溺れる魚

「このバンドの太いヤツ、これ下さい」

 物腰の柔らかい紳士が、百八十センチ水槽の中で飼育されている蛇に似た古代魚を指差した。

「これですね、お客様?」

 アクア○○新宿店のアルバイト店員は、販売用として水槽で飼育されている個体の中で一番大きいエンドリケリーを指差す。体長は約三十五センチほどだ。他にも五匹ほど同じ種類の魚が泳いでいる。

「はい。これです」

 紳士が頷いたのを確認したあと、店員は少し大き目のビニール袋を、発泡スチロールの箱の中に広げた。そして、ホースの先を、お目当てのエンドリケリーが泳ぐ水槽の中に入れた。垂れ下がるホースのもう一方の先を口に咥え、飼育水を吸う。するとサイフォンの原理で水槽の中の飼育水が吸い上がり、ビニール袋の中に溜まっていく。飼育水が適量たまると、店員は水槽の中に垂らしたホースを抜いた。

 次に、魚を掬うため網を手に取った。かなり大きめの網だ。店員は網の柄を両手で持ち、水槽の中に入れた。忽ち魚が暴れ出した。店員は販売用の魚に余計なストレスを与えないよう素早い手付きで、客のお目当ての個体を網で掬った。魚の入った網を水槽から取り出す。網の中で魚が飛び跳ねて、水飛沫が辺りに飛び散った。

 店員は、魚を飼育水が入ったビニール袋の中に入れた。それを持ち上げ、客の前に掲げる。

「こちらの個体で宜しいでしょうか、お客様?」

 問われた客は、ビニール袋の中に入ったエンドリケリーを確認する。

「はい」

 店員は客の反応を見届けたあと、酸素ボンベから伸びている細長いチューブの先をビニール袋の中に突っ込み、バルブを開いた。ある程度袋が膨らむと、バルブを閉じた。緑色のちょっと大きめの輪ゴムで、ビニール袋の口を縛る。その間、このエンドリケリーを買った客は、さも満足げに恍惚の笑みを浮かべその様子を眺めていた。

