秘中の幻影列車

@adgjmptwa1234

秘中の幻影列車

 解けたマフラーを直し、息を整えながら座席に座る。それと同時に扉が閉まり、電車はゆっくりと走り始めた。座ってから自分の座席が優先席だということに気が付いたが、わたし以外に人が見当たらないので、特に動くことはせずそのまま座り続けた。

 窓の外では、なにかを無理やり引き離すように、強引に景色が変わっていく。自転車が数台止められているだけの駐輪場が右に遠くなる。その中の一つ、わたしの自転車が、少し不安気にこちらを見ている気がした。

「でもお前に感情なんてないだろう? その不安はわたしのだよ」

 すぐに見えなくなった自転車に向けて、心の中で呟く。わたし以外に乗客のいないこの車両だったので、口に出してみてもよかったかもしれない。


 久しぶりの電車に、鼓動は終始不規則であった。わたし以外に乗客がいないのが幸いであったが、昔から電車に乗るということが得意ではなかった。偶然乗り合わせた無関心なはずの他人同士。しかし、どうしてこんなにも意識してしまい、疲れてしまう。

 暫く揺られていると、電車は次の駅に停車した。すると、一人の少女が軽い足取りで乗ってきて、わたしの向かいの座席に腰を下ろした。こんなに席が空いていて、わたしの正面に座るなんて酷い。わたしはそれまで景色を楽しんでいた目を下げなければいけなかった。なぜなら少女を見ていると勘違いされたくはない。

 扉が閉まり、再び電車は動き出した。


 少女の足は、ブランコで遊ぶみたいに揺れている。真冬だというのに、日に焼けた足を存分に晒している。その足先につっかけたサンダルが絶妙なバランスで揺れるので、催眠術にでもかかったように、それから目が離せなかった。わたしは気になって、足から上を盗み見た。少女は、淡い夕日のような色の半袖シャツに、鋏で短く切ったかのような、裾から沢山糸の出ているジーンズを履いている。押しつぶされた太腿は、それが本来の肌の色なのだろうが膝から足先に比べて色が白く、ジーンズの短さが強調されているようだった。隣の席には、チラシのような紙の束が無造作に置かれている。整えて集めればなにかの辞典になりそうな程の紙の束に、なにが書いてあるかまでは読み取ることができない。少女の荷物はこれだけで、鞄も帽子も見当たらなかった。

 この寒い中で、子どもだから足が出ていても平気、なんてことはないだろう。わたしは、真逆の季節を生きるかの如き少女の装いを不思議に思ったが、それでも電車はわたしの気など知らずに、当たり前に進み続ける。

 少女の顔は、下を向いているのでよく見えない。しかし、電車の揺れとは別に、少女の首が頷くように傾いてくるので、どうやら眠りの中に誘われているらしいことはわかった。そう思うと、わたしは遠慮なく少女を観察できたし、少女越しの窓の風景も、少女が乗ってくる前と同じように眺めることができた。艶やかな黒のおかっぱが、電車に合わせて優しく揺れていた。

 やがてアナウンスがあり、次の駅に停車するために電車が速度を緩め始めた。すると、少女の傍に置かれていたチラシの束が、音を立てて床に滑り落ちた。氷上を滑るようにチラシは、床の上をあちらこちらに散らばった。少女はその音で目を覚ますと、慌てたようにチラシを拾い始めた。床に膝を付き、紙に皺が付くのも気にしていない様子である。

 車両が甲高い音を立てて停車すると、扉が開いた。

 わたしも、目の前に滑ってきた一枚を座席に座ったまま拾い上げ、少女に渡そうと、それを差し出した。すると一瞬、少女と強く目が合った。前髪の奥から、なにかに怯えたような、酷く焦るような瞳が、わたしを捉えた。しかし少女は、わたしが差し出したチラシには目もくれず、床にも数枚を残したまま、来た時と同じ、軽い足取りで降りていってしまった。少女が降りると同時に、冬の冷たい空気が、思い出したように車内に吹き込んできた。

 わたしは、行き場のなくしたチラシを手に、少女の行く先を見送ろうと振り返り、窓の外に目を走らせたが、そこに少女の姿はなかった。周りを見渡しても、寒そうにポケットに手を入れて次の電車を待つような人、わたしと同じ電車から降りたようで、早々に改札へと向かう人、全てが真冬に正しくて、あの少女の異端さは、もうどこにもなかった。

