画皮

@edogin

鈍的剥離


 麻布の本屋で「accident」というぬべっとした青い表紙の写真集を見つけた。

 中を開いてみる。

 高速道路でトラックが横転してる場面。積荷のオレンジが泡立つ血のように背からこぼれてた。

 着陸に失敗したであろう飛行機の翼が片側不細工にひしゃげてる。その手前に首から空気が抜けたみたいに力なく項垂れてるキリンの死体。キリンの首に翼をぶつけた場面らしかった。

 自動車に突っ込まれた木造建築。

 地震直後か崩れてるサイロ。

 ぐちゃぐちゃの鉄骨、その上にオレンジの作業員。

 難破クルーズ船。

 レッカー車引く車。

 粉々のスマホのスクリーン。

 ガラス片。飛び散るガラス。蜘蛛の巣みたいなひび割れガラス。

 道路の大穴。

 倒れた高速道路。

 豚の死体。

 スクリューで切り刻まれたらしいクジラ。


 とても見ていられないのに、引き込まれる。

 人が殺したものたちを免罪符的な「アクシデント」という言葉で封殺しているこの写真集の趣味の悪さに惹かれた。

 悪趣味に楽しみ、ページを閉じた。値札を見たかったがなかったから買わなかった。


 苦笑いを一つ浮かべて、胸の底に熱いものを覚えた。

 その火を消すように右の踵に重く体重をかけて、タバコの火を消すようにグリグリと地面に当てこする。


 先週、後輩が交通事故で死んだ。


 同じサークルだったから顔に覚えがある。でも、仲が良かったとは思わない。それなりの付き合いだった。だから、何日かはその話で持ちきりだったのが煩わしく思った。


 月並みだが交通事故なんて宝くじを当てるよりも身近なことだ。次に飲酒運転の犠牲になるのは自分かもしれない。勝ってもないのに兜の緒を引き締める良い機会になってしまった。


 俺は解剖学の本を買いにきたつもりだった。姿勢を正しくしたくて、そのマニュアルになりそうな本を探していたのだ。がしかし、姿勢ってのは専門書がない。だから、解剖学的に正しい姿勢を探すほかなかった。医療系の本は健康に関わるから詳細なことが書かれてるに違いないと思ってのことだ。ここ最近は腰痛のきらいを感じている。だから、なおさら姿勢を正さないといけない。思い出したように背筋を正して、すれ違う客に自分の在り方を見せつける。伸びた首を前に突き出してるよりかは幾分マシだと勝った気になる。


 谷川俊太郎の詩集と医者が探偵をする小説と猫が死ぬ小説を買ってエスカレーターを降りる。目的を達成できなかったし、ここにはまたチャレンジしに行こう。


 なんだかくすぐったくて首の裏を掻く。それで浮かれてエスカレーターを駆け降りる。警備員が「止まって乗ってください」と声をかけるときにはもう着いてしまった。気づくまで遅いな、と反感を抱きながら、軽く一礼しくるりと回ってさらにエスカレーターを下る。


 まるで螺旋階段を降りてる気分だった。そんなに気分がいいわけでもない。たまの家族ずれが道を塞いでると急く気持ちにケチつけられたみたいで嫌んなる。蹴り落としたら犯罪だろうな。


 立ち止まって思慮に耽る。けど、エスカレーターだからそれほど時間をくれるわけでもない。動かなくても動かされる。地べたの一階だ。


 それから大学に行った。訳のわからん言葉で訳のわからんことを説明される。分かったふりをしてるうちに分からなくなったので、わからない部分を探しに行く。分からないところがわからない。こりゃあ本格的にダメになったな、と冴え冴えと思った。


 一分。二分。三分。ずるずると引きずって、終わった。挨拶もなく終わりを察した蜘蛛の子たちが散り散りになる。その前に、親蜘蛛はいの一番にニット帽を被ってはにかんで出ていった。清々する。


 三色ボールペンの黒がそろそろなくなってきた。替え芯を買いに行こうかな。と思ったところで声をかけられた。


「ご無沙汰しております。私のこと覚えておりますか?」


 知らない男が見下げてくる。


 偉く丁寧ぶった口調じゃないか。殊勝な心がけとでも褒めて欲しそうな坊ちゃん精神だ。

 俺は偉ぶってる奴が嫌いだった。二番は上品ぶってる奴だ。その上品も気位もお家のおかげで自分の賜物ではない。なのに、偉ぶってるし、上品ぶってる。型だけできる空手家みたいで気持ちが悪かった。実践できないやつがまるでそう見えるように振る舞うのは詐欺師のそれじゃないか。そんなに嫌いだから、俺はぶっきらぼうに答えてやった。


「覚えてないね」

「それは残念です。おとついに死んだ御子柴でございます」


 あぁ、あの。車に撥ねられた?

