完全なる殺人のために

 町田市金井七丁目○○‐○○の路上で発生した女子大生川島美鈴殺人死体遺棄事件の捜査は、暗礁に乗り上げていた。事件発生から一ヵ月以上経つと言うのに、何の手掛かりも掴めないままだった。捜査本部には閉塞感が漂っていた。

 帳場を仕切る管理官の松原警視は、鬱屈とした気分が晴れないまま、憮然と溜め息を吐いた。

「他に何かないのか?」

 マイクを手にし、眼前に列を成して並ぶ捜査員たちを睨み付ける。

 誰一人として、管理官と目を合わそうとはしない。

「これじゃまた、継続班(コールドケース)行きじゃねえか」

 吐き捨てると、松原は講堂の窓際に座る深沢に目を遣った。

「深さん。そっちの方は?」

 捜査の進捗具合を訊ねる。

 深沢は低い声で唸ったあと、かぶりを振った。

「六年前の事件の関係者と、今回の町田の事件の関係者の繫がりを洗っているんですが、全く……」

「そうか。そっちもダメか」

 松原は腕を組んだ。

「糞っ垂れがぁ」

 遂かっとなり、汚い言葉を口にした。

 後方、所轄の固まりの中から女性の声がした。

「ちょっと宜しいでしょうか?」

 二十代半ばと思しき女性が挙手している。

「はぁ、何だぁ?」

 麻生が指差した。

「町田中央署刑事課強行犯捜査係の白石陽菜です。私、思うんですけど、今回の事件は六年前とは違い、犯人は移動手段に電車ではなく車を使用しているのではないかと……」

 松原が目を大きく見開いた。

「車か、それもあるな。沖係長、Nシステムの方はどうなっている?」

「事件発生当日、付近を走行した車両は、五千台以上になります。現在、ローラー作戦にて、一台一台捜査しておりますが、それらしき車両にヒットしません」

「そうか、分かった。引き続き宜しく頼む」

「敷鑑班? 被害者の交友関係からの情報は?」

 前列に陣取る男性捜査員が挙手して、立ち上がった。本庁捜査一課の刑事だ。

「被害者川島美鈴は、殺害された五月十五日の前日、大学の友人たちと六本木のワイン酒場で合コンを開いています」

「何と言う店だ?」

「『ワイン酒場○○○』です。因みにその店は、イタリア料理専門店です」

「で、面子は?」

 麻生が訊ねると、男性捜査員は手元のシステム手帳に視線を落とした。

「女性陣は皆、被害者が通っていたT女子大現代教養学部人間科学科の学生ですね。えーと、一人目が遠山沙織二十歳、住所は東京都三鷹市上連雀七丁目。二人目が園田清子十九歳、住所は東京都練馬区石神井台四丁目○‐○○。三人目が北見愛実十九歳、住所は神奈川県横浜市青葉区藤が丘二丁目○○。男性の方は、所謂業界人ですね」

「業界人?」

 松原が半音上がった声を出した。

「管理官。テレビ関係者のことです」

 麻生が横からフォローする。

「で、その業界人がどうした?」

「続けろ」

 麻生が男性捜査員に促す。

「男性陣は、お台場に本社がある〇〇テレビの社員です。ディレクターの重松敏樹三十一歳、住所は東京都世田谷区玉川一丁目○○。二人目が……」

「ん? 世田谷区玉川在住か、前の現場と近いな……」

 麻生が呟いた。

 すると、もう一人の殺人班係長の沖が、口を挟んで来た。

「この男には完璧な不在証明がある」

「不在証明だと、どんな?」

 松原が訊ねる。

「前の事件の時、この男は、テレビ番組制作のため、三週間ほど海外へ行っております」

「海外?」

「はい。南米アマゾンです」

「日本の反対側か……。裏は取ったのか?」

 松原は半ば呆れたように笑いながら訊いた。

「はい」

 沖は頷いた。

「続けろ。二人目は?」

 松原が先を促した。

「池田(いけだ)正人(まさと)二十八歳、ADですね。住所は、東京都江戸川区中央二丁目〇〇‐〇。三人目は同じくADの反町(そりまち)文哉(ふみや)二十七歳、住所は東京都江東区石島〇‐○。四人目がですね、吉○事務所に所属する芸人の丸亀ポンタ、本名キム・ハソン、通称金田浩二在日四世ですね。住所は東京都港区南麻布一丁目〇〇‐〇『スカイタワー南麻布』の十七階百十九号室です」

「いい所に住んでるな」

 麻生が羨ましそうに感想を口にした。

「芸能人と言うのは、よっぽど儲かるのか」

「さあ、それはちょっと」

 捜査員はかぶりを振った。話を続ける。

「事件前夜から死体発見当日の男性陣の動きに付いてなんですが、四人全員にほぼ完璧な不在証明がありました。重松と池田は、合コンの途中局からの呼び出しを受け、抜けています」

 ここで一旦咳払いした。

「反町は、合コンがお開きになったあと、園田清子をホテルに誘っています。ホテルの従業員から裏も取りました。丸亀ポンタも反町同様、女性を自宅マンションに連れ込んでいます。相手の氏名は、北見愛実ですね。こちらもマンションの防犯カメラの映像で確認済みです」

「そうか、被害者が事件前夜に会っていた交友関係からは、これ以上何も出てこないって言うことか」

 松原は諦めるように言うと、溜め息を吐いた。


「母さん。お兄ちゃんは?」

 愛実は玄関のドアを開けるなり、母に訊ねた。

 リビング・ダイニングのシステムキッチンで、夕飯の支度をしていた春子は包丁でネギを刻みながら振り向いた。

「まだ。ちょっと遅くなるって、さっき電話があったわ」

「そう……」

 愛実はふんと鼻を鳴らした。

「痛っ」

「どうしたの母さんっ!?」

 愛実は慌てて台所に駆け寄る。と、春子は、左手の人差し指を舐めていた。

「あんたが話し掛けるから、指切っちゃったじゃないの」

「ドジね。母さんたら」

「五月蠅い。放っておいて頂戴。それよりあんた、美鈴ちゃんを殺した犯人て、目星とか付いたの。警察はどう言っているの?」

 春子は薬箱を取りに行くため、一旦まな板の上に包丁を置き、歩きながら訊ねた。

「あれっきり何も言って来ない」

 愛実は手と首を同時に横に振った。

「そう」

 春子は血を拭き取り、傷口を消毒すると、絆創膏を貼った。

「大丈夫?」

 愛実が横から心配そうに覗き込む。

「大丈夫、掠り傷よ」

 春子は笑みを浮かべた。

「ねえ、愛実ちゃん。テーブルの上に食器並べて」

 愛実はやや不満げに唇を尖らせた。

「分かった……」

 食器棚の方へ歩きながら、振り返る。

「晩ご飯て、何?」

「うん。豚肉の生姜焼きと茄子と南瓜の天ぷらに大根と水菜のサラダ。あとお豆腐とお揚げさんのお味噌汁」

 春子は味噌汁に入れるネギを刻みながら答えた。

 愛実は、家族の人数分の食器をテーブルの上に出だすと、廊下の方へ向かって歩き出した。

「あたし、二階へ行って来るね。出来たら呼んで」

 階段脇の壁に設置してある蛍光灯のスイッチを入れる。

「はいはい。分かりました」

 母の声を背中で聞きながら愛実は階段を上って行く。二階に上がると、廊下の蛍光灯のスイッチを入れる。LEDのオレンジ色の灯りが廊下に愛実の影を落とした。南向きの手前の部屋が兄の部屋だ。奥が愛実の部屋だ。廊下を挟んで北側が書斎と物置部屋だ。母は下で寝ている。

 ドアを開け部屋に入ると、まずクーラーのスイッチを入れた。次にTシャツとローライズのジーンズをベッドの上に脱ぎ捨てる。あられもない下着姿のまま、ベッドの上にダイブする。

「暑ちぃー」

 遂自然と言葉が出てしまう。

 暫く部屋で寛いでいると、下から母の声が聞こえて来た。

「出来たわよぉー」

「分かった、今行く」

 愛実は上半身を起こし、返事する。

 晩ご飯を食べたあと愛実はバスルームへ向かった。勿論、湯船には浸からず、シャワーで汗を流すだけだ。

 バスルームから出ると、濡れた身体をバスタオルで拭いた。そのバスタオルを使い、身体に捲く。濡れた髪をタオルで軽く拭き、家族がいるリビング・ダイニングへ足を運ぶ。シャンプーの好い香りが漂う。

「あんた、何て格好しているの。年頃の女の子が端ない」

 愛実の姿を目にするなり春子が注意する。

 愛実は髪をドライヤーで乾かしながら、

「あたしさ、この家出ようかなって考えているんだけど」

 と素っ気なく言った。

「えっ、家を出るってあんた……?」

「ダメに決まってるじゃない。何言ってるの、急にそんな……」

 春子は唖然となり、娘を諫める言葉を口にした。

「だってさあ。明菜ちゃんに悪いじゃん」

 愛実は、リビングで寛ぎながらテレビを見ている兄嫁の明菜の方を見た。その横では、幼い兄妹が遊んでいた。愛実の甥と姪だ。

「愛実ちゃん。私たちに気を使わないで」

 明菜は愛想笑いを浮かべた。

「家を出るって、何だかお母さん心配だわ。美鈴ちゃんのこともあるし……」

 春子は悲し気な表情で娘を見詰めた。

「実はさあたし、もう決めて来たの」

「決めて来たって、あんた……」

「彼氏の家に転がり込んじゃおうかなって」

「か、彼氏って……。愛実ちゃん、あなたお付き合いしている男の人いるの?」

 春子は真顔で娘を見た。義姉の明菜も義妹を見詰めている。

「誰?」

 二人声を揃えるようにして口にした。

「ふふふ……」

 愛実は勿体ぶったように笑みを浮かべる。

「ねえ、誰なの教えて頂戴?」

 春子は身を乗り出して訊ねた。

「芸人の丸亀ポンタ……」

 と言う名前を口に出し、家族の反応を見る。

「芸人……て、あんた……」

 春子は軽率な娘の行動に呆れ、言葉を失ったようだ。

「ねえ、明菜ちゃん。お兄ちゃんには絶対内緒よ。あたしが芸人なんかと付き合ってるて知ったら、絶対に反対されるに決まってるから」

「当ったり前じゃないの愛実。お兄ちゃんじゃなくたって反対するわよ。お母さん絶対に反対だからね」

「もう、五月蠅いぃー」

 髪を乾かし終わると愛実はドライヤーを片付け、システムキッチン横の大型冷蔵庫の氷冷庫のドアを開け、ソーダ味のアイスバーを一本手に取った。

「あっ僕も」傍らで妹と遊んでいた三歳半になる甥っ子が手を伸ばした。

「ダメェー。お主は下痢するからダメでぇーす」

 愛実は甥を茶化すように言うと、アイスバーを口に咥え、階段に向かって歩き出した。

「愛実、待ちなさい。まだ話は終わってないわ」

 心配する母を他所に、愛実はさっさと階段を上がって行き、自分の部屋に逃げ込んだ。


 PHショックを起こさないように水合わせをした金魚を、網で掬い一匹ずつ水槽の中へ入れていく。真っ先に餌に飛び付いたのは、水面近くを泳いでいたスポッテッド・ガーだ。ワニに似た大きな口を開け、パクリと金魚を一飲みした。

