コピー人間

乙島紅

コピー人間


 その男の葬儀には、子ども用の棺が使われました。

 なぜって? 彼の身体は脳みそしか残っていなかったからです。

 見送る人への配慮で成人サイズの棺を使うこともできたでしょう。

 だけど彼はあえて、子どもの棺を使うことを遺言で指定しました。

 きっと自虐がこもっているのだと思います。

 自分は生まれながらにして死んだのだ――それが、最後に会った時に言っていた言葉でした。


 ああでも、誤解しないでください。

 そうは言っても、彼は胸を張ってこの世を去ったと、私は思っています。

 この、脳みそだけの姿がその証。


 解せない顔をしていますね。

 でもきっと、彼の生涯を知ったらわかってもらえると思います。

 そう、今からあなたに語るのは、とある男の生き様のお話。

 人の真似をすることでしか生きられなかった「コピー人間」の、数奇な一生の物語……。




 * * *




 その男が生まれた時、お産の部屋はずいぶんと静かだったと言います。

 彼は産声をあげなかったのです。

 赤ちゃんが産声によって呼吸を始めるというのはよく知られた話。

 一方で、出てくる途中に羊水を飲み込んで一時的に呼吸ができない状態にあると産声をあげないこともあるそうなのですが……彼についてはそういうことでもなく。

 ただただ、泣かなかった。

 強い意志で生きることを拒んでいるかのようだったと言います。

 その無気力な姿に、母親の目には涙が溢れました。

 「どうして」「お願い」「泣いて」

 彼女は人目を憚らずに泣き叫びました。

 すると、どうしたことでしょう。それまですんとも動こうとしなかった赤ん坊が急に泣き始めたのです。

 止まっていた時が動きだしたかのように慌ただしくなる産室。安堵と疲労で気を失う母親。

 ……これが、彼の人生で初めての「真似事」でした。

 「産声をあげる」という大事な機能を母のはらの中に置き忘れてきてしまった彼は、母を真似ることによってようやくこの世に生まれることができたのでした。


 さて、彼には三歳違いの兄がいました。

 とても利口で活発な兄です。

 彼は生まれてきた弟を大層可愛がり、兄の挙動や言葉を真似ながら成長する弟をいつも温かく見守っていました。

 弟が、三歳になる頃までは。


 幸せな家庭そのものだった彼の家族は、急に二つに分かれてしまいました。

 父と兄、そして母と弟。

 はじめに変わったのは、父親の態度でした。

 温厚で優しい父親だったのに、突然彼のことに見向きもしなくなったのです。

 その代わり、父は兄に二人分の愛情を注ぐようになりました。小学校はどうだ、友だちはできたか、と彼のことばかり話し、休日になると母と弟を置いて釣りや牧場や色んな場所に連れて行きました。兄だけが新しいおもちゃを買ってもらえることもよくあったといいます。

 子どもは敏感なものです。大人が口に出して説明しなくとも、兄は自分が父に優遇されているという事実をあっという間に飲み込みました。そしてその恩恵を受け続けるためには、母や弟には馴れ馴れしくしない方が得策であることも肌で察してしまったのです。

 兄は一緒に遊ぼうとねだる弟を拒絶し、父と同じような態度を取るようになりました。

 まだ幼い弟には、その理由がまるでわかりませんでした。

 だから愚直にも兄の真似をし続けたのです。

 兄が好きなメロンをアレルギーがあるにも関わらず自分も好きと言って無理やり食べたり、宿題をやっている隣に押しかけて自分も「あいうえお」を覚える練習をしてみたり、兄の戦隊ベルトに似たものをダンボールで自作したり……。

 そうすればきっと父も兄も以前のように彼を可愛がり、一緒に遊んでくれるだろうと信じていました。

 しかし二人の態度が変わることはありませんでした。

 むしろ真似ばかりされる兄は、より一層弟のことを鬱陶しく思うようになりました。


 ある日、兄が友だちと公園に遊びに行こうとした時のこと。

 弟もついていこうと外に出てきたので、我慢の限界に達していた彼の心につい魔が差しました。

 まだ道がよく分かっていない弟のこと、途中で走って振り切ってしまえば迷子になってついてこれないのではないか……と。

 ちょうど民家の高い塀があり、死角になりやすいT字路のあたりで、彼は急に足を早めました。


「おにいちゃん、まって」

「うっさい、ついてくんな!」


 皮肉にも、その言葉は兄としての最後の思いやりになってしまいました。

 ドンという何かがぶつかった音。耳をつんざくような車のブレーキ。


「おにいちゃ……」


 ややあってT字路まで追いついた弟は、息を飲みました。

 道の真ん中で立ち往生している車。その少し離れた先に、身体の捻じ曲がった兄が転がっていました。まるで子どもの癇癪で床に投げ捨てられた人形のようでした。

 慌てふためきながらどこかに電話する運転手。

 何事かと、ぞろぞろ集まってくる近所の人々。

 喧騒の中で彼はただ茫然と立ち尽くしていました。

 どう頑張ってもあんな兄の姿は真似することができない。

 それは、彼が初めて味わった絶望でありました。


 その後しばらくして、両親は離婚しました。

 どんよりと落ち込んだ父を励まそうと、彼なりに兄の真似をして頑張ってみたのですが、父はやはり彼を見てはくれませんでした。

 最後に目が合ったのは、いよいよ別居するという日のことでした。

 部屋にこもっている母を置いて彼だけが玄関に出た時、父は呆れたように言ったのです。


「お前は、俺を恨んでいないのか」


 まだ幼かった彼には、その言葉の意味が分かりませんでした。

 でもようやく父と話せることが嬉しくて、彼は精一杯の気持ちで言ったのです。


「だいすきだよ、おとうさん」


 すると父は自嘲気味に笑って肩をすくめました。


「残念ながら、それは違うんだよ」


 どういうことでしょう。首をかしげる彼に、父は何も説明してくれないまま去っていくのでした。




 * * *




 母との二人暮らしが始まりました。

 専業主婦だった母は生活費を稼ぐために働きだしました。

 しかし、たった一人で仕事をしながら子育てをするのは大変な苦労があったのでしょう。苛々したり落ち込んだりと情緒不安定な日々が続きました。特に仕事で失敗した日には落ち込みが酷く、酒を浴びるように飲んでは息子に当たり散らしていました。

 心配した彼は、テレビで見たお笑い芸人の真似をして彼女を励まそうとしました。

 その上手かったこと。

 母はそれまで、彼の才能に気づいていませんでした。

 兄弟の真似っこはどの家庭にもよくあることだろうと思っていたのです。

 しかし家族以外の他人も上手に真似る息子を見て、彼女はあることを思いつきました。


「ねえ、この人のことも真似してごらん」


 母はビデオを引っ張り出してきました。

 そこに映っているのは派手なメイクと派手な衣装に身を包んだロックバンドの映像でした。母はその中の赤い髪のボーカル、Sを真似ろというのです。

 お安い御用でした。

 キーの高い歌声はすぐにマスターし、曲の合間のぶっきらぼうな喋り方、ナルシストな立ち振る舞いまで完全にものにしました。さすがに学校に通う手前、髪色やメイクまで真似することはできませんでしたが、それでも母はSの物真似を大層褒めてくれました。


「あなた天才よ。大好き」


 それからというもの、母はみるみるうちに元気を取り戻していきました。

 どんなに疲れて帰ってきても、息子の物真似を見ると若い娘のように瞳を輝かせ、何度も「大好き」と言って強く抱きしめました。

 彼は母が喜んでくれるのが嬉しくて、常にSを真似した状態で過ごしました。

 そのせいで小学校では「変わった子」として見られることが多かったとしても、母から褒められることと天秤にかければ、大した問題ではなかったのです。


 しかし中学に上がり、困ったことが起き始めました。

 気づけば上履きがなくなっていたり、机の上に「調子のるな」「キモい」などと落書きをされたりしました。

 どうやら変わり者は爪弾きに遭うらしい、ということを彼は悟りました。

 ただなじられるだけなら我慢はできます。Sだって、自由奔放な女性問題で世間から非難されることがあっても堂々としている、というのを週刊記事で読んだことがありました。

 しかし、物をなくされたり傷つけられたりするのは困ります。我が家は貧しいし、母に余計な心配をかけたくはありません。


 そこで彼は、学校にいる間は別の人の真似をすることにしました。

 その相手とは、学校で一番周りから慕われている同級生A君です。

 A君はスポーツ万能で成績も優秀、世の中の流行をよく知っており、どんな相手とも気さくに話せる少年でした。

 真似をするのは簡単ではありませんでしたが、彼は並々ならぬ努力でやり遂げました。

 A君の一挙手一投足をつぶさに観察し、言動をノートにまとめ、本人にもあれこれ直接聞き出したのです。

 突然の接触にA君は驚いたことでしょう。しかし、さすが誰とでも仲良くできる少年です、彼らが友人になるのに長い時間はかかりませんでした。そして、人気者の友人になったことで、自然といじめも消失していきました。


 ところが、一つ問題が起きます。

 男は、A君を真似たがゆえに、彼と同じ人を好きになってしまったのです。

 彼女はRさんと言い、学年一可愛いと噂の少女でした。長くよく手入れされた髪は艶があって美しく、人形のように目鼻立ちがくっきりとしていて、微笑むとえくぼができるのが魅力的な人でした。

 学年一人気者のA君と、学年一美少女のRさん。同級生たちは彼らがいつか付き合うものだと思って、教室で二人きりになれるようさりげなくお膳立てをすることもしばしばでした。

 男も、A君の口から彼女の話をよく聞きました。

 きっと、本能的に牽制しようとしていたのだと思います。


「彼女、オレのことが好きらしい」「今度二人で映画館に行く約束したんだ」「お前も応援してくれるよな。な?」


 男は悔しく思いました。

 自分だってRさんに近づきたい。

 でも誰がどう見てもA君とRさんはお似合いなのです。

 どうしたらいいのでしょう。

 考えて、考えて……彼は良い方法を思いつきました。

 A君と仲良くなった時と同じように、Rさんを真似ればいいのだと。


 周囲には突然人格が変わったように見えたでしょう。

 喋り方、仕草、筆跡からご飯の食べ方まで、何もかも急に女の子のように振る舞いだしたからです。

 それまで常にA君に引っ付いてまわっていたのに、急に距離を取り始め、代わりに女子たちとドラマや恋愛の話で盛り上がるようになりました。Rさんともすぐに仲良くなり、あっという間に内緒話を打ち明けてもらえる関係になりました。


「実はね、私A君のことが好きでないの」「断るに断れなかったけど、二人きりで出かけるなんて怖い……」「ねえ、私のこと助けてくれない?」


 彼女の頼みで、男は二人のデートにこっそりついて行きました。

 そして映画の後、路地で彼女に無理やり口づけを迫るA君を見て、とっさに止めに入ったのです。


「何すんだよ!」


 A君は激昂しました。

 Rさんは恐怖で瞳を潤ませながら、男の後ろに隠れました。

 それがますます、A君の怒りに油を注ぎます。


「そうか、そういうことかよ! お前らデキてたんだな! 俺をその気にさせるだけさせて、陰で馬鹿にしていたんだろ……!」


 A君は何やら勘違いをしているようでした。男とRさんは弁明しようとしましたが、A君は周囲の目もあって居た堪れなくなってしまったのでしょう、逃げるようにどこかへ行ってしまいました。

 翌日、登校すると黒板には男とRさんの相合傘がでかでかと書かれていました。クラスメートたちは男が登校してきたのを見ると、すでに登校して席についていたRさんと顔を交互に見比べてはくすくすと笑ったり、ひゅーひゅーと口笛を吹いたりします。俯くRさんの顔は真っ赤でした。


「いっそ、本当に付き合う?」


 その日の放課後、Rさんは男に向かって言いました。

 願ってもない状況――と思ったことでしょう。彼がA君の真似をしていた頃ならば。


「イヤだよ」


 男はあっけなくそう答えました。

 驚く彼女。しかし男にはなぜ彼女が驚いているか分かりませんでした。

 その答えは、彼女自身が一番よく分かっているはずだからです。


「Rさんってさ、自分のことが嫌いでしょう」


 彼女は目を丸くしました。


「私、そんな話一言もしてないよね?」

「うん、してない。でも……わかる」


 彼女のことを真似て、彼女に近づいたからこそよくわかるのです。

 Rさんは、本当は長い髪が嫌いでした。甲高い声も、膨らみかけている胸も、ぷっくりした唇も、みんなに好意の眼差しを向けられるもの全てが嫌悪の対象でした。

 何より一番嫌いなのは、誰かに好かれることを「気持ち悪い」と思ってしまう自分の心でした。

 人から愛されるのはありがたいことのはずなのに、それを受け入れられない自分の高慢さが嫌になるのです。人に好意を返してあげられない自分を人でなしのように思うのです。

 彼女はそういう、どこかの誰かに植え付けられた正義感のために、自分の本音を押し殺して生きていました。まだ若い本人は半分無自覚だったようですが。


 男は今、Rさんのことを真似しています。

 だから、Rさん自身が嫌っているRさんのことを好きになるはずがありません。


「君が自分のことを好きになったら、もしかすると違うかもね」


 男がそう言うと、Rさんは「そっか」と泣きながら微笑みました。

 それきり、二人は卒業まで言葉を交わすことはありませんでした。

 次の日には男はまた別の同級生の真似を始め、Rさんとは次第に疎遠になったのでした。




 * * *




 中学、高校とさまざまな人を真似ながらのらりくらりと過ごしてきた男に、最大の難関が訪れました。

 就職活動です。

 就職活動では必ずと言っていいほど「自己PR」をさせられます。

 さまざまな人を真似して人生を渡り歩いてきた彼は、自分が何者であるかを上手く言葉にする術がありませんでした。そして、それを別の誰かの人生のもので置き換えるほどには、まだ肝が据わっていなかったのです。

 だから面接で自己PRを求められるとしどろもどろになってしまい、雇ってくれる会社はどこにもありませんでした。


 しばらくコンビニのアルバイトをしながら過ごしているうち、同僚の紹介で小さな劇団の舞台を見に行くことになりました。脚本は冗長でちっとも面白くなかったけれど、同僚が普段とまるで違う性格の人物を演じていることに興味を抱きました。


「良かったらお前もやってみないか」


 彼に誘われ、男は劇団入りを果たしました。

 それからは彼の黄金時代の始まりと言っても良いでしょう。

 生まれた頃から真似事をしてきた彼のことです。演劇は天職でありました。

 別人が憑依したかのような彼の演技力は瞬くうちに人の注目を集め、劇団を大きくし、事務所から声がかかり、大きな舞台に出演して、それから映画のキャストにも呼ばれ……飛ぶ鳥落とす勢いで彼は有名になっていきました。


 しかし、またも障壁が立ちはだかります。

 それは、役者インタビューでした。

 インタビュアーは必死で彼自身のことを探ろうとあれこれ質問してきます。その度に彼は就職活動の時のように固まってしまいました。これでは記事にならないと、文句を言われたことも一度や二度ではありません。

 困ったマネージャーは、学生時代の友人に話を聞いてみてはどうかと彼に提案しました。そうしたら自分が何者か掴めるのではないかと。

 彼はあまり乗り気ではありませんでした。学生時代から様々な人の真似を過ごしてきたので、自分のことを知っている同級生がいるなんて期待していなかったのです。

 それでもマネージャーに無理やり成人式に連れて行かれ、彼は渋々中学時代の同級生たちと顔を合わせました。

 同級生たちは男を見て、彼を本当の名前ではなく芸名で呼びました。


「え、なんでここにいるの?」「何これドッキリ?」「ちょ、写真撮っていいですか!?」


 誰も彼が同級生の一人であることに気づいていない様子でした。

 たった一人を除いて。


「――久しぶり」


 男は一瞬虚をつかれたような顔をしました。

 なぜならその人は彼が知っている姿とはずいぶん印象が違っていたからです。

 髪を短く切り揃え、黒のスーツを颯爽と着こなし、化粧はほとんどしていないけれど、周囲の振袖に身を包んだ晴れ姿のどの女子たちよりも目をひくはっきりとした顔立ち。


「Rさん?」


 すると彼女はにっこりと微笑みました。

 雰囲気の変わった彼女ですが、頬に浮かぶえくぼは変わらず彼女の人の良さを示していました。


 二人は成人式を抜け出して、近くの喫茶に入りました。


「驚いた。その格好、よく似合っているよ」

「ありがとう。私も気に入ってるんだ。おかげで言い寄ってくる人も減ったし」

「それなら良かった。呼び方は、Rさんのままでいいのかな」

「いいよ。よく勘違いされるけど、女の性を捨てたわけじゃないから。二十年付き合ってきてそれなりに愛着はあるし、このまま行くつもり」

「そうか。じゃあそのままRさんって呼ぶよ」

「君はどうなの。芸名、本名とちっとも被ってないでしょう」

「僕はこの名前があまり好きでないからね」

「どうして?」


 濁りひとつない、大きな瞳が覗き込んできます。

 ……この人になら、これまでのことを打ち明けても良いかもしれない。自分がどんな人間なのか、尋ねてみても良いのかもしれない。

 コーヒーを啜りながら、男はふとそんなことを思いました。

 彼が真似をしてきた相手の中で、彼に真似られる以前より人生が上手く行っていそうなのは、知る限りRさんただ一人でした。


 男は自分の生涯を滔々とうとうと語り出しました。

 口にして初めて、彼は自分が罪悪感を抱いていたことに気づきました。

 特に燻っていたのは三歳の時に死に別れた兄のことです。

 自分が真似をしなければ、兄は死ななかったのではないか。

 自分が生まれてこなければ、兄は母と父と三人で幸せに生きていたのではないか。


 黙って話を聞いていたRさんは、いつの間にか瞳に涙を浮かべていました。


「君はずっと、人に愛されたかったんだね」


 愛。その言葉は男の中に空いた穴にすとんとはまるような、心地よい響きでした。


「愛……愛、か」


 それが自分に欠けているもの。

 それさえあれば、もう自分が分からないということに悩まされることはないのかもしれない。

 男は閃きました。

 ――そうだ、結婚しよう!

 ちょうど今撮影中のドラマで恋人役の女性と、プライベートでも会う仲に発展しつつありました。


「ありがとう、Rさん。どうすれば良いかわかった気がする」


 男は何度も何度も礼を言って、きょとんとする彼女を置いて足早に喫茶を後にしました。

 彼が共演者との電撃結婚を週刊誌に報じられたのは、それから間もなくのことでした。




 * * *




 男の結婚生活はたった一年で幕を閉じました。

 冷静に考えれば当然でした。

 妻が愛したのは彼自身ではなくです。彼女の理想であり続けるためにはその役を演じ続けなければなりません。しかし、男は役者です。仕事をする限り様々な役を与えられます。そのたびに彼は別の人格へと変わります。

 次第に妻は気づいてしまったのです。この男にはがない。プライベートで会っていた時でさえ役を演じていた。つまり、騙された――と。


 離婚の際、彼女はご丁寧にも男の本性を週刊誌にリークしていきました。自分が被害者だというイメージを作り上げるためでしょう。「コピー人間」という大きなゴシック体が誌面にドンと載り、その字面からあることないこと様々な憶測がインターネットじゅうを飛び交いました。

 男の仕事は日に日に減っていきました。

 久々に振られた演技の仕事は、奇妙な言動を繰り返す薬物中毒者の役でした。

 彼はその役を見事演じてみせ……そして、覚せい剤使用の疑いで逮捕されてしまいました。


 彼のその後のことは、私も詳しく知りません。

 釈放された後に何度かアンダーグラウンドの舞台に立っていると風の噂で聞きましたが、外見も芸名もころころ変えてしまっていたらしく、彼の動向を追うのは雲を掴むようでした。


 そして、十数年が経った頃。

 彼のお母さんが亡くなりました。彼は葬儀に参列しなかったようですが、お母さんが亡くなる直前、病室にヴィジュアル系バンドのボーカリストSにそっくりの男が見舞いに来たらしいという噂を聞きました。

 きっと、彼だ。

 私は確信し、目撃者に話を聞いてまわり、その男の足跡を追いました。

 ずいぶん時間がかかりました。

 彼は地元から遠く離れた、海沿いのぼろの空き家にいたのです。


「Rさん。君にはなんとなく見つかってしまう気がしていたよ」


 彼はSにそっくりの格好をしていました。ただ、何日も洗っていないであろう赤く染めた髪はぼさぼさにほつれていて、顔には落ちかかったメイクがそのまま放置されていました。