 えぇ、赤い車にうんと遠くまで撥ねられましたとも。


「君なぁ。不謹慎なことを言うね」

「死んだ本人が茶化すのもまぁ確かに不謹慎かも知れませんでしたね」


 なんだか噛み合わない話だ。

 目の前にいる青年は一昨日だか一昨年だかに死んだ人間の名を名乗っている。記憶力は悪い方だがそれでもアレとソレの区別ぐらいはつく。右手と左手を間違うことはあっても、人の名前と顔が合致してなくても、違う物が違う名を名乗ってることくらいは気がつくものだ。死者を騙る偽物とは不謹慎な。

 思わず俺は心の底でニヤッとした。

 それでもってソイツの鼻に一発拳を当ててやった。


「次にふざけたこと言ったら今度は前歯をへし折るぞ。え?」


 丈夫そうだった鼻っ柱を折って、追い討ちに悶絶する男に唾を吐きかける。教室にはまだ数人知り合いがいたが、どう言い訳したものか。これじゃあ、側から見たら暴漢だ。

 演技っぽいがセリフを足そうか。


「御子柴くんは可哀相にも車に撥ねられて死んだんだ。49日も経ってないからってそういう冗談は嫌いだね」


 男が起き上がる。これ以上なんかを話す前にもう前歯をへし折ってしまおうか。だが、殴れば殴った分だけ拳が痛い。特に今日は冬枯れだ。富士山麓の空気みたいに乾燥してて、すりむけも痛みやすいだろうなぁ。だから躊躇った。


「じょうだんじゃあないんですよ。ははひ、工藤先輩は真面目で怒りっぽいなぁ。嬉しいなぁ。でも嘘じゃないですよ。私嘘なんて吐いたことありません。私、画ヒになったんです」

「が、何?」


 画皮でふ。画皮です。

 鼻血がダラダラ出ていて鼻濁音があんまりにもつくもんだから言葉が呂律の回ってない酔っぱらいが言ってるのかと思ってしまった。顔が赤くなってるよ、さてはこいつ酔っぱらいだったか。


 御子柴を名乗る偽物は中肉中背と言ったところで、耳にはピアスをつけていた。髪の毛は金髪で、フレッシュな一年生か、落伍な三年生かって所の印象を与える。大学生らしい身なりと言えばいいが、どこか顔つきは貧相だ。


「化けて出たんです。私ほら、あなたに小説を読んでいただきたくて。できればまたあなたの小説を読んでみたいと思ってしまって」


 これが未練で妖怪になってしまったんです。

 男はそう言ったから、俺はもう1発ぶん殴って、奴の口から破片が飛ぶのに恍惚とした。


 今日は猫が死んだ小説を読もう。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 朝早い用事は嫌いだ。特に自分が好んでやらないこととか、最悪。でも、健康に気をつけるならそれも損はない。明日の朝にはアレがあるとか思ってベッドに入る時間が少し早くなる。ならなくても朝は早く起きようと思うから、無理やり太陽を見て動き出せる。


 まずは目薬を闇の中差して、(もうこれが習慣になったから目を瞑ってても目薬させるさ)、目が開きやすいようにしてやる。


 潤滑油が入ったら眼をしぱたたかせる。

 ドライアイに染み入るな。

 大きく伸びをして、布団を脱ぎ捨て、電気をつける。埃舞ってるのをチラチラ見ながら、乾燥してることを思い出して、水道水を飲む。


 今日は何を着て行こうかなー。


 と悩めるくらいだったら快調だ。

 ちなみに今日は昨日脱ぎ捨てた服一式をもう一度着直した。


 訳のわからない言葉じゃない分ましの授業だが、やっぱり訳がわからない。そのうち宇宙語とかC言語とかがあったらこんな聞こえ具合だろうかと思ってきて、ふっと体が前に倒れたら目覚めた。夢の中に落ちていたらしい。現実と幻の境目が見えなくて、目を擦る。時計は一周過ぎた。


 一分飛んで五分。ずるずると蛇のように遅れて終わった。蜘蛛の子散らすように散っていく。


 見知らぬ女学生が現れた。言ってしまえば最後まで『見知らぬクラスメイト』というのはいるんだが。それでもソイツは不気味で見知った雰囲気を宿していた。頭のてっぺんで細長い玉ねぎを作って、目の下にそばかすをパラパラとザラメのように引いてる。黄色のスカートを履いて、白色のTシャツはハワイっぽい店の看板が張り付いてる。


「昨日ぶりですね。私のこと覚えておいでですか?」


 身がぶるりと震えるのが分かった。ニヒルさのない純朴な笑顔を向けられるのがまた不気味で怪奇だ。女学生にこんな微笑まれかたしたら、下手をすると勘違いをしてしまいそうなものだが、無性に俺はこいつの鼻っ柱を折ってやらねばならないと言う気になった。でも、生来女性には手を挙げてはならないという教えを親戚か、小学校の先生に教えられた気がするので拳が突きでることはなかった。


「なんか知ってるぞお前」

「えぇ! 昨日鼻を折られました。御子柴でございます」


 御子柴だった。

 元々の見た目とも、昨日の見た目とも似ても似つかない。俺はもしかしたら三人の似通った性格をした『御子柴』と言う奴と関係を持っていたのかもしれないが、到底記憶になかった。だから、これは、狸か狐の類だと、古い怪奇小説だったら言ってみせるんだろうなぁとぼんやりと退屈した。


「やっぱり知らないな。俺の知ってる御子柴はもっとぬべーっとしていて、ぼやーっともしていた。お前はなんだか温泉の広告で『癒し』の文字とセットで載ってる温泉女みたいだ。俺の知ってる御子柴じゃない」

「あらら、こう言うタイプの顔がお好きだと思って、取り憑いて参りましたのに。とりつく島もありませんね。なんちゃって」


 上手いこと言ってやり、と言う風に歪められた笑顔はどこかあの軽薄なお調子者を連想させるが、全く違う気もした。


 カッターで顔を切り裂いてやれば、ぬいぐるみの綿が飛びだすように、あの馬鹿もニュルニュルと出てくるのではないか。


「本当に御子柴だって言うなら、どうしてお前はそのままの姿で現れない? どうして毎回姿を変える?」

「妖怪なんて幽霊みたいなもんですからねぇ。画皮になるというのも窮屈なものです。化けて出なければならない掟なのです」


 だから、その画皮とやらは何なのだろうか。

 画の皮と書くらしいが、そんな妖怪見たことも聞いたこともない。今までの人生で妖怪も幽霊も見たことがなかったからこれが初遭遇って訳だ。

 そうなるとすこし興味が湧いてきた。次に書く小説は妖怪小説にしようか。ともあれ、石燕の図録では見たこともない新種だ。


 後輩が化けて出たのを悲しがればいいのか、面白がればいいのか、塩梅はわからなかったが、新種の何かであるならばとりあえず興奮して面白がろう。


 魚も虫も学者は新種を見つけると嬉しがる。


「何でも良くなった。どうだ、今から居酒屋でもいくか? そこでなら俺の小説の話をしてやらんこともない」

「本当ですか。それは嬉しいなぁ。是非是非」


 なんだか自分の空腹に当てられた気がする。この際中身が死体だろうと、亡霊だろうと、後輩だろうと、何でもいいか。


 見た目は女学生だし、少しは取り繕ってまともな食事処にでも行けばよかっただろうが、体裁なんてめんどくさかった。


 古びた酒屋は陰影を讃えるように薄暗く曇っている。焼肉でもやっているのかってぐらいの曇り具合だが、ここはやってない居酒屋だ。なのにお昼をすぎるとひっきりなしに客が来る。この見えづらい空気感が程よく我々を孤独の中に置きやるからだろう。それでいて隣からは話し声が聞こえるから、完全な孤独に置き去りにされないとわかっている。その安心感だ。最も孤独を感じるのは集団の中でだと誰かの言葉だったが、果たしてここでは全く感じそうにもなかった。


「死体風情がたくさん飲みおって」


 次から次へと御子柴は酒を飲んでいく。

 死ぬ前がどんなもんだったかわからないが、死ぬ気のやつの飲みっぷりだ。


 別段それを咎めることもなく、俺は梅サワーを飲みながら餃子と海老かき揚げを摘んだ。なんだか目についたのがその二つだったが、中華風と和風でごちゃごちゃになって、机に並んだ時のバランスが嫌になってしまった。


 だから、なるべく餃子を食べつつ、頼んだ海老かき揚げを御子柴の口に突っ込む。

 食え。そして、飲め。

 死体風情だ。暴飲暴食したって太ることも死ぬこともないさ。


「お前に会えたおかげで次は怪奇小説にしようと思いついたぞ」

「それはそれは! 新しい道ですねぇ、この御子柴、先輩のために役立てるのなら車に轢かれても、死体を引きずってでも、力を尽くしますので」

「よせやい、気持ち悪い」


 お前なんぞに何の力があるんだ。


 美味い美味い。


 なんだか酒が進んで仕方がない。真昼の光線が俺のそんな背徳を咎めるように背面に降り注ぐ。

 背中がじりじりと焼け焦げる。


「私も読んで欲しかったものがあります。スマホに書き溜めておいたのですが、いかんせん遺留品になってしまって、今は手元にないのですよ」

「そりゃあ辛いこったな」

「まだ書きかけですから。続きが書きたくて仕方がない訳なんです」


 そう言ってメソメソとジェスチャーする御子柴。見た目は女学生なのだが、所々に男性的な所作が見受けられる。

 本当にこの娘は演技が上手いな、と思った。

 どうやったらこんな微妙な差まで表現できるのだろうか。ひょっとすると御子柴の彼女だったのだろうか。それとも妹だろうか。

 なにしろぶん殴んなくってよかった。


「それがお前の未練か。妖怪になるほどとは。創作家の葬式んときに作品も一緒に棺桶に入れるのはそういう未練をなくすためかもしれんな。そうだ、俺がお前のスマホも焼いといてやるよ」

「おっ、本当ですか。お願いします。見られてはならないものもあってひやひやしていたので」


 ニコニコと女の顔を借りて笑っている。少し前までは創作熱があるからこそスマホを取り返したいと真面目なことを言っていたのに、俺の冗談に靡くようにあっさりとその信念を曲げたその様が気に食わなかった。


「死ぬ間際に春の部誌に先輩が一本書くと言うのを思い出しまして、私、どうしてもそれが読みたくて、這いずっていたら、いつのまにかヒトの中に入り込めるようになったのです」


 可哀相な奴があっけない最期を迎えるってのは鼻で笑える悲劇だ。だが、その後のところが蛇足で俺は気に入らなかった。


 でも、せっかく蘇った後輩だ。少しはその顔立ててやろうと面白いと思ったことにしてやろうとした。


「はぁん、画皮ってのはヒトにとりつく妖怪なのかい」

「えぇ、そうですよ」

「じゃあエロいことし放題で羨ましい限りだな」


 えぇ、やめて下さいよお。語尾が伸びて、首を振る女学生。

 そうだ、見た目は女学生だから、なんだかセクハラしてるみたいな気分になってくるな。もっと老いたら俺はきっとこんな感じの苦笑いで煙たがれる禿げたおっさんになるのだろうな、と思った。


 あれ。俺は今こいつを本当に御子柴だと思ってたんだろうか。それとも良くできた演技だと笑ったんだろうか。


「で、やっぱり四十九日で成仏するつもりなのか。仏教じゃあ、極楽に行けるかどうかの裁判を七度やるって言うしな。でも、お前は地獄行きだろうな。親より先に死ぬやつは親不孝だから地獄に落ちるしかないのさ」

「元々それほど徳を積んできたわけでもないし、何かを信じていたわけでもないですから。あ、いや、私が信じていたのはあなただから、やっぱりあなたが地獄に落ちるというならば、私はそうしましょう。きっと本当に目処が立ったら地獄へとどこまでも落ちていきますよ」


 そう言ってから御子柴はバリバリとかき揚げを食べた。はしたないもんで、天かすが飛び散って、しまいには桜海老が一匹こっちまで跳ねてきた。命からがら逃れられたと言ったところか。

 勿体無いから俺はそれを指で掬って口に入れた。


「あ、よもつへぐい」


 御子柴が冷たい声でそう言った。

 ふっと頭を上げてやつの目の中を覗き込む。女学生の生き生きとした目をしてなかった。あれは死んだやつの目をしていた。


 少し怖くなったが、やつがまた薄っぺらい笑みを貼り付けてニコニコしながらかき揚げを食うからどうでも良くなった。


 空のジョッキがガチャリと音を立てたから、店員を呼んで同じのを頼んだ。


「梅サワーで」


 ガヤガヤと居酒屋の喧騒はむづかしい話を聞くよりも随分心地いい。うるさいだけの人の声が良いと膨満感に溶けて、ちょうどいい心地よさを生むのだ。上品さも下品さもない一体感だ。

 この空間にいるありとあらゆる人間は空気を伝って繋がっている。そこの隣の卓のサラリーマンたちも、あっちのひそひそ声の学生たちも、全員、一と全の間の揺らぎに過ぎないんだ。波みたいな存在なんだ。


 そして、俺もこいつもだ。


 誰も特別じゃない空間であったおかげで俺たちはなんだか久方ぶりにすらすらと話せた気がする。

 奴は中身のない話をしたと思えば、薄っぺらいリアクションを取り、相槌は空回りしてばかりだったが、安酒屋ついでにお供に添えるのに丁度いいぐらいだった。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




 最近の図書館は静かなだけじゃない。

 防音室の中はグループ席が島のように点在し、いくつかホワイトボードもある。大学内でのグループワークに備え、図書館ではこう言う会議スペースも兼ね備えていた。


 そこで俺はある女と約束していたのだ。

 あの画皮を名乗る後輩をどうしたものかと思って。


「御子柴くんが妖怪にねぇ」


 そう言ってアササボンは麦茶色のロングを靡かせて、困り眉を作ってみせた。

 赤いフレアスカートに白いニットのセーターで耳には最近水族館で買ったらしいラブカの片耳ピアスが付いてる。


 アササボンというのはコイツの仇名だ。本名は朝なんとかというらしいのだが、ある日呂律の回らなかった時に出会ったためにアササボンと名付けた。本人もそれを気に入ったようでこうやって呼び掛けられることに慣れている。本名の方は多分もう呼ぶことはないだろう。


「お前仲良かったんだろ?」

「仲良かったって言われてもねぇ。葬儀とかに参列したわけでもないし」

「意外とみんな薄情なんだな」


 あんたに言われたくないわよ、と大袈裟に手を振られた。


「そうはいうけど俺はあいつが誕生日の日にちゃんとプレゼントをくれてやったぜ?」

「使い古しのカッターナイフじゃない。どんなロックスターよ」


 ちょっと前の冬の時期に誰かがアイツとしゃべっていた時に誕生日の話が出たのを部室で耳に挟んだ。大抵の話は右から左にスッと抜けていってしまう性分であったから、それだけ耳に引っ付いたことに個人的に何かくすぐられるものがあるのだろうと思い、興が乗った。それで次に会った時には何かくれてやろうと決めていた俺は奴におさがりでカッターナイフをくれてやった。別に特に意味なんてなかったけれども、インパクトが強そうだし、なにかと深読みする奴にはこういうのがちょうどいいと思った。何か意味があるのだろうとか勘繰ってくれた方が、勝手に向こうが感謝とか尊敬とかいった念を膨らませてくれるからありがたがるだろう。


 中身より形だ。意味よりも外見だ。人は馬鹿で、中身よりも派手さに凝るからな。


 まぁ、実際くれてやって数か月で死んだんだ。手の込んだ贈り物とか、何も渡さなかったとか、どちらでもなかったのでちょうどいい手向けの花代わりになった。


「で、画皮のことなんだが」

「あぁそれね。こっちの界隈じゃ有名どころではあるのだけど、知らなかったのね?」


 意外ね。と皮肉たっぷりに言ってくる。


 こっちの界隈とアササボンが言ったのはオカルト界隈のことだ。妖怪や悪魔と言ったものは古来より文豪に親しまれてきた。泉鏡花しかり、芥川龍之介しかり、不可思議なものを題材に小説を書く文豪というのは少なくない。アササボンはそういうお化け好きの意思を継いだ存在だと言える。実際このなりでかいてくる小説は全て河童や餓鬼など妖怪に纏わるものだ。


 アササボン。好きな言葉は「平地人を戦慄せしめよ」


「画皮は中国や韓国、いわゆるアジアの妖怪。人の皮を被って人間に化ける妖怪よ」


 人の皮を被って人間に化ける妖怪、それが画皮。

 その証言を聞いてなんだか俺は皮膚の下にハサミを滑り込まされたような違和感を覚えた。奴は最初に出会った時、見知らぬ男子大学生の姿をしていた。次に居酒屋に誘った時には女子大学生の姿をしていた。一日たりとて同じ姿で俺の眼の前に立ったことがないのだ。それを俺は最初から気味悪いとは思っていたが、コズミックホラーの邪神のような悪意によってなされているのではなく、単にアイツの小心者の性分がそうさせているのだと思っていた。


 どんな姿でも満足しきらず人の皮を剥いでしまう、そんな渇きを悟らせずにずっと俺の眼の前でニタニタとその本性では嘲っていたに違いない。


「じゃあ、ヤツは人の皮を剥いでいたのか」


 俺がぼそりと呟いた言葉はアササボンの耳にも入った。

 奴の方は俺と違って怪奇マニアだからだろうか、怖いもの見たさに似た精神性を讃えて引きつった笑顔を張り付けていた。


「最近、この辺で張り紙とか見るわ。不審者要注意ってね……それに行方不明者も多い。これってつまりさ、あんた何回、画皮に遭遇した?」

「はじめて会ってから二週間毎日欠かさずだ……もちろん、毎回違う姿でな」


 つまり、十四人。生きていようがいまいが――生きたまま剥がされていようが殺されて剥がさていようが関係ない。それがこれまで犠牲者になったものの数だ。


 空気がゲルのように固まりだして俺たちはその圧力に押し黙るしかなかった。

 空調だけがのんびりとゴォー、ゴォーと空気を廻している。俺たちは息を吸うのも少しためらわれた。


 アササボンが今日、最も重要な質問を歯を震わせながらする。


「今日は、遭ったの」


 目は真剣そのものだが、瞳孔の奥の黒が震えている。

 俺もこの空間に存在する重みに逆らうように大きく息を吐いた。


「まだだ」

「じゃあ、これから画皮は現れる。工藤、まずいよ」


 俺は勢いよく立ち上がって、椅子の背にかけていた荷物をぶんどった。

 アササボンが何かを喚いているがもうそれどこじゃない。


 逃げるか、戦うか。


 剥ぐか、剥がれるか。


 今日ようやく猫の死ぬ小説を読み終えた。残った二冊がまだ棚の中だ。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 

「先輩。お疲れ様です」


 見知らぬ男が声をかけてきた。見た目だけの話だ。その容貌はどこか幼げにも見えるし、死んだ御子柴の朧げな印象を凝固剤で無理やり固めた似て非なる存在に見える。あぁ、やつは垂れ眼だったか。二重だったか。髪型は真ん中分けだったか。髪の毛の色は完全に黒だったか。ところどころ質感が違う男の容貌が俺の中の御子柴像に正誤の答え合わせをさせようとする。


 そう思ってそういう見た目になったのか。いや、男の生来の話ではなく、この妖怪の殺人基準の話。


「お前もようやってるよ」


 図書館から出た所で遭遇してしまって、俺は先ほどの話を新鮮なまま持ち帰ろうとしていたからなんだか虚を突かれ、形勢が不利になっていく予感を受けた。


「ちょっとついてきてほしいところがあるんですけれど」


 誘われている。

 この妖怪はとうとう本性を表そうとしている。そう思った。


 上等じゃねぇか。そっちが俺をどうこうしようって気になったっていうんなら俺も最後くらいは派手に暴れてやるつもりだ。人間は莫迦だ。意味なんか凝っていい話で終わらせるより、B級スプラッタ映画くらい血を吹く派手をしよう。俺は馬鹿で阿呆だ。妖怪よりも恐ろしい人の愚かさだ。けれども、それが中身のある人間ではないか。


 なんだか自分が大義のために死んでいった兵士たちの意思を継承する存在になったつもりで俺は大きく肩を回した。それが相手にどう映ったのかはしらんが、じっとりと弓張り月のように目を歪めて愛想笑いをしてきた。


 ささ、こちらに。


 まるで舞台裏を案内する黒子のようにスルスルと進んでいった先は意外にも近く、図書館裏の小さな庭だった。芝生のごとき草むらの中には小さなバッタがいて、まだお昼時なのにおぶって交尾をしている個体が多かった。

 御子柴は足元など眼中にもないから、そういうものをブーツで踏みつけても気づかない様子ですたすたと歩いて行ってしまった。


 奴が案内したところで地獄の入り口が待っていた。

 庭には鉄柵で囲まれた小さな地下階段があって、そこは鍵がないと柵が開かないから普段は作業員しか入ることが出来ない秘所だった。そこを御子柴は何のためらいもなく、大股で鉄柵をまたぎ、コンクリートの階段に足をつけた。


「この下です。この下に私の見せたいものがあるんです」


 鉄柵の向こう側から御子柴が手をこまねく。そのしぐさにも見覚えはないが、表情筋のくせはやつの媚び方のそれに酷似して見えた。どんな皮を被っても笑い方だけは似ている。それも愛想笑いの時だけ。だから気に喰わなくて、俺はその手を掃いのけて、いっそこのまま突き落として暗闇の底に沈めてしまおうかと思った。


 けれども、噴火しそうな留飲を抑えて、俺は手をとってゆっくりと鉄柵をまたいだ。

 この先に地獄があるだろう。

 地下には古くから穢れと地獄があるものだ。


 コンクリートの階段がいつからタールの溢れる煉獄の岩肌になるのか。それを注意しながら俺も階段を御子柴のあとについておりていく。


 地下の様子はずっと階段がまっすぐと果てしなく続いているだけで、採光する出口は遠のいていくからどんどんと暗くなるばかりだ。こういう作業トンネルにありがちな照明も誘導灯もなく、コンクリートの下り坂が続いていく。だから、スマホの照明を早々とつけて、御子柴の背中に当てておく。奴はまったく気にならないのか、それとも何かに集中しているのか、その光を一切もろともしていなかった。同時に深くなる暗闇にも怯えている様子はなかった。そうであろうとも、奴は妖怪なのだから。怪奇なのだから。人は死んだら死体になって埋められるのだから。


 かつん、かつん。


 響き渡る足音の反響がやがて大きな空間がある予感を運んでくる。代わり映えしないコンクリートの下り坂をきっと建物十階分降りて訪れたようやくの変化だった。


 その間に俺たちには一切の会話が無かった。まるでもう上辺のやりとりに両者気づいてしまったかのように、もうあの居酒屋でのようには話せなかった。それよりも俺たちは深いところに行く。より恐ろしい腹の中に溜まった糞とか泥を塗りたくるような、辱めを互いに施すことになるだろう。そうしてそれを絶縁の契機と俺は見なし、もし奴が縋ってくるようなことがあれば、ここで、今度こそ殺されてもらうほかない。


 それを俺は避けようと思わなかった。

 受け入れたうえで乗り越えて見せるつもりでいた。

 しかしながら、本当の決心であるならばいまここでコイツの背中から飛びかかって、殺してしまうべきではなかろうか。

 自分の手の下に這いまわる躊躇いに気づいてしまうと何故かどうしようもなく自分というモノが臆病に感じられた。初めてのことだった。それはお化けや病、死を恐れるような臆病とは違う、先ほど塗りたくり合うといった泥と糞の混合物に匹敵する自らの弱さだった。


 階段は先が無くなり、足首までがどっぷりと水がつかる。


 つめたくて一瞬飛びあがりそうになったが、こらえた。


 そうして開けた空洞に俺たちは出たのだ。まるで全ての廃液が集積するような場所で、大きな虚ろの空間だ。貯水空間なのだろうか。円柱状に彫り抜かれたこの空間はどこまでも繋がっているように先が見えず、また両壁には細かな穴が開いていてそこから水が流れてきている。不思議なことにそれらすべては清い水であった。


 この代わり映えしない景色に唯一方向性を与えるのは水の流れだけだ。

 上流、下流。御子柴は下流の方に歩み続けた。

 そうしてヤツメウナギの口のようにぽっかりと開いた縦の大穴の前で立ち尽くす。


 横穴に対するバーティカルな穴であった。どん底まですでに水で満たされているのか、その縦穴に水が吸い込まれることはない。光だけが吸い込まていく。


「鈍的剥離」


 御子柴がようやく口を開いたと思えば、呪術用語のような四文字熟語を並べた。


「皮膚を切り裂き、結合組織を剥離し、血管や臓器などを掘り当てるための剖出作業の一つです。解剖と言えばメスが出てきそうなものですが皮膚を切り裂くときだけは剪刀と呼ばれる先の尖った小さなハサミを使うようです」


 振り返った御子柴の眼は俺の双眸を捉えていたが、それはやつの背後にある大穴のように暗く底がないような暗さだった。スマホの照明を奴に当ててるのにやっぱり瞼を薄める様子も瞳孔が引き絞られるような様子もない。あれはまさしく人外だ。


「妖怪の話は何がいいたいか分からねぇなぁ。お前、人の皮を剥いで化ける妖怪らしい。だから、そうやって解剖学の講義を垂れてるのか? テメェの直上にあるのは医大じゃねぇんだぜ。それに今日皮を剥ぐのはお前じゃねぇ、俺だ。俺がテメェの化けの皮剥がしてやるよ、御子柴」

「威勢がいいんですね」


 えぇ。えぇ。良かった、あなたが怖気づいてしまうことがなくて。


 なんだか安心したような御子柴は懐から何かを取り出した。プラスチックの青色の上に赤黒いシミがこびりついている。キチキチっというムカデが歯を鳴らすような音がしたかと思えば、その先端から刃がぬっと出てくる。それもまた血に錆び、肉をケースとの間にこびりつかせている。


 カッターナイフだ。市販品。でも、百均ほど安値で買ったやつじゃない。近場の蔦屋書店の壁面棚に飾られていた。静かに寝そべったその姿に一目惚れして俺が買ったやつ。そして、奴にくれてやったやつ。


「今まで十四人、ですかね。いや、自分でもどのくらい剥いできたのかよく覚えとらんのですよ。まぁ、三人より上はどうでもいいことでしょう。死刑は免れない数ですもの。ともかく私はあなたから貰ったこのカッターナイフでそれだけの人を殺して皮を剥ぎました」


 殺人犯の自供は平然な態度とともに語られた。

 諦観の念があるのか、それとも俺一人ぐらいならどうってこともないっていう気分をしているのか。死刑は免れない数の殺人がやつにそれだけの余裕と諦観を抱かせている。しかしながら死んだ奴を死刑にできるわけもないのだから、その自信は偽りでしかないと教えてやりたかった。

 

 御子柴はこちらにカッターを向けてきた。不敵に笑わない。へらへらとこびへつらって角が立たないようにしたりはしなかった。どうみたって角を立てるどころか殺意が漏れ出てるのだからその必要もないが。


 しかし、くるりとカッターを回すと柄の部分を俺に握りこませてきた。


「どうぞ、切り裂いてみてくださいな。私の中身が一体何なのか。画皮の本性、見てくださいな」


 カッターを握りこませた俺の手から両手を掛けて、もう引っ込みがつかないようにする。力を込めてもうんともすんともしない。壁の中で手が抜けなくなったような感覚だった。刃の前にやつはおもむろに顔を近づけだす。御子柴が剥ぎとった他者の顔を俺に突き刺せようとするのだ。

 どこかに面影があってもそれは憎き妖怪の本性ではなく、妖怪に襲われた被害者の顔で、俺は刃を引っ込めようと右腕を引っ張った。しかし、頑として動くことはなく、上から抑え込む手の力が更に強くなる。スマホを捨てて、両腕で引っ張れば叶うだろうか。しかし、そうすれば俺はきっと暗闇で半狂乱になり、帰り道すら見失うだろう。焦る間にも関節や骨が軋みだし、圧壊するような鈍痛がゆったりと腕を這って脳へ届く。顔はどんどん近づく。俺は脂汗がこめかみに伝うのを感じて、とうとう足で奴の胴体を蹴り飛ばすが、これもまた全く効果はなく、岩壁のような感触に慄いた。


 ぷっつりと右頬に刃が入り込む。するりと三センチは入ったのではないか。解剖学の本をどうしてあの時買わなかったのかと思ったが、その手ごたえからしてまず表皮と、あってその下には真皮までしかないと確信した。頬の下に埋まっているはずの大・小頬骨筋は愚か、その頬骨すらない触感だ。医学部じゃなくてもこれだけすっと刃が入ればこれが普通の人体ではないことぐらい察しがつく。しかして、偽物でもない。本物の人体から剥ぎ取られた本物の人皮だ。


 そうして骨も筋肉もないただの上辺だけの皮膚を切るのはカッターナイフでも簡単で、縦に差し込んだソレを俺の手を下に引っ張って、ずずっと下に引き裂いていく。刃はまたしても抵抗を見せず、御子柴も笑っている。そうして、顎の骨もないことが分かった。


 痛々しくも顔に深く長い傷が刻み込まれたというのに奴はまったく痛がる様子もない。血が通っていなかったために足元の流水を赤く染め上げるような演出もなかったが、俺の血の気が引いたせいか足元の水温がますます冷えて突き刺してくるようだった。


「めくってください」


 ここを。

 手を離され、俺に傷跡を弄るように御子柴は指示してくる。

 その頬から顎まで伸びる傷は指と言わず片手ぐらいなら簡単に飲み込んでしまいそうで、唇の消えた口にすら見えた。笑っているように開いた傷の虚空の中からビー玉のようなほのくらい照り返しが見えた気がした。