 わたしは、驚きに思わず声が出そうになるのを堪えた。正面を向き、座り直す。小さく深呼吸をして落ち着きを取り戻そうと試みるも、頭は混乱していた。

 置いてきたはずの過去が、今この手の中にある。わたしはチラシに目を落とした。

「信じることで楽になれる――」

 わたしはその一文を殆ど睨むようにじっと見つめた。そして、固く結んでいた口元から力が抜け、思わず笑みが零れた。それと同時に扉が閉まり、再び電車はゆっくりと動き出した。

 先程の少女はわたしだった。もしかしたら過去のわたしによく似た、あるいは、同じ境遇にあれば皆同じ眼を持つのかもしれないが、兎に角あの少女は、過去から今に迷い込んだ、幼きわたしだ。わたしは不思議と愛おしいような感覚を覚え、丁寧にチラシを折りたたむと、鞄にしまった。わたしが必死の思いで逃げ出したいつかの場所は、今も誰かが生贄となり、それ自体が一つの生命体として生き続けているのだ。

 今ならわかる。あの少女のことを思うと、筆舌に尽くしがたい思いにもなるが、それでもいつかは彼女も成長する。子どもは非力で、常に誰かに守られるべきだ。しかし、それだけではどこにも行けないと本人が気が付く日は、決して遠くないだろう。

 わたしは、床に落ちている残りのチラシを拾おうと腰を上げた。今から彼女の未来が楽しみに思えて、しかしすぐに、あれは自分なのだと思い直して、一抹の期待も木枯らしのような渇いた感触に変えてしまった。なにかから逃げた先が、必ずしも幸せであるとは限らない。かつてのわたしが、魔物から決死の覚悟で逃げ出した時、その先のことになど少しも考えが至らなかったように思い出す。今のわたしは幸せだろうか。少なくとも過去を振り返ればそう思えるかもしれない。それはある意味ポジティブというか、便利というか。

 わたしが向かいの、少女が座っていた付近に置いていかれたチラシに手を伸ばした時、丁度女子高生が乗ってきて、なんとその足がチラシを踏みつけた。女子高生は足元になど注意を払っていないようで、チラシを足の裏に敷いたまま、わたしの右斜め向かいの座席に腰を下ろした。

 わたしは、制服という名の鎧を目にしただけで圧されて、大人しく元の座席に身を沈めた。女子高生は依然チラシを足の下に敷いたまま、鞄から本を取り出すと、素早く自分と外の世界との間に境界線を作った。

 先程の少女といい、この女子高生といい、どうしてこんなに席が空いていて、比較的わたしの近くに座るのだろう。もしかして、わたしは皆から見えていないのではないかという気がしてきた。

 扉が閉まると、電車は再び動き出した。それにしても、優先席に座ってしまうという罪は、先程の少女やこちらの女子高生によって許されたように思う。だってあなたたち、わたしより若いから。


 わたしは皺の寄ったチラシと、本人に自覚はないのだろうが、それが逃げないように押さえつけるかの如きローファーを眺めていた。艶もなく安っぽいその黒い靴は、つま先の内側が削れており、わたしが学生時代に履いていたものに似ているなと、なにとなしに思い出していた。

 不意にわたしの背後から夕日が差し込み、本を読む女子高生を照らした。女子高生は手で日を遮ると、なんともないというように本を読み続けた。わたしはそれに便乗するかのように、女子高生を盗み見た。日を遮るために上げられた腕によって顔は見えないが、着ている制服と鞄にぶら下がった熊のキーホルダーに見覚えがある。わたしは思わず、無遠慮に少女を眺めてしまう。

 あのセーラー服はわたしがかつて通っていた高校のもので、キーホルダーは中学生の時、誕生日に友達に貰ったものだった。今でも部屋に飾っているその小さな白い熊は、一緒に連れ歩く内、いつの間にか煤けてしまっているところまで同じであった。

 偶然かもしれない。しかし、斜め前で本を読むこの女子高生に、自分を重ねずにはいられなかった。今日の電車は不思議なことに、過去と今が交差してしまうのだ。そんな突飛なことを、わたしはなぜか疑わずに飲み下すことができた。線路沿いに建つ家々が、夕日を反射して眩しく流れていく。わたしも思わず目を細めた。

 すると、随分スカートの短い女が隣の車両から扉を開けて入ってきた。彼女も夕日が眩しいようで、顔の前に手を翳しながら、わたしの左斜め前に腰を下ろした。夕日が逆行になるように座ればいいものを、と思ったが、きっと彼女らもわたしも初めから座る位置が決まっており、その運命から逃れられないのだと、不思議な風に納得をした。

 そしてわたしは、信じがたいこの不思議な電車を少しだけ理解した。なぜなら、後から座った女は、昔ながらのセーラー服とは真逆の装いで、明るく染めた髪を緩く巻いて、底の高い靴を履いており、それも、紛れもなく過去のわたしだったからだ。その女も床に落ちていたチラシに気が付いていない様子で、武器にもなりそうなその厚い靴で、少女が拾い切れなかった一枚を踏んだまま気が付かないでいる。

 後から座った女は、慣れないように太い足を無理やり組んで、手で日を遮りながら、小さな鞄から本を一冊取り出した。わたしは、際どいスカートにいささか戸惑いを覚えたり、本以外にあの小さな鞄にはなにが入るのかを考えた。かつてのわたしであるはずなのに、どうやらもうそこからは随分離れてしまったのだなと、改めて思い知らされた。それが良いことなのか悪いことなのか、わたしにはわからない。ただ、今のわたしは、もう本なんて随分読まないし、できるだけ足を見せない服ばかりを選んでしまうし、そして、見栄えよりも実用性のある鞄を使うようになった。大人になったとか落ち着いたとか、そういう風に言えば聞こえはいいが、わたしはなぜかあの頃に置いていかれる、過去に見捨てられるというような、酷く悲観的な言葉を選び取りたくなるのだ。

 先程よりも一層色を濃くした夕焼けが、二人に降り注いで美しい。まるで見たこともない世紀末のようで、不思議なこの状況らしく良いと思った。

 わたしは最近になって悪くなった目を細めて、前に座る二人を改めて観察した。そして一つ発見をした。二人は同じ本を読んでいる。わたしはその本を懐かしく思った。あの時期、気に入って繰り返し読んでいたその短編集。そういえば、特に好んで読んでいた一編は、主人公が何気なく乗った電車が、妖怪の住む異界とつながっていたという風変わりな内容であった。猫又という、字の通り猫の姿をした妖怪が、異界に迷い込んでしまった主人公を妙に色っぽく労わる場面をなぜかよく覚えている。小説を読む際に情景がはっきりと浮かぶ者と、反対になにも浮かばぬ者がいると聞くが、わたしは前者であるので、頭の中に着物を着たぶち猫が奇妙な笑みを浮かべ、人間のような所作でもって話している様が見える。

 いつの間にか、左側に座る女の組まれた足は解かれていた。黙々と本を読み続ける二人の顔は相変わらず手に遮られたままで見えなかったが、開いた方の手で器用にページをめくる二人の様は、見た目に違いはあれど、双子のように瓜二つであった。その猫背は本人たちも無意識の内であるようで、自分がこの中に混ざってたとして、寸分の違和感もないのだろうなと思った。身なりは違えど人の核は、良くも悪くもそう簡単に変えられるものではないのだ。

 そういえば、自分と瓜二つの人間に出会うと死んでしまうという言い伝えがあるが、この場合はどうなるのだろう。不覚にも電車に乗った時の緊張など忘れて、胸の高鳴りを感じていることに気が付いた。


 線路沿いの家々の窓は、夕焼けを反射して燃えるように光った。時折水を張った田があれば、それも大きな鏡となり、わたしに背後の夕暮れを教えてくれた。

 暫く変わらない景色の中、先程までわたしと三角形を作るように座っていた二人は、それぞれが前触れもなく気まぐれに、わたしの降りたことのない駅で降りていった。それでもやはりどうしてか、他人のようには思えなかった。

 それぞれが最後まで気が付かずに踏んでいたチラシを、二人が降りてしまってからわたしは拾い、靴型と一緒に折りたたんで鞄にしまった。


 終点に近づくにつれ山や田畑が少なくなり、建物に視界を遮られるようになった。走る電車はいつの間にか逢魔が時に飲み込まれ、それでも乗客はわたし以外にいなかった。

 そして終点の一つ手前の駅で電車が停車した時、最後の乗客が乗ってきた。

 わたしはその人を見るなり、驚きに目を見張った。わたしの正面にゆっりくと腰を下ろしたその人は、解けたマフラーを直すと、こちらをしっかりと見据えた。

 それは、紛れもなくわたしであった。過去でも未来でもない、今を生きるわたしであった。格子柄のマフラー、鼠色のコート、黒いブーツまで、家を出る時に見た姿鏡のままである。向こうは驚く様子もなく、ただ静かにわたしを見ていた。

「早かった」

 半分マフラーに顔を隠されながら、正面に座るわたしが口を開いた。非常に小さな声で、耳に届いたというよりは、脳に直接話しかけられているような感覚であった。わたしは今までと違い、突然話し掛けられたことに動揺しながらも、言葉の意味を探した。

「乗り過ごしたとしても、止まらない。速く進みたいとか、戻りたいとか、わたしの意志は関係ない」

 電車のことを言っているのだろうか。当たり前のことを再確認させられて、わたしは頷くしかなかった。正面に座る女の声は、紛れもなく自分の声であるのに、知らない声であるように聞こえた。

「これ以上は進みたくないのに、どうして止まってくれないのだろう」

 急な問いかけに、わたしは開いた口が塞がらない。目の前に座るわたしは、これ以上は進みたくない、とはっきり口にした。目的地に着くことができなくなるので、それでは困ると思う反面、明瞭な言葉の持つ力が、わたしを圧倒した。

 どうして止まらないのだろう、止まって欲しい、それでも進まなければ、戻りたい、どこへ? わたしはどこへ向かうのだろう。積み上げたものが崩れていくように、わたしは自分の本心がわからなくなっていく。それでも次に口から出た言葉は酷く冷静で、不思議とそれに落胆している自分もいた。

「わたしの為にだけ動いている訳ではないから」

 なんだか自分の声も、わたしではない誰かの口から出た言葉のように思えてくる。

 正面に座るわたしは、相変わらず表情のない顔でわたしを見つめていた。人にじっと見つめられるのは得意ではないが、今のこれは鏡のようで、そこに嫌だとか苦手だとかいう感情はなかった。

「そっか」

 目の前のわたしは少し微笑んで言った。わたしの思いつきの回答で満足したのか、それとも最初から答えなど求めていなかったのか、妙に穏やかな顔をしている。

「いつ降りられるのかな、わたし……たち」

 わたしは自分でもどうしてそのような質問をしたのかわからないままに、勝手に口が動いたというように言葉が出た。

 すると、もう一人のわたしが不思議そうにこちらを見つめて言った。

「終点まで行くのでしょう? だって次が最後だし。途中で降りたい人は、もうこの電車には乗っていない」

 わたしはその言葉を聞いて、自分の質問の滑稽さに気が付いた。先程から意味のない会話をしているように思う。しかし、その回答は、やはり同じ人間が同時に存在するという確信をわたしに与えた。変な質問をしておいて答えは馬鹿みたいに真面目に返すなんて、わたしたちの卑怯な部分は切り離せないのだ。

「そっか」

 わたしも目の前の自分に倣って、返事をした。


 夕暮れ時の長閑な風景はいずこへ、乱立するビルの間を切り裂くように電車は走っていた。どうしたらここまで隙間なく建物を建てられるのだろうと、思わず感心してしまう。次第に電車は速度を緩め、駅の中に入って行った。

 わたしは腰を上げ、もう会うことのないだろう目の前の自分に別れを告げようと、最後にそちらを見やった。すると驚いたことに、先程までそこに存在したはずの自分は、一瞬目を離した隙に跡形もなく姿を消していた。そこにはただ優先席を示す色の座席があるだけで、わたしが過去と融合した痕跡はなにもなかった。

 わたしは思わず、金縛りにでもあったかのように体が硬直してしまったが、それもほんの少しの間だけで、何事もなかったように電車を降りた。

 電車を待っていた沢山の人がわたしと入れ替わりで一斉に乗り込むと、先程までのわたしの記憶を塗り替えるように、優先席もそれ以外の席もすぐに埋まってしまった。わたしはそれに酷く感傷的な、例えば、自分がこれだけは譲れぬと大切に守ってきた領域を、いとも簡単に何食わぬ顔で侵されたような、そんな気分を覚えてしまった。こんな風にわたしは、日常の何気ない風景にすらどうして、敏感に、歪曲して物事を捉えてしまうのか。

 わたしは、相変わらず意味の見出せぬ目的地に歩を進めながら、これについて考えた。そして、この非常に心の下がるような、つまらない病に、どうして病という、捻りも面白みもない名前をつけた。化粧をして、寒いといけないとマフラーまで巻いて、長いこと揺られてここまで来たのに、どうして足は重いままなのだろう。それでいて、どうして歩みは止まらないのだろう。

 駅から出て、ビルの間から空を見上げると、今のわたしの気持ちを表すように、宵の色が広がっていた。電車が走り出す時の甲高い音が、耳の奥で聞こえたような気がした。

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