「前に君が言った通りだった。僕は誰にも愛されてはいなかったんだ」

「私は、そんな風には」


 彼は私の言葉を遮るように首を横に振りました。


「母さんが死に際に言ったんだ。僕は、父と母の子じゃないって」


 彼がSの格好で母親を見舞いに行ったのは、最期に喜ばせたかったからでした。逮捕された時からずっと会っていなかった母は記憶の中の姿よりもひと回り小さく、そして朦朧としていました。

 彼女は息子ではなくS本人が来たのだと勘違いしました。


「やっと、やっと迎えに来てくれたのね」


 そして彼女は涙ながらに語りました。

 Sをずっと愛していたこと。何度も手紙を送ったこと。返事を待っていたこと。援助を待っていたこと。いつか迎えにきてくれると信じていたこと。

 なぜなら彼女は、元の幸せを犠牲にしてまで、Sとの子を産んで育ててきたのだから。


 話の途中、私は吐き気がして口元を押さえました。

 しかしそんな私に構わず、彼は平然とした様子で言いました。


「僕は生まれちゃいけない罪を背負った子どもだった。だから、生まれながらにして死んでいたんだよ。生きる真似事なんてせず、死ぬべきだったんだ」


 違う。違うよ。

 生まれてはいけない子どもなんていない。

 それは君の罪じゃない。君が背負うものじゃない。

 私は必死に訴えました。

 だけども彼は、凪いだ表情で、「もう遅いよ」と。懐から血に濡れたナイフを取り出しました。


 ……ああ。


 目の前が真っ暗になるようでした。つい先日ニュースになっていた事件が頭をよぎります。ヴィジュアル系ボーカリストSの刺殺事件。犯人は未だ見つからず、たびたび世間を騒がせていた女性関係の怨恨と見られていましたが……。


 しかし私はふとあることに気づきました。

 目の前の彼は、まだSの格好のままです。

 Sの真似をしている人が、果たしてSを殺そうと思うのでしょうか。

 Sが自己愛者ナルシストであることはよく知られていました。


「気づいた?」


 彼はひひっと悪戯な子どものような笑みを浮かべました。


「そう。僕はね、Sの真似をしていたはずなのに刺しちゃったんだ」「直前までそんな気はなかったんだよ」「自分勝手な本当の父親を、母さんの棺の前に引っ張り出してやろうって、ただそれだけを考えてた」「なのに」


 ――気づいたら刺していた。


 会って何を話したのか、はっきりは覚えていないそうです。

 ただSが慌てふためき「ドッペルゲンガーだ」などと言うものだから、ある感情で頭の中が真っ白になったと言います。

 その感情は、怒りでした。

 他の誰でもない、彼自身の怒りでした。

 生まれてこのかた誰かの真似をしながら生きてきた男は、怒りによって初めて「自分」を手に入れたのです。


 私は頭を抱えました。

 彼が長年追い求めてきたものを手に入れたことを祝福してあげたい。

 けれど、罪は罪です。

 彼のやったことを知ってしまった以上、見過ごすことはできません。


「そうやって葛藤してくれる善人の君が好きだよ。ああ、これは友だちとして、っていう意味ね」


 彼はけらけらと笑いました。

 そして急に近づいてきたかと思うと、ドンという衝撃が腹に響くのを感じました。

 瞼の裏がちかちかして、私は呻きながらその場に倒れました。


「安心して。君を共犯者にするつもりはない。目が覚めたら通報するといいよ」


 男はそう言って、私の横を通り過ぎていきます。


「それに、そんなに長生きするつもりもないんだ。これから死に方を考える」


 ああでも、と彼は一度立ち止まり、両手を軽く叩きました。

 パンという乾いた音が鼓膜に響いたあの感覚は、今でも忘れられません。


「どうせなら、誰にも真似されない死に方をしたいな」


 その言葉を聞き届け、私は意識を手放したのでした。




 * * *




 さて、ご存知の通り、数日前にの国で人類初の全身移植が成功したというニュースが報じられました。

 彼は宣言通り、誰にも真似できない死に方をやってのけたのです。

 肉体はどこかで生きているのでしょうけれど、今度はもう見つけられる気がしません。

 もしあなたがそれらしき人を見掛けたら、手を振る代わりに片手でコンコン狐を作ってみてください。相手が同じ仕草を返してきたら、その身体には彼が宿っているのかもしれませんね。



 〈了〉



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