EPILOGUE

 高見沢潤子の身体にはまだ体温が残っていた。

 この女は、他の女とは違い、愛してやってから殺した。

 時生が弁護を担当するストーカー殺人事件の被告人山口健太に対する判決が下ったのは、高見沢潤子を殺害した日の前日だった。東京地裁が下した判決は、検察官高見沢潤子が求刑した通り、無期懲役だった。時生は、弁護人として即日控訴した。

 閉廷後、時生は検察官の高見沢潤子を食事に誘った。

「今後の控訴審に付いて、高見沢先生にお話があります。宜しければお食事などをしながらどうでしょうか?」

 柔らかな口調で告げると、時生は黒いフォルクスワーゲン・ビートルの助手席側のドアを開けた。この車は、普段は妻が使用していた。修理に出しているBMWが治るまでの間、使用していた。

「ありがとうございます」

 高見沢潤子は、何の疑いもなくフォルクスワーゲンに乗り込んだ。

 東京地裁立川支部の駐車場を出たフォルクスワーゲンは、都道四十三号線を多摩モノレール沿いに南へ進み、同じ立川市内にある小洒落たフランス料理店に向かった。自家製の熟成パテと生ハムのサラダが有名な店だ。本日のおすすめランチをオーダーし、ちょっと遅めのお昼を共にした。

 食事が終わり、コーヒーが運ばれて来ると、高見沢潤子は席を立った。

「ちょっとお手洗いへ」

「どうぞ。私にお構いなく」

 時生はさも紳士らしく淑女に気を利かせた。

 女性検事が席を離れた瞬間、時生は周囲に目配りをして、他人の視線がないことを確認した。幸い、昼時を少し過ぎていたため、時生たち二人以外に客は三組しかいなかった。皆、何やら会話に夢中のようだった。

 時生は、内ポケットから一つの錠剤を取り出した。トリアゾラム、商品名をハルシオンと言うベンゾジアゼピン系の睡眠導入剤だ。つまり睡眠薬だ。

 アメリカの連続殺人犯のジェフリー・ダーマーが、トリアゾラムを被害者の沈静目的に用いたように、時生も同じ目的で使用した。

 青色の錠剤を高見沢潤子のコーヒーに入れる。

 用を済ませ、さっぱりとした表情でトイレから戻って来た彼女は、自分の席に座り、ランチコースの締めのアフターコーヒーをブラックのまま口にした。コーヒーを飲み干し、空のカップを受け皿の上に置いた。

 デザートのマスカットのシャーベットを食べ終わると、手を伸ばし、時生が伝票を取った。

「いけません。ここは割り勘で。検察官が被告の弁護人に奢って頂く訳にはいけません。あとあと問題になりますから」

「そうですか。それじゃあのちほど、二千七百円に消費税10%を加えた二千九百十六円を頂きます」

 時生は酷薄な唇の端に含み笑いを浮かべた。

 レジで、時生はクレジットカードを出した。

「口座から」

「デビットですね?」

「はい」

 時生は頷いた。

「……ちょっと何だか私、気分が優れなくて……」

 高見沢潤子は、先ほどから頻りに欠伸ばかりしていた。どうやら薬が効いてきたようだ。

「高見沢先生、これ車の鍵です。先に乗ってお休みになっていて下さい」

「はい」

 鍵を受け取った高見沢潤子は、店の外へ行こうとして一歩前へ足を踏み出した瞬間、よろめいた。壁に凭れ掛かる。

「大丈夫ですか?」

 近くにいたウエイターが、彼女の許に駆け寄った。

「ええ、ご心配なく……」

「救急車を呼びましょうか?」

「いいえ、車の方で休んでいれば、直ぐに治ると思います」

「そうですか……」

 ウエイターは怪訝そうに首を傾げた。

 時生は、クレジットカードを受け取ると、気分が悪そうに壁に凭れ掛かる高見沢潤子の許へ歩み寄った。

「先生、大丈夫ですか」

「はい……」

 顔面蒼白の彼女は小さく頷いた。

 時生は、彼女の身体を支えながら、駐車場に停めてあるフォルクスワーゲンに向かった。

 助手席の乗り込んだ途端、高見沢潤子は動かなくなった。

 運転席に座った時生は、女性検事が完全に眠ったことを確認すると、シートベルトを装着し、エンジンを掛けた。シフトレバーをPからRに入れる。サイドミラーで後方の安全確認をしたあと、左足をブレーキペダルから外し、右足でゆっくりとアクセルを踏み込んだ。

