3
家に着いた頃には日が傾き始めていた。テレビをつけ、配信サービスのチャンネルを選ぶ。ハゴロモを被った一日の最後は、あの好きだった映画をまた見ることに決めていた。
映画が始まり、ソファに腰掛け、足を丸める。ただ静かだった。悲劇的な始まりのミュージカル映画とはいえ、なぜだかいつもより寂しい、と言う感覚が私を包む。
昼間にかあれだけ活発だった私の情動、その動きが感じられないことに気づいた。背中あたりに感じていたあの心の反応が姿をぱっと消してしまったみたいに。
振り返っても、そこにはいるわけもない。映画を見るために落とした部屋の照明は薄暗く、小さなテーブルだけがある部屋はいっそう寂しく映る。暖房が効いてきたはずなのに温度を感じなかった。
映画を見ると、主人公の男が高らかに声を上げ、自分のこれからの人生の抱負を歌っている。感情を込めたその声が、また透明な私の中を素通りする。
言いようのない暗澹とした暗闇が胸を満たした。私は映画を見ていられず、目を瞑った。
その時、なぜだか心のずっと奥、遠くに頭の中が疼くような感覚が襲った。物理的な距離ではない。映画の声だけが耳に淡く響く。捉えた感覚へ意識を集中させた。ソファに居ながら、私はその情動の場所へと心を飛ばしていく。
意識だけが遠く、その情動を追いかけている。時間感覚はない。なんだかSF映画のワープみたいな感じだなと思っていると、ある記憶の断片が胸の中に生じた。映像としてではなく、心の触覚のような、感覚のスクリーンに記憶が輪郭を表した。
映画館にいる私、隣にいる友人。随分と集中して流れる映画に見入っている。初めてこの映画を見た時の記憶だ。その私に被さるように
「そういえばそうだった」
大学の時、映画の趣味が合った友人と映画館での再上映会に行った時だ。正直、そこまで
「ありがとう」
情動の輪郭をはっきり感じ、そこに心の芯を重ねるように、寄り添い、
意識を振り返ると、その記憶の輪郭から細い一本の糸のような知覚が、ずっと今の私に繋がっている気がする。今の私が座っていたソファからここまで。この映画を見た時々の記憶、その情動が一本の線に連なり、伸びて並んでいるのを感じた。その一つ一つが糸のように揺らめいている。
大学を卒業する前、映画の中の
仕事で失敗し、何か心がスカってすると思って、悲劇だったことを忘れて
同じ脚本家の映画が気に入り、ディスクを引っ張り出して改
その映画を通じて、心が動いた瞬間が幾千の星霜のように重なっている。一度にいろんな感情と情景が心の中に、ひいては私の胸の中で
心の体を走らせ、その一つ一つを大切に絡めて、
気づくと遠くまでいた私の心と情動たちは、糸の終端まで来ていた。今の私の姿が家のソファに座っている。周りの静けさが戻っていた。いつの間にか
私はそっと今の自分の姿を後ろから眺めるように、心を伸ばす。情動のヴェールを着込んだ私はそのまま、今の私の姿にそっと近づき、後ろから映画の光景を一緒に眺めた。ヒロインが歌い上げるシーン。悲しみの中、自分の希望を歌にして叫んでいる。
「
私はソファの柔らかさを腰に感じながら、肩を強く抱き、ずっと余韻の温かさを噛み締めた。
朝、アラームが鳴る前に目が覚めた。
ベッドから出ると、冬の寒さが厳しく、パーカーを羽織ってリビングに向かった。いつもは時間になると自動で開くカーテンを自分で開けると、まだ6時だと言うのに高く昇った太陽の朝日が強く入り込んできた。
「気持ちいい」
せっかく早起きしたので、と思い朝食の準備をする。昨日スーパーで買った食パンをトースターにセットする。目玉焼きでも、と思って卵を冷蔵庫から出して立ち止まる。せっかくだ、今日は違うものを作ってみてもいいかもしれない。スクランブルエッグとか。
フライパンに垂らした卵をかき混ぜると、不格好だけどそれっぽいものができた。それを皿に盛り付け、テーブルに運ぶ。
「いただきます」
よく焼けた食パンにかぶりついた。次に挑戦してみたスクランブルエッグ。それをフォークで掬い、口に運ぶ。
「
作り方があっているかわからないけど、きっとこういう味だ。口の中に卵の素朴な甘さが広がる。
それをよく味わう。今日を噛み締める味がした。
<了>
私を羽織る 蒼井どんぐり @kiyossy
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