第3話 赤ちゃんがいなくなった
僕はなおさら毎日、がむしゃらに働くようになった。ラーゴさんに頼みこんで、雑用だけでなく、料理も教えてもらうことになった。
料理や雑用は、ずっと使用人がやるものと思っていたから、自分でやったことなんてない。初めは卵もまともに割れなかった。初めて焼いたオムレツは卵の殻入りで、ぐちゃぐちゃになってしまった。
それでも、エマさんはそれを食べて、「美味しい」と笑ってくれた。
その頃、仕事から帰ると、ローラはまったく出迎えてくれなくなっていた。
ベッドで寝てばかりいる。
「あー」
床に敷いた布団の上で、ヘーゼルが転がっている。
僕の給料では、ベビーベッドを買ってあげることができなかった。いや……僕が稼ぐお金は、ローラがすぐに使ってしまう。
初めは「育児用品を買うため」と言っていたのに……。
彼女の物ばかりが、家の中に増えていく。
「ただいま、ヘーゼル」
どんなにくたくたに疲れていようとも、ヘーゼルを抱っこすると、その疲れはすぐに吹っ飛んだ。
「だぃだぁー」
ヘーゼルがそう言いながら、僕の頬をぺちぺちと叩く。
何が楽しいのか、けらけらと笑った。まるで天使が奏でる楽器のような、幸せの詰まった音だった。
料理の腕をもっと上達させたい――。
ラーゴさんにそう言ったら、「まずは自分の味覚を鍛えることだ」と言われた。
そして、港町のレストランを紹介された。そこはラーゴさんおすすめのお店だそうだ。
そこに行って、本物の料理の味を学んで来いと言われた。
港町は、行って帰るのに3日かかる。
「いいか。これは遊びじゃなくて、れっきとした仕事だからな。ちゃんと学んで来いよ」
ラーゴさんは怖い顔で言って、移動費と宿泊費を渡してくれた。
……多めの額だ。
僕が不思議に思っていると、エマさんが後からこっそり教えてくれた。
「アベルさん、ずっと休みなしで働いていますよね。たまには奥さんとヘーゼルちゃんと一緒に旅行して、息抜きをして来いってことですよ」
その気持ちに、僕の胸はじんわりと温かくなった。
「私、行かない!」
ローラは開口一番、そう言った。
「旅行って聞いたから期待してたのに、港町ってあの田舎でしょ~? そんなしょぼい旅行、絶対、いやよ」
「いや、でも……ラーゴさんは君とヘーゼルの分の旅費もくれたんだ」
「そうなの?」
ローラは途端に機嫌をよくして、手を差し出してきた。
「ちょうだい」
「え!?」
「私とヘーゼルナッツの分の旅費よ! 旅行なんて行きたくないけど、それだとお金がもったいないでしょ? その分を私が使ってあげるわ」
「………………」
僕は頭が痛くなった。
「だぃや~~」
ヘーゼルがそう言いながら、床を転がっている。
僕は彼女を抱っこした。
「きゃー!」
ヘーゼルはいつものように僕の頬を叩く。虚しい思いを書き換えようと、僕はヘーゼルを抱きしめた。赤ちゃんのほんのりと甘い匂いがした。
迷ったけれど、ラーゴさんの善意を無駄にするわけにはいかない。
港町には、僕1人で行くことにした。
「本当に、君1人で大丈夫?」
僕は心配だった。
最近のローラは仕事から帰ると、寝てばかりいる。だから、夜、ヘーゼルの面倒を見ているのは僕だった。
「大丈夫よ! 行ってらっしゃい」
僕の視線はローラではなく、彼女が抱っこしているヘーゼルに吸い寄せられていた。
「あーうー」
ヘーゼルが僕の顔を見て、そう言った。
その瞬間、僕は笑顔になった。
港町に向かう馬車の中で、僕は考えこんでいた。
ずっと忙しくて、物思いにふける暇もなかった。だから、降って湧いた退屈な時間は、僕に多くのことを考えさせた。
前の婚約者のことを考える。
……カトリーヌは今、どうしているだろうか。
今になってみれば、彼女のすごさがわかる。物を作ること……その才能がある彼女が、どれだけすごい存在であったのかということが。
僕はオムレツ1つだって、まともに作り出すことができない。
でも、カトリーヌはたった1人で……誰に教わることもせずに、様々な魔導具を作り出していた。そして、それが評価されていた。
彼女は本当に頭がいい女性なのだろう。僕が婚約破棄を告げた時も感情的にならず、冷静に問いただしていた。あれがローラだったら、ああはならない。ローラはすぐに感情的になるし、自分の正当性を主張するばかりで、こちらの話なんてろくに聞いてくれない。
きっと……僕のような馬鹿な男と別れて、カトリーヌはせいせいしたことだろう。そして、その方が彼女のためにもなった。
風の噂で、彼女が公爵家に嫁いだと聞いた。
カトリーヌが今頃、幸せになっていればいいと……僕は考えていた。
(……僕は今……幸せなんだろうか……)
自分の家族のことを思い出した。
ヘーゼルは最近、僕の顔を見て笑ってくれるようになった。
『あーうー』
別れ際も……僕の顔を見て、ヘーゼルは少しだけ笑ってくれた。
――無性にヘーゼルに会いたくなった。
港町への旅は、いい経験になった。レストランの主人はラーゴさんの友人だった。紹介状を見せると、特別に料理を振る舞ってくれた。その夜には、オムレツを上手に焼くコツも教えてくれた。
(ヘーゼルが大きくなったら、このオムレツを焼いてあげよう)
僕はそんなことを考えながら、帰路についていた。
