殺人鬼のための殺人

「私は、人を殺さずにはいられないと言う性を背負って生まれて来た。始めは実にちっぽけな虫だった。それが小鳥になり、猫になり、やがて犬になり、遂には人間になった。初めて人を殺したのは、十六歳高校一年の夏だ。名前は何て言ったかな……? そうだ、確か岡本朱美とか言う名前だった。可愛い女性だった。私の手のひらの中で、彼女の呼吸が止まる感触を思い出すたびに、年甲斐もなく勃起してしまう。私と言う男は人を殺さずにはいられないんだ。これは持って生まれた性だから、何人も私を止めることは出来ないんだよ。父さん、貴方なら分かってくれるよね? だってそうでしょ。私は貴方の息子なんだから……」

 時生は、仏壇に飾られた父甚平の遺影に向かって手を合わせながら、心中で独白した。

「もうそろそろ家を出ないと、電車に乗り遅れちゃうわよ」

 母に声を掛けられた。

 時生は振り返り、唇の端に笑みを浮かべた。

「分かってるよ、母さん」

「だったら早くしなさい、時生。もう、とっくに七時半過ぎてるわよ」

 息子の背後で正座する母は、ぴんと背筋を伸ばすと顔を上げた。その視線の先には、壁に掛けられた時計がある。

 母の視線の先を追うように、時生もその掛け時計に目を遣った。最新の電波時計ではない。古い時計だ。時々調整してやらなければ、直ぐに長針が進んでしまう。

「大丈夫だよ、母さん。あの時計は五分進んでいるから。そんなことくらい、母さんも知っているだろう」

 時生はやや呆れたように言うと、手に持つ数珠を、仏壇の引き出しの中にしまった。そして拳を丸め両手を突き、畳を押して腰を上げた。

「はいはい」

 母も頷くと、腰を上げた。見上げるように背筋を伸ばし、少し右にずれている息子の水玉模様のネクタイを直した。

「ありがとう、母さん」

 時生は笑みを零し、軽く頭を下げた。

 右手に鞄を持った。ブランド物の鞄だ。税込みで一万四千六百八十円もした、コーチのショルダーバッグ。この鞄の内側ファスナーポケットには、サバイバルナイフ・ステルスストライカーとTMMハンディタイプ・スタンガン、強力催涙スプレーが隠されている。時生の狩猟道具だ。勿論、人を狩るための、それもとびっきり好い女を。

 八畳の仏間を離れ、母と共に玄関へ向かう。

 靴箱からお気に入りのホーキンスの革靴を取り出し、履いた。折り畳み傘を母が手渡してくれた。

「じゃあ、行って来るよ、母さん」

「気を付けてね、時生」

 頷くと時生は、玄関のドアを開けた。遂さっきまで降っていた雨は止んでいた。これなら傘は必要ないと思い、肩から掛けるショルダーバッグの外側のファスナーポケットにしまった。

 左手のG‐Shockで時間を確かめる。デジタル表示は、07:41 32だ。

 舌打ちした。

「おっと、いけない。急がなくっちゃ、電車に乗り遅れちゃう」

 時生は、心持ち足早に、東急田園都市線藤が丘駅へ向かって歩き出した。今日はきっといいことが起こる、と予感めいたものを感じながら新興住宅地の中を西に向かって歩く。お気に入りのB'zのナンバーを口遊みながら、足取りも軽やかに。


 北見春子は、T大法学部に通う息子を送り出したあと、ミルクティーの入ったカップを片手に持ち暢気にバタートーストを頬張る娘に声を掛けた。

「愛実、あなたも急がなくっちゃ学校遅れちゃうわよ」

「もう、分かってるって、お母さん」

 愛実は、トーストをミルクティーで喉の奥へ流し込むと、慌てて席を立ち、十四・三帖もあるリビング・ダイニング脇の洗面台へ向かった。

 春子は娘の背中を見送ると、再び視線を50インチV型テレビの液晶画面に戻した。

 本日のわんこが終了し、もう間もなくじゃんけんゲームが始まろうとしている。春子はテレビのリモコンを手に取り、青ボタンを押した。今週の景品は、任天堂の家庭用テレビゲーム機だ。現在90ポイント、残りあと10ポイントで100ポイントになり、プレゼントに応募出来る。しかし、液晶画面の中の、関西出身のお笑い芸人は、パーを出した。

