む音、炎の燃える音など少なからず音は存在しているはずだが、いずれも九業の中には届いてきていなかった。それはつまり、八千代が泣き叫んで助けを求めても、九業の外には一切聞こえないということだ。
八千代はこれまで歩いてきた夜の森も、本堂の四隅も、そのどれもが真の暗闇ではなかったのだと実感した。九業の中では視力はおろか、聴力も、嗅覚も、触感も、そしておそらくは味覚もほとんど働かない。完全な暗闇は人間の持つあらゆる感覚を停止させる。
右手こそ壁に触れているものの、まるで深い水の底を泳いでいるような心地だった。八千代の息遣いと、ひたひたという足音だけが、どこまでも続く闇の中に吸い込まれていく。
初めの曲がり角に差し掛かると、八千代は空気が一層重くなったのを感じ取った。ここから先、次の曲がり角までは湾曲した道が続いている。そこは九業の深淵であり、落とした憑きものたちがうじゃうじゃと
増幅したイメージは化け物となって八千代の脳裏から闇の中へ投影される。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
一歩足を踏み出すごとに心拍数が上がっていく。身体中の毛穴が開いて大粒の汗が勝手に吹きだす。呼吸は荒くなり、皮膚はますます敏感さを増していく。
「きゃっ……、……」
ふと首筋に何か冷たいものが触れた気がして、八千代は歩みを止めてしまった。恐る恐る左手でうなじに触れるが、特に濡れていたりなどはしない。けれども、完全な闇によって触覚は鈍くなっているため、もしかしたら濡れているのに気づいていないのかもしれない。目が見えていれば触ったりできるが、それももちろん不可能である。匂いを嗅ごうとしても、九業の空気が埃っぽいという程度のことしか分からない。
首は結局濡れたのか、濡れていないのか、八千代にそれを確かめる術は一つもなかった。
「大丈夫……大丈夫……」
気を取り直して足を踏み出すが、その歩みは確実に先ほどまでより遅くなっていた。もしも裸足の指先に何かが触れたら。それは化け物や汚らわしいものかもしれないし、もっと恐ろしいものかもしれない。
先に行った同級生が化け物に襲われて、物言わぬ死体となって転がっている様が目に浮かぶ。身体は水風船のようにぶよぶよで、青白い皮膚には紫色の血管が浮き、その中を蚯蚓のような何かが絶え間なく泳いでいる。穴という穴には蛆が湧き、喉の奥からごぼごぼと血がこぼれ、その中に湧いた
「早く……まだなの……」
九業に入ってから、もう何時間も経っているような気がする。歩いても歩いても、次の曲がり角に辿り着けない。一歩踏み出すたびに震え上がるほど怖く、それでも勇気を振り絞っているのに、一体全体どういうことだろう。先に出発した級友たちはみな二時間ほどで山を下りてきた。従って九業も、そんなに長い廊下であるはずがない。
「まさか……そんな……」
八千代の脳裏を最悪の想像がよぎる。もうここは九業ではなく別の場所なのではないか。九業に入ろうとして化け物の腹の中に踏みこんでしまったのではないか。巨大化した疑心暗鬼はたちまち八千代を捉え、四肢の働きを奪っていく。
「うっ……くっ……うぅ……」
泥の中を歩いているのではないかと思えるほど足が重い。壁に触れているはずだけれど、何も触っていないとしか思えない。心なしか天井が低くなってきたような気がする。首をすぼめて、背筋を曲げて、闇に見つめられるのはもう嫌だ。それなのにすでに囲まれて弄ばれている。このまま狭まって、圧し潰されてしまったらどうしよう。
「もう……無理……」
がくんと膝が折れると、心までもが共に
「……申し訳ありません、お姉様」
意識が朦朧とし、前に後ろに身体が揺れる。両腕には力がこもらず、足の感覚もなくなっているため、自分の身体がどこにあるのかさえ分からない。すでに自分は九業の闇に倒れ伏しているのかもしれない。
「七鳴お姉様……」
全身の力が抜けていく。前のめりに、魂が肉体から抜け出そうとする感覚。意識からうなじへと垂れた細い糸が、ついにプツリと切れる寸前――
「――八千代」
静寂の中に、温かな声が優しく響いた。ふわりと漂ってきた梔子の匂いに、失いかけていた意識がほぐされて身体の感覚が戻ってくる。
