甘くて苦い毒の味

 町田中央署三階講堂。本庁、所轄、合わせて百三十人余の捜査員が、一斉に立ち上がる音が、廊下まで響いた。間を置かずして、前方と後方の引き戸が開き、中から捜査員たちが飛び出して来た。皆、手柄を立てようと必死だった。特に所轄の捜査員は目が血走っていた。ここで本庁のお偉いさんに認めてもらえば、捜査一課勤務も夢ではない。

 廊下で、捜査会議が終了するのを待っていた小林は、警視庁捜査一課時代の知り合いを見付けると呼び止めた。

「渡辺っ」

 呼び止められたその捜査員は、怪訝そうに眉を顰めた。

「……ん? 何ですか、コバさん」

「六年前、俺の娘を殺った奴と同一犯か?」

 問われた渡辺は、どうしたものか躊躇いの色を顔に表したが、相棒(バディ)となった所轄の刑事に、

「先に下りてろ」

 と顎で指示を出した。

「同一犯です。今回の事件の被害者の身体に付着していた体液から採取したDNAと、コバさんの娘さんの身体に付着していた体液から採取したDNAの型が完全に一致しました」

「そうか……」

 小林はわなわなと肩を震わせ頷いた。

「俺も捜査に加えてくれ。渡辺、お前さんから管理官に頼んでくれ」

「コバさんっ」

 渡辺は困惑した表情でかぶりを振った。

「無理です」

「そう言わずに、頼んでくれ。俺はどうしても娘の敵をこの手で取りたいんだぁ」

 小林は渡辺の両肩に手を掛け、ゆすぶった。

「無理なものは無理です。諦めて下さい」

 渡辺は小林の手を振り払い、階段の方へ向かって足早に歩き出した。

 小林は、逃げるように去って行く嘗ての部下の背中を目で追った。

「小林警部補じゃないか?」

 背後から声を掛けられ、振り向いた。

「元気か?」

 麻生は、嘗て七係で同じ班長を務めていた同僚を、半ば蔑むような目で見詰めた。

「麻生……」

「今は警部だ。しかも昨年、殺人班一係長を拝命した」

 麻生は、現在の自分の立場を自慢するかのように言った。

「……麻生係長。自分も捜査に加えて頂きたい」

 小林は卑屈な態度で言った。

「それは出来ない相談だよ。小林警部補」

 麻生は酷薄な唇の端を微かに緩めた。

 するとそこに、この帳場を仕切る第三強行犯捜査担当管理官松原康史警視が現れた。

「確かキミは、一課(ウチ)の七係にいた小林君じゃなかったか?」

「松原管理官。お願いがあります。自分も捜査員の末席に加えて頂けませんか?」

 渋面の松原は、腕組をして、ふむーと低い声を出した。思い出したかのように黒縁の老眼鏡を外すと、背広の胸ポケットからハンカチを取り出して、レンズの汚れを拭き始めた。

「信条として加えてやりたいとは思うが、私の一存では何とも出来ない。今のキミは確か、内勤だった筈……」

「留置場係の係長です」

「……自分の職務に専念しなさい」

 松原は冷たく言い捨てると、講堂の中へ入った。

「そう言うことだ、小林。諦めろ」

 麻生も浴びせるように言って、松原のあとを追うように講堂の中へ消えた。

 小林は目頭を熱くしながら奥歯を噛み締め、やり場のない怒りに耐えた。深く息を吸って、気持ちを落ち着かせようと試みたが、無理だった。吐き気を催すほど怒りが、胃袋から込み上げて来る。両手を力いっぱい握り締めた。自分でも気付かぬうちに目から熱い涙が零れて落ちていた。

「清美、済まん。お父さんを許してくれ……」

 小林は嗚咽した。

「……小林さん?」

 不意に背後から声を掛けられた。聞き覚えのある若い女性の声だ。

 涙を手で拭って振り向くと、眼前には顔見知りの男女二人が立っていた。


 目聡い七海は、小林の目が潤んでいることを見逃さなかった。

「何かあったのですか?」

「いいえ、あなたには関係ない……。特命捜査対策室の皆さんも合流ですか?」

「はい。DNAの型が六年前の事件と一致したそうで、我々も捜査に加わるみたいです」

 七海はまるで他人事のように素っ気なく言った。その態度が、小林の癇に障ったらしく、見る見るうちに彼の顔色が変わっていった。

「素人が、調子に乗るんじゃねえぞぉ!」

 小林は捨て台詞を残し、七海たちに背を向けた。

「何なの、あの態度。全く頭に着ちゃう。私だってね、何も好き好んで殺人事件の捜査やってるんじゃないのよぉ!」

 七海は遠ざかる小林の背中に向けて罵声を浴びせた。

「ちょっと、鴇崎さん。声が大きい」

 室田が人差し指を唇に当てた。

「ごめん」と七海は頭を下げた。

 その時、七海の背後の引き戸が開いた。ゆっくりと振り向くと、目の前には渋面の深沢が突っ立っていた。

 ゴホン、と咳払いして、深沢が口を開いた。

「鴇崎さん。中へ」

「はい」

 七海は小さく頷いた。

 講堂内に残っている人間は、数えるほどだった。捜査本部設置運営に携わる強行犯捜査第三係員十名と、松原管理官、麻生殺人班一係長、沖(おき)聡(さとる)殺人班二係長と、残りは特命捜査対策室四係員が八名だ。

「随分と元気のよいお嬢さんですな」

 麻生が呆れたように、嫌味を口にした。

「済みません」

 七海は上唇を噛み締め、やや伏目がちで頭を下げた。

「鴇崎警部補。開いている席に座りなさい」

 深沢に促され、七海と室田は講堂前方の席に並んで腰を下ろした。

「準キャリアのキミには、殺人事件の捜査本部は少し戸惑うと思うが、我慢してくれたまえ」

 七海の身分が準キャリアと知って、末席に座る強行犯捜査第三係員の中から、「ほうー」

 と言う歓声が上がった。七海は、取り敢えず皆に頭を下げておくことにした。

「あ、あのこちらの方は?」

 中央に陣取るスーツ姿の男性の身分を室田に訊ねる。

「管理官の松原警視です」

「深沢警部。あなた方継続捜査専従班は、我々とは別行動を取って引き続き捜査を行って下さい。ただし、新たな情報を入手したら必ず本部に上げて下さい。抜け駆けはいけませんよ」

 松原は深沢に釘を差した。

「はい、管理官」

 深沢は一礼した。そして一瞥すると、前方の席に並んで座る七海と室田の方に目を向けた。

「どうだった。逗子の方は、秋山芳子から証言は取れたのか?」

 えっ!? 一瞬、戸惑った。どう答えてよいのか、七海は正直言って迷ってしまった。〝秋山芳子の証言はもういい〟と先刻自分が電話で言ったくせに、その舌の根が渇かないうちに、今度は〝証言は取れたのか〟とは一体どういうことだ?

 蟀谷の辺りがピクピクと牽連しているのが、自分でも分かる。

「取れました」

 七海は頷きつつ、バックからシステム手帳を取り出し、証言内容を読み上げていく。

「被害者磯崎奏恵が、殺害される数日前、東京メトロ後楽園駅で乗り込んで来た男性客に数日間に亘り、じろじろと観察されていたとのことです」

「なあ、鴇崎警部補。その磯崎奏恵とか言う被害者女性、確か風俗嬢だったよな。恐らく露出が多い際どい服を着ていたから、スケベおやじの目の肥やしにでもされたんだろう」

 麻生は嘲笑うかのような口調で言った。

 講堂内に笑い声が上がった。

「……あのお言葉ですが、一応調べて見る価値はあると思います」

「そうだな。じゃあキミとそちらのお若い男性とで調べて下さい」

 松原はにべなく告げた。

「分かりました。調べて見ます」

 七海が隣に座る室田を見ると、彼は何とも言えない不安な顔をしていた。苦虫を噛んだような顔だ。


 時生は、白いBMWを町田中央署の駐車場に停めると、助手席側に置いておいた書類入りの鞄を手に取った。この車は左ハンドルだ。左側に停車中のトヨタマークⅡに気を付けながら慎重にドアを開ける。三十センチほど開け、身体を捻りながら車から降りた。何気なくマークⅡに目を遣った。無線機などの機材が装備されている。

「ん? 覆面パトカーか」

 吐き捨てるように言うと、時生はキーのロックボタンを押した。ドアがロックされたのを確認すると、町田中央署の正面玄関へ向かって歩き出した。

 前方から二人連れの男女が並んで歩いて来る。ここ数日間、容疑者に接見する弁護士として町田中央署に通っているが、この二人は初めて見る顔だ。何やら込み入った話をしているようで、時生の存在には全く気付いていないようだ。

「そう言えばさ、今朝、逗子に行く途中立ち寄ったコンビニで買ったおにぎり食べただけで、それっきり何も口にしていないからお腹空かない?」

 黒字に銀のピンストライプ柄のレディースパンツスーツ姿の女性が訊ねると、灰色の背広に濃紺のタックなしスラックスを穿いた男性が、かぶりを振った。

「いいえ、結構です。それより鴇崎さん、どうするんですか。調べてみると言っても、六年も前ですよ。六年。殺害された磯崎奏恵を、当時、東京メトロの車内で一方的に観察していたと言う男なんて、どうやって調べる気ですか。まるで広大な砂漠の中から、たった一粒の砂金を探すようなもんじゃないですか?」

 散々文句を言ったあと、男性は溜め息を吐いた。

 会話の内容から察して、こっち向かって歩いて来る二人が刑事だと感付いた時生は、にやりと口元を緩めた。

「まずは当時、磯崎奏恵と秋山芳子が所属していた事務所や、風俗店から調べてみましょ」

「はいはい、分かりました、警部補殿」

 男性は半ば不貞腐れたように言った。

 歩きながら会話に夢中になっているため、二人はまだ、彼らの方へ近寄って来る時生の存在に気付いていない。

 時生は一歩右に身体をずらして、二人に道を譲ったつもりだった。が、擦れ違い様、女性の左肘が時生の持って鞄に当たった。その衝撃で蓋が開いてしまい、中身の書類が数枚、アスファルトの上に零れ落ちた。

「あっ済みません」

 女性が時生に謝罪し、膝を曲げ、腰を下ろして書類を拾おうとして、手を出したその瞬間、運悪く旋風が吹いた。

「あぁーっ」

 女性は舞い上がる書類を掴もうと手を伸ばした。

「済みません」

 女性の連れの男性も、時生に謝罪し、散らばった書類を拾い集めた。

「私の方こそ、確りと鞄を持っていなかった」

 一礼して、時生は二人が拾い集めた書類を受け取った。枚数を数え、鞄の中身と、散らばった書類の合計が一致するか、確認する。

「一枚足りない……」

 時生は周囲を見回した。

「あっ、あそこだ」

 女性は、駐車場の右一番奥に停めてあるパトカーのボンネットを指差した。

「私、取りに行きます」

 女性はパトカーに向かって走り出した。

 時生はその後ろ姿を目で追った。

 ボンネットの上の書類を手に取ると、女性は時生の前に戻って来た。少し息が上がっている。

「申し訳ございませんでした」

「いいえ。こちらこそ申し訳ない。お手数お掛けして」

 時生は顔の前で手を横に振りながら、何回か頭を下げた。

「あの、つかぬこと伺いますが、あなたは?」

 女性が目を見開いている。

 女性に訊ねられ、時生は一瞬どうしたものかと躊躇ったが、

「弁護士の北見時生と申します。本日は、こちらで勾留中の被疑者に接見するため、訪れました……。で、お二人は?」

 と身分を名乗り、逆に質問した。

「弁護士さんでしたか。私は警視庁刑事部特命捜査対策室の鴇崎七海と申します。彼は、私の部下の室田遼一です」

 鴇崎七海と名乗った女性刑事は、ポッケトから名刺を取り出して、時生に手渡した。

 時生は名刺を受け取った。

「鴇崎七海さんですか。珍しい苗字ですね?」

「千葉の方に多い苗字です」

 鴇崎七海は愛想笑いを浮かべた。

 怪しまれるといけないので、時生も名刺を取り出し、鴇崎七海に手渡すことにした。

「藤本法律事務所にお勤めの、北見時生先生ですか」

「もし何か、お困りごとがあればいつでも相談に乗ります。勿論、それなりに費用は頂きますけど」

 時生は、鴇崎七海にビジネススマイルを返した。

「それじゃ、失礼します」

 三人はお互いに一礼して、その場を別れた。

 時生は、町田中央署の正面玄関のドアの前で立ち止まり、振り返った。遂さっき、鴇崎七海と室田遼一と名乗った捜査員は、時生のBMWの左に停車中のあのトヨタマークⅡに乗り込んだ。マークⅡはゆっくりと動き出し、駐車場を離れた。左のウインカー点滅している。どうやら二十三区の方へ向かうようだ。それを確認した時生は、ふん、と口元に悪魔めいた笑みを浮かべた。


 殺害された磯崎奏恵が、生前勤めていたと言う新宿区新宿二丁目○○のソープランド『エデンの園』は、現在店の名称が変わっていた。新しい名称は『ADAM&EVE』だ。更に店の経営者も変わっていた。七海と室田は、客引きのボーイに特命捜査対策室四係の捜査員と名乗り、六年前の連続殺人事件の継続捜査を担当していると説明して、事務所に案内してもらった。

 ほどよく冷えたウーロン茶で喉の渇きを潤したあと、七海は本題を切り出した。

「亡くなられた磯崎奏恵さんと、当時親しかったお方をご存知ですか?」

 殺人事件を追う女刑事に問われ、店長は少し戸惑った。月に何度か、新宿中央署の生活安全課の捜査員が、店を訪れることはあるが、殺人班に所属する刑事と面等向かって会話をすることなど初めての経験だった。

 店長はかぶりを振りつつ、「六年前、『エデンの園』時代にここに在籍していた娘は、皆他所に移籍したか、辞めたかで、現在ウチには一人もいません」と答えた。「ただ、この上の階の『HARLEM』の黒服やっている高崎って言うおやじだったら、何か知ってるんじゃないんですか?」と付け加えた。

「『HARLEM』の高崎さんですか?」

 七海は鸚鵡返しに問う。

「はい。ウチと同じソープランドです」

「ありがとうございます」

 店長に一礼し、二人は店を出ると、階段を利用し三階へ上がった。

 ソープランド『HARLEM』の店番の中年男性に警察手帳を見せ、身分を明かす。

「高崎さんと仰るお方にお会いしたんですけど?」

「高さんなら、今休憩中。向かいの茶店にいると思うよ」

 男性は、北の方角を指差した。

 七海と室田も振り向いて、男性の指が示す方角を見た。そして二人は頷き合い、「ありがとうございます。これからその店に行ってみます」と店番の男性に頭を下げた。

 店番の男性から教えてもらった喫茶店『カフェ・ド・○○○新宿五丁目店』は、靖国通りを挟んだ向かい側にある。七海と室田は、歩行者用の信号が赤から青に変わると、横断歩道を渡った。『カフェ・ド・○○○新宿五丁目店』に入ると、店員に警察官であると伝え、高崎と言う男性を呼び出してもらった。

 暫くして二人の前に現れたのは、金のライン入りのジャージ姿の五十代後半の中年男性だった。にも拘らず、金髪だ。ピアスもしている。DQN系のチョイ悪おやじと言ったところか。日焼けした太い首には、高そうな金のネックレスが輝いている。