「お客様、他に何かご入用でしょうか?」

 不意に声を掛けられ我に戻った客は、驚いたような表情を浮かべた。

「あっ、あの……、スポッテッド・ガーを、それとアジアアロワナも見せて下さい」

「畏まりました」

 エンドリケリーと混泳させたいと言う客の希望に沿うような個体を見付け出すと、店員はそれを勧めた。

「こちらの体長四十センチのヤツなどは如何でしょうか?」

 斑点模様の位置が気に入らないらしく客はかぶりを振った。

「その奥のヤツ、あれがいいな」

 店側の勧めたスポッテッド・ガーよりも少し小振りの三十センチほどの個体を指差す。

「あの大きさですと、エンドリケリーに当てられる可能性が高いですよ」

 つまりいじめられると言いたい訳だ。

 客は腕を組み、低い声を出して唸った。

「分かりました、じゃあその四十センチのヤツでいいや」

 最後にアジアアロワナを購入した。買った個体は、二十九万八千円もする藍底過背金と言う種類のアジアアロワナだ。

 代金を支払う際、客はVuittonの長財布をスーツの内ポケットから取り出した。

「クレジットカードで」

 とVISAカードを店員に渡した。

「畏まりました。一括ですか、分割ですか?」

「デビットで」

 TOKIO KITAMI名義のカードを受け取ると、店員はスキャンした。

「暗証番号を入れて下さい」

 カードリーダを客に手渡す。

 客は、液晶パネルに映った数字を指先で押し、四桁の暗証番号を入力する。レシートが発行され、店員は客に手渡した。

 三匹の高級熱帯魚の合計金額は、三十一万四千円だった。それに消費税八%が加算され、三十三万九千百二十円となった。

 この近く有料駐車場に停車中の客の車まで、店員は発泡スチロール三箱に入った熱帯魚を運ぶことになった。

「あちらの横浜ナンバーのBMWです」

 客はポケットからキーを取り出しロックを解除した。トランクを開ける。

「ここにお願いします」

「……分かりました。あのつかぬことを訊ねますが、このあとどこも寄り道せず、ご自宅の方にお帰りでしょうか?」

 店員が訊ねた。

 ビニール袋の中には充分過ぎるほど酸素を充填しておいたが、念のため訊ねたのだ。

 客は一瞬、真顔になった。

「はい。真っ直ぐ家に帰ります。早く帰って、この子たちを水槽に入れて上げなくっちゃ」

 口元に笑みを浮かべる。

「そうでしたか」

 安心すると店員は、発泡スチロールを三箱並べて、指定されたトランクに入れた。

「ありがとうございました」

 野球帽を取り、深々と頭を下げる。

「こちらこそ、どうもありがとう」

 客は店員に一礼するとトランクを閉じた。

 ちょうどその時だった。

「北見先生」

 と、背後から若い女性が声を掛けて来た。聞き覚えのある声だった。


 例の殺人事件の捜査のため、室田とともに新宿を訪れていた七海は、白いBMWの傍らに立つ濃紺のスーツ姿の男性に声を掛けた。

 男性が振り向く。

「やっぱり北見先生だ。先日はどうも」

 七海は頭を下げた。

 北見時生は、傍に立つ大きな魚が描かれたTシャツ姿の若い男性に目で合図を送った。どこかのショップの店員だろう、と七海は思った。その身形からしてこの近くにある熱帯魚店に勤める従業員に違いない。Tシャツ姿の若い男性は北見時生に深々と頭を下げると、その場を立ち去った。去り際、ちらりと七海とその連れの男性刑事の方を見た。

「こんなところで出会うとは、これはまた奇遇だ」

 北見時生は照れ笑いを浮かべながら頭を掻いている。

「敷鑑捜査の聞き込みです」

 室田がぽつりと呟くように言った。

「ところで先生は、こんなところで何をなさっておられたのですか?」

 七海が問う。

 北見時生は少し躊躇った表情を見せた。

「……お恥ずかしながら、この年になって熱帯魚に夢中になりましてね。子供の頃、去る事情があって飼えなかった魚が、今頃になってどうしても飼育してみたくなり、遂手を出してしまったと言う訳ですよ」

「それはそれは、宜しいことですね」

 七海は愛想笑いを浮かべた。

「で、どう言った魚ですか?」

「エンドリケリーと言う魚とスポッテッド・ガー、そしてアジアアロワナです。特にこのエンドリケリーとスポッテッド・ガーってヤツは、魚のくせに溺れてしまうんですよ。面白いでしょ」

 北見時生は、まるで子供のように顔を歪め満面の笑みを浮かべた。

「溺れる魚ですか……?」

「はい」

 北見時生は頷いた。

「鴇崎さん。そろそろ」

 魚に全く興味のない室田は、肘で七海の脇腹を突っ突いた。

「お邪魔しました、先生。お魚君たちを大切に育てて上げて下さいね」

 北見時生と別れたあと、七海たち二人は歌舞伎町方面に向かって歩き出した。雨がぱらぱらと振り出し、七海の肩に当たる。

「しまった。傘持ってくればよかった」

 少し残念そうに呟く。

「急ぎましょう」

 雨脚が酷くなり、室田が駆け出した。

 七海は部下の男性刑事のあとを追い掛ける。二人が向かった先は、靖国通りを挟んだ向かい側歌舞伎町一番街に建つ雑居ビルだ。このビルの二階にテナントとして入居する風俗店が目的地だった。

 店番の四十代前半の男性に警察手帳を提示する。

「警視庁特命捜査対策室の室田です」

「同じく鴇崎です」

 身分を名乗りながらさり気なく店内の様子を窺う。

 店番の男性は、一瞬であるが狼狽える仕草を見せた。どうやらガサ入れと勘違いしているようだ。ここを管轄する新宿中央署の生活安全課で先ほど、この店に関する情報は仕入れておいた。ここが、表向きは男性客を相手にした個室添い寝サロンであると言うことは既にリサーチ済みだった。