「お、お姉様……?」
八千代が目を開けると、もはや懐かしささえ感じる九郷女学園の制服を着た七鳴がすぐ目の前に背を向けて立っていた。その左手は柔らかく開かれ、八千代のもとに差し出されている。
「あ、七鳴お姉様っ……七鳴お姉様なのですね?」
八千代は両手で握って問いかける。七鳴の手にぎゅっと力がこもる。来てくれた。八千代を助けるために七鳴お姉様が来てくれたのだ。ずっと九業の闇の中で、八千代がやってくるのを待っていてくれたのだ。
「八千代」
七鳴に名前を呼ばれると、八千代の身体にみるみる力がみなぎってきた。一度は折
れた心と膝に勇気を注ぎ、八千代は九業の暗闇と対峙するためにすっくと立ち上がった。
「行きましょうお姉様。八千代はもう大丈夫です」
八千代が臆さず歩き始めると、七鳴はちょうどいいペースで八千代を先導してくれた。頼れる背中を見ていると胸の内に温かい気持ちが湧いてくる。初めて会った日も、七鳴はこうして心細さに押し潰されそうだった八千代の手を優しく引いてくれた。
「八千代」
七鳴から発せられるのは、大丈夫だと頭を撫でてくれる時の声色だった。春のひだまりのような体温は、八千代の手から心臓へと流れ込み、冷え切った身体の隅々まで浸透していく。
「お姉様の温度は、安心します……」
「八千代……」
呼びかければ、必ず呼びかけが返ってきた。闇に屈しそうな八千代の心を、そこにいるだけで明るくしてくれる、七鳴は月明かりのような人だった。大海原を小舟に乗ってあてどなく旅してきた八千代にとっての、人生の灯台であり、道標こそが七鳴だった。
「七鳴お姉様……」
「……八千代」
だからこそ、八千代は違和感に気付くことができた。
「……七鳴お姉様?」
八千代が何度呼び掛けても、七鳴は「八千代」としか返さない。それに、決して振り返ってくれない。八千代の知っている七鳴は、いつも八千代がちゃんとついてきているか振り返って確かめてくれた。目が合うと「大丈夫」と微笑んでくれたのに。
「八千代」
この手を引いてくれているのは、本当に七鳴お姉様なのだろうか。一度疑問を抱いてしまえば、猜疑心はどんどん強くなっていく。体温も、匂いも、姿も、どれも七鳴のものではあるが、一度たりとも顔を見ていない。
「お顔を、見る……」
そもそもここは九業。顔どころか、手や背中が見えているのだってありえない。それなのに、八千代は七鳴の後ろ姿を確かにその目で見ている。
「お、お姉様……」
確かめるために、八千代は意味もなく七鳴に呼びかけた。これが七鳴でなかったら、このまま九業の闇の奥に連れていかれて骨の髄までしゃぶられ尽くしてしまうのではないか。それならばこの手を離して早く脱出せねばならない。
「八千代」
返ってきたその声は、しかし八千代のよく知る七鳴のものに違いなかった。やはり、本物の七鳴なのだろうか。なにせ五感のすべては本物であると言っているし、姿が見えるのだって八千代から見えない身体の前面に灯りを備えているからかもしれないのだ。
分からない。本物である根拠も、偽物である根拠も、共に十分すぎるほど存在している。そうなれば後はただ、信じるべきか、信じざるべきか。
「七鳴お姉様……っ」
迷いを断ち切るように目をつむり、八千代は七鳴の手をぎゅっと握った。
「八千代」
七鳴は優しく名前を呼びながら、八千代の手をしっかり握り返してくれた。それは間違いなく八千代の知る七鳴の温度であり、仕草であった。
「お姉様……っ」
やっぱり本物の七鳴だった。八千代を助けに九業の奈落にまでやってきてくれた。胸が晴れた八千代は、歓喜と共に目を開けた。
「あ、あれ……?」
けれども視界には闇が広がるばかりで、七鳴の姿はどこにもなかった。そこにいたのを確かめるように指先を動かすと、ひんやりとした木の感触がした。八千代はいつの間にか九業の出口の扉に手をかけていたのだった。
「お姉様……八千代を、導いてくださったのですね……」
まだ掌に残る七鳴の優しい体温。暗闇に灯った蝋燭のようなそれをそっと握り、八千代は奥宮への扉を開けた。
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