「残酷ですね……」

 中島が目を顰めて言った。

「ああ残酷だよ。でもこれが自然の摂理ってもんだよ。全ての生き物は他の生物の命を奪って生きているんだ。こればかりは仕方がない」

 時生は、二匹目の金魚を掬い、水槽の中へ入れた。次は、エンドリケリーが喰らい付いた。

 金魚を十匹ほど与えたあと、時生はコオロギを生きたままで、水槽の中に入れた。水面をもがくように泳ぐ。するとアジアアロワナが反応して、コオロギを丸飲みした。アロワナにコオロギを数匹与えると、最後にゴミムシダマシの幼虫であるミルワームをおやつとして与えた。

「明日、もう一匹、魚を入れる」

「何を飼われるんですか?」

 時生は振り返り、中島を見た。

「モトロだよ」

「モトロ……」

 中島は首を傾げる。

「南米アマゾン原産の淡水エイの仲間だよ」

「エイってまた先生たら、気持ち悪い魚飼うんだから」

 中島は苦笑した。

「ふん。そうかい。気持ち悪いかな……」

 時生も苦笑しつつ、水槽上部の餌の投入口の扉を閉じた。

「いよいよ明日から公判が始まりますね」

「うん。何とか傷害致死に持っていけるよう頑張るよ」

 時生は熱帯魚の餌のコオロギとミルワームを飼育しているプラケースの蓋を閉じると、一旦、汚れた手を洗うため、トイレに行った。

 石鹸を使い、指の間まで丁寧に洗う。水で泡を洗い流し、ハンカチで濡れた手を抜くと、スーツの内ポケットからiPhoneを取り出した。指先で液晶画面をタップし、妻の電話番号を押す。数回の呼び出し音のあと、繋がった。

「もしもし、私だ。時生だ。今夜は遅くなる」

【分かりました】

 妻は素っ気なく返事した。

「子供たちは?」

 時生が訊ねると、受話器の向こう側から低い声が返って来た。

【もう寝ました。あたな、それよりお話が】

「何だ?」

【愛実ちゃんが、家を出たいと】

「ん? 愛実が……」

【はい】

「どうしてまた?」

 時生が問い掛けると、彼の背後に立っていた中島が、「先生。コーヒー淹れました。どうぞ」と言った。

 スマホを手で押さえ、振り向く。

「ありがとう」

 礼を言うと、再びスマホを耳に当た。

「明日から始まる公判の資料に目を通さなければいけない。愛実の件は折を見て話そう」

【……はい。分かりました】

 妻の声を聞いたあと、時生は電話を切って、スマホを内ポケットにしまった。

 結婚した翌年に長男が、その三年後には長女が生まれた。長女が誕生して直ぐ時生は一家で渡米した。

 中島が淹れたコーヒーを啜ったあと、明日から始まる被告人山口健太の裁判員裁判に備え、時生は弁護側が用意した資料の最終チェックを行った。

「勝てそうですか?」

「さあ」

 時生はかぶりを振ってみせた。

「恐らく争点は、被告人に殺意があったかどうかだ」

 時生の表の顔である弁護士としての視点から見ると、被告人に殺意はなかったと主張したい。だが、殺人鬼としての裏の顔からみると、被告人には明らかに殺意があった、と感じている。

 被告人山口に、三田中央署で最初に接見した時点で、時生はこの男の眼窩の奥の瞳に宿る邪悪な光を感じた。

 この男は、自分と同じタイプの闇の住人だ……。

 間違いなくこの男は、明確な殺意を持って、被害者の首を絞め、殺害するに至った、と言う確信を得たのだ。

 一通り資料に目を通し、時生は首や肩の凝りを和らげようと大きく伸びをした。そして何気なく左手のROLEXに目を向けた。時刻は午後十時五十分を過ぎていた。事務員の中島も三十分ほど前に帰った。

 先ほどから百八十センチ水槽の脇に置いてあるプラスチックケースの中のコオロギが啼いている。

「ちょっと五月蠅いかな……」

 時生は自嘲気味に笑った。

「まあいいや。オーナーや所長の許可も取っていることだし」

 裁判資料を鍵の掛かる引き出しにしまい、鍵を掛ける。部屋を出る前、クーラーと照明のスイッチを消した。静まり帰った部屋の中に、水槽のエアーレーションの音とろ過フィルターの音だけが響いていた。


 富樫健介は、暴走族『東京連合』の十七代目総長だ。暴走族とは言っても集団で単車を乗り回す族ではなく、所謂、半グレの集まりだった。九十年代、チーマーや他の暴走族との抗争を経て巨大化した『東京連合』は、渋谷、新宿、六本木へと進出していき、クラブを支配下に置いた。遂には、ヒルズ族などの実業家と結び付き、真夜中の大都市東京を舞台に暗躍するに至った。

 この夜、富樫は仲間とともに支配下に置く六本木のクラブで、歌舞伎役者九代目梅川染太郎、本名井上康人と、その友人である若手タレント数名に暴行に及んだ。幸い染太郎は眼底骨折と鎖骨骨折で済み、命に別状はなかった。勿論、役者生命にも影響せずに済んだ。友人も顔や腹などを殴られるだけで無事だった。

