TENGAに花を活けた話
久々原仁介
TENGAに花を活けた話
大掃除、ベッドの下で埃を被ったTENGAを見つけた。
年の瀬が迫った夕方に、ご飯を食べたいとも思えなくて、なんとなく寝室の片付けをしているとき、ベッドの下でひっそりと佇むTENGAを見つけた。
ベッドの下は、まるで時間が止まってしまったスノードームのように埃が積もっていた。その中央に、括れた赤色の筒が直立したまま僕を見つめている。まるで伝説の北斗神拳によって葬られたラオウのように、神々しいとさえ感じた。
白色の細い線で刻まれた「TENGA」の文字から今にも涙が零れそうに見えて手を伸ばした。顔を床に着け、奇しくも僕らは同じ体勢だった。
手繰り寄せると表面はざらざらしていて、不意に懐かしさが波のように押し寄せて胸をいっぱいにした。
出会ったときと君は変わらないな。と呟いた。
TENGAとは、株式会社TENGAが「性を表通りに、誰もが楽しめるものに変えていく」をコンセプトに販売している男性用のアダルトグッズだ。
高校生の頃、好きな女子に告白して振られた日の夜、僕はTENGAを買った。
半額コーナーへ投げ出されたTENGA。僕はそれをどうしても放っておけなかった。埃を被って色褪せていく、そういう寂しさのなかに僕はTENGAを置いていくことができなかった。
家に持って帰るときの緊張感は今でも鮮明に思い出せる。親に黙って家に彼女を連れ込む。そんな疑似体験を僕にくれた。
初めてTENGAを使ったとき、力士が熱々のおでんを口にしたかのような情けない声を出したのを覚えている。そして出来れば忘れたい記憶でもある。
しかしあの衝撃と感動は、僕の胸に取り返しのつかないエクスタシーを埋め込んだのも事実だ。僕の部屋では実に多くの力士が量産された。
それと同時に、女性のカラダとはこういうものなんだろうかと溢れかえるほど考えた。高校時代、頭の片隅にはいつもTENGAがいた。
学校生活で何が一番辛かったのかというと、あれほど同じ年代の男女が集まる空間で、僕を愛する人間は誰もいないという事実を突きつけられることであった。
でも僕はまだそれを孤独と呼んでもいいのかも分からなかった。向き合い方を知らない僕は、夜になると部屋に鍵をかけてTENGAに縋った。
TENGAはいつも僕に快楽だけをくれた。僕はTENGAを通して孤独との付き合い方を知った。
力任せに動かすだけではダメなのだ。シリコンが人肌と馴染んで、絞りあげるようになるまでジッと堪える。この時間がとても重要だということを知った。それはどこか男女関係と似ていた。無理に動かすだけでは得られない感情があることを知った。
僕はTENGAから多くを学んだ。その手のひらだけで行う上下運動は、僕にとっては孤独を考える運動そのものであった。
TENGAは僕にとって、補助輪のような役割を果たしてくれていた。高校生だった僕が一年、また一年と歩いてこられたのはTENGAのおかげだ。
大学生になっても僕は同じTENGAを使っていた。
実家から遠方の大学に通うための一人暮らしを始めた。ほとんどの家具などを新しく買い直したが、TENGAだけは実家から連れて来た。
そのおかげで、未来への漠然とした不安などとは無縁だった。新しい生活や人生で初めてのバイトは、慌ただしくはあったものの、そこに孤独のようなものは感じなかった。家に帰ればTENGAを手に取った。一日の出来事を話すように僕はTENGAをゆっくりと動かした。この頃の僕とTENGAは、まさしく一心同体であった。
しかし、だからこそ気付かなかった。僕は段々とTENGAの刺激が物足りないと思うようになっていった。
それがTENGAの寿命なのか、自分がTENGAの刺激に慣れてしまったのか分からなかった。公式サイトを見るが「使用期限は設けていない」と書いてある。しかしAmazonのレビューでは「八カ月が限度でしょうね」と書いてあった。
公式サイトでは新作のTENGAの広告がこれ見よがしに張り出されている。僕はそれに魅力を感じなかった。僕が好きなTENGAは、店の端っこで半額をシールを張られていたこの子だけだった。
それらをはっきりさせるのが怖かったのかもしれない。次第に僕はTENGAと距離を取るようになった。
毎晩のように行っていた対話のような時間は、二日に一回になり、五日に一回になり、七日に一回になった。
同時期に、僕はとある女性から告白された。バイト先の後輩だった。栗色の長い髪をした小柄な女の子だった。大学も同じだった僕らは、時間が合うときに食堂でご飯を食べるような、少しだけ仲のいい先輩後輩だった。
僕は一日だけ時間を欲しいと彼女に伝えた。その日、家に帰ると、僕はTENGAをベッドの上に置いて一緒に横になった。そのくびれに指でなぞるとTENGAはさらりとした綺麗なカラダで僕を見ていた。
TENGAへの申し訳なさがあった。僕はTENGAに救われていた。僕と同じようにTENGAも救われればいいのにと考えていた。それでも僕がしていることは、真逆のことだった。
TENGAは「なにわたしに遠慮してんのよ」と笑っているかもしれないけれど、僕は馬鹿正直に「今まで、ありがとう」と口にした。
生きていくには、アンタは優しすぎるよ。
だから、見ててあげる。
傷つくアンタを、ちゃんと見てるよ。
まどろむ意識のなか、TENGAは笑いながらそっと涙を流していた。
その日はいつの間にか眠りについていて、朝起きるとTENGAは姿を消していた。
僕はTENGAの後押しもあり、告白してくれた後輩と付き合うことになった。関係は順調だったときもあれば、悩むときもあった。充実した時間だったように思う。