「あぁん?」

 レンズに薄い色が入った眼鏡のフレームを指先で下げ、上目遣いに七海の顔を見る。

「姉ちゃん。俺に何の用だ?」

 七海は一瞬、むっと来たがここは堪えることにした。

「警視庁刑事部特命捜査対策室の鴇崎七海と申します」

「同じく室田遼一と申します」

 二人が警察官であると名乗ると、高崎は引き攣った笑顔を作った。

「刑事さんが俺に一体何の用ですか?」

 先ほどとは言葉使いが少し違う。

「ここじゃ何ですから、お席の方へ」

 七海が促した。

 高崎は、分かりましたと頷いた。

「六年前の連続殺人事件に関してちょっとお話をお伺いしたくて」

 室田が歩きながら言った。

「六年前……、カンナちゃんの事件か?」

 高崎は首を傾げる。

「カンナちゃんとは?」

 七海が問う。

「源氏名です。本名は確か……」

 高崎のその声に被せるようにして室田が言った。

「磯崎奏恵さんです」

「そうそう、その磯崎奏恵ちゃんだ」

 高崎は頷く。

「それで、俺に訊ねたいってことは、何なんですか?」

 高崎は奥の椅子に腰掛け、飲み掛けのアイスコーヒーが入った汗を掻いたグラスに唇を付けた。

 七海と室田は、高崎と向かい合うように二人並んで座った。

「亡くなられた磯崎さんと特に親しかった方を紹介して頂ければ、こちらとしてはありがたいのですが?」

 室田が告げた直後、若い男性給仕係が、水の入ったグラスを二つ運んで来た。

「……アイスコーヒーを、鴇崎さんは?」

「私も同じものを」

「サイズは?」

「Tで」

「私も」

「畏まりました、アイスコーヒーTサイズがお二つですね?」

 ウエイターに問われ、二人は頷いた。

 ウエイターが立ち去ったのを見計らい、再び高崎が口を開いた。

「……秋山芳子ちゃんと、あと杉谷朱美ちゃん、そして野村和子(かずこ)ちゃんに、えーと、そうそう原田順子ちゃんだ。この四人が奏恵ちゃんと特に仲が良かったと思う」

「秋山芳子には既にお会いして、お話を伺いました。あとの三人の方にはまだ会っていないな」

 室田が手帳に名前を書きながら言った。

「この三人の方が、現在どこにおられるか、ご存知ですか?」

 七海が訊ねた。

 高崎は腕を組んで低い声で唸ったあと、瞼を閉じ、徐に宙を見上げた。

「確か野村和子ちゃんは、今も甘井心愛って芸名でAVの仕事している筈だ。所属事務所はY組系のフロント企業の『吉川プロダクション』だったと思う。あとの二人は、田舎の方へ帰ったと聞いている」

「甘井心愛って超ベターな芸名だな……」

 室田は苦笑した。

「それで、残りのお二人の出身地とか、ご存知ですか?」

 室田に問われ、高崎は鼻を鳴らすと、

「そんなこと、この俺が知る訳ないでしょうが、刑事さん」

 と答えた。

「ですよね」

 七海は嘲るような眼差しを向け室田を一瞥すると、相槌を打ちように頷いてみせた。

 ウエイターがアイスコーヒーの入ったグラスを乗せたトレイを手に持ち、ゆっくりと近付いて来た。

「お待たせ致しました」

 一礼して、コースターを二枚、テーブルの上に敷く。その上に、褐色の液体が入ったグラスを二つ置いた。それぞれのグラスに、ストローとガムシロップ入りのポーションとコーヒーフレッシュを添える。最後に伝票を置いた。

「ご注文は以上で宜しかったでしょうか?」

「はい」

 七海が小さく頷いた。

「ごゆっくりどうぞ」

 ウエイターは一礼すると、踵を返して七海たち三人の前から立ち去った。

 室田は、ストローが入った紙袋の先を破り、中のストローを取り出して、グラスに差した。ガムシロもミルクも入れず、ブラックのままでアイスコーヒーを飲み始めた。同僚の作業を見届けながら七海もストローをグラスに差し、ガムシロの蓋を開け中身をグラスに注ぐ。コーヒーフレッシュのポーションの蓋も開けると、グラスの中に入れマドラーの代わりに数回ストローで掻き回した。褐色の液体が忽ちカフェオレのような色に変化していく。

 アイスコーヒーを飲み干すと、数個のロックアイスが入った汗を掻いた空っぽのグラスの横の伝票を室田が手に取った。二枚だ。

「ここは私どもでお支払い致します。高崎さん、ご協力感謝します」

「あっそう、奢ってくれるの、ありがとう」

 レジで、アイスコーヒーLサイズとアイスコーヒーTサイズ二つ合計九百二十円、消費税10%入れて九百九十三円を支払う。勿論、室田は自腹を切る気はなく、お釣り七円と一緒にちゃっかり警視庁刑事部特命捜査対策室宛ての領収書を受け取った。


 その日、野村和子は、杉並区荻窪一丁目○○‐○○の空き家となった中古物件の室内で、インディーズメーカーのAV作品の撮影中だった。

 一三・七帖のリビング・ダイニングを使って撮影の最中、監督がメガフォンを振り回し、カットを掛けた。

「心愛ちゃん。もっと狂気を孕んだ演技をしてよね。折角、男優さんが、本物の強姦魔のような鬼気迫る迫真の演技をしていると言うのに、これじゃ観ている人がシラケちゃうでしょ」