 暴行事件を目撃したクラブの女性客や男性店員が一一〇番通報し、現場に駆け付けた警察官によって富樫とその仲間は、傷害の現行犯で逮捕された。

 ところが、いち早く危険を察知した仲間の一人矢野慎吾だけが、現場から逃亡したのだ。

 六本木通りを西へ向かって逃走した矢野は、警察の検問を掻い潜り、シリア大使館方面へ逃げ込んだ。更に北へ逃げ、都道四一三号線のT○S放送センター前で信号待ちしていた一台の白いBMWと出くわした。左ハンドルだ。運転手と目が合った。高級スーツに身を包んだ紳士だ。

 矢野はガスガンを改造した拳銃を持っていた。実弾こそ撃てないが、高圧炭酸ガスの圧力を高め、プラスチック製のBB弾ではなく、金属製のベアリングが発射可能だった。

「降りろっ!」

 矢野は叫ぶと同時に、運転席に向けて改造ガスガンを撃った。

 ベアリングは、BMWのウインドウグラスを貫通した。

 身の危険を感じた運転手は、前方の信号が青に変わると、即座にアクセルを踏み込んだ。

 矢野は急発進するBMWの左リアタイヤ目掛け、改造ガスガンを数発撃ち込んだ。タイヤがパンクして縁石に乗り上げ、停車した。

「野郎っ、ぶっ殺してやる!」

 危険ドラッグか覚せい剤を使用していた矢野は、奇声を上げながらBMWに駆け寄っていく。

 改造ガスガンのトリガーに指を掛け、銃口を運転手に向けた。その瞬間、突然、ドアが開いた。

「抵抗しない。助けてくれ」

 運転手は両手を上げ、車から降りて来た。

「だったら初めから素直に車を渡せぇー!」

 薬のため我を失った矢野は、運転手に向かって引き金を引いた。

 改造ガスガンから発射されたベアリングは、運転手の右肩を掠めた。もう一発撃つ。今度は左耳朶を掠めた。鮮血が滴り落ちた。運転手は掌で耳朶を摩った。

 掌に広がる鮮血を目の当りした途端、運転手の顔が見る見るうちに豹変して行く。悪魔が、その邪悪な毒牙を剥いた。酷薄な薄い唇の端に、加虐的な笑みが浮かんだ。

「な、何っ!?」

 矢野の背筋に怖気が走った。忽ちのうちにたじろぎ、後退る。

 次の瞬間、運転手は上着のポケットに隠し持っていたスタンガンを、矢野の額に当てた。一瞬の出来事だった。矢野は身を躱すことが出来なかった。電気ショックで全身から力が抜けていく。

「……糞野郎が」

 運転手は、崩れ落ちる矢野を見下すように吐き捨てた。


 肩まで掛かる金髪のロングヘアで、両耳にピアスを着け、首筋の辺りまでファッションタトゥーを入れ、流行りの悪羅悪羅ファッションに身を包んだDQN系の青年は、恐怖で蒼褪めている。

「粋がってんじゃねえぞ。このDQN野郎がぁ……、殺すぞ」

 時生は自分を襲って来たチンピラに罵声を浴びせると、その小汚い顔に唾を吐き掛けた。

「た、助けて下さい……」

 青年は命乞いした。

「ふふふふ……、嫌だね。殺す」

 時生は例のサバイバルナイフ・ステルスストライカーを左手に取ると、青年の身体の上に馬乗りになった。このまま見過ごすことは出来ない。感情が昂ってしまった。精神衛生上、この青年を嬲り殺しにしなくては気が済まない。

「わぁわぁわぁぁぁーーーーっ。お、お願いします。殺さないでぇーーーっ」

「お前、今まで命乞いした奴を何人姦った? 俺は、もう既に四十人以上殺った。正確に言えば、四十人を超えた辺りから数えていない」

 時生は蜥蜴のような真っ赤な長い舌を出し、ステルスストライカーの刃をひと舐めした。

 悪魔の告白を受けた青年は、恐怖に慄き、絶句した。

「お前のような人間を社会のゴミと言うんだ。お前なんか死んでも、誰も悲しまない」

「た、助けて……く、下さ……」

 命乞いをする青年の胸に、ステルスストライカーの刃を突き立てようとしたまさにその時だった。こちらに向かって近付いて来る一台の車のヘッドライトに照らされた。時生は咄嗟に手で顔を覆った。

「糞っ」

 舌打ちすると、素早く車に乗り込んだ。幸いエンジンは切らずにいたので、ドアを閉めるとアクセルを力一杯踏み込んだ。ホイルスピン気味に急発進する。先ほどDQN系の青年に、改造ガスガンで左リアタイヤを撃たれパンクしているため、ハンドルを取られる。

「追って来ないようだな……」

 時生はルームミラーで後方を確認し、胸を撫で下ろした。安どの溜め息を吐く。

 都道四一三号線を西へ進み、赤坂七丁目付近の住宅街に逃げ込む。遠くの方でパトカーのサイレンが鳴っていた。幸いにも付近の住民は皆就寝しているようで、誰一人として屋外には出て来なかった。

 時生はトランクを開け、直ぐに予備のタイヤを取り出した。

「落ち着け、落ち着くんだ、時生」

 焦った時の悪い癖が出た。爪を噛む癖だ。

「2、3、5、7、11、13……」

 落ち着くために、素数を数え始めた。幼い頃、母親から虐待を受けた時、頭の中で素数を数え、気を紛らわし、痛みに耐えていた。

「……97、101、103……」

 素数を数えながらジャッキを取り付け、車体を上げる。工具を使い、パンクしたタイヤを外す。その間、周囲に目を配り、人気のないことを確かめる。もし、誰かに見られていたら後々厄介なことになる。