「どうだった、お母さん?」

 歯を磨きながら愛実が訊ねる。

「負けちゃった……」

 春子は残念そうにかぶりを振った。

 テレビ画面には、本日の占いが映っている。今日の最もいい運勢の星座は、さそり座だった。二番目は、愛実のおとめ座だ。

「やった、ラッキー」

 愛実はそれを確認すると、「じゃあ、行って来るね」とリビング・ダイニングを飛び出した。

「気を付けてね」

 春子は玄関先まで娘を送り、リビング・ダイニングに戻った。椅子を引き腰掛ける。「お義母さん、お食事は如何します?」

 奥の六畳の和室に居る姑の泰代に声を掛ける。

「今はいらない。あとにするから」

「はい分かりました。いつものように、お鍋にお味噌汁が出来ていますから、それと冷蔵庫の中に、お豆腐と納豆がありますから、適当に食べて下さい」

「はぁーい」

 姑の返事を確認すると、春子も支度に取り掛かった。八時三十分からパートの仕事が待っている。自宅から自転車に乗って十分の距離にあるスーパーマーケットが、春子の職場だ。神奈川県を中心に二十店舗ほどある、ローカルチェーン店『ミツバヤ』のデリカ部門に勤めている。時給は九百八十円、決して高いとは言えないが、それでも少しは家計の足しになる。

 春子がテレビの電源を消そうとして、リモコンを手に取った時、突如画面上にそれが流れた。手を止め、テレビ画面に釘付けになる。

 五日前の早朝、東京都世田谷区玉川一丁目付近の多摩川の河川敷で発見された若い女性の惨殺死体の身元が判明した、と言う内容だった。胸部から下腹部に掛けて三十箇所以上滅多刺しされ、失血したその女性は、東急二子玉駅近くのアパート『玉川○○』に住む、二十歳の女子大生河野静香だった。東急田園都市線は、T大法学部に通う息子がいつも通学に使用していた。その沿線の駅付近で起こった痛ましい事件だけに、春子はとても他人事には思えなかったのだ。

 テレビ画面には、MCが私見を述べたあと、本日のゲストコメンテーターとして招かれた元警視庁捜査一課の課長だったと言う老人が、

「稀に見る残忍で卑劣な犯行です。恐らく犯人は、二十代から三十代前半の男性で、何らかの人格的障害を持っていると思われます。反社会性人格障害、つまりサイコパスです」

 と見解を口にした。

「嫌な事件、犯人早く捕まればいいのに……」

 春子はリモコンのボタンを押し、テレビの電源を切った。


「北見さん、今日このあと暇ですか?」

 同じゼミの学生に背後から声を掛けられた。

 時生は左腕のG‐Shockのデジタル表示を確認する。

「ごめん、今日は都合が悪い。このあと五時から人と会う約束がある。また今度誘って下さい」

 振り向き様、時生は加山悟の双眸を見据え、かぶりを振った。

 加山悟は残念そうに顔を顰めると、左隣に立つ友人重谷翔太に話し掛けた。

「仕方ないな、別の人当たろう」

「理科Ⅲの吉岡君なんてどう?」

 問われ、加山悟は頷いた。正面を向き直し、

「じゃあまた今度」

 と時生に一礼し、三四郎池を越えた先にある医学部二号館の方へ向かって歩き出した。

 時生は、学友二人の背中を見送るまでもなく、赤茶けたレンガ造りの法文一号館を右手に見たまま、歩き出した。

 午後五時に人と会う約束がある、と時生が加山悟に言ったのは嘘だった。法律家を目指すこの若者たちは、性格的にもそれほど悪い男ではないのだが、敢えて時生が友人として付き合うほどの人物ではなかった。理由は、T大に通う学生でありながら、今どきの若者の流行りである茶髪にピアスは如何なものかと目を顰めたくなる感があったからだ。

