幼児転生 転生した幼児は異世界で無双する

絵茄 敬造

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 「ふうん……ぐすっ……ころんだー! にいちゃんー! ちがでたー!」


 開きっぱなしだった戸口から、聞き慣れたいつもの泣き声がした。フォスターが振り向くと、やはりいつものとおり、妹の見慣れた泣き顔があった。スカートはさほど汚れていないが、確かに膝を少しすりむいていて、血がにじんでいる。


「ちがでたーちがでたー!」

「わかったわかった、いま薬塗ってやるから!」


 幼い妹は、傷の痛みよりも、自分の身体から血が出たことにパニックになっているようだ。


 フォスターは、まず汲み置きの水で妹の膝を洗ってやってから、居間の棚の薬箱を取り出した。茶色のガラス瓶のラベルを確認してから、それを一滴だけ、血のにじむ傷口に垂らす。すると、魔法の光がぼうっと広がった。見る間に、ピンク色の新しい皮が傷口を覆う。


「わーいなおったー!」

「またころぶなよ! 気を付けるんだぞ!」


 フォスターの言葉もろくに聞かずに、妹はまた家の外に飛び出していく。どうせまた、小川のそばの花を摘むのに夢中になっていて、石につまづいて転んだのだろう。


 妹の後を追って、フォスターは戸口から家の外に出た。外にあるのは、いつも見慣れた農村の光景だ。初夏の作物が緑の葉を伸ばし、その間に、害虫よけの魔法の風車が立っていて、風を受けてカラカラと回っている。


 その向こう、ずっと遠くの丘の上には、領主の城があった。真っ白な石材が、陽光を浴びてきらきらと光り、見張り台の尖塔が二つ。その先端には、赤と青の地に、金の紋章が輝く旗。


(あれは勇者の旗なんだ! 領主様は、戦場で戦って出世した英雄なんだ!)


 この土地を支配する領主は、フォスターの憧れだった。まだずっと幼いころ、一度だけ、王都へ赴くその雄姿を見たことがあった。たくましい軍馬にまたがり、光り輝く銀の鎧に身を包んだ勇者の姿は、遠くからでも太陽のようにまぶしく、幼いフォスターの心に焼き付いた。


(ぼくもいつか、冒険の旅に出るぞ! そして、伝説の剣を見つけて、勇者になるんだ!)


 小川で遊ぶ妹とお城の旗をかわりばんこに眺めながら、拾った棒切れを、勇者の剣にして振り回す。それが毎日の日課、フォスターのお気に入りの、勇者ごっこだった。


 「そんなの、幼稚よ」


 と、これも聞き慣れたセリフをしゃべりながら、金髪の少女が胸を張る。


「勇者とか、伝説の剣とか、聞き飽きた昔話じゃない。流行りじゃないわ」

「じゃあ、今の流行りってなんだよ? マギーは知ってるの?」


 フォスターの抗議に、マーガレットはますます胸を張って反り返った。これも、このお隣さんの家の娘の、いつも見慣れたポーズだ。


「知ってるわよ! 今はあれよ、えーと、異世界、よ!」

「イセカイ?」


 それは、いつもと違う、聞き慣れない、フォスターが初めて聞く言葉だった。


 フォスターは、大きな石の上に立って反り返っている、幼馴染の顔を見上げた。なんだか、いつもとは違う、と感じた。まだ幼いフォスターにはそれを表現する言葉は思いつかなかったが、少女の表情に、何か大人じみたような、影のような、何かがまとわりついていた。


「異世界、ってのは、こことはぜんぜん違う、遠い遠い国のことよ! そこでは、馬なしで走る馬車とか、鳥みたいに空を飛べる乗り物とかがあって、ちーんって鐘が鳴ると暖かいごちそうが出てくる魔法の箱とかもあるんだって!」


「なんだそりゃ、そんなの、それこそおとぎ話じゃないか」


 フォスターの抗議にも、マーガレットは全く動じず、また胸を張って反り返った。


「ほんとうにあるのよ、マルクが言ってたもん!」

「マルクが?」


 マルクというのは、フォスターの家から少し離れた村はずれの、親戚の子供だった。毎日会うほどではないが、村の集まりやお祭りがあるときにはいっしょに遊ぶこともある。フォスターよりは年上で、もう村の学校に通っていて、本も読める。街のことや、いろんな新しい遊びを教えてくれたりする、賢くて親切な子だ。


