聖女と野獣と

 息子の啓吾から一報を受け、小林が横浜のみ○と赤十字病院に駆け付けた時、妻は既に息を引き取ったあとだった。冷たくなった妻の手を握り、人目も憚らず号泣した。

 地元横浜市緑区の葬儀屋が妻の遺体を引き取りに来たのは、その日の午後三時過ぎだった。棺に安置された遺体は、一晩緑区長津田六丁目の自宅で寝かせ、翌日葬儀屋のスタッフの手によってセレモニーホールに運ばれた。通夜は、午後六時から始まる。

「また、これに袖を通す日が来るとは……」

 小林は鏡の前に立ち、憮然と呟く。黒いネクタイを締める。

「お父さん。皆さんお揃いです」

 息子が声を掛けた。

「分かった。今行く」

 そう言って中腰になって数珠を手に取ると、小林は踵を返した。

 喪服に着替えた小林が遺族の控室から出ると、廊下には人だかりが出来ていた。全て顔見知りばかりだった。

 小林は、ご近所の方々や遠方から駆け付けた親戚や仕事関係者に次々と頭を下げた。

「小林君。奥様には残念だったね」

 町田中央署副署長が形ばかりの労りの言葉を掛ける。

「副署長、本日はどうもありがとうございます」

「気を落とさないように」

 目礼すると副署長は、お付の男性の許へ向かった。セレモニーホールのスタッフに促され、参列者の席に着く。

 やがて小林は、僧侶が到着したとの知らせを、女性スタッフから受けると、喪主として挨拶しに行った。

 小林の家は、浄土真宗だった。

 暫くすると読経が始まった。男性スタッフに促され、妻の棺と遺影が飾られている祭壇の前へ進んだ。焼香を終えると参列者に一礼して、遺族席の最前列の自分の席に座った。

 息子の啓吾、妻の両親、兄弟、自分の親、兄弟の順番に焼香を済ませる。

 一般参列者の中に、小林の知っている顔があった。娘を殺害した連続殺人事件の犯人を追っている未解決事件の専従捜査班の刑事だ。確か、鴇崎七海とか言う名前だった。もう一人の男性の方は室田遼一だ。こんなところで油を売ってなく捜査に専念しろ、と言ってやりたい気分を堪え、小林は一礼した。

 読経が終わりに近付いて来た頃、ブラックフォーマルのノーカラーツーピース風ワンピースに身を包んだ女性が、小林に一礼して祭壇の前に進んだ。亡き妻の主治医だった原綾女だ。彼女はクリスチャンらしく胸元で十字を切り、焼香することなく一本の白い薔薇を献花した。

 通夜が終了すると、小林は参列者の中から原綾女の姿を探したが、結局見付けることは出来なかった。

「啓吾、原先生は?」

「さあ」

 息子は素っ気なく答えると、かぶりを振った。

「そうか……」

 残念そうに呟くと、小林はまだその辺りに彼女がいるかも知れないと思い、セレモニーホールの外へ出た。

 夕闇迫る暮泥む黄昏の駐車場で、目を凝らして彼女の姿を探してみるが、見当たらなかった。溜め息を吐くと、小林は後ろ髪を引かれる思いのまま、セレモニーホールの中に戻った。


 横浜市緑区のセレモニーホールを出た原綾女は、県道十八号線をJR横浜線の十日市場駅に向かって歩いていた。

 彼女の父原悟は、町田市高ヶ坂一丁目で内科を開業していた。母の聡子も医者だった。両親だけではなく、既に他家へ嫁いだ姉の澤登夏見もT女子医大病院に勤務する救急救命医だ。妹の結菜もT大医学部に在籍している。

 綾女は、十九時三十七分発の普通電車八王子行に乗った。十九時四十七分、定刻通りJR町田駅に到着すると、下車した。

 電子マネーで料金を支払い、改札を抜け、駅の外へ出る。横浜市緑区のセレモニーホールを出た時は、まだ雨は降っていなかったが、ぱらぱらと降り始めた。綾女は、バッグの中から折り畳み傘を取り出し、広げた。

 駅前通り都道四十七号線を、市立小学校へ向かって歩いて行く。小学校の横の小道を通り、自宅のある新興住宅地へと向かう。やがて人気のないところに足を踏み入れた。

 背後から人が近付いて来る気がして振り向いてみるが、誰もいなかった。再び歩き始める。暫く歩くと、前方で一台の車がハザードを点滅させ停車していた。黒いフォルクスワーゲン・ビートルだ。しかもカブリオレタイプだ。車の傍らでは、運転手らしき男性が困ったような表情で立ち尽くしていた。