 幾つかの電車を乗り換え、一旦渋谷駅まで行き、ここで時生は東急田園都市線に乗り込んだ。車内で、先ほど売店で購入した写真週刊誌を広げ、ほくそ笑んだ。

「河野静香か……」

 時生は、唇の端に悪意に満ちた笑みを浮かべた。

 六日前だった。いつものようにゼミを終え、渋谷駅で東急田園都市線に乗り帰宅の途に就いた時生は、三軒茶屋駅で同じ車両に乗り込んで来た二人連れの若い女性たちに、抑えることの出来ない欲情を覚えたのだ。先頭から二番目の車両、開閉ドアの直ぐ傍に立つ彼は、進行方向左側に立ち会話を楽しんでいる若い二人の女性を観察した。人間観察は、殺人の次に彼が夢中になる趣味だった。伸ばし掛けのショートボブ、肉厚の腫れぼったい唇、眼鏡女子の方は、二子玉駅の二つ手前新桜町駅で電車から降りた。乗客の乗り降りで、一時的に電車内が空いた。時生は、一人残った厚めのバングにロングレイヤーの猫目小顔美人の観察を続けた。彼女の全身を嘗め回すように観る。ピチTにローライズのジーンズ。足元はクロックスのピンクのサンダル。足の爪にまで、ご丁寧なことに青いマニュキュアが塗ってある。やがて乗り込んで来た人の影に視界が遮られ、時生の邪悪な黒い瞳には、彼女の上半身しか映らなくなってしまった。

 用賀駅を通過した辺りで、その彼女が突然声を上げた。

「あんた、さっきから何見てんのよぉ!?」

 一瞬、時生は不味いと思い、視線を逸らした。

「気持ち悪いんだよ。おっさん!」

 女は、時生ではなく、彼の左隣に立ち右手でつり革を握る五十代半ばのサラリーマン風の男を指差した。銀縁の四角い眼鏡を掛けた草臥れた中年おやじだ。頭頂部はあのフランシスコ・ザビエルのように完全に禿げ上がっている。

 時生は、自嘲気味に鼻先で笑った。女から指摘されたのが自分だと思い込んでしまったことが、可笑しくて堪らなかったのだ。

 あの娘にまた会えるかな。時生は逸る気持ちを噛み殺すように、生唾を呑み込んだ。結局その日は、二子玉駅で下車する彼女の背中を見送ることにした。

 その翌日、三軒茶屋駅で彼女が同じ車両に乗り込んで来た時には、時生の心臓が有り得ない速さで脈打った。連れの女性も一緒だ。前日と同じように、今日もまた新桜町駅で下車した。電車内に一人残った猫目小顔美人の観察を開始した。

 そして時生は、行動に移した。女のあとをつけ、人気のないところで、彼女の命を奪ったのだ。その行為は時生にとって、腕に止まった蚊を手のひらで叩き潰すことのように簡単だった。彼は呼吸するように、最も愚劣な行為を苦もなく遣って退けた。コーチのショルダーバッグに忍ばせたサバイバルナイフ・ステルスストライカーを用いて女の身体を三十箇所以上滅多刺して、絶命に至らせた。そのあと時生は、息絶えた彼女に射精し、その場を立ち去った。


 ピンストライプの背広姿の若い男性が、かぶりを振りながら近寄って来る。

「駄目です、コバさん。奴には不在証明がありました」

 小野田誠一巡査部長は、顔の前で手を横に振った。

 小林雅弘警部補が残念そうに溜め息を吐いた。

「富岡の野郎が犯人だと思ったが、外れたか。俺の勘も鈍ったな」

 小林は腕を組んだ。

「班長、もう少し捜査範囲を広げてみますか?」

 横から渡辺啓吾巡査部長が口を挟んだ。

 小林の反応を窺う。

「やってみるか。係長に進言してみよう」

 世田谷区玉川一丁目付近の多摩川の河川敷で、T女子大二回生河野静香の惨殺死体が発見され、今日でちょうど二十日が経つ。

 捜査本部が設置された玉川中央署の講堂で、警視庁捜査一課殺人犯捜査七係第一班班長小林は、部下たちを前にして苦虫を噛んだように顔を歪めた。一向に捜査が進展しないことに些か苛立ちを覚えたのだ。

 地道な地取り捜査の結果、東急田園都市線沿線上に居住する三人の男が、被疑者としてリストに上がった。何れも過去に性犯罪の前科がある男たちだ。その三人の中の一人、神奈川県川崎市高津区溝口二丁目○‐○在住の富岡康成を有力な被疑者として目を付けた。

 富岡は七年前、陸上自衛隊用賀駐屯地に勤務していた時、地元の高校に通う当時十七歳の少女に対し、強姦に及んだ。幸いにも未遂に終わり、少女は無事だった。逮捕された富岡は自衛隊を懲戒免職となり、裁判で三年五ヶ月の実刑判決が下った。

 今回の女子大生殺人事件に関し、捜査員たちは犯行当日のこの男の行動を徹底的に洗い出した。しかし、ものの見事に期待が外れてしまった訳である。河野静香が殺害された当日、富岡は数年前に他界した母親の墓参りのため、実家のある福井県三方郡美浜町興道寺○○に帰省していたと言う証言と裏付けが取れたのである。

 小林は席を立ち、伊丹保英七係長の許へ向かった。

「宜しいでしょうか係長」

「何だ、コバさん?」

 初老の男性は、怪訝そうに小林の顔を見る。

「東急沿線上に拘らず、捜査範囲を広げてみては如何でしょうか?」

「広げる?」

 鸚鵡返しに言う。

「はい」と頷くと小林は話を続けた。

「JRや小田急沿線の沿線上、そうですね、神奈川南部の都市、横須賀、鎌倉、厚木、藤沢など……」

「うん、そうだな」

 七係長は腕組したまま頷いた。

 ちょうどその時だった。所轄の署の制服女性警察官が、講堂に入って来た。

「あの、本庁の小林警部補さんは、どなたですか?」

 女性警官は、それらしき人物を捜すように辺りをきょろきょろと見回した。

 小林は振り向く。

「私だが……、何か?」

「下の受付の方で、娘さんがお待ちです」

「ん? 娘、清美か……?」

 小林は訝し気に問う。

「はい」

 女性警官は頷いた。

 それを確認すると、小林は上司にお伺を立てるような素振りをした。

「コバさん。ここはいいから、行って上げなさい」

「済みません係長」

 目礼し、小林はその場を離れた。


 幼い頃はお父さん子だった清美も、思春期を迎えたことから次第に父を遠ざけるようになっていった。中三から高校を卒業するまでの四年間は、会話すらなかった。大学に進学するに当たって、清美は地元神奈川の大学ではなく東京の大学を希望した。親元を離れ東京で独り暮らしがしたかったのだ。だが、父はそれを許さなかった。結局のところ清美は、父の反対を押し切り東京の大学に進学した。千代田区富士見のH大学、学部は文学部だった。大学に近い新宿区市谷砂土原町三丁目のアパート『メゾン松野』での一人暮らしが始まった。卒業後はそのまま東京の大手出版社に就職した。文京区音羽二丁目の『○○社』だ。

 この日、七月十一日月曜日は、午後からの出勤だった。

 週末の連休を利用して、神奈川県横浜市緑区長津田六丁目の実家に帰省していた清美は、午前十時頃出勤するに当たって、母登代子から、

「玉川中央署の捜査本部にいるお父さんに着替え渡して」

 と頼まれたのだ。

「そんなのお母さんが自分で渡せばいいじゃん」

 清美は半ば不貞腐れながら言った。

 母は、少し困った顔になった。

「母さん、出掛けなくっちゃいけないの」

「どこへ?」

「み○と赤十字病院……」

「病院、お母さんどっか悪いの?」

 心配になって清美が訊ねた。

「大丈夫、ちょっとお腹の調子が悪いだけ」

「ふーん、そうなんだ」

 清美は半分納得いったように頷いた。

 嫌々ながらも仕方なく母の頼みを引き受けることにした清美は、東急田園都市線二子玉駅で大井線に乗り換え、等々力駅で電車から降りると、そのあと徒歩で玉川中央署へ向かった。駐車場の左手に高圧線の鉄塔がある。その奥の六階建ての白い建物が、玉川中央署だ。母の話によると、父は二子玉川駅付近の河川敷で女子大生の他殺体が発見されて以来この警察署に詰め、三週間も横浜市緑区長津田の家に帰っていないと言うことだ。