 室田は少し口元を緩めたあと訊ねた。

「米沢佳世って娘が、ここで働いていると聞いて来たんだが?」

「……佳世ちゃんですか? ちょっと待って下さい」

 答えると店番は、視線を手元の端末に向けた。

「今日は、七時からの出勤ですね、刑事さん」

 室田は舌打ちした。

「七時か……。どうします鴇崎さん?」

 七海はG-Shockで時刻を確認する。

「あと四十分もあるわね」

 右手の人差し指を顎に当て摩りながら答えた。

「外で待ちましょ」

「分かりました」

 店番が怪訝そうな眼差しを七海に向けた。

「あの刑事さん、佳世ちゃんが何かやらかしたのですか?」

「いいえ」

 七海はかぶり振りながら答える。

「六年前の連続殺人事件のことで、彼女のお話を聴きたくて」

「れ、連続さ、殺、じ、人事件……」

 店番は思わず噛んでしまった。その顔には驚きの表情が出ていた。

「この先のソープランドに勤めていた女性が、殺害されてね。その被害者の交友関係を片っ端に洗っていると言う訳ですよ」

 室田が言った。

「ああぁ、思い出した。実は私ね、この店に勤める前は、ソープで客引きやっていたんですよ。確か殺された娘って、『エデンの園』のカンナちゃんでしょ」

「よくご存じで」

 室田が感心したように頷く。

「私ね、あの店でも二ヶ月ほど働いていたことあったんですよ。オーナが変わり、直ぐ辞めちゃったけど」

「被害者とは、仲が好かったのですか?」

 七海が問うと店番は、顔の前で手を横に振った。

「特に親しかったと言うことはありません。店が終わったあと、時々飯を喰いに行く程度かな」

「そうですか……。お邪魔しました」

 二人は、個室添い寝サロンを出ると、覆面パトカーを駐車中のコインパーキングとは反対側の方向へ歩き出した。向かった先は、新宿二丁目だ。

「七時まで、まだ時間あるわね」

「この先のゲイバー『レインボー』に、AV女優時代の磯崎奏恵の知り合いが勤めています。そこ言ってみましょう」

「その店、こんな時間に開いているの?」

「確か、午後六時三十分開店の筈です」

 七海はG-Shockのデジタル表示を見ながら頷いた。

「行ってみるか……。余り時間ないけど」

 新宿二丁目のゲイバー『レインボー』に勤めるニューハーフ、チヨミ嬢は、以前ニューハーフを扱ったAVに出演したことがあり、その時、AV女優時代の磯崎奏恵と知り合ったと言うことだ。

「ごめんなさい、刑事さん。折角来て頂いたと言うのにアタシ、何も思い出せなくて」

 チヨミ嬢は嗄れ声で言った。

 そのハスキーな声よりも、ラメ入りのパープルのアイシャドウと、真っ赤なリップと言う厚化粧に圧倒され、七海と室田は顔を歪める他なかった。

「取り敢えず、名刺渡しておくから、何か思い出したら電話して。変なことに使うんじゃねえぞぉ」

 険しい表情に室田は、チヨミ嬢に念を押した。

「ここもダメか……」

 七海は手に持つシステム手帳に、ゲイバー『レインボー』と、チヨミ嬢の本名である植草源蔵の文字の横に、赤ペンでバツ印を付けた。

 既に、この手帳には、磯崎奏恵の知り合い二十六人分の名前が記され、何れもバツ印が付いていた。

 結局、個室添い寝サロンに勤める米沢佳世からも有力な情報は得られなかった。

 継続捜査とは地道な捜査である、と七海は改めて自覚した。


 時生が、大型熱帯魚に夢中になるのにはそれなりの理由があった。ネオンテトラやグッピーなどの小型熱帯魚は、フレーク状の乾燥した餌を与えればそれでよい。勿論、肉食大型熱帯魚にも、それ専用の人工飼料があるのだが、個体によって生餌を好むものもいるのだ。一度生餌を口にしたものはその味に魅了され、二度と人工飼料を口にしない個体もいるくらいだ。

 幼い頃時生は、父に連れられ訪れた熱帯魚店で、ガーパイクの仲間ショートノーズガーが餌として与えられた金魚をパクリと丸のみする瞬間を目撃したことがあった。その光景が今も彼の脳裏に焼き付いて離れないのだ。

 時生は、大学卒業と同時に一つ下の女性と結婚した。

 妻は以前、時生が買って来た魚を見て、露骨に顔を顰めた。

「犬や猫ならともかくどうしてペットを飼うのに魚なの、しかもあんな大きな魚、気持ち悪い」

 結婚前は大人しかった妻も、随分と口煩くなった。

 妻に酷く詰られ、落ち込んだ時生は、その時は素直に謝った。

「ごめん」

 学習能力の高い時生は、今回三匹で三十一万四千円もする高級熱帯魚を購入するに当たって、前回とは違いそれなりの準備をして臨んだ。

 熱帯魚店のアルバイト店員には、

「はい。真っ直ぐ家に帰ります。早く帰って、この子たちを水槽に入れて上げなくっちゃ」

 と答えたが、実は嘘だった。

 自宅ではなく、勤務先の『藤本法律事務所』で飼育するつもりだ。経営者の藤本多津夫と上司である渡辺には、既に許可を取っている。勿論飼育に掛かるコストは、予め給料から天引きと言う条件付きだ。