「……糞っ、こんな……」

「どうかしました?」

 綾女はちょっとした親切心から、遂声を掛けてしまった。

 彼女に気付いた男性は振り向き、

「いやぁ、参ったな。エンストです」

 と言うと、頭を掻いた。一見、身形もきちんとした気の良さそうな紳士だった。

「この近くに、夜間でも見てくれる自動車修理工場ってありますかね?」

「さあ、ちょっと」

 綾女はかぶりを振った。

「JAFや、保険株式会社のロードサービスとか、入っておられないのですか?」

「いや、それが入ってなくて。どうしよう困ったな」

「……待って下さい。私の家、直ぐそこですので、父に電話してみます」

 綾女は傘を小脇に挟むと、バッグの中からスマホを取り出した。Galaxyだ。

「そうですか。ありがとうございます。助かります」

 男は面目なさ気に頭を下げた。

 父に電話を掛けるため、綾女がスマホの液晶画面に視線を落とした。その瞬間、項の辺りに強烈な衝撃を受けた。電気ショックだ。

「何っ!?」

 綾女は、スマホと折り畳み傘とVuittonのハンドバッグを落とした。

 全身の力が一気に抜けていく。アスファルトの上に前のめりに倒れ込む。

「止めて、ちょっとあなた、何するのぉ!?」

 男は、綾女の両腕を結束バンドで縛り、身動きが出来ないようにした。

「止めて、止めてったら、止めてっ」

 必死に抵抗するが、男は嘲るような眼差しを向け、終始無言のまま作業を続けた。

 ポケットからボールギャグを取り出し、綾女の口に無理やり装着すると、彼女の身体を起こし、フォルクスワーゲンの後部座席のドアを開け、中へ入れた。

 クロロフォルムの嫌な臭いが、綾女の鼻腔を擽った。次の瞬間、ハンカチを鼻に押さえ付けるように当てられると、意識が遠退いていった。


 今朝、都内足立区荒川の河川敷で、全裸の状態で発見された身元不明の若い女性の惨殺死体は、鑑識による現場検証が終わると、所轄署である千住中央署に運ばれた。ここで、捜査員が見守る中、検視が行われた。

