羊の皮を被った悪魔

 国立C大法経学部法学科を卒業した鴇崎七海は、将来安定した職業と言う理由から、国家公務員一般職(旧Ⅱ種)試験を受け、準キャリア警察官として警察庁に採用された。警察学校を出ると、卒配先は京都府警山科中央署だった。二十五歳で警部補に昇進すると、警察庁勤務となった。所属は、刑事局捜査第二課特殊詐欺対策室。役職は主任だ。準キャリアとしての出世コースを、彼女なりに可もなく不可もなく歩んで来たつもりだった。

 警察庁内で、恋人も出来た。職場恋愛だ。交際相手は、刑事局刑事企画課刑事指導室の松本寿明警視だ。キャリア警察官である。何もかもが順風満帆に進んでいるように見えた。

 今年に入って突然、七海の人生が狂い始めた。交際相手の松本が、警察庁内部でのライバル的存在だった特殊事件捜査室の原雄二郎警視の罠に嵌り、失脚すると言う事態が起こった。原が、既婚者である知人の女性警察官を使い、松本にハニートラップを仕掛けたのだ。監察官の耳に届くこととなり、松本は不倫したと言う事実を告げられ、服務規程違反によって警察庁を辞めてしまった。一方、罠を仕掛けた原も、人を呪わば穴二つと言うことわざ通り、彼もまた警察庁を追われることとなった。松本の不倫相手の女性警察官も依願退職する羽目となった。だが、ことはこれだけでは済まされなかった。


 五月一日。

 東京都千代田区霞が関二丁目。

 中央合同庁舎第二号館十七階、警察庁が入っているフロアの一角にある小会議室でのことだった。

「鴇崎七海警部補」

 と、目の前に座る警察官僚から名前を呼ばれた。

 七海は敬礼姿勢をとりつつ、その警察官僚を凝視する。

 三十代半ばの中肉中背、若ハゲの男。

 中島章宏、長官官房人事課所属の監察官。階級は警視正だ。

「キミには本当に済まないと思っているが、この度の不祥事の関係者として、キミをこのまま警察庁に置いておく訳にはいかないのだ。分かってくれ」

 茫然自失の七海は我が耳を疑いつつも、机を挟んで真正面に座る中島監察官の馬に似たその細長い顔を見据えた。

「監察官は、この私に辞職しろ、と仰るのですか?」

 中島は不敵な笑みを浮かべた。

「辞める必要はない。ただ、警察庁を去ってもらいたいだけだ。平たく言えば、警視庁へ異動して欲しいと言うことだ」

「警視庁へ異動ですか?」

 七海は鸚鵡返し問う。

 中島は頷く。

「我々としては、警察庁に準キャリアとして採用されたキミに対し、それなりのポストを用意したつもりだ」

「と、仰いますと?」

 七海が訊ねると、中島は一呼吸置いて口を開いた。

「警視庁特命捜査対策室第四係の主任だ」

 異動先の特命捜査対策室とは、公訴時効撤廃により、数年前に警視庁に設置された未解決事件の継続捜査専門チームのことだ。

 七海は少し躊躇するような素振りを見せた。

「鴇崎警部補。キミには、今月の十五日付で異動してもらうことに決まった」

「少し考える時間を下さい」

 七海はこの場で承諾することを控えた。

「我々にとってもキミにとってもいい結果となるような返事を期待している」

 中島は酷薄な唇の端に薄ら笑いを浮かべた。

「もう下がって宜しい」

「失礼します」

 七海はパイプ椅子から立ち上がると、敬礼姿勢を取った。

 このあとどうすればよいのか、全く想像出来ない。ただ一つ言えることは、今後も警察と言う組織の中で生きて行くには、上層部の命令に従うしか他に術はない。七海はそう自分に言い聞かせることにした。


 十五日、午前八時。

 七海は、女性警察官用の制服ではなく、濃紺のパンツスーツ姿で警視庁本部庁舎の前に現れた。大学四回生の時の就カツ以来となる。

 前方から二名の制服警官が歩いて来た。男女だ。どちらも七海より数歳年上だ。話し合い夢中になっているようで、七海の顔を一瞥すると、その横を素通りして行った。エレベーターを使い、目的のフロアに上がる。長い廊下を歩いて行く。その間、幾人の制服警官や私服姿の男女と擦れ違った。私服姿の中には、背広の襟に『S1S mpd』と金文字の入った金枠付きの赤い丸バッジを装着している者もいた。彼らは、皆刑事部捜査一課員たちである。七海は彼らと擦れ違うたび、目礼し廊下を進んだ。中には彼女を二度見する者もいたが、特にこれと言って立ち止まり挨拶することもなかった。やがて目的のドアが見付かった。ネームプレートで確認する。『刑事部捜査第一課長執務室』となっている。

 ドアをノックする。

「本日付で警察庁刑事局から警視庁刑事部へ異動になりました鴇崎七海であります」

「入りたまえ」

 中から嗄れ声が返って来た。

「失礼します」

 ドアを開け室内に入る。

 七海は背筋をピンと伸ばした直立不動のまま敬礼姿勢をとった。

 執務室には、二人の男性警察官僚がいた。一人は課長席に腰掛け、もう一人はその机の前に突っ立っている。白髪頭に黒縁眼鏡を掛けた中肉中背のバーコードハゲ頭の男性と、ツーポイント眼鏡を掛けた四十代半ばの男性だ。バーコードハゲ頭の方が、警視庁捜査一課長広瀬光一郎警視正。ツーポイント眼鏡を掛けた方が、特命捜査対策室室長平塚俊晴警視だ。二人とも、ノンキャリアの叩き上げだった。