「マルクが言うなら、ほんとうなのかな……」

「そーよ。今度、異世界を見せてくれるって言ってたもん!」

「えっ?!」


 フォスターは、自信に満ち溢れてキラキラしている、マーガレットの瞳を見つめた。


「それほんとう? 僕にも見せてよ!」

「さーあ? マルクがいいって言ったらね!」


 フォスターの懇願を振り切って、金髪の少女は家へ駆けて行ってしまった。


 その日からしばらく、フォスターはマーガレットの顔を見るたびに「異世界」見学ツアーとやらに自分も連れて行ってくれるよう頼もうとした。しかし、金髪の少女は、フォスターの顔を見るとすぐに、まるで大人みたいに首を振って、黙って家の中に入ってしまうばかりだった。


(ずるいや……きっとマルクと二人だけで、『異世界』ごっこをしてるんだ……)


 大好きな勇者ごっこも忘れて、フォスターはマーガレットの言った『異世界』のことばかり考えるようになった。そんな面白そうなものを、二人だけで遊んでいて、自分が仲間外れにされている。そう考えていると、胸の奥がきゅうっとして、なんだか涙が出そうになる。


 だから、ある日の夕食のときに、フォスターは両親に相談してみた。


「だからさ、マギーがいじわるして、僕を仲間に入れてくれないんだ……」


 その日のメニューは、フォスターの大好物のシチューだった。じっくり煮込んであって、すじ肉でもとろとろになっている。そのおいしいところをたっぷりと皿に盛りながら、ママが微笑んだ。


「マギーが? そんな意地悪する子じゃないと思うけどな」

「ほんとなんだよう、僕もイセカイごっこしたいのに、いつもこっそりどこかへ行っちゃうんだ」


 フォスターのいつになく必死な様子に、普段は無口なパパが口を開いた。


「ふーむ、じゃあ、こっそりマギーの後をついて行ってみたらどうだ? 見つからないように、少し離れて、静かに歩くんだぞ。その何とかごっこをしているところを見つければ、さすがに仲間に入れてくれるだろう」


 パパの提案に、フォスターはうなずいて、皿の上の大好物に取り掛かった。


(さすが、パパは無口だけど、いつも頼りになる! ママのシチューも最高だ! 妹もまだ小さいけどかわいい……僕は家族みんなを守れる、勇者になりたいんだ!)


 勇者というのは、人々の幸せをおびやかす恐ろしい敵を倒すため、呼べば駆け付け戦う者のことだ。村長さんが言っていた、そんな勇者が、フォスターの憧れだった。小さなこの家の中に満たされた、シチューの香りこそが、勇者フォスターの守るべきものだった。


 数日後、フォスターは、マギーが自宅の裏口からこっそり出てくるのを見つけた。


(なんだろ……周りをきょろきょろ見回して……そんなにイセカイごっこを独り占めしたいのかなあ)


 見慣れた金髪の頭が、林を抜ける小川のほうへ消えてゆく。その向こうには、小さな洞窟があるはずだった。大昔にはゴブリンが住んでいたという話だが、村人総出で退治して、今はもう、何も棲んでいない。とはいえ、子供たちは、洞窟に入ってはいけないと親から言われていたし、小さな子供の遊び場所としては、村から少し離れすぎていた。


(そうか! この洞窟が、イセカイへの通路なんだな!)


 フォスターは、洞窟探検が「イセカイごっこ」だったのだ、と納得して、安心したような、ちょっと期待外れなような気分になった。でも、とにかくマーガレットの後を追って、洞窟の入り口まで歩いた。


 洞窟の入り口までは、フォスターも前に来たことがあった。子供なら立ったまま歩けるくらいの大きさだが、その中には光が入らない。以前来たときは、入り口から少しのところで真っ暗になってしまい、あわてて引き返したのだ。


 しかし、今は以前と違った。洞窟の中には、光があった。


 誰かが灯したろうそくの炎が、洞窟の壁を、ゆらゆらと照らし出していたのだ。


(マルクが点けたのかなあ、これ。やっぱりここでイセカイごっこしてるんだ!)


 ろうそくの明かりが、フォスターの勇気を後押しした。湿った土を踏みながら、どんどん中へ歩いていく。洞窟は一本道だったが、その天井は、進むにつれてだんだん高くなっていく。奥のほうは、思っていたよりもずっと広い空間になっているようだ。


「次は誰だ?」


 洞窟の奥は、土からむき出しの岩に変わり、そこで右に折れていた。その岩壁の向こうから、声が響いた。間違いない、マルクの声だ。


「フォスターはどう?」

「あの子はだめよ、まだ小さいし、両親がいるし。教会に預けられてる、親のない子供のほうが……」


 マーガレットの声もした。フォスターは思わず、岩壁に張り付くようにして息をひそめた。二人の会話するその口調が、いつもとまったく違ったからだ。それはまるで、大人たちが不穏な噂に眉をひそめながら話し込んでいるときのような、重苦しい響きに満ちていた。


「でも、このゲートは、そんなに長くは安定していないらしい……急いだほうがいいと思う」


 マルクの声と同時に、聞いたこともない奇妙な音が、フォスターの耳に届いた。その音の源を、岩陰からこっそり覗いてみる。


 そこは、驚くほど広い空間になっていた。大人でも手が届かないほど高い岩の天井で、そのでこぼこした石にも、地下水に濡れた周囲の壁にも、奇妙な明るい光が反射している。


 その光は、洞窟の中央にある、青く輝く球体から発していた。


 それは、最初、光り輝く大きな星のように見えた。しかし目が慣れてくると、その中に何かがあるのが分かった。明るく輝いて見えたのは、青空だった。洞窟の地面の上、1メートルほどの高さに、白い雲と青い空が、丸く切り取られたように浮かんでいる。


(あれ……あれは、洞窟の外じゃないのか?)


 フォスターは最初、洞窟の外へ通じる穴があるのかと思った。しかしすぐに、その青空は、村の近くの風景ではないことに気づいた。丸く見える穴の向こう、青空と雲の下には、街があった。しかしそれは、とてつもなく奇妙な光景だった。真四角で窓のたくさんある、お城の尖塔よりも高い建物が、隙間なくたくさん並んでいる。その建物の間からは、聞いたこともないような、ざわざわとした騒音が流れてくる。


「フォスター! あんた!」


 洞窟の湿った冷たい空気を切り裂いて、少女の鋭い叫びが響いた。


 目の前のあまりに不思議な球体に気を取られて、フォスターは、岩陰から身を乗り出してしまっていた。


「なんてこと……私の後をつけてきたのね?!」


 青い球体からの光が濃い陰影を作っていて、マーガレットの表情はうかがえない。しかしその声は、いつもとまるで違っていた。それには、気難しい大人が子供を叱るときのような、鉄臭い圧迫感があった。


 球体のそばに立っていたマルクが、肩をすくめた。それもまるで、大人がするようなしぐさだった。


「やれやれ、油断したな。なかなか行動力があるじゃないか。まあいい、この子が、次でいいだろう」


 マルクは、微笑みながらフォスターに声をかけた。


「君、フォスター、こっちにおいで……」


 それはやはり、聞き慣れた、マルクの声だった。フォスターは少し安心して、球体のほうへ歩み寄った。


「ねえ、これが、イセカイ、なの?」


 マーガレットが、ゆっくりとした口調で答えた。いつもと違って、胸を張らず、むしろ猫背だ。


「そうよ。これが、『異世界』への通路、霊的なゲートなの。もう少し近くに行って、覗いてごらんなさい……」


 フォスターは、青く光る「異世界への門」へ、こわごわと近づいた。やはりそれは青空と白い雲の風景で、真昼の太陽に照らされてまぶしく輝いている。その空の下には、四角い奇妙な建物が、ずらりと並んでいた。お城よりも高い建物だというのに、それがいくつもいくつも、数えきれないくらい続いていて、はるか地平線までが、すべて建物だけだった。森も、丘も、畑もまったくない。そして、その間の道を、大勢の人々が歩いている。その服装も、フォスターが見たこともないような奇妙な恰好ばかりだった。