早く……早くヘーゼルに会いたい。あの声を聞きたい。あの笑顔を見たい。
自然と早足になる。
「ただいま! ヘーゼル! ローラ」
僕はいい気分で、家の扉を開けた。
家の中はしーんとしていた。ベッドではいつものようにローラが寝ている。
でも……ヘーゼルの姿がない。
「ヘーゼル!? ヘーゼル!」
僕の家は狭い。赤ん坊が隠れられる場所なんてない。
僕は半狂乱になりながら、彼女の姿を探した。
「んー……もう、うるさいわねえ」
文句を言いながら、ローラが起き上がる。
僕は彼女に詰め寄った。
「ローラ! ヘーゼルが……! ヘーゼルがどこにもいないんだ!!」
「え? ああ、ヘーゼルナッツならここにはいないわよ」
彼女が当然のように言ったので、僕は愕然とする。
「じゃあ、どこにいるんだ!?」
「ちょっと、痛い! 何よ、そんなに必死になって! そんなに大騒ぎすることないじゃない! 赤ちゃんを人に預けただけで……」
「預けただって!? いったい誰に?」
「だから、うるさい! そんな大声を出さないで! ヘーゼルナッツは今、おねえさまが面倒を見てくれているのよ!」
――僕は青ざめた。
なぜよりにもよって、カトリーヌなのだろう。
ローラは姉の婚約者を奪った立場だ。普通なら会わせる顔なんてないはずなのに。そんな相手に託児をしようだなんて! 神経がおかしいとしか思えない。
もしカトリーヌが僕らのことを恨んでいたら……ヘーゼルは絶好の復讐相手になるんじゃないのか……。
もし、ヘーゼルが傷付けられていたら。ろくに世話をしてもらえていなかったら。
ヘーゼルの泣き顔が僕の脳裏に浮かぶ。すると、しぼられるように心臓が苦しくなった。
嫌だ……! もしカトリーヌが僕のことを恨んでいるなら、その罰は僕がいくらでも受けるから……。だから、ヘーゼルは……ヘーゼルのことだけは傷付けないでほしい……。
どうか無事でいてくれと祈りながら、僕はローラを引きずって、公爵家へと向かった。
「ヘーゼル! うちのヘーゼルはどこにいるんだ!!」
使用人が屋敷の中に案内してくれる。僕は半狂乱になって叫んでいた。ヘーゼルの無事を祈るばかりで、礼儀をとりつくろうこともできなかった。
奥の豪華な階段から、カトリーヌと公爵が降りてくる。
僕は彼女がヘーゼルを抱っこしていることに気付いた。
急いで駆け寄ると、カトリーヌは眉をひそめて、ヘーゼルを抱えこむ。
公爵が彼女を守るように、立ちはだかった。
「私の妻にそれ以上、近付くな」
そこで初めて、僕は公爵の姿をちゃんと見た。
とんでもない男前だ。それに屈強そうで、堂々としていて……。男の僕から見てもかっこいい人だった。
……僕なんかとは比べ物にならない。
僕は思わず、後ずさる。
その時、カトリーヌの腕の中にいるヘーゼルと目があった。
胸がきゅっと苦しくなって……居てもたっても居られなくなった。
僕は必死で頭を床に押し付けた。
「この度は……うちのローラが、大変なご迷惑をおかけしました……。公爵様に娘を保護していただいたこと……その寛大なお心に深く感謝いたします……」
ローラが不満そうに後ろで喚き出す。
「ちょっと、アベルったら! どうしてあなたが頭を下げてるの!? 私はおねえさまにも、育児のすばらしさを味わわせてあげようと思っただけで……」
「黙れ!」
僕の一番はヘーゼルだ。
僕はそのことに初めて気が付いた。
思い返してみれば……僕の原動力はずっとそれだった。
ヘーゼルがローラのお腹の中にいた頃から、僕は“彼女のために”必死で働いていた。いつの間にか、僕の視界にはローラのことが入らなくなっていた。
――生まれてくる赤ちゃんのために。
――可愛いこの子のために。
そのために僕はこれまで頑張ってきたんだ。それを台無しにしようとしたローラのことが、途端に憎く思えた。
その後の僕はきっと、周りから見れば、みじめで哀れな男だったにちがいない。
ひたすらに頭を床に押し付けて、カトリーヌと公爵に謝罪して、懇願した。ヘーゼルをまたこの腕に抱っこできるなら……僕は何だってする。
そんな僕のことを哀れに思ったのか……カトリーヌは許してくれた。
「この子……ずっと親を探して、泣いていたのよ」
そう言って、ヘーゼルを僕の腕に戻してくれた。
――その瞬間、僕にはカトリーヌが女神のように思えた。
こんなに素晴らしい女性を邪険に扱って、彼女との婚約を破棄してしまったなんて……僕は何て馬鹿だったのだろう。
どれだけ悔やんでも、もう時を戻すことはできない。
それに今の僕の腕にはたった1つだけ、残っているものがある。
それはこの子だ。
ヘーゼルは僕の顔をじっと見ている。そして、にこっと笑った。その瞬間、僕の心は切ないほどに苦しくなった。
「ヘーゼル……! すまない……すまない……っ」
泣きながらヘーゼルを抱きしめて、崩れ落ちる。
公爵がカトリーヌのことを気遣って、彼女の腰を優しく抱いている。彼ならきっとカトリーヌのことを大事にして、幸せにしてくれるにちがいない。
過去の僕は、本当に馬鹿なことをしてしまったけれど。
それでも、今の僕は思う。
――カトリーヌが今後、幸せになれますようにと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます