溺れる魚

繁村錦

PROLOGUE

 「このエンドリケリーやガーパイクの仲間は、エラ呼吸ではなく肺を使って呼吸しているため、水槽の上の方に魚が呼吸出来る程度の隙間を空けておかないと溺れてしまうんだ」

 北見甚平は二百七十センチ水槽の中で泳ぐ古代魚を指さし、息子の時生に蘊蓄を語った。

「魚なのに溺れるって、面白いね、父さん」

 時生は白い歯を見せ、にやりと笑みを零した。

 父子が立つ目の前の水槽の中には、藍底過背金龍と呼ばれるアジアアロワナやポリプテルス・エンドリケリー、スポッテッド・ガーが混泳していた。

 現在、北見一家が暮らす東京都世田谷区下馬二丁目の都営アパートでは、とても二百七十センチ水槽など設置出来る筈もなく、時生は古代魚を飼育することを諦めることにした。

 中学に入った頃から父の影響を受け始め、熱帯魚飼育に目覚めた。最初は、三十センチのレギュラータンクを使用したネオンテトラから飼育を開始した。それに飽き足らず、次はグッピーに手を出した。だんだんと水槽の数が増えていくと、母は余りいい顔をしなくなった。

「お父さん、あなたの所為ですよ。時生にあんな物を買い与えるから」

 母はことあるごとに父を詰った。

「いいじゃないか、母さん。情操教育だよ、情操教育。時生に命の大切さを理解させるためだ」

「しかし、なんだってよりによって魚なんですか。もっと他にあるでしょ。例えば小鳥とか」

 妻に言われ、甚平は露骨に顔を歪めた。

「見ただろ、母さん。あの子が裏の公園で、スズメの死骸を解剖しているのを」

「……はい」

 妻は悲し気な表情をした。

「でも本当にあの子が殺したのですか?」

「間違い。徳田さんちの健太君もウチの時生がエアガンでスズメを撃ち殺すところを見たと言っていた」

「何かの間違いじゃないのかしら、あの子に限って生き物を殺すなんて、あんな気の優しい子が……」

 妻はかぶりを振った。

「私は信じたくありません」

 中三になると時生の熱帯魚飼育熱も、動物虐待癖もなりを潜めた。高校受験のための勉強に時間を奪い取られた所為だ。

 甚平は、東京都庁に勤務する一地方公務員に過ぎない。自分とは違い、小学生の頃から勉強が出来た息子に期待し、超一流の大学へ進学させたいと考えていた。時生も父の期待に沿うよう努力した。その結果、難関校の都立H高校に合格出来た。

 高校進学後、時生は中断していた熱帯魚飼育と動物虐待を再開するに至った。

 自宅の勉強机の右隣には、四十五センチサイズのベアタンクが置いてある。高校合格後に両親に強請って買って貰った水槽だ。その中には、一匹一万円以上もする高級熱帯魚が優雅に泳いでいる。ハイボディブルーダイヤモンドディスカスと言う魚だ。

 母は、ディスカスの餌のディスカスハンバーグをキープするために、息子が冷蔵庫の冷凍棚を占領するのを快く思っていない。特にユスリカの幼虫である赤虫を食品と一緒に入れておくのには、露骨に不快感を示した。

 時生が高校に上がった年の夏だった。

 母は、息子が部活動のため不在中の昼間を狙って、冷凍棚の中を整理しようと試みて扉を開けたことがあった。冷凍焼けした赤虫を捨てるためだ。

 職場から帰宅した甚平は、血相を変えた妻に思わぬことを告げられた。

「お父さん、これ見て下さい」

 妻は、表面にびっしりと霜が付き冷凍焼けした肉の塊を見せた。

 肉の塊はビニール袋に入っている。

「何だこれは?」

 甚平が問う。

「鳥ですよ、鳥……」

 妻は眉間に皺を寄せた歪んだ顔で呟くように答えた。言葉に覇気がない。

「鳥ってまさか……」

 甚平は我が目を疑った。それはまさしく鳥肉だった。しかもスーパーで売られているような、鶏の肉なんかではなく所々に薄っすらと羽毛残った小鳥の肉だった。

「あの子がやったのか?」

 甚平が訊ねると妻は頷いた。

「はい。お隣さんのところで買っていたセキセイインコが、一昨日いなくなったそうよ」

 甚平は無言のまま首を振った。

「時生の奴、また始めやがった」

 憮然と呟く。

 その年の夏、時生の通う学校で女生徒が一人何者に強姦され、殺害された。

 甚平が大腸がんで倒れたのは、息子が大学に進学した翌年の冬だった。北見一家は、亡き父が残してくれた保険金で、神奈川県横浜市青葉区藤が丘二丁目の新興住宅地一軒家を購入した。

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