「今夜はたっぷりと楽しめそうだな……」

 助手席で寝息を立てる高見沢潤子の寝顔を一瞥すると、右折ウインカーを点滅させた。目の前の道を走る車が途切れたのを見計らって、時生はハンドルを右に切り、アクセルを踏み込んだ。


 薬の効力が切れ、潤子が目覚めた時、彼女は全裸のままパイプ椅子に座らされ身体を拘束されていた。猿轡の代わりにボールギャグを口に嵌められているため、声が出ない。我が身に何が起こったのか理解出来ずにいた。痺れた頭で考える。

 潤子は目の前に立つ男性が、あの弁護士だと知ると、言葉を失った。

「気が付いたようですね、先生?」

 北見時生は、加虐的な笑みを浮かべた。

「……どうしてあなたが?」

 と訊ねてみるが、ボールギャグを嵌められているため、言葉にすることは叶わなかった。その代わりに、だらだらと涎が垂れ落ちた。

「高見沢先生、貴女は特別だ。他の女とは違い、特に念入りに愛して上げますよ」

「何なの北見先生。あなたは一体……?」

 訴えるが、目の前の男には届かなかった。

「その目、その目ですよ。私は女性の今にも泣き出しそうな潤んだ瞳を見ると、我慢出来なくなっちゃうんですよ。ほら年甲斐もなく勃起しちゃった。実を言うとね私、今まで四十人以上の女性殺しちゃったんですよ……」

