第4話 本当に大切なもの


 その後、僕はローラと離縁した。

 ローラはそれをあっさりと呑んだ。


「いいわよ! あんたみたいな貧乏で情けない男、いらないから! 私にはもっと釣り合う男がいるんだから!」


 そう息巻いて、ローラは家を出て行った。

 近所の人からの情報で、ローラがよく男を家に連れこんでいたと聞いた。

 夜、彼女が眠そうにしていたのは、そういうわけだったのか……。

 そのことに気付かなかった僕は、本当に愚かだった。


 ローラがヘーゼルの親権を欲しがらなくて、ホッとした。

 僕にはこの子がいてくれれば、それでいい。




 それから1か月後――。

 仕事終わりに、僕はエマさんに裏口へと呼び出されていた。


「あの……実は、いつも一生懸命に働くアベルさんのことが素敵だなって思っていて……。それで、す、好きです……!」


 彼女は顔を真っ赤にして言った。

 僕は驚いた。


 そして……心から申し訳なく思った。


「ありがとう、エマさん。その気持ちは嬉しいです。でも、エマさんのことは良き同僚だと思っています。だから……これからも同僚として、よろしくお願いします」


 そう答えた時、僕の心臓はきりきりと痛かった。

 エマさんは泣き出した。


「ごめんなさい……! アベルさんは、奥様と別れたばかりなのに……私、こんな……傷心につけこむようなことをして……」


 涙を零しながら、彼女はその場を去る。

 その背中を見つめながら……僕もまた、泣き出したかった。




 働いたことがない僕が仕事をするのは、本当に大変だった。

 でも、そんな僕の支えになってくれていたのが……エマさんだった。

 エマさんはいつも僕に優しかった。僕がミスをしても、嫌な顔をせずにフォローしてくれた。何にもできない僕に、根気よく仕事を教えてくれた。


 初めて見た時は、地味な娘だと思った。

 でも、いつからだろう。


『アベルさん』


 彼女が笑いかけてくれると、僕の心はぽっと温かくなった。




 エマさん……ごめんなさい。

 嘘をつきました。


 僕も本当は……あなたのことが好きでした。




 でも、僕はもう昔のような過ちを犯したくはなかった。

 昔の僕は移り気だった。

 そのせいで婚約者を大切にすることができずに、大きな間違いを犯した。


 僕は情けなくて、馬鹿で、不器用な男だ。


 大切なものは1つだけでいい。

 そのたった1つを、大事にするだけでせいいっぱいだから。




 ――だから、あなたの気持ちには応えられません。






 ◇



 それから5年後――。


 ヘーゼルは5つになっていた。


 僕が彼女をヘーゼルと呼ぶから、周りもそういう名前だと思っている。このまま「ヘーゼル」呼びが浸透してほしい。


 仕事が終わって、ヘーゼルを迎えに行った。

 僕が仕事をしている間、彼女のことは近所の人が面倒を見てくれている。


「パパ~!」


 ヘーゼルが笑顔で駆けてくる。僕は彼女を抱き上げた。

 近所の人にお礼を言って、帰路につく。

 ヘーゼルと手をつなぎながら、夕焼け色の道を歩いた。


 ――風の噂で、ローラが大変なことになっていると聞いた。


 どうやら彼女が付き合っていた男は、ろくでもない男だったらしい。

 その男に騙されて、ローラは娼館でひどい働き方をさせられているのだという。

 そこから逃げ出すこともできずに、困窮しているそうだ。


 その話を聞いて、僕は同情するよりも先にホッとしてしまった。

 ローラが今後、ヘーゼルに接触してくることがあれば困るから。

 ろくでもない母親となんて、関わらない方がこの子のためだ。


 道を歩いていると、エマさんとすれちがった。彼女は男の人と腕を組んで歩いていた。

 そういえば、今日はデートするって言ってたな。


 エマさんは幸せそうな笑顔を男に向けている。そんな姿を見て、僕の胸はちくりと痛んだ。


「ぱぱ……? どうしたの?」


 ヘーゼルが不思議そうに僕を見上げる。

 僕は彼女に向かって笑いかけた。


「何でもないよ。今日の夕飯はどうしようかなって考えていたんだ」

「私、オムレツがいい!」

「そうだね。それじゃあ、オムレツにしようか」

「やった~! 私、パパのオムレツ、だいすきっ!」


 ヘーゼルがスキップをしながら、僕の手を引っ張る。


 本当に大切にしたい、たった1つのもの――。

 それを今後も見誤ることがないように、僕は小さな掌をぎゅっと握りしめた。

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妻が元婚約者の下に赤ちゃんを置き去りにした 村沢黒音 @kurone629

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