「詳しい事情は上の方から窺っている」

 先ほどの嗄れ声の主は、どうやら一課長のようだ。

「平塚君。彼女をキミのところで使ってやってくれ」

「はい、分かりました」

 と頷くと、平塚はツーポイント眼鏡を指先で挙げ、品定めするかのように七海を見た。

「行こうか鴇崎警部補。これからキミを特命捜査対策室へ案内する」

「は、はい。よ、宜しくお願い致します」

 七海は緊張の余り噛んでしまった。

 今日から上司となる人物平塚警視の後ろに付き、未解決事件の専従捜査班『特命捜査対策室』へ向かった。

 特命捜査対策室の前で止まり、平塚がドアを開ける。七海も室内へ入った。

 室内は、思った以上に広々としていた。特命捜査一係から六係まで入っており、所属する捜査員の人数分だけ、机が整然と並んでいる。

 外出中の捜査員を除く特命捜査対策室員が、ちらりと七海を一瞥すると何もなかったかの如くデスクワークを再開した。

「本日付で特命捜査対策室の一員となった鴇崎七海警部補だ」

 平塚が隅々まで通るように声を張り上げる。

 七海も平塚に倣い、隅々まで通るような甲高い声を上げる。

「鴇崎です。まだまだ未熟者ですが、一所懸命頑張りますので、皆さん宜しくお願い致します」

 物珍しそうに七海を見詰める者もいれば、完全に無視を決め込む者もいた。

「深沢四係長。ちょっと」

 平塚に呼ばれ、室内中央部分窓際の席に座る中年男性がゆっくりと腰を上げた。白髪の角切り頭に団子鼻、分厚いたらこ唇の男が、七海の許に近寄って来た。

「四係長の深沢です。お嬢さん」

 口元に意味あり気な笑みを浮かべた。

「鴇崎七海です。宜しくお願い致します」

 七海は敬礼姿勢をとった。

「お嬢さん、あなたには上の言い付け通り第一班の班長をやってもらおうと思っています」

「はい」

 七海は自信なさ気に頷いた。

「深沢四係長。それじゃ宜しく、あとのことはあなたにお任せする。私はこれから、殺人犯捜査九係が扱っている八王子の帳場の方へ顔を出してくる。何かあったら、私のスマホに連絡して下さい」言うと平塚はこの場から離れて行った。

 七海は平塚の背中を目で追った。

「室田(むろた)遼一(りょういち)巡査部長の右隣があなたの席だ」

 深沢の声に反応して、正面を向く。机の上のMACのノート型パソコンの液晶画面に見入っている三十代前半の男性が、顔を上げ上目遣いで七海を凝と見た。白いワイシャツにノーネクタイ、黒いピンストライプのスーツを粋に着こなすその男性は、机の上のノート型パソコンを閉じ、USBメモリーを抜き取るとそれを一番上の引き出しにしまった。

「鴇崎主任、室田です」

「……こちらこそ宜しくお願いします」

 七海はぎこちなく頭を下げた。

 七海が、室田の右隣の席に着くのを見計らい、深沢が分厚い捜査資料を手に持ってそれを机の上に置いた。

「現在、四係(ウチ)で扱っている未解決事件の資料だ。よく目を通しておいてくれ」

「はい」

 七海はその資料の厚さに戸惑いつつ、頷いた。

 左隣の室田がぼそりと呟くように声を掛けた。

「六年前、世田谷区を中心に発生した四件の連続殺人事件です」

 そう言えば、あの忌まわしい事件の犯人、まだ捕まっていなかったのか、と七海は改めて思った。

 六年前のあの夏、鴇崎七海は、国立C大法経学部法学科に通う女子大生だった。

 その当時、事件に付いて連日報道されていた。

 元警視庁捜査一課の課長だったと言う老人が、

「稀に見る残忍で卑劣な犯行です。恐らく犯人は、二十代から三十代前半の男性で、何らかの人格障害を持っていると思われます。反社会性人格障害、つまりサイコパスです」

 と見解を口にしたことを、七海は今でも覚えている。

 一人目の被害者は確か、T女子大に通う河野静香と言う二十歳の女性だった。六年前の六月二十一日火曜日の深夜、世田谷区玉川一丁目の路上で何者かに襲われ、惨殺されてその死体を、近くを流れる多摩川の河川敷に遺棄されたのだ。

 二人目の被害者は、文京区音羽の大手出版社に勤務する二十四歳のOL小林清美だ。七月十一日月曜日の深夜、世田谷区上馬四丁目○‐○『コーポマスダ』の二階二十七号室で、交際中の男性杉内亮太二十六歳とともに殺害された。翌日出勤時間になって会社に現れたい杉内を心配した職場の同僚が、『コーポマスダ』の二十七号室を訪れて、惨殺死体を発見したのだ。殺害されたOL小林清美の父は、現職の捜査一課の刑事で、先に殺害された河野静香の事件を追っていた捜査員の一人だった。

 三人目の被害者は、千代田区霞が関三丁目の金融庁に勤務する二十六歳の国家公務員雨宮和子だ。八月三日水曜日深夜、目黒区東山三丁目○○‐○『シティハイム山東』の四階三十二号室で何者かに殺害され、翌四日、部屋を訪ねて来た同僚によって死体が発見されたのだ。

 四人目の被害者は、新宿区新宿二丁目○○の雑居ビルに入居するソープランド『エデンの園』に勤務する十九歳の風俗嬢磯崎奏恵だ。九月十六日金曜日未明、警視庁富阪中央署付近の路地裏で何者かに襲われ、死体をそのまま殺害現場に放置された。

 殺害された四人の被害者の身体に付着した犯人の物と思われる体液を分析した結果、DNAが全て一致して、同一犯の犯行と断定された訳だ。しかも犯人は、唾液や精液と言った分泌液中に、血液型物質を分泌していない非分泌型だった。

 資料には、警察関係者しか見ることが許されていない被害者の惨殺死体を撮影した写真もあった。ホラー映画などが特に苦手な七海は、これらの写真を見るなり目を背け、ハンカチを口元に当て吐き気を堪えた。

「小石川の風俗嬢殺害を最後に、犯人は消息を絶っています。この間、現在に至るまで一度も動いていません」

 室田が七海の方に顎を向け、小声で言った。

「そうなんだ……」

 七海は半分納得したように頷いた。

「鴇崎警部補、午後から被害者の家族に会いに行く。あなたも室田君と一緒に来てくれ」

 深沢が鮸なく言った。

 七海は急な展開に戸惑いつつ、四係長の方に顔を向けた。

「はい……」

 七海は不安気に頷いた。


「北見君。この案件なんだが、あなたに任せることに決めた。宜しくお願いしますよ」

 所長の渡辺志津馬が背後から声を掛けて来た。

 時生は、回転椅子に座ったまま顔だけを向けた。

「分かりました、所長」

「どうだ、勝てそうかい?」

「五分五分と言ったところでしょうか」

 言葉ではそう言った時生だったが、勝算ありと言ったように笑顔が零れていた。

「私としては、何とかして、傷害致死に持って行きたいと思っています」

 T大大学院法学政治学研究科を無事卒業した時生は、現在千代田区丸の内二丁目○‐○の『藤本法律事務所』に所属する弁護士として現在活動していた。司法試験合格後、司法修習生として一年間学んだのち、司法修習生考試、俗に言うところの二回試験に合格して晴れて法曹入りした。司法修習生考試合格後、直ぐに丸の内の『藤本法律事務所』に弁護士として採用された訳である。