 一階の受付で、小林の娘であることを署員に伝え、呼び出してもらった。ロビーのソファに座り暫く待っていると、父が階段を下りて来た。頭に白いものが混じっている中年おやじだ。ノーネクタイのまま、白いワイシャツの袖を肘の辺りまで捲り上げている。暑いのだろう、額に汗を滲ませ、右手に扇子を持ち、顔を扇いでいる。舌打ちしたあと、清美は腰を上げ、父の許へ歩み寄る。

「これ」

 父の顔も見ず、そっぽを向いたまま、着替えの入った手提げ袋を渡した。

 父は怪訝そうな顔をしている。

「お母さんに頼まれたのか?」

「うん」

 清美はまたも父の顔を見ず、素っ気なく頷いた。

「うーん」

 顰め面の小林は、低い声で唸った。

「じゃあ、私行くから」

 清美は最後まで父の顔を見ることはなかった。父に着替えの入った手提げ袋を渡すと、元来た道を等々力駅へ向かって歩き出した。途中、iPhoneを取り出し、液晶画面を指先でタップすると、耳に当てた。

「リヨウちゃん、私」

 電話の相手は現在交際中の彼氏杉内(すぎうち)亮(りょう)太(た)だ。同じ大学の二つ上の先輩、テニスサークルで知り合い、意気投合して付き合うこととなった。

【どうしたの、清美?】

「ねえ、リヨウちゃん。今晩暇、時間ある。会いたいんだけど?」

 暫しの沈黙。

【ごめん、今日、都合悪い。会社の上司に飲み会誘われていて】

「何とかなんない」

【分かった、急用が出来たって言ってみる。OKだったらあとで電話するから】

「うん、お願いね」

【じゃあ、あとで】

 電話を切りと、清美はiPhone4をバッグの中にしまった。昨年の誕生日に、彼氏に買ってもらったヴィトンのバッグだ。


 午後八時。道玄坂のイタリア料理店で、大学のサークル『ミステリー研究会』つまり推理小説研究会に所属する友人たちと会食したあと、

「もう一軒付き合え」

 と半ば強引に誘われて、時生は渋谷駅前の和風居酒屋に立ち寄ることになった。

 渋谷駅前スクランブル交差点を、時生たち三人が東に向かって歩いていると、手前から如何にも的なDQN系ファッションに身を包んだ二人連れの若者が近付いて来る。勿論、茶髪に少しも似合わないシルバーネックレスとピアスを着けている。偏差値は三十代と言うところか。

 当然、時生は二人に道を譲った。面倒なことに巻き込まれ、警察沙汰にでもなった厄介なことになる。所持品検査などされ、ショルダーバッグの中の、サバイバルナイフ・ステルスストライカー、TMMハンディタイプ・スタンガン、強力催涙スプレーが発見されたら、それこそ言い逃れが出来ない。最悪、血液検査やDNA検査をすれば、二子玉川の女子大生殺人事件の犯人であると分かってしまう。

 ここで想定外の事態が発生した。時生の友人の一人が、若者たちと擦れ違い様、肩をぶつけてしまったのだ。

「済みません」

 友人は空かさず頭を下げ、謝罪した。

 これで済まさないのが、頭の出来の悪い連中の一筋縄でいかないところだ。

「おいコラァ。他人の肩にぶつかっておいて、済みませんで済ます気かぁ?」

 若者の一人、身長の高い方が、時生の友人の肩を掴んで凄んだ。

 拙いことになった。時生は心中で舌打ちした。最悪の事態じゃないかと。

 常々、極力揉め事は避けて通りたいと思っていた。出来れば平穏な日々を過ごしたいと思っていた。静かに暮らすことが彼のモットーだった。群れないことを信条にしていたに、それに反して群れてしまったがため、このような事態を招く結果となった。