「致命傷は、この傷だな」

 検視官は、全裸のまま横たわる女性の他殺体の局部を指差した。

 女性の外性器から鳩尾に掛けて縦に切り裂かれた傷口から、膣、子宮、卵巣、すい臓、肝臓、小腸、胃などの内臓組織がはみ出していた。

「結束バンドで両腕を縛られ、口にはSMなどで使用するボールギャグか……」

 麻生は死体を直視したまま、腕を組んだ状態で平然と言った。話を続ける。

「管理官、どう思われますか?」

 振り向くと、ハンカチで口を押え突っ立っている松原をちらりと見た。

「酷いな、鬼畜か悪魔の所業だ。とても血の通った人間の出来ることじゃない」

「我々の追っているあの男の仕業でしょうか?」

「死体に付着した精液を科捜研で分析してみないと何とも言えないが、残忍な手口から見てヤツの仕業と考えて間違いないだろう……」

 松原は私見を口にすると、検視官に訊ねた。

「キミの見立ては、どう思う?」

 検視官は、うーんと低い声を出して唸ると、死体の首を軽く持ち上げた。

「管理官。ここを見て下さい」と、死体の項を指さした。

「うん。どうした?」

 松原が身を乗り出して覗き込む。その場に居合わせた他の捜査員たちも松原に倣い、死体の項を凝視した。

「この部分に二つ、火傷の痕があります」

 死体の項に赤い点が二つ付いている。

「おう、確かに」

 松原は頷いた。

「それがどうした?」

 怪訝そうに首を傾げる。

「スタンガンを当てられた痕です」

「手口が似ているな。やはり同一犯か……」

 松原は何度も頷いた。

「恐らく犯人は、被害者にスタンガンで電気ショックを与えたあと、結束バンドで両腕を縛り、自由を奪った上で、犯行に及んだものと思われます」

 検視官は鋭利な刃物で局部を刺す真似をしてみせた。

 松原は顔を歪めると、眉間に皺を作り、目を細めた。

「卑劣な……」

 込み上げて来る吐き気を堪える。

 検視官は溜め息を吐くと、話を続けた。

「拉致現場と犯行現場は別だと思います。犯人は、被害者女性を拉致したあと、どこか違う場所に移動して、殺害に及んだと考えるのが妥当です」

「拉致現場と、殺害現場の特定を急がせろ」

 検視官の意見を聞いた松原は、捜査員に命じると、傍らに立つ沖の方を見た。

「移動には車を使った可能性があるな。例の容疑車両の特定はどうなっている?」

 沖は二、三度、かぶりを振ってから答えた。

「網を張りましたが、関東周辺の自動車修理工場に、容疑車両が修理に出された形跡はりません。またNシステムも検問にもそれらしき該当車両はヒットしませんでした」

「駄目か……」

 次に松原は、麻生の方を向いた。

「被害者の身元は?」

「どうなっている?」

 麻生は、傍らに立つ所轄の男性刑事に訊ねた。

「免許証や保険証など、個人の身分を証明する物は現場付近に残されていませんでした」男性刑事はかぶりを振った。

「そうか……」

 麻生は残念そうに眉を顰めた。

「被害者の身元の特定を急がせろ」

 松原は吐き捨てるように指示した。

「分かりました」

 所轄の男性刑事は頷くと、後輩の肩を叩き、行くぞとばかりに顎で示した。

「沖係長。本日、午後一番で捜査会議を開く。捜査員に召集を掛けてくれ」

 松原は、左手の腕時計を見ながら告げた。

「麻生係長、犯人が車を使って移動して可能性もある。町田市周辺地域のNシステムのチェックをして映像の分析を急いでくれ」

 松原は、部下の殺人班係長二名に指示を出すと、もう一度身不明の女性の死体を観察するように目を凝らした。

「左乳房に歯形が付いているな」

 その箇所をボールペンの先で示した。

「恐らく犯人が噛んで付けたのでしょう」

 検視官が答えた。

「この歯型から、犯人を特定出来るかもしれんな」

 松原は顎を擦った。

「東京周辺の歯科医院を当たってみましょうか?」

 沖が問うた。

「そうしてくれるか」

 松原は小さく頷いた。

「宜しく頼む」

 沖は初老の鑑識係長に伝えた。

「おい、この歯型を採取してくれ」

 鑑識係長は、部下の若い鑑識係員に命じた。

 松原たち本庁幹部の捜査員は傍らに立ち、鑑識作業を静かに見守った。

 鑑識係員は、被害者の左乳房に付いた歯型を石膏で模る作業を終えると、それを科捜研に送った。

 昨日早朝、荒川の河川敷で、全裸の状態で発見された女性の惨殺死体は、原綾女の両親によって、本人であると確認された。

 一昨日帰宅しなかった娘を心配した両親は、夜が明けるのを待って警察に届けた訳だ。訪れた町田中央署で、身元不明の女性の全裸死体が発見されたことを知り、もしやと思い名乗り出たのだった。そのあと両親は警察のパトカーに乗り、死体が安置された千住中央署へ向かった。

 地下の霊安室で、変わり果てた愛娘の姿を見た母親の聡子は、その場で卒倒した。父親の悟は号泣し、人命を救う医者にしてクリスチャンとしては相応しくない、「……誰がこんなことを、絶対に犯人を見つけ出し、私の手で殺してやる。地獄に、地獄に叩き落としてやる」

 と犯人を呪う言葉を口にした。

 身元が判明したことによって、被害者が拉致された現場を特定する材料が増えた。


 他殺死体で綾女が発見された経緯に付いて詳しく事情を聴くために、捜査員が小林の許を訪れたのは、彼の妻登代子の火葬が終わってからだった。初七日席で、親戚たちを前に挨拶したあと、小林はセレモニーホールの係員によって呼び出された。この時、彼は初めて綾女が殺害され、死体を遺棄された事実を知った。

 翌日、小林は忌引き期間中であるにも拘らず、町田中央署に現れた。

 直の上司に当たる警務課長は、訝し気な顔で小林を見て、声を掛けた。

「おい、小林さん、あなたはまだ忌引き期間中だった筈。勝手なことをしてもらったら、困りますね」

 今年、警部に昇進したキャリア警察官は、眉間に皺を寄せた険しい顔で、自分の父親より年上の警察官を叱り付けた。

「課長。受理して下さい」

 小林は休暇届と記載された茶封筒を上司の机の上に置いた。

「……どう言うつもりですか?」

 問い詰める上司を無視するかのように小林は踵を返すと、警備課の執務室の出入り口に足を向けた。

「おい、ちょっと」

 課長が呼び止める。

 小林は引き戸に手を掛け、振り向く。

「何でしょうか?」

「どう言うつもりですか、と訊ねているのです」

 小林は鼻先で笑ったあと、口を開いた。

「休暇ですよ。長期休暇を頂きたいと思っているだけですよ」

「まさか小林さん、あなた、単独で捜査しようなんて考えているんじゃないでしょうね?」

 小林は悪戯な笑みを浮かべた。

「さあ」

 かぶりを振ると、引き戸を開け、廊下へと出た。そのまま階段に向かって歩く。階段を上がり、帳場が設置された講堂のあるフロアに行く。講堂の前で、中から顔見知りの捜査員が出て来るのを待っていると、引き戸が開いた。捜査員が血相を変え、飛び出していく。

 小林は一人の刑事を呼び止めた。

「瀧っ」

 呼び止められたその刑事は、怪訝気味に眉根を寄せた。

「コバさん。あんた……?」

 小林は頷いた。

「原先生を殺ったのは、やはりヤツか?」

「死体に付着していた体液を、本庁の科捜研で分析中だ。結果が出るには数日掛かる」

 町田中央署刑事課強行犯捜査係長瀧芳雄警部補は、手と顔を同時に振った。

「そうか……」

「悪いな。先を急ぐんで」

 言い捨てると、瀧はバディの警視庁捜査一課の刑事の許へ歩いて行った。

 小林の知らない顔だ。彼が捜査一課を去ってから本庁に引き抜かれたのであろう。二人は、小林に目礼し、捜査の任に就いた。


 別行動を執る七海たち継続捜査専従班の許にも、荒川の河川敷で女医原綾女の他殺死体が発見された経緯に付いて知らせられた。

 この日七海は、相棒(バディ)の室田とともに再び赤坂のテレビ局T○S放送センターを訪れることにした。先日、不審車両に付いて証言した人気タレントの高遠信哉から、もう一度詳しい話を聴くためだ。

 イケメン刑事清水役の高遠信哉は、強面の悪役俳優を前にして、取調室での事情聴取のシーンを撮影中だった。

「刑事さん、俺じゃねえよ、殺ったのは……」

 犯人役の小日向冨美雄が不敵な笑みを浮かべて台詞を言ったあと、大下元彦は、「カット」

 と口にした。すると、テレビ局の女性スタッフが歩み寄り、刑事役の高遠信哉に耳打ちした。

「あちらの方が、お話があるそうです」

 高遠信哉は振り向き、スタジオの隅でドラマ撮影を見守る男女二人を凝視した。

 女性スタッフがどうぞと言わんばかりに軽く頭を下げた。

「行こうか」

 七海は室田に言う。

「はい」

 室田は頷いた。

 二人揃って取調室のセットに向かって歩き出した。

「お仕事中申し訳ございません」

 七海は高遠信哉に頭を下げると、挨拶もそこそこに切り出した。

「先日、証言頂いた不審車両の件でもう一度詳しいお話をお聞かせ頂きたいのですが」

 最近になって七海は漸く刑事らしくなって来たと、自覚し始めた。

「またですか……?」

 高遠信哉は怪訝そうに眉根を寄せた。

「いいじゃないか信ちゃん。刑事さん協力して上げたら」

 小日向冨美雄がまるで女性のような仕草で言った。

 あの噂、本当だったんだ、と七海と室田はお互いの顔を見合わせ、頷き合った。つまり、強面で有名な大物悪役俳優が、オカマであると言う噂だ。

「ここじゃ人目もありますから」

 と高遠信哉の担当女性マネージャーが、場所を移動しようと提案した。

 二人は先日スタジオを訪れた時と同じ、第五会議室に通された。

「先日お預かりしたドライブレコーダのメモリーをお返しします」

 室田はメモリーチップを高遠信哉に手渡した。

「で、何か分かったの刑事さん?」

 チップを受け取りながらタメ口で訊ねる。

「いいえ、やはりナンバーに付いては判別出来ませんでした」

 七海はかぶりを振った。

「しかし、被疑者の身体的特徴はある程度分かりました。ご協力ありがとうございます」

「どう言った?」

 興味が湧いたらしく、高遠信哉は身を乗り出して訊ねる。

「捜査上の秘密で、一般に方には詳しいことは申し上げることは出来ません」

 室田は首を振った。

「チェ、何だ、つまんない」

 高遠信哉はやや不満気味に吐き捨てた。

 目の前のイケメン俳優から借りたと言うドライブレコーダのメモリーチップには、年齢二十代から四十代ぐらいと思しき男性が映っていたが、夜間と言うこともあり鮮明ではなかったため、その容貌までは分からなかった。ただ、その男性の身体的特徴は、大凡掴むことが出来た。まず身長は、百七十五センチ前後であること。眼鏡を掛けていること。凶器らしきナイフを左手で持っていること。左利きであることは、これまで殺害された被害者の身体に残された傷口と一致した。

 七海と室田は、高遠信哉からこれ以上新しい証言は得られないと判断し、

「本日は貴重なお時間を頂戴し、ありがとうございました。他に何か思い出されましたら、先日差し上げた名刺に記載した番号にお電話下さい」

 と言い残すと、T○S放送センターを離れた。

「次、どこへ行きますか?」

 室田が訊ねると、七海は下顎に指を当て、うーん、と唸った。

「もう一度、野村和子さんのところへ行ってみる?」

「行きますか」

 室田は納得いったように頷いた。

 AV女優甘井心愛こと野村和子は、この日の午後は休暇を取り、江東区大島四丁目○‐○の自宅マンションにいる筈だった。小名木川沿いに立つ築二十年の十四階建てのマンションだ。野村和子が独りで暮らす部屋は、このマンションの九階の角部屋七十二号室だ。

