鬼咬

目々

昼の匣、夏の檻

 右手利き手の小指が口内に呑まれてすぐに齧り取られて、先端から長い痛みが発火する。


 怪異バケモノは俺に馬乗りになったまま嬉し気に歯を剥いた。五体満足の成人男性の形をしているものにのし掛かられているのだから、当然のように身動きはできない。ぜいぜいと過呼吸寸前のような息をしながら見上げれば、常人より明らかに多い歯をびっしりと揃えた口元から、唾液で薄まった俺の血が、シャツの胸元にぼたぼたと染みを作る。

 血の跡って落ちないんだよな。子供のときに住んでたアパートで階段から飛び降りる遊びをしていたら案の定着地に失敗して顔を思い切りぶつけて服も肌も血まみれにしながら帰宅したら母親にそうやってめちゃくちゃに叱られたのを思い出す。そうやって手間のかかる洗濯物を増やすことの面倒さと罪深さは一人暮らしをするようになってよく理解できるようになった。そんなどうでもいいことをだらだらと考えながら、俺は掴まれたままの自分の右腕をどうにか視界に入れないように努める。何が起きているのかは、痛みと状況で何となく想像はついてしまう。そうだとしても、自分の体の一部が齧られていくのを直視するのはさすがに辛い。


 夏に地元の馬鹿どもと肝試しに行った廃村、噂通りに存在した座敷牢の中にいたバケモノが俺にくっついてきた。

 他人に言われたら正気を疑うか素行次第で警察への通報も視野に入れるくらいの物言いだということは分かっているが、何しろ当事者なのだから疑っても笑ってもどうにもならない。やけに古めかしい書生じみた格好の、口の中に歯をみっしり生やしたバケモノ──元の噂だと鬼子ということになるのだろうけども──は、どういうわけかあの座敷牢を訪れた俺に目をつけたようで、あの故郷クソ田舎で話題の廃村心霊スポットから都会で大学生として生活する俺のアパートの一室に家主より先に居座っていたのだ。


 最初にこの部屋に帰ってきたとき、ドア越しにわざわざこのバケモノが呼びかけてくれたので、俺は躊躇なく家に入ることを諦めることができた。あの廃屋からこの部屋にどうやって先回りし入り込んだのかなど、ただの人間には分かるわけがない。コソ泥や狂人ならともかく相手はバケモノだ。真面目に考える甲斐も意味もない。自分の生活を侵食されたという事実は恐ろしかったが、都会だということと友人知人の好意のおかげで一週間は家に帰らずとも生活ができた。


 それでもいつまでもこのままというわけにもいかないことは俺自身が分かっていた。失くして惜しい家財や物品はないが、せめて最低限の貴重品くらいは持ち出さないと引越しもできない。八月が終われば大学も始まる。

 金で釣って友人なり先輩なりに持ち出しを頼もうかとも思ったが、条件を話すと大概のやつが逃げていったのだからどうにもならなかった。俺の友人なんてものをやっているくせにちゃんとリスクの判断ができるような頭があるのが不思議だった。


 結局自分でやるしかないが、せめて昼間ならいけるだろうと全くの希望的観測を以て、勝手知ったる自室へと突入した。

 とにかく貴重品だけ持ち出そうと、靴も脱がずにそのまま上がり込んでは真っ直ぐにリビングに向かい、空き巣のように棚を漁っていた。


「連れに来てくれたか。長く居たんだ」


 足を広げた蜘蛛じみた異様に大きな手が、軋むほどに肩を掴んだ。

 耳元で囁かれた声が、あの夏の日に聞いたものと同じだとすぐに思い出す。

 砂を混ぜ込んだ水飴のような、錆びて忌まわしいのに縋るような甘さのある、厭な声だった。


 逃げるどころか抵抗もできなかった。

 そのまま勢いよく引き倒されて、夏の日射しに温くなった床に強かに背中を打った。

 息が詰まる。呼吸も絶叫もできないほどの背の痛みと状況の悍ましさに、瞬きもできない目にじりじりと涙が滲む。

 涙で滲んだ視界一杯にあのバケモノの笑顔と天井が見えて、叫ぶだけの息も気力もすぐに潰えた。


「叫んだら騒いだら喚いたら、喉から噛む。致し方ない、おれはそう教わったので」


 誰にだよと思ったが、顔の間近でがちがちと耳障りな音を立てる歯の前では抵抗なんぞをする気にもならなかった。

 昼の日射しにぎらぎらと光る割れた茶碗の欠片を手当たり次第に植え込んだような乱杭歯と、吐きつけられるじっとりと湿った生温かい息がもう何もかもが手詰まりで手遅れだということだけ教えてくれた。


 最初は耳だった。

 猫がすり寄るようにバケモノが頭を寄せてきたかと思ったら、歯を掛けるようにして裂き切られた。身を逸らそうにも育ち過ぎた蜘蛛にも似た掌が肩口を掴んでいたので、精々が首を横に倒すぐらいしかできなかった。腕を掴まれ指を含まれた。薬指と中指は一度で噛み切られた。


 肩口、二の腕、肋にへばりつく薄い肌と肉。

 死ににくい、弱りにくい場所ばかりを幾度も噛まれて毟られた。


 あの歯の群れががちがちと擦れる音を立てるたびに、人の肉も骨も易々と噛み砕かれていく。そんなことができるのはやはりこいつがあの座敷牢に閉じ込められるべきバケモノだからなのだろうか。じゃああの村に鬼がいたのは本当だったんだなとどうでもいい思考が浮かぶが、すぐに噛み裂かれた傷口の疼きに塗り潰されていく。


「母のように柔らかい、父のように温かい、お前は優しいものだな」


 ぬらぬらと歯を血に染ませたまま、怪異が目を細める。齧るたび、長く伸びた生白い喉が俺の欠片を嚥下するたびに、聞いてもいないことをつらつらと喋るのだ。子供が捕まえた虫を語るように、読んだ本の感想を喚くように、ただ感情のようなものを手順だとでもいうように告げるのだ。

 その一言を吐き出すたび、口内が露わになる。

 あの夏の日に座敷牢の薄暗がりで、一目見ただけで異形だということを突きつけてきた、大小様々な歯に埋め尽くされた赤黒い洞。その上今回は明るい昼間──座敷牢でも何でもない日当たりの良好なアパートの一室であるせいで、その歯が粘液に濡れて光るのも齧り取った肉片と血に淡く染まっているのも見て取れるのが余計に気が滅入った。


 ざぶりと湿布を引き剥がすような音がして、左腕に痛みが走る。見る気もしないが広い範囲を噛み千切られたらしい。焼かれたような熱さが広がっていく。それでもどうにか悲鳴を押し殺せば、攣れた喉が排水口のような音を立てた。

 バケモノは俺の喉元をじっと見つめている。


 途端、口元からだらりと舌が垂れる。爛れた傷のように赤い、けだものじみて長くて薄い舌だった。


 そりゃあ喋り辛かったろうな、とあの座敷牢で抱いた感想をもう一度反芻する。歯もあの有様でこの舌ならば、人の言葉が使えるだけ上出来なのかもしれない。

 自力で喋れるようになったのか、それとも誰かに教わったのか。何をどう想像しても、あの座敷牢の赤い格子を背景にした状態では愉快な絵にはならなかった。


「兄さんには、あまり似ていないな、お前」


 その一言だけをやけに静かな目で呟く。そうして怪異は何も言わずに俺の肩口に顔を埋める。すぐに肌と肉を抉られた痛みが湧く。噴き出す血が喉元まで流れてきたが、やけに温くて不快だった。


 見上げた天井は午後の日射しに明るく、背にした床はバケモノに圧されるたびにごつごつと骨を嬲る。

 夏の真昼の白い光、生温い室温、人肌の熱に媚びる床。すべて覚えがあるはずのものなのに、どうにも現実感がない。

 そんな日常に馴染んだものたちの中で、俺はこうしてバケモノに食い嬲られているのはどういうわけなのだろう。

 ふと、どうにもならないことを思う。俺はまだあの座敷牢にいるのではという錯覚だ。ここは俺の暮らすアパートでも何でもなく、あの日の射さない屋敷の奥、暗がりでなお悍ましい程に赤い格子で区切られた座敷牢の中なのではないかという、荒唐無稽な妄想を抱く。

 あの座敷牢で逃げそびれて、あの村から出られずに、あの檻にいたバケモノに貪られている。


 行かなきゃよかったんだな、あんなところ。鬼の村にも、廃村の跡にも、座敷牢にも。

 今更な後悔に浸りながら、縋るように肩を縫い付ける怪異の顔を見上げる。


 夜のように、亀裂のように、無縁墓のようにただ黒い目が意外にもこちらを真っ直ぐに見返して、鎌の刃のように細くなった。


「長く待った甲斐があった。本当に、甲斐があった」


 開いた口の中で群れ生えた歯はぬらりと光り、口の周りは食事を食い散らした子供のように汚れている。

 垂れて乾いた血と、貪り塗れた血と、バケモノの体液が混ざって薄まり滲んだ血。

この華やかでさえある血化粧はすべて俺の血によるものなのだということを誇るように、怪異は口を開いた。


 自分の血がこれほどに赤いということがやけにおかしくて、笑うべきか泣くべきか迷ったが、嗚咽と恐怖で絞め詰まった喉からは呻き声しか出せそうもなかった。

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鬼咬 目々 @meme2mason

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