 次の瞬間、気が付くと時生は、不良たちに絡まれるその友人を見捨て、渋谷駅方面に向かって走り出していた。友人に対し、悪いなんて気持ちは全くない。寧ろ、不良に絡まれた友人が悪いんだ。予め危険を察知して、回避するべきだった、と時生は考えている。

 午後八時九分発の東急田園都市線中央林間方面行きの電車に、逃げるように飛び乗った。動き始めた車内で、車窓に映る自分の蒼褪めた顔を見て、時生は漸く安堵の溜め息を吐いた。

「あいつ、どうなったかな……?」

 口元に薄ら笑いを浮かべた。

 緩やかなカーブに差し掛かり、車両が左右に揺れた。相当量のワインを飲み、そのあと不測の事態が生じ逃亡するため走った所為で、予想以上に酔いが回り、足元が覚束ない。不覚にも時生は、左側に立っていた女性の足を踏んでしまった。

「痛っ」

 ストライプ柄パンツスーツ姿のOLらしきその女性が声を上げた。時生を睨み付ける。

「済みません……」

 時生は直ぐに謝った。

 ところが、その女性の連れのサラリーマン風の男性が、鼻の上に皺を刻んだ険しい表情で睨み付け、時生の胸倉を掴んだ。

「酒臭いんだよ。この酔っ払いがぁ!」

「済みません」

 と、もう一度謝った。

 正直、友人を見捨ててしまった罰が当たったと思った。時生は自嘲気味に口元を緩ませた。その行為が返って男性の神経を逆撫でしたらしく、「何笑ってんだよ、お前っ!?」と罵声を浴びせられた。

 男性は、連れの女性を気遣うように凝と見た。

「大丈夫か、清美。足痛くないか?」

「大丈夫だよ、リヨウちゃん」

 女性は頷き、話を続ける。

「ねえ、それよりさ、今度の日曜、ウチの両親(おや)に会ってくれない?」声が弾んでいる。

「キミのご両親に?」

「そう。私も今年で二十四だよ。そろそろ結婚とか……」

「結婚か」

 男性は神妙な面持ちになった。

 盗み聞きするつもりはなかったが、二人の会話が自然と時生の耳にも届いてしまった。

「ちっ、お前ぇ、さっきかから何盗み聞きしてるんだよ」

 男性は時生の胸倉を掴み、引き寄せると、

「ウザいからあっち行け」

 と言い放ち、突き飛ばした。

 その衝動で時生はよろめき、金属製の手すりに背中をぶつけた。

「痛いっ」

 思わず声となって出てしまった。

「大丈夫ですか?」

 女性が慌てて時生に近寄り声を掛けた。

 細く白い指が、時生の肩に振れた。左手の薬指には、ルビーのリングが真っ赤に輝いていた。思わず勃起しそうになった。時生は興奮を抑え、

「大丈夫です。ご心配要りません」

 と言った。

 すると女性は、

「リヨウちゃん、ダメじゃない。ちゃんと謝んなさいよ」

 とやや強い口調で、彼氏らしき男性に言った。

「済みません」

 男性はバツ悪そうに頭を掻きながら、時生に詫びた。

 それは、渋谷駅からここまでの僅か数分間の出来事だった。

 若い男女の二人連れは、駒沢大学駅で電車を降りた。

 時生の中の殺人鬼が目覚めた。このまま神奈川県横浜市青葉区藤が丘二丁目の自宅に帰る訳にはいかない。このまま帰れる筈などないのだ。持って生まれた殺人鬼としての性がそうさせない。時生は、小林清美と杉内亮太を追うことにした。二つの人影は、腕を組みながら細い路地を北に向かって歩いて行った。


 翌十二日火曜日――。

 小林は憂鬱そうに溜め息を吐いた。「駄目だ。次を当たろう」

 所轄署の若い巡査とコンビを組んだ地取り捜査も全く捗らない。今日は、小田急小田原線の沿線上東京都町田市東部を中心に回っている。レンタルDVD店やアダルトグッズ専門で、内容がハードなSM物、猟奇殺人物を好む男性客を知らないか聞き込む。

 午前十時三十分過ぎ、小田急鶴川駅から東へ約百五十メートル行った先の、『TSU○○YA鶴川駅前店』の女性パート店員から、一人の男性客に付いての有力な情報を入手することが出来た。

「茂村一成さん、三十一歳、会社員の方です。ええーと、住所は、神奈川県川崎市麻生区岡上○○○『ハイツ岡』の二十三号室ですね……」

 四十代後半と思われるその女性パート店員は、手前のデスクトップ画面を見ながら言った。

「ご協力ありがとうございます」

 早速、入手した情報をシステム手帳に書き写す。

「……因みに、その茂村さんと仰る男性のお勤め先などご存知ですか?」

「私どもの方ではちょっとそこまでは……」

 女性パート店員はかぶりを振る。

「そうですか、分かりました。ありがとうございました」

 小林と若い巡査は、軽く頭を下げた。踵を返し、出入り口の自動ドアに向かった。

「川崎市麻生区岡上と言えば、鶴見川を渡ったこの先だな」

「はい」

 バディの所轄の巡査が頷く。

 女性パート店員から入手した情報によると、茂村一成はここ数か月間頻繁にスプラッター映画をレンタルしていると言うことだ。また、女子高生物や女子大生物を中心にSM作品もよく借りていた。

「さっきの店員、茂村が会社員だと言っていたな。勤めているとなると、この時間だとヤサにはいないな」

 左手のG‐Shockに目を落とした小林は残念そうに言うと、鼻の頭を摩った。

「どうします?」

「取り敢えず、近所の連中に、この茂村って言う野郎がどんな人間なのか聞き込んでおくか」

「はい」

 巡査が頷いた。

 その次の瞬間だった。スラックスの右お尻のポケットに入れておいた小林の携帯が、突然震え出し、男性大御所演歌歌手の往年のヒット曲を奏でた。

「ちょっと済まん」

 バディに断りを入れ、携帯を取り出す。

「ガラケーですか?」

「スマホは、俺のような年寄りには、使い勝手が悪い。やっぱり携帯が一番だ」

 自嘲するかのように答え、着信表示を確認する。

 清美となっている。

 中一の時、娘に携帯電話を与えて以来、彼女から電話が掛かって来ることなど一度もなかった。掛けるのはいつも小林の方からだった。

 小林は怪訝そうに首を傾げながら、携帯を耳に当てた。

「はい、父さんだ。清美、一体何の用だ?」

 お金の無心でもされるのかと思い、少し疑うように言った。妻からいつも娘が、お金がない、家賃が払えない、と言っていることを訊かされていたからだ。

 だが、返事はない。少し長めの沈黙のあと、もう一度着信表示を確認して、小林の方から、

「もしもし」

 と訊く。

 すると躊躇う気配のあと、受話器の向こう側から、男性の野太い声が返って来た。

【小林清美さんのお父さんですか?】

「はい」

 小林は頷いた。眉間に皺を刻む。

【自分は、警視庁第二機動捜査隊の者です】

「はあぁ?」

 小林は上擦った声を上げた。すこし狼狽えながら続ける。

「自分も警察の人間だ。所属は、本庁捜一殺人犯七係、階級は警部補だ……」

 電話の相手は、少し間をおいて、

【そうでしたか】

 と答え、話を続けた。

【警部補殿、落ち着いて聞いて下さい。お嬢様がお亡くなりになられました】

「亡くなった、清美が……?」

 小林の頭の中が真っ白になった。嘘だろう。そんな馬鹿な……。

【先ほど、世田谷中央署管内、世田谷区上馬四丁目○‐○『コーポマスダ』の二階二十七号室で、小林清美さんの死体が――】

 第二機動捜査隊員が、死体発見時の状況を事細かに説明する。

 だが、完全に脳が痺れてしまっている小林の耳には、その言葉は届かなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る