「いる筈なんだけど」

 首を捻りながら七海は、玄関ドアの横のブザーを押した。

 ピンポン、と言う音がしたが、無反応だ。もう一度押すが、やはり無反応だ。

「おかしいな……」

 七海は下唇を出し、憮然と首を捻った。

「出直しますか?」

 室田に問われ、七海は頷いた。踵を返し、立ち去ろうとした時、突然背後のドアが開いた。

「誰……?」

 七海が振り向くと、半開きしたドアの隙間から、寝惚け眼の若い女性が顔を出していた。

化粧もしていなく、当然髪の毛はボサボサだ。

「あっ刑事さん」と言う声を聞かなかったら多分、野村和子本人だと分からなかった。

 七海は目礼して、

「お休みになっておられたのですか?」

 と訊ねた。

 すると野村和子は気怠く、頷いた。

「うん。休みの日はいつも夕方まで寝てるの」

 チェーンロックを内側から外し、ドアを開けた。

「散らかっているけど、どうぞ」」

 霰もない肌を露出した黒いタンクトップに白いショーツ姿で、野村和子は二人の前に現れた。室田は目のやり場に困っているようだ。

 七海と室田は頷き合うと、野村和子の部屋に足を向けた。

「お邪魔します」

「どうぞ、遠慮せずに上がって、上がって」

 1LDKと言うタイプの部屋だ。野村和子が言った通り、室内はかなり散らかっていた。

 七海は室田の顔を見て、目を顰め苦笑した。ゴミ袋の塊を避けるように歩いていき、テーブルの端に座った。

「何か飲みます?」

 野村和子が訊ねた。が、室田はかぶりを振って、

「その前にお着替えを」

 と促した。

 野村和子は自分の姿を改めて見直した。

「そうね、AV女優や風俗嬢やってるから、普段からこう言う恰好しているので、ごめんなさいね」

 立ち上がり歩き出すと、彼女はベッド脇に積んだピンクのラインが入ったアディダスのジャージを手に取り、バスルームへ向かった。

 暫く待っていると、ジャージに着替えた野村和子が現れた。

「このあと、七時から人と会う約束があるので」

 断りを入れた。

 七海は左手のG‐Shockで時間を確かめる。デジタル表示は、17:47 31だ。

「分かりました」

 七海は頷くと、前置きせずに切り出した。

「磯崎奏恵さんが殺害された当時、彼女にしつこく付き纏う不審人物とか、ご存知ありませんか。例えば、高級外国車に乗った男とか?」

「さあ、この間も言ったけど、あたしにしつこく付き纏うキモヲタT大生なら知ってるけど、奏恵ちゃんの追っ掛けやってた男なんてあたし知らないし、それに高級外国車に乗った男なんていたらあの奏恵ちゃんのことだから、自慢するに決まってる」

「そうですか、ご存知ないですか……」

「で、何、刑事さん。奏恵ちゃん殺した犯人て、もしかして高級外車に乗ってるの。例えば、フェラーリとかランボルギーニとか。ん?」

 野村和子は茶目っ気たっぷりに笑顔を振り撒き、小首を傾げた。

 問われ、七海は室田の顔を見た。

「どうする?」

 室田は少し困惑気味な表情で、

言っちゃいますか?」

 と七海の判断を仰いだ。

 七海は一度深呼吸してから口を開いた。

「実は、先日あなたのご友人を殺害した犯人が乗っていたと思われる車が判明しまして」

「やっぱり、フェラーリとかランボルギーニとか?」

「いいえ、違います。BMWです」

「何だBMWか、ショボい」

「どうですか。当時、BMWに乗っていた不審人物とか、ご存知ですか?」

 野村和子は下唇を吐き出して考え込んだ。

「……知らない」

 野村和子はかぶりを振った。

「あたしの知り合いなら一人、BMW乗っていたヤツ知ってるけどね」

「誰ですか。念のため、その方の名前を教えてもらっても宜しいでしょうか?」

「うん、いいよ。前付き合っていた彼氏。AV男優のマグナム向井」

「はぁあ? あのその方の本名は?」

 室田が訝し気に問う。

「えーと確か、彼の本名は、ヤっちゃんて皆呼んでたから、確か向井(むかい)康(やすし)だったかな……、分かんないや」

 野村和子は下を出し、おどけた。

「ちぇっ」と、室田は露骨に舌打ちする。

「これ以上、話していても無駄です。行きましょう、鴇崎さん」

 室田は言い終わらないうちに腰を上げた。

「そうね」

 七海も諦めて立ち上がろうとした。

 その時、何かを思い出した野村和子が、突然堰を切ったように口を開いた。

「あっ、もう一人いた。あたしにしつこく付き纏っていたキモヲタ野郎を追っ払ってくれた電車男君。そのあと、一度デートに誘ったのねあたし、そしたら待ち合わせ場所にBMWのオープンカーで現れてさ、まあそれなりに格好良かったんだけど、おじさんだったし、それによくよく聞いたら、その車、自分の車じゃなくってレンタカーだって言うんじゃない、態々この日のために借りて来たんだってさ、だからあたし、用事思い出したてドタキャンしてやったのよ。でさ、そのあと……」

 野村和子は好からぬ方向へ脱線して行きそうだった。

「分かりました。その話はもう結構です」

 室田は野村和子の話を途中で遮り、切り上げることにした。

「お邪魔しました」

「ちょっと待って下さい。念のため、その方のお名前もお聞かせ願いますか?」

 七海が訊ねると、野村和子は頷いた。

「確かその人、キモヲタ野郎と同じT大に通っている学生って言ってたわ。弁護士目指しているとか、名前は、そう……、きた、そうそう北見時生って言う名前だった。その人、弁護士になれたのかな?」

 野村和子は言うと下顎に人差し指を当て、小首を傾げた。

「……北見時生て、あの弁護士さんだ」

 七海はぼそりと呟いた。


 今朝、時生が丸の内の事務所に出勤すると、昨日購入したアマゾン原産の淡水エイ、モトロがベアタンクの底で動かなくなっていた。

「何故だ……?」

 これ以上言葉が続かなかった。

 熱帯魚マニアの間では、モトロは特に水質変化に敏感な魚だった。それ故、時生も、モトロがPHショックを起こさないよう特に念入りに水合わせには時間を掛けた。

「あら、北見先生。どうしたんですか? そんな深刻な顔して水槽なんか覗いちゃったりして……」

 背後から事務員の中村が声を掛けた。

 時生は振り向かず前を向いたままで、

「昨日買って来たモトロが死んだ」

 と力なく呟いた。

「かわいそう……」

「網で救って水槽から出さなくっちゃ。このままだと水質が悪化して他の魚も死んじゃうから」

 時生は振り向くと、意味あり気な笑みを浮かべた。

「中村さん、脚立ってどこにあるの?」

「さあ、分かんない。あとで、所長にでも訊ねて下さい」

 まるで他人事のように素っ気なく答えたあと、中村は書類の入ったファイルを抱え、自分の机に向かった。

「ちぇっ」

 時生は舌打ちした。

「それより先生。町田のストーカー殺人事件の裁判の方、大丈夫ですか。明日ですよ、最終弁論。そんな魚なんか構ってる暇ありませんよ」

 言ったあと中村は鼻を鳴らした。

 悪気はなかった。ただ、中村の言ったこの言葉が、時生の心にナイフのように深く突き刺さった。

「五月蠅い。黙れ……」

 時生は眉を吊り上げた険しい顔で、中村を睨み付けた。

「ど、どうしたんですか、先生。そんな怖い顔して、怒らない下さいよ、たかが魚じゃないですか。幾らか知りませんよ、そりゃ高かったと思いますよ。でも、私は、ただ……」

 中村が言い訳すればするほど、時生の神経を逆撫でしてしまう。

「俺は、脚立はどこにあるんだと訊いているんだぁーーーーっ!!」

「ひぃっ……。た、多分、こ、この上の階の、も、物置部屋だと……」

 中村の声が震えていた。突如豹変した時生の態度に驚きを隠せずにいた。

「そうか……」

 時生は頷くと、昂った感情を落ち着かせようと一度深呼吸した。いつものように心の中で素数を数える。

 落ち着いてから、時生は、

「ありがとう」

 と告げた。


 女医原綾女の身体に付着していた犯人の体液から採取したDNAと、T女子大生川島美鈴殺害犯、並びに六年前の連続殺人犯のDNAが全て一致した。しかし、それでもなお、幾つかの疑問点が残った。複数の血液型が死体遺棄現場から採取されたのだ。

 被害者原綾女の指に絡まっていた犯人のモノと思われる毛根から採取した血液型は、極稀に見るRh+cisAB型と言うタイプだった。通常のAB型はトランスAB型と呼ばれるのだが、cisAB型は血液型を決定する六番目の染色体のどちらか一方に、AB型遺伝子とも言えるモノが存在する。

 ところが、被害者の爪の間に残っていた犯人の皮膚の一部から採取したDNAを鑑定してみると、毛根とは違う鑑定結果が出たのだ。Rh+O型と言う鑑定結果だ。これが犯人の血液型だ。つまり皮膚組織の持ち主が犯人と言う訳だ。では、髪の毛は一体誰のモノだ、と言う疑問点が浮かび上がった。

「どう言うことだ。科捜研で、再鑑定してみろ」

 松原は部下に指示を出した。

 DNA鑑定を再度行った結果、毛根の人物と皮膚の持ち主は、父子関係にあることが判明した。

 鑑定結果を受けて、松原は込み上げて来る感情を抑えながら次のことを部下に伝えた。

「血液バンク、並び全国の医療機関に、Rh+cisAB型の血液型を登録している人物の照会を急げ。その中の人物の一人の父親が、長年我々が追い続けた猟奇殺人犯だ」

 遂に、猟奇殺人犯の尻尾を掴むことが出来て、捜査本部に詰める警察幹部たちの顔に笑みが浮かんだ。同一犯の犯行であると断定され、町田の帳場と千住の帳場が合流することになった。


 原綾女の遺体は、T女子医大法医学教室に運び込まれ、担当教授の手によって司法解剖された。死因は、検視官の所見通り、鋭利な刃物によって局部を引き裂かれて、動脈が切断されたことによる失血死だった。

 司法解剖が終了すると、原綾女の遺体は、地元町田市の葬儀屋の手によって彼女の自宅に移された。翌日、地元のカトリック教会で多くの報道陣が詰め掛ける最中、しめやかなに通夜の祈りが執り行われた。更にその次の日、午前十時から、カトリック教会式の告別式が執り行われ、多くの参列者に見送られ、出棺した。