 女子大生川島美鈴を殺害した日の翌日、上司の許可を得た時生はその足で都内の熱帯魚店に行き、百八十センチのアクリル水槽とオバーフローの濾過システム一式を購入した。市販されている中和剤を使い、水道水の中のカルキを抜く。魚にとって安全な飼育水を作り、水槽の中に入れ、濾過バクテリアを繁殖させるため一週間ほど濾過システムを動かす。

 この飼育水を立ち上げる作業を、時生は熱帯魚店の店員の力を借りず、一人でこなした。

 一週間後、パイロットフィッシュとなる魚を水槽の中に入れた。一般的なネオンテトラを百匹だ。アンモニア、亜硝酸、硝酸用の水質検査薬を使い濃度測定し、水槽全体の四分の一くらいの量の水を新しいものと交換する。この作業を数週間繰り返し、水質が安定したところで、いよいよ実際に飼育したい魚を水槽の中に入れる訳だ。

 水槽を立ち上げてからここに来るまでの間は、約一ヵ月掛かった。

 その一か月間、時生は片時も熱帯魚のことが頭から離れず、美しい女性を殺さずにはいられないと言う性は、鳴りを潜めた。勿論、その間弁護士としての仕事は完璧にこなしていた。時生が弁護を担当する山口は、あの女性検事高見沢潤子によって殺人罪で起訴された。初公判は、翌月の十日だ。

 買って来た三匹の高級熱帯魚を水槽に入れるため、PHショックを防ぐ目的で水合わせをしていると、背後から女性事務員に声を掛けられた。

「北見先生。いよいよ来月、山口さんの裁判が始まりますね」

「ああ」

 時生は顔だけで振り向き、肩越しに頷いた。

「わぁー、綺麗。その金色に輝くお魚、何て言う名前ですか?」

 女性事務員は、発泡スチロール箱に入ったアロワナを上から覗き込んで質問した。

「藍底過背金龍と言う種類のアジアアロワナ」

「あ、あい……底か、か背金龍……? 難しい名前ですね」

「高かったんだぞ」

「お幾らですか?」

「当ててみろよ」

「五万とか……?」

 女性事務員は自信なさ気に言った。

「二十九万八千円」

 時生は横に首を振りつつ答えた。まるで少年のように悪戯な笑みを浮かべる。

「に、二十、きゅう、九万……」

 それ以上言葉が続かない。

「子供の頃からの憧れさ。いつかこいつを飼おうと思っていたんだ……」

「ふん、そうなんだ」

 女性事務員は、関心なさそうに言った。

「水槽の中で泳いでいるワニみないな魚と、ヘビのような魚は?」

 水槽を指差す。

 時生は顎を上げ、水槽を見上げた。

「こっちがエンドリケリーで、上の方で泳いでいるワニみたいなヤツがスポッテッド・ガーだ」

 自慢するように言った。

「取り敢えずこのアロワナを中に入れ、あともう一匹、購入する予定だ」

「何をですか。また気持ち悪い魚とかじゃないんでしょうね?」

「おいおい、中島さん。ウチの奥さんみたいなこと言わないでくれるかな」

「北見先生の奥さんて……」

「キミがさっき口にしたセリフと、全く同じこと言われた」

「ですよね。だって気持ち悪いんだもん」

「やれやれ、これだから女性には、男のロマンてものが分からないんだ」

 時生は両手を広げ、大袈裟なお手上げポーズを取った。

「ところで北見先生。何であのワニみたいな魚、何でさっきから水の上に顔を出し、パクパクしているの?」

「うん。呼吸さ」

「呼吸?」

 中島は、怪訝そうに首を傾げた。

「溺れるんだよこの魚。こっちのエンドリケリーもね」

「溺れるって、魚のくせにですか?」

「うん」

 時生は悲し気に頷いた。

「まるで、僕みたいだ。僕もうまく呼吸出来なくて溺れてしまう」

「溺れるって先生、泳げないんですか?」

 時生は振り返り中島の目を見た。

「ああ、上手く泳ぐことが出来ない」

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