「すごいや……『イセカイ』って、お城ばっかりなんだ! この穴を通れば、あっちの世界に、行けるんだね!」


 興奮したフォスターの質問に、マルクが答えた。


「いや。あちらの世界には行けないよ。向こうから、やってくるのさ」


 信じられないほど、邪悪な声だった。


 その瞬間、フォスターの身体は、氷の冷たさに捕らえられた。真冬の寒気に身がすくむように、全身の筋肉が硬直した。そのまま、指一本動かせない。マルクの顔を見ようとしても、視線を移すことさえできなかった。助けてとマーガレットに叫ぼうとしても、かすれ声すら出せなかった。


 視野の外から、マルクとマーガレットの声が聞こえた。


「結局三人目はこの子かあ……親が不審に思うでしょうねえ……」

「まあ大丈夫だろう。何しろ、大人のように聞き分けのいい、かしこい子供になるんだから。そう、心を入れ替えて、ね」


 フォスターは、目の前の『異世界』から、何かが自分の中に入ってくるのを感じた。硬直したままの身体が、足のほうからさらに冷たくなり、何も感じなくなっていく。


「こっちの世界の下調べは済んだのよね?」

「ああ。文明のレベルは中世くらい。魔法はあるけど、薬学とか初歩の化学レベルで、軍事的なものじゃない。しかし硝石や硫黄など、材料は手に入る。火薬の知識だけでも、文字通り『無双』できるだろうよ……」


 フォスターには、マルクたちが何を言っているのか、まったく分からなかった。ただ、その声の響きから、それが『邪悪』であると、なぜかはっきりと理解できた。


 マーガレットが、少し悲しそうな口調で言うのが聞こえた。

「わりと平和な世界みたいなんだけど、私たちが、戦乱の源になってしまうわけね……いいの?」


 その質問へのマルクの回答は、もう、フォスターの知っている賢い少年のものではなかった。

 それは、冷酷な足音で、フォスターのやさしい日常を情け容赦なく踏みにじる、冷たく重い、巨大な、何かだった。


「別にいいだろ。俺たちの世界の歴史では、当たり前に、起きたことさ……」


 フォスターは思った。「あれ」を呼ばなければ。弱くうちひしがれた人々を救い、邪悪なものを聖なる剣で打ち倒す、「あれ」を、今すぐここに! でなければ、フォスターのあの小さな家に満ちる幸せの香りが、その周りのすべての幸せが、壊されてしまう!


 だが、もう、フォスターには、「あれ」が何なのか、思い出せなかった。フォスターの、何もかもが消えていく。パパの優しい声も、ママの笑顔も、憧れをもって毎日見上げたお城の石壁も、何かに黒く塗りつぶされていく。


 いきなり、ぐるんと、フォスターの首が勝手に動いた。青く光る「異世界への門」から視線が外れ、マルクとマーガレットの姿が目に入る。二人とも、じっと、フォスターを観察しているようだった。


「ふはははははあ、ははははは、あはははははははは、うはははははははは……」


 どこからか、洞窟の天井まで反響するような、大きな笑い声がする。しかしそれは、マルクのものでも、マーガレットのものでもなかった。二人とも、口は閉じたままで、やはりじっとフォスターの顔を見つめているだけだ。


 その嘲笑は、フォスター自身の口から発せられていた。喉が勝手に動いて、悪魔の吐息のような恐ろしい声を、洞窟の冷気の中へと吐き出していた。


「……フッフッフ、俺は、手に入れたぞ! 幼児の身体を手に入れたぞ! 俺は! 俺は! 転生者だ!!」


 フォスターの身体は、もう、「異世界」からやって来た「何か」に満たされていた。それは信じられないほど真っ黒で、嫉妬や劣等感や挫折、怠惰や責任転嫁、不労所得やレバレッジ、射幸心や確変といった、フォスターがまだ知りもしない、劣悪な感情に満たされていた。

 それらの「邪悪」が、今ここから、フォスターの身体を乗っ取ろうとしている「異世界の魂」から、この世界へ広がっていくのだ。


 ぼきぼきと音を立てて、フォスターの身体が奇妙にねじ曲がり、びくびくと痙攣する。暗黒の魂が全身にいきわたり、フォスターの最後のかけらが消えていくとき、お城の尖塔の上にはためく、勇者の旗が、黒く焼け焦げながら燃え落ちるのが見えた。



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幼児転生 転生した幼児は異世界で無双する 絵茄 敬造 @Ena_Kzou01

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