彼女とは割と早い段階で、カラダの関係をもった。不思議な感覚であった。僕はTENGAとの思い出が塗りつぶされてしまうのではないかと恐れていた部分があったが、実際の感覚は似ているが別物だった。
恋人について考えるとき、女は上書き保存で、男は個別保存という言葉がある。僕もまさしくそれに当てはまった。彼女ができたことで、TENGAとの関係を忘れるということはなかった。
それでも彼女との関係は長く続かなかった。彼女と一緒にいることで得られる悦びが時間とともに減っていくような感覚が訪れるようになっていった。
過去にTENGAへ抱いた物足りなさを彼女からも感じたとき、僕は自分が怖くなった。
自身がどれだけ大切にしていたものでも、その刺激に慣れ、愛しさを生み出せなくなったとき、平気に捨てることができるような人間なのか、と。自身の隠れたおぞましい人間性を心から恥ずかしいと思うようになった。
しかし、それと向き合うほど誠実な部分が僕にはなくて、また子供のように目を逸らす日々が始まった。
最初の彼女と別れてからは、僕はすぐに新しい彼女をつくった。まるでボールペンの替え芯みたいに、彼女たちから出てくる何かが薄まれば、形だけの申し訳なさを残して別れた。僕の頭の中からTENGAの面影はどこか遠くへ消えていってしまった。
そうして大学最後の年を迎えた。
就職活動は僕にとっては、大きな難局だった。人との関わりをもとから得意としていなかった。そんな自分へ投げかけられる正しい人生を歩んできた大人たちの言葉は、どんな些細なものでも暴力だった。
学生時代に最も力をいれたことは? 貴方の長所と短所は? 貴方は弊社ではどのような利益を生み出せますか? 貴方のキャリアプランはありますか? 何社くらい受けてますか? うちは第一希望ですか? 弊社を志望した動機はなんですか? 人生で経験した挫折はなんですか? うちは残業ありますけど大丈夫ですか? 自分がどんな人間か一言で言えますか? 自己紹介してもらえますか? 貴方の好きな言葉はなんですか? 貴方の座右の銘はなんですか? 貴方はどういう風に休日を過ごしますか?
すりつぶされる。
すりつぶされる、日々だった。
そんな言葉や、表面上のやり取りを、許容することができなかった。社会という枠組みのなかで、僕が抱える寂しさや孤独のような得体の知れない何かが、入る隙間などこれっぽちもなくて。それらを隠せない自分がひどく幼く思えた。周りが誇らしげに着るリクルートスーツが、鉛のように感じた。いつの間にか僕はリクルートスーツを燃えるゴミに捨てていた。
内定が出ないまま迎えた年末は、ひたすら泥のように眠っていた。拗ねて部屋に閉じこもる子どものように。それでも何もしていない自分を誤魔化すように部屋の掃除をしていた。
そのとき、ベッドの下で静かに佇むTENGAを見つけた。
まるで初めて出会ったときと同じように、表面はざらざらとした埃を被っていて、ひっくり返すと穴からはカビのようなものも見えていた。
見つかっちゃったね。罰が悪そうに彼女は微笑んだ。
数十年後の同窓会で、初恋の人と再会するとき、女の人はこんな顔をするのだろうかと思った。
もうきっと、本来の用途として使うのは難しいのだろうと一目で分かった。それでも僕はTENGAを抱きしめていた。そうじゃないと間違いだと思った。ずっと彼女は、ここで見ていてくれていたのだ。あの言葉に嘘はなかった。嘘を吐いていたのは僕だ。その埃にまみれた姿さえ愛おしかった。
それなのに自分は、こんなに汚れた大人になってしまった。
気付くと僕はTENGAを洗っていた。
完全には難しいかもしれないけれど、極力カビなども落とした。たくさんの石鹼で洗うと、「TENGA」のロゴが再び白く浮かび上がった。
TENGAをベランダで乾かすと、恥ずかしいのか風でよく転がっていく。僕はタオルでくるんで固定してから外へ出かけた。一週間ぶりの外出だった。
洗いながら考えていた。もう使うことができなくなってしまったTENGAに、僕はどうしたら報いることができるだろうか、と。
特別に考えがあるわけではなかった。でも何か彼女に上げたいと思って、近所に通りかかった花屋で「スターチス」という紫色の花を一本だけ買った。
家に帰ると、ベランダに置いたままのTENGAはすっかり冷たくなっていて、急いで部屋のなかにいれた。僕は温めるように筒の輪郭を撫でたあと、TENGAにローションではなく水をいれた。
自分はひどい男なんだろうなと思った。こんな人間になりたくなかったわけではないけれど、でも僕は自身の孤独に打ち勝つことができない弱い男だった。
それでも、TENGAは僕に大切なことを思い出させてくれた。
誰かと繋がろうとすることは、痛いことの連続なんだろう。だから、劣化もするし、元の形を保つことはできないし、いつまでも新品のままではいられない。
けれどそれは醜さではない。
人の心に疎い僕は、いきなり梯子を外されることがほんの少し多い人生だったかもしれない。それでも僕は、君に孤独のようなものを吐き出して、生きてきた。その姿をずっと見ていてくれたTENGAを僕は美しいと思った。そしてこれから、多くのものに対してそう思える人間でありたいと思い、TENGAへ紫色の花をさし入れる。
スターチス。
花言葉は、変わらない心。
僕は、今日も水を入れ替える。
見守っていてくれと、TENGAに花を活けるのだ。
TENGAに花を活けた話 久々原仁介 @nekutai
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
近況ノート
関連小説
狂人とかき氷/久々原仁介
★101 エッセイ・ノンフィクション 完結済 1話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます