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 家に着いた頃には日が傾き始めていた。テレビをつけ、配信サービスのチャンネルを選ぶ。ハゴロモを被った一日の最後は、あの好きだった映画をまた見ることに決めていた。

 映画が始まり、ソファに腰掛け、足を丸める。ただ静かだった。悲劇的な始まりのミュージカル映画とはいえ、なぜだかいつもより寂しい、と言う感覚が私を包む。

 昼間にかあれだけ活発だった私の情動、その動きが感じられないことに気づいた。背中あたりに感じていたあの心の反応が姿をぱっと消してしまったみたいに。

 振り返っても、そこにはいるわけもない。映画を見るために落とした部屋の照明は薄暗く、小さなテーブルだけがある部屋はいっそう寂しく映る。暖房が効いてきたはずなのに温度を感じなかった。

 映画を見ると、主人公の男が高らかに声を上げ、自分のこれからの人生の抱負を歌っている。感情を込めたその声が、また透明な私の中を素通りする。

 言いようのない暗澹とした暗闇が胸を満たした。私は映画を見ていられず、目を瞑った。


 その時、なぜだか心のずっと奥、遠くに頭の中が疼くような感覚が襲った。物理的な距離ではない。映画の声だけが耳に淡く響く。捉えた感覚へ意識を集中させた。ソファに居ながら、私はその情動の場所へと心を飛ばしていく。

 意識だけが遠く、その情動を追いかけている。時間感覚はない。なんだかSF映画のワープみたいな感じだなと思っていると、ある記憶の断片が胸の中に生じた。映像としてではなく、心の触覚のような、感覚のスクリーンに記憶が輪郭を表した。

 映画館にいる私、隣にいる友人。随分と集中して流れる映画に見入っている。初めてこの映画を見た時の記憶だ。その私に被さるように情動は私に寄り添っているもっとこの世界に浸りたい


「そういえばそうだった」


 大学の時、映画の趣味が合った友人と映画館での再上映会に行った時だ。正直、そこまで期待していなかったあの子が楽しめるかが不安けれど、予想外に面白く、そして心に迫るものを感じた。映画の後、そこまでハマらなかった友人に対して、映画の良かった所をひたすら語り散らかしてしまったを思い出すうるさくてごめん。今思うと恥ずかしい。でもこの時の感情が、この時に寄り添ってくれていたあの情動感動が、間違いなく私をここに連れて来たずっとここにいた


「ありがとう」


 情動の輪郭をはっきり感じ、そこに心の芯を重ねるように、寄り添い、包みこむこちらこそ。ほんのりと温かい。その温かさを感じながら、逆に情動がまた一つ私に被さり、重なっていく。それは一つの透明なヴェールのように、心を優しく覆っていくありがとう

 意識を振り返ると、その記憶の輪郭から細い一本の糸のような知覚が、ずっと今の私に繋がっている気がする。今の私が座っていたソファからここまで。この映画を見た時々の記憶、その情動が一本の線に連なり、伸びて並んでいるのを感じた。その一つ一つが糸のように揺らめいている。


 大学を卒業する前、映画の中の美術デザインに感嘆した時デザイナーってなれるのかな

 仕事で失敗し、何か心がスカってすると思って、悲劇だったことを忘れて見てしまった時今見るものじゃなかったな……

 同じ脚本家の映画が気に入り、ディスクを引っ張り出して改めてこの映画を見てしまった時やっぱ見せ場の作り方が上手いな


 その映画を通じて、心が動いた瞬間が幾千の星霜のように重なっている。一度にいろんな感情と情景が心の中に、ひいては私の胸の中で広がっていく集まっていく。うまく形容のできない、情緒の密度に圧倒された。

 心の体を走らせ、その一つ一つを大切に絡めて、私に重ねていくありがとう感情の機微あの時も一つ一つあの時も私のあなたが忘れていた情動を編み物のように形作っていく思い浮かべる。少しずつ形の違うその情動わたしが、様々な色懐かしさがの糸のように知覚される込み上げる。心のヴェールは幾重にも重なる。いつの間にか大きな着物のようになったそれを私は羽織り、寄り添っていくあたたかい

 気づくと遠くまでいた私の心と情動たちは、糸の終端まで来ていた。今の私の姿が家のソファに座っている。周りの静けさが戻っていた。いつの間にかあなたをめぐる旅は終わりを迎えていた。

 私はそっと今の自分の姿を後ろから眺めるように、心を伸ばす。情動のヴェールを着込んだ私はそのまま、今の私の姿にそっと近づき、後ろから映画の光景を一緒に眺めた。ヒロインが歌い上げるシーン。悲しみの中、自分の希望を歌にして叫んでいる。あなたはそっと自分を包み込むように首に手を回し、耳元で囁く。

 「やっぱり好きだなこの映画やっぱり好きだなこの映画

 私はソファの柔らかさを腰に感じながら、肩を強く抱き、ずっと余韻の温かさを噛み締めた。




 朝、アラームが鳴る前に目が覚めた。

 ベッドから出ると、冬の寒さが厳しく、パーカーを羽織ってリビングに向かった。いつもは時間になると自動で開くカーテンを自分で開けると、まだ6時だと言うのに、高く登った太陽の朝日が強く入り込んできた。


「気持ちいい」


 せっかく早起きしたので、と思い朝食の準備をする。昨日スーパーで買った食パンをトースターにセットする。目玉焼きでも、と思って卵を冷蔵庫から出して立ち止まる。せっかくだ、今日は違うものを作ってみてもいいかもしれない。スクランブルエッグとか。

 フライパンに垂らした卵をかき混ぜると、不格好だけどそれっぽいものができた。それを皿に盛り付け、テーブルに運ぶ。


「いただきます」


 よく焼けた食パンにかぶりついた。次に挑戦してみたスクランブルエッグ。それをフォークで掬いながら口に運ぶ。


うん、美味しいおいしい


 作り方があっているかわからないけど、きっとこういう味だ。口の中に広がる。

 それをよく味わう。今日を噛み締める味がした。


 <了>

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私を羽織る 蒼井どんぐり @kiyossy

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