 参列者の中に、小林の姿もあった。

 霊柩車の乗せられた棺が教会を離れた直後、小林は原綾女の母方叔父に当たる吉岡剛史との許へ歩み寄った。吉岡は火葬場には付いて行かず、留守を任されたのだ。

「どなたでしょうか?」

 吉岡は、自分の許へ近寄って来た中年男性を見て、怪訝気味に小首を傾げた。

 小林は立ち止まり、中折れ帽を外すと徐に頭を下げた。

「原先生には、大変お世話になりなりまして……、この度は何と申し上げたらよいのか……」

 最後の方は言葉を濁した。

「はあ、あの……?」

 吉岡は小首を傾げたままだ。

「先日、子宮がんで亡くなった私の家内が、み○と赤十字病院の方で……」

 ここまで小林が口にすると、吉岡は納得したように頷き、言葉を被せて来た。

「ああ、あの子の患者さんのご主人様でしたか」

「はい。原先生には大変良くして頂き、先日も亡き妻の通夜に……」

 ここで小林は何かを思い出して、言葉を詰まらせた。

 そうだ。そうなのだ。原綾女は、小林の妻の通夜に参列した帰り道に、殺人鬼に襲われ命を落としたのだ。小林はそのことに気付き、言葉を詰まらせたのだ。

「どうかしましたか?」

 吉岡が小林を気遣う。

 小林は嗚咽を堪え、「いいえ」と首を横に振った。そして、ポケットの中から名刺を取り出し、吉岡に手渡した。

「私、こう言うものでして」

 名刺を受け取った吉岡は顔を顰めた。

「……警視庁町田中央署警務課留置係長、警部補小林雅弘……さん、ですか?」

「はい」

「申し遅れました、私は亡くなった綾女の叔父でして、そのあの子の母の弟に当たり、私もあの子と同じように医者をやっております。八王子の方で、内科の開業医を」

「そうでしたか」

 頷くと小林は話を続けた。

「この場では、ちょっと申し上げ難いのですが」と前置きした。

「はあ?」

 吉岡は怪訝そうに首を傾げた。すると小林は、左右に首を振って辺りを見回した。吉岡も小林に倣い、辺りを見回した。

 先ほどから気になっていたのは、葬儀の参列者の中に彼の顔見知りの警察関係者が何人もいたからだ。その中には、あの生意気な準キャリアの小娘鴇崎七海の姿もあった。

 吉岡は、合点が要ったように頷いた。

「宜しければ教会の中へ……」

 小林は白い教会に顎を向けた。

「はい。ありがとうございます」

 この教会を預かる神父の許可を得ると、二人は教会の中へ入った。聖母マリアに抱かれたキリストの像の前で、二人並んで立ち止まった。

「どうぞ」

 吉岡は小林に椅子に座るように促した。木製の長椅子だ。

「では、お言葉に甘えて」

 小林は腰を下ろした。右隣に吉岡も座った。

「それで、私に話したいこととは?」

「こんな神聖な場所で、悪魔のような殺人鬼の話をするのは少し憚れますが」

 小林は本題に入る前に断りを入れた。

「殺人鬼?」

 吉岡が上擦った声を上げた。

「実を申し上げますと、私の娘も六年前、姪御さんを殺害した同じ犯人に殺されまして」

「ほ、ほん、本当ですか……?」

 吉岡は唖然となった。

「はい」

 小林は真顔で頷いた。

「この話はまだ、ごく一部の警察関係者しか知りません。事件を捜査している刑事の中に、私の知人が何人かおりまして、その中の一人から聞いた話です」

 小林は、原綾女の告別式に参列する前、嘗て自分の部下だった小野田誠一巡査部長を締め上げ掴んだ情報だった。

その折、野田は、

「コバさん。このこと絶対に他人に漏らさないで下さいね」

 と念を押していた。

「……せ、世間を騒がせているあの殺人鬼ですか……?」

「そうです。娘の死後、PTSDを患い、刑事としての戦列を離れ、現在は留置係と言う閑職に就いていますが、六年前、私も捜査員の一人としてヤツを追っていました」

 小林の告白を受け、吉岡は言葉をなくしているようだ。少しむっと来ているようにも見える。

「仰りたいことは分かります。そうです。私たち警察がもっとしっかりしていれば、姪御さんも殺されずに済んだのです」

 小林は吉岡に頭を下げた。

「帰って下さい。今日のところはこれでお引き取り下さい」

 吉岡は立ち上がると、語尾を荒げることなく落ち着いた口調で告げた。

「分かりました。本日はこれで失礼させて頂きます」

 小林は、聖母マリアに抱かれたキリストの像の前で涙ぐみ吉岡に深々と頭を下げた。踵を返し、十字架を背にした。西日がステンドグラスを透して教会の中へ注ぎ込まれていた。


 七海は、教会から出て来る小林の姿を捉えると、彼の許へ歩み寄った。後ろからは室田も付いて来る。

「見付かってしまったか、目聡い女だな……」

 七海を見た小林は、僅かに口元を緩め皮肉を言った。

「原綾女さんのお葬式に来ておられたんですね?」

「悪いか」

 言うと小林はそっぽを向いた。

「お話したいことがあります。宜しいでしょうか?」

 問われ、小林は視線を逸らした。

「俺にはない」

「まあ、そう仰らずに」

 室田が宥める。

「覆面の方へ」

 教会の駐車場を指差した。

「まるで容疑者扱いだな」

 小林は鼻を鳴らすと、歩き出した。

「で、俺に話って何だ?」

「決まってるでしょ。我々が追っている事件のことですよ」

「そうか……」

 小林はすっ呆ける。

 黒いクラウンの数メートル手前まで近付くと、七海はポケットの中のリモコンキーのボタンを押した。

 カッチャ、と言う音が鳴り、ロックが解除された。

「室田さん、運転お願い」

 と言って七海は車の鍵を手渡した。

「鴇崎さんが話すのですか?」

「ええ、悪い」

 言いつつ、七海は左後部座席のドアを開けた。

「さっき事件の話だと言っていたが?」

 小林は七海に続いて、後部座席に乗り込んだ。  

 室田が、運転席に乗り込んだのを見計らって七海は口を開いた。

「出して」

「で、どこへ行けば?」

 室田はバックミラー越しに訊ねる。

「どこでもいい、適当に走らせて」

「はい。分かりました警部補殿」

 室田は嫌味を口にすると、ギアをPからDに入れた。

 ゆっくりと車が動き始めた。教会の駐車場を離れ、二十三区方面に向けて走り出した。

「おい、どこへ連れて行く気だ?」

「さあ」

 七海はかぶりを振った。

「室田さんにでも訊いて下さい」

 悪戯な笑みを零すと、本題を口にした。

「署の方に電話掛けたら、小林さん休暇届を出してお休み中だと訊いたもので、多分、こちらに居られるだろうと思って来ました。実は私たち、ある男を被疑者としてマークしています」

「ん?」

 小林は眉間に深い縦皺を刻み、疑うような眼差しを七海に向けた。

「誰だ?」

「小林さんもご存知の人物です」

「勿体ぶらずに教えろよ」

 小林は強請るような口調で言った。

 七海は、ハンドバッグから茶封筒を取り出した。

「この写真の人物です」

中から数枚の写真を取り出して、小林に手渡した。

「……うん?」

 写真を受け取った小林は目を凝らしてまるで穴が開くように見詰めた。

「これは、弁護士の北見先生じゃないか……」

 言ったあと、まさかな、と言う顔付きになった小林は、頬を崩した。

「冗談もいい加減にしろ」と言って、大声で笑い出した。

「冗談ではありません。我々は本気です」

 ハンドルを握る室田が毅然と言った。

「本気だと?」

 小林は疑うような眼差しで、室田の背中を見た。

「野村和子さんて言う女性、ご存知ですか?」

 七海が訊ねた。

「野村和子?」

 頓狂な声を上げ、小林は首を傾げる。

 七海は咳払いしたあと、

「元風俗嬢です。現在はその……AV女優」

 と恥ずかしそうに言った。

「四人目の被害者磯崎奏恵の友人の一人です」

「その女がどうかしたのか?」

 小林は疑うような眼差しを七海に向けた。

「先日、江東区大島四丁目の彼女の許を訪ね、証言を得ました」

「証言だと、どんな?」

「六年前、都営地下鉄の本郷三丁目駅で乗り込んで来た三人組のT大生の中の一人に、しつこく絡まれたそうです。その折、彼女を助けたと言うT大生が、北見時生だそうです。連絡先としてお互いにメールアドレスを交換し後日、彼女の方からデートに誘ったそうです。当日、待ち合わせ場所にBMWのオープンカーで北見時生は現れたそうですが、野村さんは用事を思い出したとその日はドタキャンしたと仰ってました」

「それがどうした?」

 小林は、七海の話に途中で割って入り、怪訝気味に彼女を睨んだ。

「野村和子さんにドタキャンされた北見時生は、そのあと、磯崎奏恵に鞍替えしたそうです」

 南大谷交差点で右折待ちしている時、運転席の室田がバックミラー越しに言った。

「本当か、今の話?」

 小林はバックミラーに映った室田の瞳を覗き込んだ。

「はい」

 室田が頷いた。目の前の信号が赤から青に変わった。前方から来る対向車が通り抜けると、室田は交差点の真ん中まで進み、右折した。

 交差点を抜けたあと、再び室田が口を開いた。

「磯崎奏恵は北見時生と一、二度デートしたのち、何者かの手によって殺害されています」

「うーん」

 後部座席の小林は瞼を閉じると、腕を組んだ。

「裏は取ったのか? 北見は弁護士だ。もし、犯人じゃなかったとしたら、恐らく人権問題に発展する。済みません間違いでした、では済まないぞ。お前さんたち二人の首は確実に飛ぶ。恐らく、刑事部長も責任は免れないだろう」

「北見に付いては、私たちなりに調べました。彼は、『東京連合』の矢野慎吾が、連続殺人の真犯人に襲われた日の夜、北見は国道二四六号線厚木街道の多摩川付近で、その日世田谷区野沢で発生したひき逃げ事件の検問に引っ掛かっています。昨日、検問に当たった所轄の交通課の警察官に会い、証言を取りました。その夜北見が乗っていたBMWは、左リア側面に擦り傷があったそうです」

「BMWの左リア側面に擦り傷か……。確か、矢野とか言うチンピラを襲った犯人もBMWに乗っていたな」

「本人曰く、その日の朝、車庫から出る時、擦ったと言うことです。またその夜、帰宅して車庫入れの際に車体の左側を柱にぶつけています。地元警察を呼び、物損事故と処理されています」

「出来過ぎだな……。で、そのBMWは今どこにある?」

「神奈川県下の修理工場に出されています」

「神奈川ぁ?」

 小林は上擦った声を上げた。

「北見の住所は?」

 小林は目を大きく見開いて、七海を見詰めた。

「待って下さい。えぇーと……」

 七海はシステム手帳を広げた。

「神奈川県横浜市青葉区藤が丘二丁目〇‐〇〇です」

「藤が丘と言えば、東急田園都市線の沿線上だな。ヤツはいつからここに住んでいる?」

「ご近所の話ですと、十年以上ですね。それが何か……?」

 訳が分からず七海は首を傾げた。

「出来したな鴇崎警部補。北見は真犯人かも知れない」

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