 数分後、時生は手早くパンクしたタイヤと新しいタイヤを交換して、再び車を走らせた。

 普段、時生は、丸の内の事務所から神奈川県横浜市青葉区藤が丘二丁目の自宅に戻るのに、国道二四六号線を使っていた。都道四一三号線の根津美術館前交差点で右折して、青山通り(国道二四六号線)に入り、そのまま神奈川の自宅まで進むのだ。だが、今日は大幅に予定を変更する必要があった。恐らく都内の至るところで、検問を実施しているに違いない。また、Nシステムも避けなければならない。ストレスで胃がきりきりと痛む。

 ふと気が付くと、時生はまたもや爪を噛んでいた。

「どうする、時生。よく考えろ」

 何気なく手元のスイッチを押すと、幸いにもパワーウィンドウは動いた。運転席側だけだと不自然なため、右側の助手席のパワーウィンドウも下げた。

「これで少しは警察の目も、誤魔化せるかな?」

 自問する。だが、簡単には答えは出なかった。

 赤坂七丁目の路地を北上し、カナダ大使館裏の一方通行の道を通り抜け、青山通りへと出た。通りを挟んだ向こう側は、赤坂御用地だ。昼間なら目の前には緑が広がっているが、今は深夜であるため漆黒に覆われていた。左折ウインカーを出し、青山通りへと入る。遥か後方を走る一台のパトカーの赤色灯が目に入った。サイレンも鳴っている。

「拙いな……」

 心臓が高鳴った。

 ドップラー効果で、だんだんと近付いて来るのが分かる。

 だが、時生の心配を他所にサイレンを鳴らし赤色灯を点滅して走るパトカーは、BMWの横を素通りしていった。

「上手くいけるかも」

 時生は僅かに唇を緩めた。

 渋谷までは無事に走れた。更に国道二四六号線を進み、多摩川まで行く。ここで予想通り検問に引っ掛かった。時生はアクセルを緩め、BMWを車列の最後尾に着け、徐行した。ここで慌てて脇道などへ逃げ込んだら返って目立ってしまう。

 数分後、制服警察官二名が、赤く光る誘導棒を振って近寄って来た。飲酒運転などを取り締まる交通検問ではない。明らかに緊急配備だ。

「運転手さん。免許書をお願いします」

 中年の男性警察官が声を掛けた。

「北見時生さんですか。ご住所は、神奈川県横浜市青葉区藤が丘二丁目……。因みにご職業は、差し支えなければ教えて下さい」

「弁護士です」

「ほーう、弁護士さんですか……」

 と言いつつ、中年警官は時生の顔をまじまじと見詰めた。

「何かあったのですか?」

 白々しく訊ねてみる。

「三十分ほど前、この先の、世田谷区野沢の近くで、ひき逃げがありまして」

「ひき逃げですか……?」

 時生と中年警官が遣り取りしている間、もう一人若い男性警察官は、懐中電灯をBMWに当て、車体を入念にチェックしていた。

「運転手さん。左のボディに真新しい傷がありますね?」

「ああ、それですか。今朝、家を出る時に、車庫の脇に置いてあったブロックで擦っちゃて」

 適当な言葉を並べ、その場を凌ぐ。

「なるほど、そうでしたか」

 若い警察官は、時生の免許証を手に持つ中年の警官を見た。

 二人で頷き合うと、中年警察官は時生に免許証を返した。

「どうぞ、もう行って下さい。お気を付けて下さい」

 若い警官の方は既に、誘導棒を振りながら、次の車に向かって歩き出していた。どうやら、上手く誤魔化せたようだ。

 時生は免許証を受け取ると、中年警官に目礼して、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。BMWは緩やかに加速していき、多摩川に掛かる橋を渡って神奈川県へ入った。

 神奈川県横浜市青葉区藤が丘二丁目の自宅に戻ると時生は、パワーウィンドウを元に戻した。そしてバックで車庫入れの際、わざと車体の左側面をガレージの柱にぶつけた。直ぐに警察を呼び、自爆事故として処理した。勿論、人身事故などではなく、物損事故だ。このあと、母と妻の二人からこっ酷く叱られた。


 港区赤坂四丁目十八番十九号の赤坂中央署に、連続婦女強姦殺人事件捜査本部を仕切る管理官松原康史警視が到着したのは、翌々日の午後三時過ぎだった。

 出迎える赤坂中央署員との挨拶もそこそこに、松原は、麻生、沖両係長とともに、矢野の取り調べに当たった。

「どんな男だった。お前が改造ガスガンで襲ったと言うその紳士はぁ?」

 麻生が矢野の襟首元を掴み、罵声を浴びせる。

「……覚えていない。富樫さんたちと染太郎を襲撃する前、根性入れるため薬キメていたので……」

 憔悴し切った矢野は、俯き気味にかぶり振る。禁断症状のため、目が血走っている。その焦点が合わない真っ赤に充血した目で、矢野は宙を見ていた。

「この役立たずがぁ」

 麻生は矢野の頭を平手打ちした。

「済みません……」

 矢野は面目なさ気に頭を垂れた。

「どうします、管理官?」

 麻生は振り向いた。

 傍らで矢野の取り調べを沖とともに見ていた松原は、渋面で唸った。

「うーん。遂に奴の尻尾を掴んだと言うのに、唯一の目撃者がシャブ中じゃ話にならん」

 一昨日の深夜、午後十一時頃、歌舞伎役者梅川染太郎を襲い、その後逃亡先で白いBMWを奪おうと試みた矢野慎吾は、スタンガンで反撃され、倒れていたところを現場に駆け付けた警察官によって逮捕された。