 告白すると、北見時生は、ベルトを外しノータックのスラックスを下ろした。更に下着も脱ぎ捨て、勃起した男性自身を露出した。

 潤子は目を逸らした。だが、北見時生は構わず彼女に近寄り、無理やり瞼を抉じ開けた。

「よく見ろ。ほら」

「いや。いやだ。止めてーっ!」

 必死に訴えるが目の前に立つ悪魔には届くことはなかった。

 聖女の身体は、悪魔によって弄ばれるのだ。

「生で挿入(いれ)ますよ。私、ゴムアレルギーなもので……、大丈夫です、病気は持っていませんから。でも、これが終わったら貴女死んじゃうから関係ないか……」

 時生は薄笑いを浮かべた。

「いやだ。いやぁ。お願いします。止めて下さい……。私、お腹の中に赤ちゃんがいるの……。お願いします、助けて下さい」

 潤子は首を横に振った。両目から涙が零れ落ちた。

「キツイな。なかなか挿入(はい)らないな……」

 時生は小首を傾げた。

 潤子の膣口に痛みが走った。時生の邪悪な亀頭が、ゆっくりと彼女の膣内(なか)に挿入(はい)っていく。

 野獣は、猛り狂ったように潤子の身体を弄んだ。亀頭の先が子宮を突き上げる。やがて、時生は彼女の膣内(なか)に呪われたモノを吐き出した。

 潤子は、自分を強姦した野獣の血走った眼を見た。その瞳に自分が映っている。

 時生は、彼女の膣内(なか)に精液をぶち撒いたあとも、彼女の身体から穢れた男根を抜くことはなかった。悪魔の手が、潤子の白い首筋に伸びた。

「いやだ、止め……て、お願……」

 苦しい。息が出来ない。

 意識が遠退いていく。


 足立区梅田三丁目○、荒川沿いに建つ築二十年以上になる八階建てのマンションの一室で、高見沢潤子を絞殺した時生は、下半身を露出したまま冷蔵庫へ向かって歩き出した。

 ドアを開け、中から三五〇ミリサイズの缶ビールを一本取り出す。プルトップを爪で引っ掛けて開け、一気にビールを飲み干した。

「さて、あの女どうするかな?」

 全裸のままパイプ椅子に座った固定され息絶えた高見沢潤子の死体を凝視する。フローリングの床は、彼女が死ぬ間際に垂れ流した汚物で濡れていた。

「ふふふふふ……、こうなると淑女も売女も一緒だな」

 時生は高見沢潤子を冒涜する。

 この部屋は、弁護士になってから時生が借りていた部屋だ。ワンルームマンションだ。ここで殺害した女性は、高見沢潤子で二人目だった。一人目は、女医原綾女だ。

 原綾女は、強姦する前に殺害した。そして犯した。所謂死姦だ。

 スラックスを穿くと、時生はスマホを手に取った。自宅へ電話を掛ける。

「あっ、私だ。時生だ。今夜は町田のマンションで泊まっていく」

【分かりました……。あの、あなた?】

 妻が何事か勿体ぶったような言い方をした。

 ちょっと気になり訊ねてみる。

「何だ?」

【昼間、警察の方が訊ねて来て】

「警察?」

 時生は上擦った声を上げた。

【例の車の事故のことで……】

「車、私のBMWのことか?」

【はい】

「それで、どうだった、警察は何と言ってるんだ」

【いいえ、別に】

「そうか……。分かった。もう切るぞ」

 時生はスマホを切った。

「感付かれたか……。まさかな……」

 時生は不安気に呟いた。

 そのあと、一晩掛けて高見沢潤子殺害の証拠隠滅作業に取り掛かった。

 彼女の死体は、大きめのゴミ袋に入れ、濃紺のトランクケースに入れた。床に零れた汚物をふき取り、次亜塩酸ナトリウム水溶液、即ち漂白剤を使って、モップ掛けした。駐車場のフォルクスワーゲンの車内も、高見沢潤子の痕跡を全て消した。

 翌朝、午前五時に起床すると、時生は高見沢潤子の死体を入れたトランクケースを、駐車場のフォルクスワーゲンまで運んだ。

 千代田区丸の内藤本法律事務所に出勤する前、前回原綾女の死体を捨てたように、高見沢潤子の死体も荒川の河川敷に捨てることにした。

 周囲に人気のないことを確認すると、トランクケースの蓋を開け、高見沢潤子の死体を入れたビニール袋ごと河川敷に放り捨てる。

「これでよし……」

 もう一度辺りを見回して、人気のないことを確かめ、堤防沿いの道に停車中のフォルクスワーゲンに戻った。そして、何事もなかったかのようにエンジンを掛け、車を走らせた。

 一旦、荒川沿いのマンションに戻り、時生は朝食を摂った。昨晩この部屋で、彼女を愛してやったことを思い出し、含み笑いを浮かべる。

 モーニングコーヒーを飲み干すと、洗面所で電動カミソリを使い髭を剃った。そして顔を洗い歯を磨くと、昨日とは違うスーツに着替えた。イタリア製のお気に入りのピンストライプ柄の高級スーツだ。イギリスのロックバンドQUEENのヒットナンバーKILLERQUEEN車場に車を停めると、徒歩で事務所まで向かった。エレベーターを使用し、事務所が入居するフロアまで上がる。

「ふん。でもよくこんな狭いエレベーターの中にあんな大きな水槽が入ったな」

 時生は半ば感心するように言った。

 現在事務所で飼育している魚のために、百八十センチのアクリル水槽とオバーフローの濾過システム一式を通信販売で購入した時のことを思い出し、笑みを零した。実際にその時水槽一式を運んだのは、勿論時生ではなく配送業者のドライバーだった。

 事務所のある階で、エレベーターを降り、フロアに出る。ポッケトを弄り、ドアの鍵を探す。

 磨りガラス越しに室内の照明が漏れて来た。

「誰か、先に来ていたのか……」

 時生はやや怪訝そうに呟いた。

 ドアを開け事務所に入る。

「お早う」

「お早うございます、北見先生」

 女性事務員の中村だった。

 時生は彼女と挨拶を交わすと、書類を入れた革製のアタッシュケースを自分の机の上に置きに行こうとした。その時、ふと何気なく、大型熱帯魚を飼育している例の百八十センチアクリル水槽を見た。