 監督に叱られた野村和子は、開けたスカートの裾を直しつつ、

「はぁーい」

 とややふざけた返事をした。

 撮影をサポートする女性メイクが、野村和子の乱れた髪と化粧を直す。新しいストッキングに履き替える。それを見届けたあと、監督が口を開いた。

「よーし。スタートッ」

 強姦魔役の男優が、華奢な野村和子の身体の上に圧し掛かった。

「いや、止めて……。お願いだから助けて下さい。い、いやだ……」

 野村和子が抵抗する演技をして、台本通りの台詞を言った。

 ちょうどその時だった。二十代前半のADが、申し訳なさそうに頭を下げつつ、監督の許へ近寄って来て、何事かを耳打ちした。

 野村和子の上に馬乗りになった男優が、彼女のトッキングを破ろうとして、その猥らな手を太腿の辺りに伸ばす。台本通りだと、次は、あわや強姦される寸前、有閑マダム役の野村和子が男優を蹴り上げ、テーブルの下に逃げ込むと言うシーンの筈だった。

「カット。みんな、ちょっと休憩だ」

 監督は眉間に縦皺を刻んだ険しい表情で、憮然と告げた。

「心愛ちゃん。安原と一緒に表に行ってくれ」

 顎をADの方へ向ける。

「あたしがですか?」

 野村和子は指で自分の顔を差した。

 監督は頷くと、

「警察の方が、キミに話があるそうだ」

 と告げた。

「警察ぅ?」

 野村和子は素っ頓狂な声を上げた。

「あたし、もうクスリやってないからね」

 野村和子も以前、秋山芳子と同じように覚せい剤約〇・一グラムを所持したとし、関東信越厚生局麻薬取締部(マトリ)によって覚せい剤取締法違反容疑で逮捕された。裁判では初犯と言うことで執行猶予が付いた。その後、野村和子はAV女優として復帰して現在に至る訳だ。

「クスリじゃない」

「じゃあ話って一体何よ?」

 怪訝そうに首を傾げる。

「さあ、詳しいことは分からない。取り敢えず、外でお待ちだそうだから、早く行きなさい」

 監督に促された野村和子は、アヒルのように唇を尖がらせ、「はぁーい」と不貞腐れた返事をした。

 メイクに髪型を直させたあと、野村和子はADとともに刑事が待つ玄関先へ向かった。

 玄関先には二人連れの男女が立っていた。何やらぼそぼそと話している。

 黒字に銀のピンストライプ柄のレディースパンツスーツ姿の女性と、灰色の背広に濃紺のタックなしスラックスを穿いた男性だ。

「警視庁刑事部特命捜査対策室の鴇崎七海と申します。彼は、私の部下の室田遼一です」

 女性刑事は警察手帳を提示した。

「室田遼一です」

 と男性刑事も警察手帳を提示した。

「新宿歌舞伎町の『吉川プロダクション』の事務所の方で、本日はこちらの方で撮影だと伺いまして、足を運ばせて頂きました」

 室田遼一と名乗った男性刑事が言った。なかなかのイケメンだ。野村和子の好みのタイプだった。

「あの、あたしに何か……?」

「六年前にお亡くなりなられた磯崎奏恵さんのことで、あなたにお伺いしたいことがありまして」

 今度は、鴇崎七海が言った。一見してお堅そうなイメージを漂わせている。恐らく頭が良いんだろうと野村和子は思った。正直言って一番苦手なタイプの女性だ。

「……磯崎奏恵ちゃんのこと」

 野村和子は、親友が殺害された日のことを思い出した。

 六年前だった。この年は、九月も半ば過ぎだと言うのに連日気温三十度超えの真夏日が続いていた。気象予報士に言わせると、張り出した太平洋高気圧の影響だそうだ。

 野村和子は群馬県甘楽郡下仁田町出身だった。地元の高校を中退した彼女は、半ば家出同然で上京し、最初のうちはスーパーのレジ打ちのバイトをして生計を立てていた。新宿歌舞伎町界隈を縄張りとする風俗店のスカウトマンに声を掛けられたのが、十八歳の時だ。流れに押し流されるように、歌舞伎町一番街に店を構えるランジェリーパブ『メリーさんと迷える子羊ちゃん』で働き始めた。そのランパブで、人気ナンバー2だった女の子が、磯崎奏恵だった。

 磯崎奏恵と親しくなった野村和子は、もっと実入りの良い風俗店に移る決心を固め、彼女と一緒にソープランド『エデンの園』へ移籍した。

 入店から半年が経過した頃、野村和子と磯崎奏恵の二人は、先輩ソープ嬢の秋山芳江の勧めもあり、AV女優としての仕事もこなすようになった。

 九月十六日金曜日。午前零時過ぎに店を出た野村和子たちソープ嬢は、深夜営業するラーメンに立ち寄った。午前一時半過ぎ、靖国通りの路上でタクシーを拾い、野村和子は磯崎奏恵と同乗した。帰路が同じ方向だったからだ。小石川大神宮近くの国道二五四号線の路上で、磯崎奏恵一人を降ろしたあと、野村和子を乗せたタクシーは彼女の自宅がある墨田区吾妻橋二丁目へ向かった。

 磯崎奏恵がタクシーから降りる時、「おやすみ」と互いに交わした言葉が、最後となった。

「奏恵ちゃんに付いて、何が訊きたいのですか?」

 野村和子はやや警戒するような素振りを見せ、訊ねた。

「以前、あなた方と一緒に働いておられた秋山芳子さんと言う女性の方から、磯崎奏恵さんが何者かに殺害される数日前、東京メトロの車内で身元不明の男性に連日監視されていたと言うお話を伺いまして」

 室田遼一は野村和子の目を見詰めながら言った。

「あぁあ、あれは奏恵ちゃんを見ていたんじゃなくて、あたしを見ていたの」

「と、仰いますと?」

 室田遼一は小首を傾げた。

「あたしたち、普段は電車を使ってお店の方に出勤していたのよね、それに、東京メトロじゃなくてあたしたちが乗っていた電車は都営地下鉄の方」

「都営地下鉄?」

「うん」

「では、駅の方も後楽園ではなく」と室田遼一が言い掛けると、野村和子は頷きながら声を被せた。

「本郷三丁目駅」

 室田遼一は鴇崎七海の顔を見たあと、「本郷三丁目駅、ですか?」と鸚鵡返しに問うた。

「あの駅、T大生がよく利用するでしょ。中には勉強ばっかりやっていた童貞のヲタク野郎もいて気持ち悪いって言うか」

「T大生ですか?」

 鴇崎七海が目を丸くして問うと、野村和子は眉根を寄せた険しい顔で、

「その男さ、このあたしのファンだって言うの。ホント、マジキモイから止めてくれないて感じ。ウケるー」

 と言ったあと、自分で笑いのツボに嵌ってしまい、白い歯を見せてキャハハハハァーと笑い出した。

「この娘の記憶が正しければ、秋山芳子さんの勘違いでしょう。どうやら当てが外れましたね、鴇崎警部補」

「みたいね……」

 鴇崎七海は、残念そうに頷くと言葉を続けた。

「お仕事中お邪魔しました」

 野村和子に深々と頭を下げる。

「いいえ、どういたしまして」

「もし、何か他に思い出されましたら、こちらの名刺に書いてある番号にお電話下さい」

 鴇崎七海と室田遼一は、それぞれ名刺一枚ずつを差し出した。

「はぁーい」

 野村和子は二人の刑事に愛くるしい笑顔を振りまいた。

 立ち去る二人の背中を見送ったあと、野村和子は踵を返し、AV作品の撮影を再開するため、中古物件の玄関へ足を向けた。二、三歩進んだところで何かを思い出し、足を止めた。

「あのキモヲタ、あたしにファンレター渡して来たけど、マジ迷惑だから止めてくれないって言ったら、急に怒り出して、あの時あの人がいなかったら、あたしマジヤバかったかも。あの人、名前何て言ったけかな? 確か、きた……、そうだ、北見時生って言う名前だった。弁護士を目指してT大で勉強中だって言ってた。弁護士になれたのかな……」

 野村和子は当時のことを思い出し、独り言のように呟いた。

「心愛ちゃん。時間押してるから、巻きでお願いします」

 ADの安原が急かす。

「はぁーい」

 野村和子は、甘ったるい声を出した。

 このあと、先ほど中断された撮影が再開された。

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