 その後時生は、研修のため三年間渡米した。国際弁護士としての資格を得ることが目的だった。この時期が、沈黙の六年間の後半部分に当たる。勿論、沈黙していたのは日本国内に限ってのことで、時生は留学先のアメリカ東海岸でも、残忍で卑劣な犯行を繰り返していた。

 二年前、まだ肌寒い三月の下旬、法科大学院LL.M.課程の授業を受けたあと、時生はこの地で初となる凶行に及んだ。イースト川を挟んで、法科大学院のあるマンハッタン島の対岸にあるロングアイランド島の比較的治安のいいロングアイランド・シティのアパートが彼の下宿先だった。

 地下鉄を使いマンハッタン島からロングアイランド島のクイーンズ区に渡った時生は、バーノン・ブールバード-ジャクソン・アベニュー駅から地上に出た。その直後、彼は目の前を歩く一人のアフリカ系アメリカ人女性に惹かれた。魅力的な女性だった。

 身長百七十センチ以上、褐色の肌を持つその黒人女性のその身形は、日本人である時生が抱いている貧しい黒人のイメージとはかけ離れていた。彼女は、マンハッタンの一流企業に勤務するキャリアウーマンだった。黒を基調としたシックで落ち着いたビジネススーツに身を包み彼女は、邪な欲望を満たすには充分過ぎる獲物なのだ。

 時生は、アメリカに渡ってから入手した護身用のドイツ製拳銃H&K P30を例のショルダーバッグに忍ばせておいた。サバイバルナイフやスタンガン、催涙スプレーと言った物は渡米するに当たって審査に引っ掛かる。そのため、日本を離れる際、銀行の貸金庫に預けて来た。必要とするなら、ここニューヨークで改めて購入すればいい。

 時生は人気のない路地裏で背後から忍び寄り、女性の項にスタンガンの電気ショックを喰らわせた。

「Be quiet!(静かにしろ!)」

「Help me(た、助けて)」

 黒人女性の声は恐怖で震えていた。

 時生は黒人女性の身体を上向けて、その上から馬乗りになった。

「Good evening, my pretty princess(こんばんは、僕の可愛いお姫様)」

「Help me, don't kill me(た、助けて、わ、私を殺さないで)」

「No, I will kill you. I am a born murderer, this is no use(否だね、キミを殺す。僕は生まれながらの殺人鬼なんだ、これはしかたがないんだ)」

 命乞いするその黒人女性の耳元で時生は、嘲笑うように囁いた。

「Please please help me(どうか私を助けて下さい)」

 黒人女性は涙を流しながら懇願した。

「If I have such a sad face, I will erect without getting worse(そんな悲しい顔されたら、年甲斐もなく勃起しちゃう)」

 時生はまるで恋人に告白するかのように優しい口調で囁いた。そして蜥蜴のような真っ赤で長い舌を出し、上唇を舐めた。

「Devil, you are a devil(あ、悪魔、あなたは悪魔だわ……)」

「Say anything(何とでも言え)」

 時生は鼻先で笑った。

 H&K P30をショルダーバッグから取り出し、銃口を彼女の額に当てた。だが、この銃を使用して、彼女を殺す気など時生にはない。線条痕から、発射された銃を特定することが出来ることくらい法律家である時生は知っている。線条痕は、銃にとって、人間の指紋やDNAと同じ意味を持つのだ。

 額に銃口を当てられた黒人女性は、恐怖のあまり失禁した。

 それを確認して不敵な笑みを浮かべた時生は、一旦拳銃をスラックスのベルトに挟み、結束バンドを取り出した。これを使い、女性の両腕を結び固定した。黒人女性を人気のない物陰に運び終えると、ショルダーバッグの中から透明な安物のレインコートを取り出し、それを背広の上に着た。医療用手袋を両手に嵌める。

「I will give you money, please do not kill me(お金をあげるから、どうか私を殺さないで)」

「If you get the money, I will be robbed. Not hungry for money, what I want is your life(お金を貰ってしまえば、私は強盗になる。お金には飢えていない、私が欲しいのはキミの命だよ)」

「Oh Jesus Christ(か、神様ぁーーーーっ)」

「Useless useless useless useless useless! You die in this place, where today it's destiny!(駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ! 君は、今日ここで、この場所で、死ななくてはならない運命なんだぁー!)」

 言い終わらないうちに時生は、彼女の口を左右手で押さえ左手に持ったサバイバルナイフで胸を刺した。

 何度も何度も執拗に容赦なく突き刺した。彼女の口や鼻から夥しい量の鮮血が噴き出て来た。そして気が付くと女性は動かなくなった。

「あれ、死んじゃったのか……」

 時生は恍惚の笑みを浮かべ、手袋を脱ぎ捨てると、女性の顔面に射精した。ゴミ袋を取り出し、脱ぎ捨てた手袋とレインコートをその中にしまった。

 もう一度周囲に人気のないことを確認すると、時生は何事もなかったかのように涼しい顔で静かにその場を立ち去った。

 翌日、The NewYork Timesの紙面をチェックして、昨日殺害した女性の名前を確認した。

「Emma Hackman(エマ・ハックマン)か……」

 被害者の名前を呟いたあと、時生は新聞をテーブルの上に置き、すっかり冷めてしまったブラックコーヒーを喉の奥に流し込んだ。

 その二週間後、ハドソン川を渡った対岸のニュー・ジャージー州のリバティー州立公園で二人の犠牲者の遺体が発見された。白人女性のOlivia Swift(オリヴィア・スウィフト)であるとThe NewYork Timesに記事が掲載されていた。現場に残された犯人のDNAが、先のロングアイランド・シティの事件と一致したため、連邦捜査局(FBI)が捜査に乗り出すこととなった。しかし、IQ189を誇る時生は、捜査当局を嘲笑うかのようにその後も犯行を繰り返した。

 四月の第二週の木曜日には、ニューヨーク証券取引所近くのバッテリー公園で、中国系アメリカ人女性Emily Liu(エミリー・リュー)を強姦した上殺害した。

 五月の第三週の金曜日には、セバ・アベニュー・スケート・パーク付近で、イタリア系アメリカ人女性Lily Gambino(リリィ・ガンビーノ)を殺害した。

 その後も人種年齢を問わず、次々と女性たちを殺害していった。

 FBIのプロファイリング専門家は、犯人像を比較的裕福な家庭に生まれた白人男性としていた。完全な的外れだ。このプロファイリング結果を知った時生は、思わず失笑してしまった。

 時生が殺人を行う時期には、一定の波があった。三月から九月に掛けての約半年間だ。冬の時期は決して殺人を行わなかった。彼は春先から、夏の終わりが特に好きだった。十六歳高校一年の時、初めて人を殺害したのも夏休みの最後の日だった。学校の校舎の隅で、岡本朱美の首を絞めて殺害したのだ。今でもこの手のひらに彼女の呼吸が止まる瞬間の感触が残っている。

 三年間の留学期間中、時生は実に十五人もの女性たちの尊い命を奪った。帰国後彼は、何食わぬ顔で千代田区丸の内二丁目○‐○の『藤本法律事務所』の弁護士として復帰した。

 現在、東京都町田市木曽西二丁目の路上で発生したストーカー殺人事件の被告人山口健太の弁護を担当している。

 山口は、五月十二日金曜日、午後六時三十分頃、嘗て交際していたO女子大生加納佳代十九歳に復縁を迫った。だが、それを拒否されると佳代の下宿先である町田市木曽西二丁目○‐○の『中野ハイツ』一○二号室に忍び込んで殺害に及んだ。

 時生は、山口が勾留されている町田中央署へ向かった。弁護士として被告人に接見するためだ。

「山口さん。あなたが被害者女性加納佳代さんの首を絞め、窒息死させた時、あなたに殺意はあったのですか。それとも……」

 時生は接見室で、透明な板で仕切られた向こう側にいる被疑者の両目を凝と見詰めたまま訊ねた。

「殺すつもりはなかった。気が付いたら死んでいたんだ。信じてくれ、弁護士さん」

 山口は真剣な表情で訴えた。

「殺意があるとないとでは大違いです。殺人罪で裁かれるか、それとも傷害致死罪で裁かれるかでは、量刑が違います」

「俺は、殺すつもりなんかなかった。ただ、脅してやるつもりだったんだ……」

 山口は項垂れた。

「私としては、殺人ではなく、傷害致死として検察側と争うつもりです」

 時生は真顔で言った。猟奇殺人を繰り返す凶悪犯の顔ではなく、弁護士の顔だ。その言葉には力が籠っていた。

 予定通り接見を終えると、時生は接見室から出て、廊下で待機する留置係の制服警察官に目礼した。

「終わりました」

「ご苦労様です。北見先生」

 警察官も一礼した。

 その直後、女性警察官が留置係の男性警察官の許へ歩み寄った。

「小林係長、本庁の方が……」

「本庁?」

 男性警察官は眉間に皺を寄せ、怪訝気味に首を傾げた。

「島崎君。山口を留置場へ」

 渋面を作りつつ、部下に顎で示す。

 女性警察官は、一瞬時生を気にするような素振りを見せ、彼に一礼した。

「……六年前のお嬢さんの事件のことで、特命捜査対策室の方がお話を伺いたいとのことです」

「またか……」

 男性警察官は不機嫌そうに低い声で言った。

 その様子を傍観していた時生は、目礼してみせ、

「私はこれで失礼します。次回の接見は、明後日十七日の午後一時からと言うことで」

 と告げた。

「ご苦労様です」

 女性警察官と男性警察官は、二人同時に頭を下げた。

 時生も二人に一礼し、足早にその場を離れた。心臓が有り得ない速さで脈を打っている。

「あの警官、確か小林とか呼ばれていたな……。まさか六年前、私が殺したあの女の父親じゃあるまいな」

 時生は、少し不安気に首を傾げた。

 清美殺害後に新聞やニュースなどで、殺害された女性が現職警察官の娘だと知ったからだ。

 駐車場に停めておいたBMW5シリーズのドライバーズシートに腰を下ろすと、時生は左サイドミラーに映る町田中央署を凝視した。シートベルトを締めるとエンジンを掛け、シフトレバーをドライブに入れ、ゆっくりとアクセルを踏んだ。


 町田中央署二階の小会議室で、出された緑茶で唇を湿らせつつ、被害者女性小林清美の父親を待っていると、突然前方の引き戸が開いた。七海は首を振り、小会議室に入って来る五十代後半の男性警察官に視線を向けた。左胸の階級署は警部補だ。七海と同じである。

「本日は一体何の用でしょうか、深沢警部……、ん? 初顔だな?」

 男性警察官は、二人の男性の間に挟まれる形でパイプ椅子に座る七海の顔を見て、小首を傾げた。

「小林警部補、彼女は本日付で、警察庁から本庁特命捜査対策室に異動になった鴇崎七海警部補だ」

 深沢が紹介する。

「鴇崎です」

 七海は、やや緊張気味に挨拶した。

「まだ三十前とお見受けしますが、その年で自分と同じ警部補と言うことは――」

 平塚は小林の言葉に被せた。

「そうです。お察しの通り、彼女は準キャリアです。何れ、私の階級を飛び越え、上に行く立場の人間です」

「否、そんな滅相も」

 七海は顔の前で手を横に振ってみせた。

「で、深沢警部。殺害された娘のことで、話を伺いたとのことでしたね?」

 小林は不機嫌そうに訊ねた。

「はい」

 深沢は頷いた。

「室田と彼女に担当させようと思っています」

 と言ったあと、ちらりと七海の顔を見た。

「こちらのお嬢さんに、警察庁採用の準キャリアのお嬢さんに、ご冗談を?」

 小林は唖然となった。鳩が豆鉄砲を食ったような表情で、七海を見る。

「はい」

 七海は申し訳なさそうに頷いた。

「鴇崎警部補。あんた、捜査をした経験はあるのか?」

 小林は嘲るように問うた。

「一応」

「一応って?」

 小林は鸚鵡返しに訊ねた。

「卒配先の京都府警山科中央署刑事課知能犯係で、振り込め詐欺の捜査を」

「振り込め詐欺ぃ!? あんたね、せせこましい振り込め詐欺と凶悪な殺人犯を一緒に考えちゃ駄目だよ。全く話にならないっ!」

 小林は憤慨し、思いっ切り机を叩いた。

 その振動で、机の上の茶碗が揺れ、お茶が零れた。

「あっ済まない」

 小林はバツ悪そうに頭を下げた。

「小林警部補、そこら辺のことは私も充分承知しているつもりだ」

 深沢がぼそりと言った。

「どう言う意味ですか、係長?」

 七海が口を挟んだ。

「上は、何れキミが音を上げて、自分から警察を辞めるだろうと思っているんだよ」

「そう言うことか」

 小林は得心したように頷いた。

「警察辞めませんよ。私は絶対に警察辞めませんからね」

 七海はむきになった。

「犯人は、私が捕まえてやる」

「無理だ。奴は、絶対に捕まらない」

 小林は憮然となった。

「どうしてそんなことが言えるんですか?」

「俺は、ヤツが最初に犯した二子玉の事件を追っていた殺人班の捜査員の一人だった。奴は、殺害現場に自分の精液や唾液、指紋などを残しているが、過去の犯罪者の記録と照合してみても、どれとも一致しない。つまり、奴には前科(まえ)がないってことだ。個人を特定するため必要なDNAを現場に残しているかと思うと、一見、粗暴で稚拙で大胆な犯行に見えるが実はそうではない。ゲソ痕(靴跡)とか、被害者の返り血を浴びた服とか、逃亡経路を特定する血痕とか、そう言ったモノが全く現場に残されていないだ。実に用心深い人物だ。恐らく奴は、常識ある人格者として完全に社会に溶け込んでいるに違いない。これからも社会的には無害の人物を演じつつ、殺人を繰り返す筈だ」

 小林は腕を組んで低い声で唸った。

「でも、交通違反くらいは?」

 七海が訊ねると、小林はかぶりを振った。

「一件もヒットしない。警察のデータ上では、犯罪歴ゼロだ。これからもずっとな。ヤツはそれを心掛け、これからも見た目は平穏で実につまらない人生を送るつもりだろう」

 小林は太い溜め息を吐いた。

 七海は少し沈黙したあと、口を開いた。

「何かある筈。我々警察もそして犯人自身も見落としている何かが、きっとある筈」

 小林は眉を顰めると、野太い声で言った。

「じゃあ言ってみろ。何があるって言うんだ」

「そ、それは……」

 反論出来ず、七海は口籠った。

 室田が口を挟んで来た。

「どっちにしろ、新たな犠牲が出る前に、早く捕まえないとな」

「まあ、確かに。それが我々警察の仕事だからな……」

 小林は自嘲気味に言った。

 深沢は、得心要ったように頷いた。

「残念だが、あんたたちとは違って、俺にはもう捜査権はない。見ての通り今の俺は、ただの留置係だ」

 小林は吐き捨てるように言った。

「何故、捜査一課を……」

 疑問に思い、七海が訊ねる。

「PTSDだ。娘を失ったショックで……、一時は自殺も考えた。俺さえ早く犯人を捕まえていれば、娘は死なずに済んだかと思うと、これから先刑事を続ける自信をなくしてしまってな。一年近く休職した」

「そうだったんですか」

 七海は感慨深気に頷いた。

 小林は左手のクロノグラフに視線を落とした。

「もう宜しいでしょうか、深沢さん」

 時刻は午後三時を回っていた。

「もうそろそろ仕事に戻らないと、自分は残業しない主義でしてね。早く退勤して、入院中の家内のところへ行かなくて行けませんので……」

 小林は寂し気に言いた。

「ああ、済みません。本日はどうもお手間を取らせまして」

 深沢は椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。七海と室田もそれに倣い小林に頭を下げた。四人一緒に小会議室から出た。

 小林が引き戸を閉める間際、唐突に深沢が問うて来た。

「奥さんのお身体ですが、相当お悪いのですか?」

 小林に顔に一瞬躊躇いの色が表れた。

「先生の話によると夏までもたない、と言うことです」

「そうでしたか……」

 深沢は物悲し気に頷いた。

 七海は二人の会話で大体のことを察したらしく、ここで口を挟むことは控えることにした。

 小林は、自分の仕事があるにも拘らず、本庁の捜査員を態々玄関先まで送ってくれた。

「本日はどうもありがとうございました。お嬢さんの命を奪った犯人を一刻も早く検挙出来るよう努力致します」

 玄関先でも深沢は小林に頭を下げた。七海と室田も頭を下げた。

 小林も一礼した。

 七海たち三人は小林にもう一度頭を下げたあと、踵を返して覆面パトカー――黒いセドリックに向かって歩き出した。

 ここに来る時と同じように、運転席には室田が、助手席には深沢が乗り込み、七海は左側後部座席に座った。シトーベルト装着して室田がエンジンを掛けようとした時、七海は先ほど口にすることを憚った疑問を上司にぶつけることにした。

「あの係長?」

「何だ。鴇崎さん?」

 シートベルトを装着しながら、深沢は後ろを向いて訊ねた。

 少し躊躇ったあと、

「先ほどの方の奥様って……」

 と七海が問い掛けると、深沢は、

「末期の子宮がんだそうだ。娘さんが殺害された年に見付かってな、それからずっと入退院を繰り返しておられるそうだ。本当にお気の毒だ」

 と沈痛な面持ちで答えた。

 七海は、小林の置かれた状況が余りにも不幸過ぎて、遣る瀬ない思いで胸が詰まった。

 車がゆっくりと動き出した直後、室田がお伺を立てるように、

「どこへ次は?」

 と言った。

「三時過ぎか、まだ時間はあるな。逗子へ向かってくれ」

「分かりました」

 室田は頷くと、ウインカーを出し右折した。

 神奈川県逗子には、連続猟奇殺人に殺害された四人目の被害者磯崎奏恵の知人が住んでいる。元風俗嬢でAV女優として幾つかの作品にも出演したことのある秋山芳子と言う女性だ。磯崎奏恵殺害当時、秋山芳子も新宿二丁目のソープランド『エデンの園』で勤務していた。この店は、NS百二十分コース十万円の高級店だった。

 あの日。九月十六日金曜日、午前零時過ぎにこの夜の最後の客となった四十代半ば過ぎの中年紳士を送り出したあと、風俗嬢仲間と一緒に店を出た。この『エデンの園』に在籍する風俗嬢は、現役のAV女優も多くいた。秋山芳子もその中の一人で、殺害された磯崎奏恵も何本かの作品に出演していた。

 店を出たあと、彼女たちは数人の黒服たちと一緒に深夜営業するラーメン店に立ち寄り、小腹を満たした。午前一時半過ぎ、靖国通りの路上でタクシーを拾い、彼女たちは各自帰宅の途に就いた。

 磯崎奏恵が殺害されたあと、AV女優としても活躍していた秋山芳子は、四年前に自宅マンションにて覚せい剤約〇・一グラムを所持したとし、関東信越厚生局麻薬取締部(マトリ)によって覚せい剤取締法違反容疑で現行犯逮捕された。二度目の逮捕であることから懲役一年六月の実刑判決を受けた。出所後、風俗嬢もAV女優も辞め、現在は神奈川県逗子市桜山一丁目○‐○○にて、夫剛志と八ヶ月になる娘愛奈の三人で暮らしている。

 七海たちを乗せた覆面パトカーは国道十六号線を東に進み、新保土ヶ谷ICから横浜横須賀道路に入った。


 時生がハンドルを握るBMWは、町田中央署を出ると、都道四十七号線通称町田街道沿い立つ町田区検察庁に向かった。自分が弁護を引き受けた被疑者山口の担当検事に会うのが目的だった。

 時生は応接室に通され、ここで担当検事が現れるのを待つことにした。

「どうぞ」

 女性事務員が、コーヒーの入ったカップを時生が座る目の前のテーブルの上に置いた。指が細くて長かった。濃紺のレディーススーツがとても似合っている清楚な女性だった。だが、時生の好みのタイプではなかった。

「ありがとうございます」

 一礼すると時生は早速コーヒーカップを手に取り、唇を付けた。淹れたてのコーヒーの甘くてほろ苦い香りが鼻腔を擽った。インスタントではなく、レギュラーコーヒーだった。コーヒーで唇を湿らせて待っていると、ノックする音が聞こえ左手のドアが開いた。

「お待たせしました北見先生」

 黒を基調としたシックで落ち着いたレディーススーツを着た三十代半ばの女性が、時生に一礼した。検事の高見沢潤子だ。ショートボブヘアに広い額。鼻筋は通っている。一重瞼の切れ長の目がとても印象的だ。一見して冷たいイメージを和らげるため、黒縁の眼鏡を掛けているように思えた。肉厚の唇に鮮やかな真っ赤なルージュを引いている。

「いいえ」

 時生はかぶりを振ってみせた。そして、ごくりと生唾を呑み込み、邪悪な思いを断ち切った。しかし彼の男性自身は益々反応していくばかりだ。勃起した下半身を誤魔化すかのようにぎこちなく立ち上がり、目の前の女性検事と握手を交わした。

 これから数か月間、長ければ一年以上掛かるであろうと思われる山口の裁判の判決が下るまでの間、争わなくてはならない相手の目を見据えた。

 すると何かを感じたのか、怯えるように女性検事が視線を逸らした。

 その瞬間、時生ははっとして不味いと思い、態と目尻を下げ、表情を和らげた。彼は、自分自身の瞳が、犯罪者の酷薄な色になっていることに気付いたのだ。

「単刀直入にお伺いします。やはり殺人罪で争われるおつもりですか?」

 時生は弁護士として訊ねた。

「はい」

 高見沢潤子は躊躇うことなく頷いた。彼女の腹の中は既に決まっているようだ。

「こちらとしては飽くまでも傷害致死の主張を通すつもりです」

 時生は高見沢潤子に弁護士として戦線布告した。

「北見先生。どうかお手柔らかにお願いします」

 高見沢潤子は肉厚の唇の端に笑みを作った。

「そちらこそお手柔らかに……」

 時生は一礼した。眼窩の奥の邪悪な黒い瞳で彼女を凝と見詰めた。

 応接室を去る前、時生はもう一度高見沢潤子に頭を下げた。彼女に背中を見送られその場を立ち去った時生は、直ぐに駐車場のBMWには向かわず、男子トイレの個室に入った。パンパンに腫れ上がった男性自身を鎮めるためだ。便器に邪な思いを放出するが、それでも彼の欲情は萎えることはなかった。

「このままでは帰れないな」

 時生は低い声で呟いた。

「姦るか……」

 結論は出た。

 手を洗う時、目の前の鏡の中には、恍惚な笑みを浮かべ突っ立っている自分の顔があった。自分でもぞっとするほど悍ましい顔だった。


 小林は、午後五時十五分定時で仕事を終えると、徒歩でJR町田駅へ向かった。十七時五十八分発の横浜線東神奈川行きの列車に乗った。十八時二十七分ほぼ定刻通り東神奈川駅に到着すると、横浜高速鉄道みなとみらい線を使い元町・中華街駅へ向かった。そこから更に徒歩でみ○と赤十字病院へ向かった。小林の妻登代子は、子宮がんを患いこの病院に入院中だった。進行度はステージⅣだ。主治医の原綾女からは、余命三ヵ月の宣告を受けている。せめて妻が生きているうちに、娘を殺害した犯人逮捕の一報を伝えてやりたい。

 病室のドアを開ける。ベッドの上で伏せる妻が痛々しく思え、小林は目頭を押さえた。

「気分はどうだ」

 声を掛けるが、妻は首を振るだけで何も言わない。

 最早言葉を発するだけの気力も妻には残っていないのだ。それでも夫に何かを伝えようとして必死に唇を動かしている。小林は妻の許へ歩み寄り、その手を握ると耳を近付けた。

「何だい……?」

「け、啓吾は?」

 登代子は、蚊の鳴くようなか細い声で息子の名前を口にした。

「大丈夫だ、心配ない。お義母宅で預かってもらっているから、お前は安心しなさい」

 来春、大学受験を控える一人息子の啓吾は、現在、千葉県木更津市の妻の実家で預かってもらっていた。小林は、十数年前に無理して買った横浜市緑区長津田六丁目の自宅には殆ど戻ることなく、この病院で寝泊まりしていた。食事は、ほぼ外食が中心だった。洗濯物はコインランドリーで済ませ、風呂も町田中央署のシャワールームを利用していた。妻が末期がんで入院してからと言うもの、ここ数年間はずっとこんな生活を続けている。重要書類を取りに行ったり、家が傷んでしまうので風通しのため自宅に帰ったりはしているが、それもひと月のうち二、三回だけだ。

 先週、主治医に、

「覚悟して下さい」

 と告げられた時は、愕然となり前の前が真っ暗になった。娘を喪い、妻までも亡くすのか、と思うと自分の不幸を嘆かずにはいられない。

「リンゴでも食べるか?」

 訊ねると妻は、要らないとかぶりを振った。

 小一時間ほど妻と一緒にいた小林は、彼女の寝息を確認すると、遅い食事を摂るため一旦病室をあとにした。

 翌朝、伏せる妻に寄り添うように椅子に腰かけて眠っていた小林は、耳障りな着信音で目覚めた。昨年買った年配者でも操作が簡単だと言うスマートフォンが、小林のスラックスの右お尻の中でブルブルと震えたのだ。

 小林はスマホを手に取った。現在時刻は、04:45 14だ。

「誰だ。こんな朝っぱらから」

 自然と愚痴が口を衝いて出た。

「中西の野郎……」

 時間も弁えずに電話を掛けて来た不届き者は、小林の部下の留置場係員だった。

「何だ、おい?」

 不機嫌な声で訊ねる。

【済みません、係長】

 中西はまず謝罪の言葉を述べてから続けた。

【管内で殺しが発生しました】

「殺し?」

 小林は疑うようなやや籠った声を出した。殺しと言う言葉を頭の中で反芻する。

 本庁捜査一課時代は、朝一番にこのような電話がよく掛かって来ることがあった。そのたびに叩き起こされ、臨場要請があればいつ何時であろうと現場に駆け付けた。深酒して二日酔いで頭が痛い時も、タクシーを手配して現場へ向かったものだ。だが今は違う。今や小林は、係長とは言え、捜査とは無縁な留置場係員だ。

 寝起きの小林が、呆けた頭で考えていると、スマホの向こう側では一方的に中西が他殺体発見時の状況を説明していた。

【本日未明、町田中央署管内町田市金井七丁目○○‐○○の路上で、十代後半から二十代前半の女性と思われる他殺体が発見されました。第一発見者は、新聞販売店のアルバイト店員で、氏名はオザワカズキ。オは小さいの小、サワは難しい方の澤、カズは大和の和、キは樹木の樹です。六年前のあの連続殺人事件と今回の殺しの手口が酷似しているそうです】

「はあ……、六年前の事件……」

 小林は痺れた頭で考える。

「奴が戻って来たのか。俺の娘を殺ったあの男が……?」

【はっきりしたことは分かりません。兎に角、直ちに署の方へ来て下さい。休暇中を除く署員全員に召集が掛かりました】

「分かった。直ぐ着替えて行く」

 小林はスマホを切ると、ポケットにしまった。病床の妻を起こさぬよう気を使い、静かに病室を離れた。


 警視庁捜査一課殺人犯捜査一係長麻生繁明警部は、臨場要請が出ると部下を伴い、他殺体発見現場となった町田中央署管内町田市金井七丁目○○‐○○の路上へ向かった。午前八時二十分頃、現場へ到着すると、既に鑑識による現場検証も終わっていた。

 周囲には、『警視庁/立入禁止/KEEP OUT』と規制線が張られ、見張り役の制服警察官が一人突っ立っていた。左胸の階級章は巡査だった。

「ご苦労様です」

 見張り役のその若い巡査は、敬礼し、規制線を持ち上げた。

「ご苦労さん」

 麻生は目礼で返すと、規制線を潜った。

「仏さんの顔拝んでおくか」

 ぼそりと呟き、現場保存のため設けられた通行帯の前で一旦踞み込み、両足にビニール袋を履いた。

 青いビニールシートを捲り上げ、被害者女性の顔を確認する。

「酷いなこれは、滅多刺しじゃないか」

 麻生は顔を顰めた。

 犠牲となった女性は、仰向けのままで、路上に遺棄されていた。目は半分開いている。恐怖で澱んだ瞳が、虚空を見据えているかのように思えた。鼻と口から血の混ざったピンク色の泡を吹いている。それが既に固まっていた。胸部から腹部に掛けて、三十箇所以上鋭利な刃物で刺されている。

「仏さんの身元は?」

「所持していた学生証から判明しました。町田市金井七丁目○○‐○○在住の川島美鈴、二十歳です。都内T女子大の二回生です」

「そうか……、可哀想にな、まだ二十歳の身空でこんな酷い殺され方しちゃ浮かばれんな。で、家族には連絡したのか?」

「はい。あちらの車に待機させております。所轄の人間が事情聴取中です。会われますか係長?」

「いいよ、俺は会わない」

 麻生は手と頭を同時に横に振った。

「殺人事件の被害者家族に会うこと以上につらい仕事はない。所轄に任せておくよ」

 言うと麻生は、もう一度死体に視線を落とした。

「ん?」

 麻生は目を瞠った。

「何だこれは……?」

「分析してみないとはっきりしたことは分かりませんが、恐らく犯人の体液の一部だと思われます」

 女性鑑識係員が説明した。

「体液?」

 麻生は首を傾げる。

「やはり六年前の被疑者の犯行か……?」

 同一犯の犯行を疑う。六年前の事件と手口が酷似しているのだ。

「多分……」

 男性鑑識係員が頷いた。

 麻生は暗澹たる思いで宙を見上げた。すると彼の額と四角い銀縁眼鏡のレンズに雨粒が当たった。

「降って来やがった」

 憮然と吐き捨て、列を成して停車する警察車両の方へ向かって歩き始めた。

 後ろから付いてくる部下に振り返りもせず、「所轄と機捜による初動捜査は?」と訊ねた。

「不審人物にヒットなしです」

「そうか」

 麻生は下唇を突き出し、渋面を作った。

「鑑識さん。仏さんを所轄へ運んで下さって結構ですよ。改めてそちらの方で検視行って下さい」

「はい。了解しました」

 鑑識係員は、麻生に敬礼した。

「それじゃ宜しく」と、麻生は手を振り、待機させておいた覆面パトカーに乗り込んだ。


 一昨日、神奈川県逗子市桜山一丁目○‐○○を訪れた時は、室内に入れてもらえず玄関先で門前払いされた。そこで今日は、秋山芳子の勤務先を直接訪ねることにした。地元のパチンコ店でアルバイトする夫の給料だけでは生活出来ず、秋山芳子は家計を助けるため、八ヶ月になる娘愛奈を実家の母に預け、昼間、近所のスーパーでパート従業員として働いていた。

 朝一番係長に、秋山芳子から証言を取って来い、と言われた七海が、室田とともに逗子市桜山四丁目○‐○の『スーパー□□東逗子店』に到着したのは、午前十時三十分頃だった。開店間もない時間だったため、思った以上に店内は静かだった。

「こちらです、鴇崎さん」

 室田が店の奥、お惣菜コーナーを指さす。

 七海は頷くと、室田とともにお惣菜コーナーへ足を向けた。揚げたてのコロッケの香りが鼻腔を擽り、食欲をそそる。

「美味しそう」

 七海は湯気が上がるポテトコロッケに目を遣った。

「鴇崎さん」

 室田に呼ばれ振り向いた。

「あちらの方です」

 室田が指さした先には、冷蔵オープンケースにお寿司のパックを並べている女性パート従業員の姿があった。秋山芳子だ。化粧気のない地味な容貌のまま、真っ白な作業着に身を包み、頭には三角頭巾を被っている。風俗嬢やAV女優をやっていた頃の華やかさは、今の彼女からは全く感じられない。

「秋山さん」

 と室田が声を掛けると、彼女は眉を吊り上げて、露骨に嫌な顔を作った。

「仕事場にまで来ないで下さい」

 室田を一瞥した秋山芳子は、本日の広告商品のPOPが貼ってある助六寿司をケースに並べながら言った。

「申し訳ありません」

 一応頭は下げてみる。が、

「ちょっとお話し聞かせて下さい」

 と、室田は図々しく言う。

「話って、別に話すことなどありません。今、仕事中ですので……」

「まあ、そう仰らずに、そこを何とか」

 室田はしつこいナンパのように秋山芳子に食い下がる。

「刑事さん、本当に困るんです」

 秋山芳子は、同僚や客の目を気にしながら、困惑気味に言った。

 傍らで二人のやり取りを見ていた七海は、刑事としての経験が全くなく、こう言う場合どうするべきなのか戸惑った。

 するとそこへ、五十代前半の男性店員が現れた。この店の店長だ。

「……あのう?」

 店長は如何にも怪訝そうな眼差しを七海と室田に向けた。従業員に付き纏う質の悪いクレーマーの類だと思ったのだろう。

「店長の大川です」

「警視庁特命捜査対策室第四係の鴇崎と申します。彼は私の部下の室田と申します」

「け、警察……?」

 店長は上擦った声を上げ、七海と室田の顔を交互に見た。

 覚せい剤取締法違反の前科があり、実刑判決を食らった秋山芳子は、就職するに当たって、どこも門前払いするかのように断られた。地元のこのスーパーに就職出来たのは、市会議員だった父方の伯父のコネを利用したからだ。当然店長も、裏の事情を充分理解している。それを踏まえた上で店長は口を開いた。

「あの、刑事さん。秋山さんがまた何か……?」

「いいえ、違います」

 室田は即座にかぶりを振って、秋山芳子の身の潔白を証明して見せた。そして話を続ける。

「六年前、秋山さんの職場のお知り合いの方が、何者かに殺害され、そのことでお伺いしたいことがありまして」

「こ、殺された……?」

「報道等でご存知かと思われますが、例の連続殺人事件です」

「あの事件、ですか……」

 店長は唖然となった。

 七海が口を挟んだ。

「一昨日も、六年前と同様の手口の殺人事件が発生しています」

 町田市の事件に付いて触れた。

 店長は、困惑している秋山芳子に声を掛けた。

「秋山さん、ここはいいから警察の方に協力して上げて下さい」

 言われ、秋山芳子は一瞬躊躇う素振りを見せるが、直ぐに気持ちを切り替えたらしく頷いた。

「分かりました……」

「ここで立ち話も何ですから、外の方へ」

 室田は店外の方を指さした。秋山芳子は小さく頷いた。

「行きましょうか」

 七海が優しく声を掛け、秋山芳子の背中に手を当てた。

 店舗の外へ出て、自動販売機の横のベンチに、真ん中に秋山芳子を挟む形で三人並んで腰を下ろした。

「以前お伺いした、磯崎奏恵さんにしつこく付き纏っていたと言う男性客に付いてなんですが、その後、何か思い出されましたか?」

「いいえ」

 秋山芳子はかぶりを振った。

 室田は咳払いしたあと、ちらりと七海の顔を見ると、改めて口を開いた。

「あなたと磯崎奏恵さんのお二人が、AV女優時代に交友関係のあった人物の中で、猟奇的な趣味を持っていた男性とかご存じですか?」

 質問されると秋山芳子はうーんと低い声で唸ったあと、

 「当時、私も奏恵ちゃんも男優さんとは個人的なお付き合いは殆どしていなかったから、よく分かりません」

「そうですか」

 室田は残念そうに頷く。

「他に何か、例えばストーカー被害に遭っていたとか?」

 右隣に座る七海が秋山芳子の目を見て訊ねた。

 秋山芳子は瞬きしたあと、何かを思い出したように口を開いた。

「そう言えば彼女、あの当時、移動に電車使っていたんですけど、殺される数日前、東京メトロ後楽園駅で乗り込んで来たスーツ姿の中年男性、多分どっかの会社の役員か学校の先生だと思うんだけど、全身を嘗め回すようにじろじろ見詰められ、気持ち悪かった、って話していたわ」

「東京メトロ後楽園駅か……」

「C大理工学や、文京区役所に近いわね……」

 七海は怪訝気味に首を捻った。

「少し離れているけど、T大や国立近代美術館も近いと言えば近いですけど」

「確か、捜査資料には、犯人が普段移動手段として鉄道を利用している可能性が高いって書いてあったわね」

「はい」

 室田は頷いた。

「刑事さん。そのあとも彼女は、〝数日間同じ男性が車両に乗り込んで来て、見られているようで何だか気持ち悪い〟って話していたわ。別に、痴漢されるとか、あとを付け回されるとかって言うことはなかったみたいだけど……」

「数日間同じ車両にですか?」

「はい」

 秋山芳子が頷いた直後、上着の内ポケットに入れていた七海のスマホが、震動すると同時に派手な着うたを奏でた。最新J-POPだ。

 七海は、ごめんなさいと断りを入れ、スマホを手に取った。相手は深沢係長だった。

「はい、鴇崎です」

【今どこにいる?】

 問われ、七海は一瞬困惑した。今朝一番に顔を見るなり、秋山芳子の証言を取って来いと言ったその張本人が、今どこにいるって訊ねるのは可笑しいだろう、と文句の一つでも言ってやりたい気分だったが、ここは大人女性として堪えることにした。

「……神奈川県逗子市桜山四丁目の『スーパー□□東逗子店』です。今、秋山芳子さんから証言を取っている途中ですが、何か……?」

【秋山芳子の証言はもういい。直ぐに戻って来い】

「はあぁ 証言はもういいってどう言うことですか係長?」

 七海は、秋山芳子の顔を見ながら訊ねる。

「私、もう宜しいでしょうか、そろそろ仕事の方へ戻らないと」

 秋山芳子は訴えるような眼差しを向けた。

 スマホを耳に当てながら七海が頷くと、室田は、

 「どうぞ。本日はお忙しいのにお仕事の邪魔をして申し訳ありませんでした」

 と丁重に告げた。

 秋山芳子は、二人の刑事に一礼し、ベンチから腰を上げた。

 店内へ戻って行く彼女の背中を見送りながら、七海は深沢の話に耳を傾けた。

【町田の事件のDNA鑑定の結果が先ほど科捜研から回って来た】

「それで……?」

【六年前の事件と一致した。同一犯の犯行だ。我々も町田の帳場に合流することになった】

「合流ですか?」

【そうだ。だから秋山芳子の証言はもういいから、戻って来い】

 七海は、左手のG‐Shockで現在時刻を確認した。11:05 14だ。

「分かりました。一時間ほどで戻ります」

 七海は電話を切り、スマホを上着の内ポケットにしまうと、室田を見た。

「六年前の事件と、町田の事件のDNAが一致したそうよ。私たちも帳場に合流だってさ」

「一致しましたか。奴め、遂に動き出しやがったな」

「行きましょうか、室田さん」

 七海は、駐車所の奥に停車中の覆面パトカーの方に顎を向けた。

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