「えっ!?」

 一瞬、何が起こっているのか理解出来なかった。頭が真っ白になった。

 目の前の水槽の中で、三匹の高級熱帯魚が、腹を上してぷかぷかと浮かんでいるではないか。

「な、何故だ……。どうしてこんなことが……」

「どうしたんですか、先生……。あぁっ、死んでるぅ!」

 中村は声を上げたあと、しまったと思い、手のひらで自分の口を塞いだ。

 先日、モトロが死んだことにより水質が急激に劣化して、水槽の中の生態系が崩壊したのだ。つまり濾過バクテリアが死滅したため、濾過システムが上手く作動しなかった訳だ。

「糞ーっ、何故だ。何故、こんなことにっ!?」

 時生は水槽を拳で叩きながら号泣した。


「名刺から採取した指紋と、現場に残されていた指紋が一致した」

 鼻の穴を大きく開け、興奮気味に鑑識係員が言った。

「やはり北見時生が、連続殺人犯だった……」

 小林はぽつりと呟くように言った。その目は、充血していた。双頬には涙が流れていた。

「でも、これじゃ逮捕状は請求出来ません。違法に採取した指紋は証拠にはならないから」

 鴇崎七海が水を差す。

「分かっている。そのくらい分かっている」

 小林は鴇崎七海の瞳を凝視した。

「ヤツに、もう一度事件を起こさせる」

「えっ!? 殺人事件を、ですか……?」

 鴇崎七海と室田遼一は唖然となり、お互いの顔を見合わせた。

「夕べ、原先生のお姉さんから電話をもらった。警察の捜査に協力したいと……」

「はい。それで」

 鴇崎七海は疑いの眼差しを小林に向けた。

「そのあと、町田市へ出掛け、市内の喫茶店で彼女に会った。驚いたよ、正直言って……、お姉さんは、亡くなった原先生と瓜二つだった。流石は姉妹だ、血は争えない。お姉さんは、自分が囮になって犯人を罠に嵌めたいと仰ってくれた」

「小林さん。まさかあなた、真に受けたのですか?」

「ああ。折角の申し出だ、お断りする訳にはいかないだろう」

「反対です。民間人を囮に使うなんて……」

 鴇崎七海は小林を制止しようと試みた。

「大丈夫だ。我々警察が離れたところからお姉さんを警護すれば問題ない」

「しかし、危険です」

「止めても無駄だ。私と彼女の意志は固い」

 小林は、「うん」と頷いた。

 原綾女の姉澤登夏見は現在三十一歳になり、都内世田谷区奥沢七丁目○○‐○○で夫と暮らしている。彼女も妹綾女と同じ医師だった。T女子医大病院に救急救命医として勤務している。

 午前九時。待ち合わせ場所の東京帝○ホテルロビーに原綾女の姉澤登夏美が現れた。彼女は、勤務先のT女子医大病院に、

「急用が出来た」

 と届け出て、本日は欠勤した。驚いたことにT大医学部に在籍する妹の原結菜も一緒だった。更に驚いたのは、この姉妹が双子かと思えるほど似ていたのだ。

「お待たせしました刑事さん」

 姉妹は、小林とその連れに頭を下げた。

「澤登さん、こちらの二人は、先ほど電話でお話しした警視庁の鴇崎警部補と室田巡査部長です」

 小林は、鴇崎七海と室田遼一を澤登夏美に紹介した。

 お互い初対面同士であるため、手短に挨拶を交わした。

「例の事務所は、この先です」

 一旦、ホテルの外に出てから、小林は北見時生が勤務する弁護士事務所の方角を指さした。ここからだと北北東に当たる。JR東京駅の近くだ。

 地下駐車場に下り、五人は覆面パトカーに乗った。運転席には室田遼一が座り、助手席には小林が乗った。後部座席は女性ばかり三人が乗り込んだ。

「少し窮屈ですが、我慢して下さい」

 小林は振り向いて、苦笑した。

「いえ。お構いなく」

 澤登夏美が軽く会釈した。それに倣い妹の原結菜も頭を下げた。

「出してくれ」

 小林に促され、

「はい」

 と頷くと室田遼一がシフトレバーをPからDに入れ、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。


 時生は終始無言のまま、水槽から死んだ熱帯魚三匹、エンドリケリーとスポッテッド・ガーとアロワナを網で掬い上げ、ビニール袋の中へ入れた。

 以前も同様のことがあった。高一の夏だった。一夜にして飼育していた熱帯魚が全滅した。関東に接近した大型台風の影響で、都内各所で停電が発生して、エアーレーションが出来なくなったためだった。ディスカスと国産グッピーの死骸をゴミ袋に入れ、近くのゴミ集積場に捨てた。そのあと、時生は最初の犯行に及んだのだ。

 夏休みの最後の日、吹奏楽部に所属していた時生は、トランペットの練習のあと、話があると言って、同じ吹奏楽部に所属するフルート奏者の岡本朱美を人気のない校舎の裏に呼び出した。

 理由は、この日練習が始まる前に時生が、

「一昨日の台風で停電したせいで、魚が全滅した」

 と言うと、岡本朱美が鼻先で笑ったからだ。否、笑ったような気がしたからだ。

「岡本さん。キミが好きだ。僕と付き合って下さい」

「……嬉しい。ホント」

「本当だよ……。ねえ、キスしていい?」

「うん」

「じゃあ、目を閉じて」

 時生は彼女が目を閉じたのを確認すると、唇を合わせた。そして、両手で彼女の首を絞めた。今でも手のひらにその時の感覚が残っている。

 あの狂った夏のことを思い出し、含み笑いを浮かべた。

「中村さん。これ、捨てて来るね……」

 時生は水槽の傍で、横たわり動かなくなった女性事務員にそう告げた。

 磨りガラスのドアを開け、廊下へと出る。エレベーターのボタンを押す。目の前のドアが開いた。

「お早う、北見さん」

 女性弁護士の吉川(よしかわ)光代(みつよ)が、にこりと笑った。

「お早うございます」

「所長は?」

「中だ」と時生は顎を向けた。

「そう。ところでその魚どうしたの?」

「うん、死んじゃったから、下のゴミ集積所に捨てて来る。これってやっぱり生ごみなるのかな?」

「さあ」

 吉川光代は無関心にかぶりを振った。

 時生はエレベーターに乗り込み、一階のボタンを押した。ドアがゆっくりと閉まる。その間際、事務所内から吉川光代の絶叫が響いた。


 五人は、覆面パトカーから降りると、道を挟んだビルの正面で北見時生が出て来るのを待ち構えた。やがて、何やら魚のような物体が入ったビニール袋を手に持った一人の男性が現れた。

「ヤツだ。」

 小林が指さした。

「はい」

 七海が頷いた。

「行こうか?」

「はい」

 原姉妹は真顔で頷いた。

 五人はゆっくりと歩き出した。

「どこへ行く気だろう?」

 小林が首を傾げる。

「さあ」

 七海は分からないと言ったように首を振った。

 横断歩道を渡り、道の反対側へ行く。北見時生は、魚の入ったビニール袋を持ったまま、ビルとビルの間の細い路地に入った。

「追うぞ」

 五人は心持ち駆け足になった。

「まさか逃亡する気か?」

「急ぎましょう」

 七海が言った。

 逸る気持ちを抑え、五人も路地に入った。幸いも北見時生はこちらの動きに全く気付く様子はなかった。

 突然、弁護士事務所が入ったビルの中から警報が鳴った。

 ゴミ箱を開け、魚の入ったビニール袋を捨てる北見時生が、

「ちぇっ」

 と舌打ちした。

 突如、前方から見ず知らずの若い男性が血相を変え、北見時生に向かって駆け寄って来た。

「父さん。あんた何やってるんだぁ!?」

 その男性が北見時生を指差した。

「……聡一郎。お前?」

「……父さん、夕べからあんたを付けていた。先日、警察が俺の血液型を訊ねて来た。警察が追っている連続殺人鬼の息子の血液型がcisAB型だそうだ。俺の血液型もcisAB型だ。それでピンと来たんだ。妹の親友川島美鈴ちゃんを殺したのがあんたじゃないかってね。愛実も父さんの様子が最近変だって言っていたよ……。どうしてだ。どうしてこんな愚かなことを……、自首してくれ」

「いつからだ。いつから俺を疑っていた?」

「父さん、川島美鈴ちゃんが殺された次の日、あんたに借りたBMWに血が付いていた。そして、あの女医さんが殺された日、母さんのフォルクスワーゲンにも、血が付いていたんだ。そしてあの血液型の件を警察に訊ねられ、確証を得たんだ。父さん、あんたを付けていたら今朝、荒川の河川敷で袋に入れた女性の死体捨てているところを見た。このスマホに全部撮ってある。もう警察にも連絡済みだ。せめて俺と同じ弁護士だったら自首してくれ」

 北見総一郎は、手にしたiphoneに記録した画像を父北見時生に見せた。

 北見時生はゴミ箱の蓋を締めながら、二、三度首を横に振った。

「癖なんだ総一郎。父さんは、お前の父さんは、人を殺さずにはいられないと言う性を背負って生まれて来た。これは性癖だから仕方がないんだ」

 恍惚の表情で告白すると、北見時生は息子の脇腹を、手に隠し持っていたナイフで刺した。

「父さん……」

 北見総一郎はその場で、膝から崩れ落ちた。

 北見時生が、実の息子を殺害する場面を目の当たりにした五人は、余りの悍ましさに凍り付いてしまった。

 ヤツが逃げて行く。止めなくっちゃ……。

「止まりなさいっ、北見時生ぉーーーーっ!」

 気が付くと七海は叫んでいた。

 北見時生は振り向いた。

「やあ、鴇崎さん……」

 悪魔のような笑みを浮かべている。

「おや、そちらの女性は、あの女医に似ている。何だっけかな、名前は……。そうだ、確か原綾女だった」

 北見時生は言ったあと、蜥蜴のような真っ赤な長い舌を出し、息子の血が付いたナイフの刃をひと舐めした。

「待ちなさいぃーーーーっ!」

 制止する七海の言葉を無視するかの如く、ナイフを捨てると北見時生は駆け出した。

「止まれぇー!」

 声を揃え、室田と小林が叫ぶが、連続猟奇殺人犯は裏路地を突っ切り、表通りへと出た。

「救急車、救急車を手配して」

 倒れこむ北見総一郎の傷口を抑えながら、澤登夏美が叫ぶ。

「分かった、お姉ちゃん」

 原結菜がスマホを取り出し、一一九番に電話する。

 そのやり取りを確認すると、三人の警察官は逃亡する北見時生のあとを追った。遠くの方では、パトカーのサイレンが鳴っていた。

 北見時生を追って表通りへと出る。七海は殺人鬼の姿を探した。

「あそこだ」

 と国道一号線を皇居に向かって渡ろうとする北見時生の背中を指さした。

「な、何っ!?」

 三人は声を揃えて絶句した。

 国道一号線を南に向かって疾走する一台の四トントラックが、クラクションを鳴らした。ブレーキを思いっきり踏み込むが間に合わない。北見時生の身体は跳ね飛ばされ、二十メートル先の路面に叩き付けられた。ぴくぴくと全身を痙攣させている。路面にはおびただしい量の血液と脳漿が飛び散っていた。

「俺じゃねえ。この男が急に飛び出して来たんだ」

 とトラックから降りて来た運転手は、顔面蒼白のままで言うと、道路に横たわり動かなくなった五十代前半の白髪混じりの男性

を指さした。その手が震えていた。

「糞っ、こんな……」

 小林は呆然とその場に立ち尽くした。

「室田さん、救急車の手配を……」

 七海は、部下の男性刑事に指示を出す。

「無駄ですよ、鴇崎さん。もう死んでいます……」

 室田はかぶりを振った。

 国道一号線に数台のパトカーが終結した。

 赤色灯が虚しく点滅している。

 七海は口を真一文字に閉じ、自分の力なさを痛感して項垂れていた。

 それまで晴れていた空が突然曇り始め、大粒の雨が降り出した。路上に散乱した北見時生の血液や脳漿が滲んでいく。

「おい、そこの三人こっちに来い」

 捜査責任者の松原管理官が呼んだ。

「行きましょうか」

 と室田に肩を叩かれ、漸く我に返った七海は静かに頷いた。振り向いて、小林に目礼した。

 三人は、赤色灯を点滅させ列を成して停車するパトカーに向かって歩き出した。何人かの警察官が、七海たちに何事かを言っていた。だが、喧騒に掻き消され、七海の耳に届くことはなかった。

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溺れる魚 繁村錦 @diavolo-666666

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