 ところが、現場検証に当たった所轄の鑑識係員が現場で採取した血痕から、とんでもないものが発見された。連続婦女強姦殺人事件の犯人が現場に残していった体液から採取したDNA型と、今回の現場から採取した血液に含まれていたDNA型が一致したのだ。犯人は唾液や精液などに、血液の成分が全く分泌しない非分泌型だったため、これまで血液型は不明だった。ところが犯人の血液が現場で採取されたことにより、漸く血液型が判明した。血液型はRh+O型だ。

 この一報を受け、三田中央署に設置された捜査本部に詰める警視庁幹部の面々は皆、浮足立った。

 これまで連続猟奇殺人犯は、現場に体液、指紋などを残していったが、前科者リストには一切ヒットしなかったのだ。その犯人を特定する手掛かりに繋がる有力な目撃者が、暴走族『東京連合』のOBで、覚せい剤中毒者の矢野慎吾だった。

「矢野の身柄を赤坂から三田へ移せ」

 松原は腕を組んだまま告げた。瞼を閉じる。

「それと、この事件のことはマスコミには伏せておけ。報道管制を敷け、いいな」

「分かりました」

 松原の横に立つ沖は、頷いた。

 緘口令を敷き、犯人を罠に嵌める作戦だ。

 矢野の身柄は極秘に赤坂から三田に移されることになった。

 松原は移動中の車の右後部座席で、隣に座る麻生に声を掛けた。

「病院は手配したのか。自動車整備工場やガソリンスタンド、自動車販売店の方は?」

「全て手配済みです。Nシステムの方のチェックも万全です」

 麻生は頷いた。

「該当車両があれば、直ぐに連絡が入ります」

「そうか、宜しく頼むぞ」

 言うと松原は、寝不足の所為か大きく口を開け、欠伸をした。

「少しお休みなって下さい、管理官。三田に着いたら起こしますので」

「済まんな、お言葉に甘えさせて休ましてもらう」


 七海は室田とともに敷鑑捜査の聞き込みに回っていた。

 踵を上げ、スニーカーの靴底を見る。

「やだ、もうこんなに擦り減っちゃってる」

 先日、新しいスニーカーを下ろしたばかりだと言うのに。

「仕方ないっすよ、鴇崎さん。これが刑事の宿命ってヤツですから」

 室田はそっけなく言った。

 七海はちらりと室田の顔を見た。

「ねえ、スニーカー代って、必要経費とかで落とせるの?」

「うんうん」

 室田は何度もかぶりを振ってみせた。

 都道四一三号線を西に進む。東京メトロ千代田線赤坂駅付近に差し掛かった。前方右手には、赤坂サカスの建物が見える。

「確かこの辺だったわよね。一昨日の晩、暴走族崩れの男性が、私たちの追っている犯人にスタンガンで襲われたのは?」

「この先の交差点です」

 室田が前方を指さした。七海は視線を向けた。

 赤坂中央署の地域課に所属する制服警察官が二名立ち番をしていた。遠目からではよく分からないが、そのシルエットからして男女二人だ。犯人が現場に舞い戻って来ることを考慮してのことだ。

 交差点に差し掛かった。歩行者用の信号は赤だ。

「ご苦労様です」

 七海は警官に敬礼してみせた。

「はぁあ?」

 初老の男性警察官の方が、訝し気に首を捻った。

「特命捜査対策室四係の者です」

 七海は笑みを零した。

「ああ、継続専従捜査班の方ですか。これからどちらへ?」

 室田は咳払いして、

「そこのテレビ局へ……」

 と答えた。

 二名の制服警官は振り返り、T○S放送センターの方を見た。

「六年前の事件の被害者の知人と言う方が、あちらの会社に勤めておられるので、これからお話をお伺いに行こうと思いまして」

 七海は丁寧な口調で伝えた。

「そうでしたか」

 男性警察官が頷いた。

「亡くなられた被害者のためにも一日も早く真犯人を検挙して下さい」

 女性警察官は、真顔で言った。

 七海は真摯に受け止めた。

 前方の歩行者用信号が青に変わり、七海と室田は交差点を渡り始めた。

 T○S放送センターの通用口で、警備員に警察手帳を提示して、建物内へ入った。受付でも身分を名乗る。

「警視庁特命捜査対策室の鴇崎と申します」

「同じく室田です」

「あの。本日のご用件は……?」

 受付担当のちょっと奇麗な小顔の女性が、怪訝そうに首を傾げた。

「こちらにお勤めの里中優里菜さんと言うお方をお呼び出し願いたいのですが?」

「さ、里中ですか。少しお待ち下さい」

 言うと、女性は手元の端末に視線を落とした。

 室田が七海を見た。

「鴇崎さん。それは彼女の本名です。この場合、芸名を言った方が早いと思いますよ」

「……芸名?」

 受付の女性が益々怪訝そうな顔になった。

「あのタレントのユリナさんを……」

「ああ、分かりました。ユリナさんですね」

 受付の女性は、納得したように頷いた。

「あちらの方で暫くお待ち下さい」

 モデルのユリナ、本名を里中優里菜と言うこの女性は、六年前猟奇殺人犯に殺害された河野静香の友人の一人だった。事件後、現在所属する大手芸能事務所にスカウトされ、モデル活動を経て、タレントとなった。現在、年間十四本のCMに出演し、テレビ番組のレギュラーは七本の超売れっ子だ。

 先ほどの受付の女性が七海たちの元へ近寄って来た。

「申し訳ございません、刑事さん。ただ今、ユリナの方は、弊社で製作中のテレビドラマの撮影中でして、上の階のスタジオの方でお待ち下さい」

「ありがとうございます」

 七海は頭を下げた。

「行きましょうか、鴇崎さん」

「うん」

 七海は頷いた。


「灰原警部、ガサ状取れました」

 二十代後半と思われる女性が、弾んだ声を上げた。

「よし、行くぞ」

 初老の男性が立ち上がった。机の上のネームプレートには、六係長灰原警部と記されている。

 某事務所に所属するイケメン俳優が、

「桂城(かつらぎ)、行くぞ」

 と関西出身のお笑い芸人の肩を叩いた。


「これで赤松弁護士も、言い逃れ出来ないでちゅ……、あっ済みません。噛みました」

 丸亀ポンタは、共演者とメガフォンを持つ監督に謝った。これが17テイク目だった。

 T○Sがこの夏放送している猟奇殺人事件を扱った刑事ドラマ『ベルベットブルー』の撮影責任者である大下元彦は、溜め息を吐いた。

「十五分間の休憩に入る。ポンちゃん、気分転換して来て」

「済みません、皆さん」

 丸亀ポンタは申し訳なさそうに頭を掻いた。

 刑事ドラマの屋内セットにありがちな近未来的な刑事部屋は、倦怠感に包まれた。険悪な空気が漂っている。ドラマに出演する役者やスタッフは皆、気怠く溜め息を吐いた。中には舌打ちする者もいる。

 灰原警部役の大物俳優が、ディレクターチェアに座ると、付き人らしき男性がおしぼりを手渡した。大町源太は、右手の人差し指と中指でⅤの字を作り差し出した。すると先ほどの付き人がキューバ産の高級葉巻を渡して、ポケットからZIPPOのオイルライターで火を点けた。

 清水刑事役のイケメン俳優高遠信哉は、撮影に入る前に飲んでいたミネラルウォーターのボトルに唇を付けた。女性刑事金本巡査部長役のユリナが、高遠の左肩にそうと右手を添えた。

「ねえ。今夜どう。時間ある?」

 高遠は意味あり気に笑う。

「さあ、どうかな?」

 上目遣いにユリナを見詰める。

「もう、意地悪」

 ユリナは高遠の左頬を抓んだ。

「分かった。時間空けとくよ」

 高遠が頷いた次の瞬間、テレビ局の女性スタッフが、ユリナの許へ近寄り、耳元で囁いた。

「あのユリナさん」

「何っ!?」

 ユリナは尖った視線をスタッフに注ぐ。今夜のデートの打ち合わせを邪魔され、かなり不機嫌だ。それと、十七回も連続でNGを出した頭の悪い関西芸人に対しても、かなり立腹している。

「あちらの方が、ユリナさんにお話があるそうです」

 スタッフは、スタジオの隅を指さした。

「えっ?」

 ユリナと高遠が振り向くと、知らない二人組の男女が突っ立っていた。ドラマ撮影の見学に来た一般人か、と思ったらしく、ユリナは益々不機嫌になった。

 舌打ちする。

「誰? あんな連中しらない」

 冷たく吐き捨てる。

「……警察の方です」

 神妙な面持ちでスタッフが伝える。

「警察っ!?」

 ユリナは上擦った声を上げた。少し狼狽えている。思い当たる節は一つある。恐らく六年前のあの事件のことだ。

 ストライプ柄のレディーススーツ姿の女性が、ユリナに向かって頭を下げた。ユリナも軽く頭を下げた。

「こちらへどうぞ」

 女性スタッフが、二人の警察関係者を手招きした。

「あちらの方が、里中優里菜さんです」

「……あの、その……」

 しどろもどろになり、ユリナは口籠った。

「お時間頂けますか?」

 鴇崎七海が訊ねるとユリナは、監督の大下の方を見た。

「いいよ」

 大下は、行けと言う具合に顎で示した。

「本物の警察の事情聴取か、演技の参考になるな」

「済みません。少しお時間頂戴致します」

 室田遼一が頭を下げた。

 ユリナは二人の刑事に頭を下げ、スタジオの隅に移動した。

「……あの、刑事さん。静香のことですか?」

 ユリナはおどおどしながら、不安気に女性刑事に視線を注いだ。

「はい」

 鴇崎七海は真顔で頷くと話を続けた。

「既に報道などでご存知かと思われますが、里中さんあなたのご友人河野静香さんを六年前に殺害した被疑者が再び動き出しました。更に一昨日、この先の都道四一三号線……」

「鴇崎さん。その話はまだ」

 突然、先ほど室田と名乗った男性刑事が女性刑事の言葉を制した。

「あっ」

 鴇崎七海は口に掌を当てた。

 ユリナの目には何かを隠しているようかに見えた。

「あの事件のことで何か……?」

 肉厚の腫れぼったい唇が震えるように動いた。

 里中優里菜は六年前のあの日、東急田園都市線新桜町駅で下車したあと、動き出した車窓の中で手を振る河野静香の姿を思い出した。知らず知らずのうちに目が潤んで来た。涙が頬を伝い落ちる。

「大丈夫ですか。里中さん?」

 同じ女性として鴇崎七海が気遣う。

「はい、大丈夫です」

 ユリナは小さく頷いた。

「その後、事件のことで何か思い出したことはありませんか?」

 室田遼一が切り出した。

「何度来られても、先日お話したこと以外に、もうこれ以上お話しすることはありません」

「……そうですか」

 室田遼一は残念そうに頷いた。

「お邪魔しました」

 頭を下げ、踵を返し二人が立ち去ろうとした瞬間、

「お待ち下さい、刑事さん」

 とユリナは呼び止めた。

 鴇崎七海が振り向いた。

「何か?」

 穿った黒い瞳がユリナを見詰める。

「実は私、見たんです。一昨日の晩、この先の都道四一三号線(みち)で、若い男の人が車に乗った人と言い争っているところを、信哉君も一緒だった……」

 ユリナは、刑事部屋を模した室内セットの端で、女性マネージャーと談笑している若手イケメン俳優に視線を向けた。つられて二人の刑事も、その俳優の方に顔を向けた。

「あの方は確か、○○事務所の高遠信哉さんですね? 差し支えなければお聞かせ下さい。お二人はどう言ったご関係でしょうか?」

 室田遼一は、ユリナに迫った。

 ユリナは少し躊躇った。

「……友人です」

「ご友人ですか……」

 室田遼一は納得要ったように頷く。

「どうします?」

 バディの女性刑事に問うた。


 問われると七海は、右手の人差し指を顎に当て、少し考えてから口を開いた。

「その話、詳しくお聴かせ下さい。あちらの男性の方も」

「分かりました」

 里中優里菜は真顔で答えると、振り向いた。

「信哉君、ちょっと」

 高遠信哉は、人差し指で自分の顔を差す。

「俺?」

「うん」

 里中優里菜は頷いた。

「警察の人が、一昨日の晩のあの件のことで、話があるんだってさ」

「オッケー」

 高遠信哉は、女性マネージャーに断りを入れると、こちらに向かって歩き始めた。

「お忙しい時にどうも済みません。一昨日、この先の都道四一三号線で、あなたとこちらの女性が目撃されたと言う出来事に付いて、詳しい話をお聴かせ下さい」

 室田は丁寧な口調で言った。

「ここじゃ何ですから、もう少し静かなところで」

 言うと七海は、傍らで立ち聞きしているADらしきテレビ局の男性スタッフをちらりと見た。ADは、如何にもバツ悪そうに頭を下げ、逃げるようにその場を離れた。

「あの、加奈(かな)さん。スタジオ横の空き部屋借りてもいい?」

 里中優里菜が気を利かし、加奈と言う名前の女性スタッフに声を掛けた。

「どうぞ。お使い下さい」

 女性スタッフは頷いた。

 七海はそれとなく、この女性スタッフが首からぶら下げている名札を見た。

 チーフディレクター前田加奈、と記されている。

 前田加奈に案内され、スタジオと同じフロアにある空き部屋に移動した。ネームプレートを見ると、第五会議室となっている。

 前田加奈がドアを開けた。

「どうぞ、ご自由にお使い下さい」

「済みません」

 七海は軽く頭を下げた。

 里中優里菜と高遠信哉は、七海と室田に対座する形で、パイプ椅子に腰を下ろした。

 前田加奈とは別の女性スタッフが、四人分のミネラルウォーターを持って、部屋に入って来た。五百ミリサイズのペットボトルで、微かに果実の香りが付いている商品だ。

「お構いなく」

 室田が目礼した。七海もそれに倣う。

 女性スタッフが、この部屋から出て行くのを見計らって、室田が徐に口を開いた。

「早速ですが、あなた方お二人が目撃したと言う男性同士の言い争いに付いてお話をお伺いします。目撃された時間は、何時頃でしたか?」

「多分、十一時三十分頃だったと思う。撮影が十時三十分まで掛かり、シャワー浴び、私服に着替えてテレビ局の外へ出たから」

 記憶を辿りながらぼそり言うと、里中優里菜は、右隣の高遠信哉を見た。

 高遠信哉も相槌を打つように頷いた。

「彼女を助手席に乗せて、僕のポルシェで表の都道四一三号線(みち)に出てみたら、若い男が手にモデルガンのような物を持って、BMW5シリーズに乗っていた男を脅していたんだ。そのあと、車の男はスタンガンで反撃に出て、倒れ込んだ若い男の上に馬乗りになってナイフで刺そうとしていたみたいだけど、俺たちに気付き、直ぐ車に乗って逃げだして」

 高遠信哉の証言を聞き、七海と室田はお互いの顔を見合わせ、頷き合った。

「間違いない。一昨日の矢野の事件だ」

 室田は正面を向き直し、高遠信哉に訊ねた。

「現場から逃走した車の車種は、BMW5シリーズで間違いないのですね?」

「はい」

「ナンバーは見ましたか?」

 七海が身を乗り出して訊ねた。

「いいえ、暗くてちょっと、ナンバーまでは……」

「そうですか」

 七海は残念そうに頷く。

「そのBMW、どちらの方向へ逃げました?」

 室田が、東か西か問う。

「渋谷方面です。面白いから追い掛けようかなって思ったんですけど、ユリナちゃんが、怖いから止めようって言うもんだから、諦めて……」

「だって、車に乗っていた男の人、右手にスタンガンと左手にはナイフのような物持っていたんですよ」

「でも、不思議だよな。どのテレビ局も全くこの事件のこと、報道していないなんて……」

 高遠信哉は、如何にも怪訝そうに言った。

 室田は、七海を見て頷いた。

「里中さん」

 七海は真顔で言った。

「はい」

「実は、一昨日の晩、あなた方が目撃されたBMWに乗っていた男と言うのは、我々警察が六年間追っていた殺人犯なのです」

「えっ!?」

 里中優里菜は、手を口に当て愕然となった。

「そうです。お察しの通り、六年前二子玉川であなたの友人河野静香さんを殺害した犯人です」

 室田が真相を告白した。

 途端、里中優里菜はがくがくと震え出した。

「大丈夫ですか……?」

 七海が声を掛けるが、当の里中優里菜は完全に上の空だった。顔色も冴えない。俯き加減で嗚咽を漏らしていた。高遠信哉が彼女を心配して、背中を摩っていた。もうこれ以上何を訊いても無理であろうと判断して、事情聴取をここで中断した。そして、男女二人の芸能人に口止めしたあと、赤坂のテレビ局を離れた。

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