 それはあいつの本当の眼だった。


「なんだ、勇気がないんですね。貴方だったら恐ろしいとも思わないでいてくれると思っていたのに。あっけない」


 俺が黙ってうっとりとしてその傷口を見ている間に、奴の方は俺に失望しているらしかった。そうして、その傷口から十本の指が生えてきた。蛆虫が死体から湧きだす様、と表現したいぐらいだが、被った人皮は魂が抜けたようにボーっとしているとはいえ色艶が生きている人間のようなままであったから、そういう皮膚感染症の腫瘍のようだった。まだ生きてると期待していたのかもしれない。

 しかし、蠢く十指の芋虫がそれを否定する。

 左の指は押しつぶされたように潰れていて薄くなっていた。と同時に潰れた肉が指の皮膚や骨を突き破って飛び出していたのだった。


 車に半身を引き潰された死体が空気の抜けた人の皮から這い出てくる。ハエがたかりそうな腐臭を放ち、黄色く淀んだ脂分が流水にぼたぼたと零れ落ちる。頭皮は辛うじて繋がっているが、ずるりと重力でいつか落ちてしまいそうだ。ぼちゃりと這い出た前身は突き刺すほど冷たい水の中に沈む流水に晒されるだけでボロボロと肉体が崩れて人の原型を留めなくなるだろうに、流水は亡者を許さずひたすらに水を浴びせ続ける。俺はこのまま背後の大穴に落ちてくれればいいのにと思った。こんなみすぼらしく、生きぎたない姿を誰であろうと見たくはなかった。腐臭を放ち、腐った肉は醜く、半身が潰れた姿は見るに堪えなかった。二週間前、引き潰されて死んだ人間はようやく己の姿を晒したのだ。


「醜いでしょう。気味が、悪いでしょう」


 流水の中から辛うじて、上半身だけを上げて御子柴がこちらに顔を向ける。右半身を引き潰されたから、顔も右側が殆どボロボロで筋肉や皮脂が見えていた。けれども、多くは流水に流されてしまったようで潰れた骨の欠片が辛うじてくっついている。左目だけが生前と変わらず自身が無さげにこちらを見ていた。


「あんまりだったな。痛かっただろう」


 膝をついて奴を抱き寄せようとした。奴は弱弱しい左手で俺のことをできるだけ振り払おうとしたが、俺は気にせず抱き寄せた。例え、血が付こうが腐肉の匂いが付こうが、そうしなければならないと思った。殺すことでも、眼を逸らすことでもきっと俺は正しい行いをできたと確信することはできない。どれだけの理由があってもまず哀れな彼をこうして労わらねばと馬鹿になって思ったのだ。


「こんなのは、あなたの前に姿をこの姿を晒す辛さに比べればどうってことはなかったのです。どうしてもまたあなたにお会いしたくて、死に切ることができませんでした。もう一度を願って、あなたの熱意に触れて、あなたに私が作ったものを見てほしくなってしまった。やめておけばいいのに、そんなこと思わなければこうしてたくさん人を殺めることもなかったのに」


 妖怪は語る。

 死体の体で涙を流すこともない。しかし、時間が迫っているかのように刻一刻とこのトンネルの流水が腐肉の体をこそいで奈落の水穴に吸い込んでいく。


「いや、その執念には参ったよ。殺人者を褒めるなんてのはしたくない。だが、後輩としてのお前にだけ言おう。天晴だった。その熱意、その中身、腐ってもなおお前は何かを為そうとしたものだ。なんとも多くの罪を犯したな。誰もお前を赦しはしないだろう。俺ですらも擁護できないぜ、これは」

「良いんです。地獄に落ちてよかったんです。地獄に落ちる覚悟をしたら、ますますあなたが、皆が輝いて見えて、どうにか一緒に並び立ちたかった。ここで私だけおいていかれるのが嫌だった。何人の人を殺めて、自分でない人になるしか生きる道がなくとも、それでも――」


 そこまで言って御子柴は黙った。

 それ以上は言い訳になってしまう。本音じゃなくなってしまう。欲が出てきて、目の前にいる憧れすらも手にかけて、死体風情が生きようと蠢いてしまうんじゃないかと思ったのだ。それが妖怪になったものの本能だ。魔に一度堕ちたものはその淵から這い上がることはできず、どれだけ登ろうとしても最後は本能のように奈落の底へ引っ張られていく。だから、そんな魔の本性が動き出す前に御子柴は黙ったのだった。


「きっと地獄でまたお会いしましょう。どうか地獄に堕ちてくださいね。きっと私は、今度は、あなたの皮膚を剥がしに来るかもしれません。地獄の底から何もかもを忘れ、ただ欲のままの鬼になって復活した時、今日みたいにあなたの周りに別の姿をして立つかもしれません。だから、ゆめゆめ油断されませぬように。どうか、ご無事で。さようなら」


 それだけ言い残すと俺の腕を、どこから湧いた膂力なのか、突っぱねて蛇が這うように水が流れ込む奈落の大穴に飛び込んだ。

 咄嗟に俺も立ち上がろうとしたが、流水がまるで縄のようになったのか、足がもつれて水の中に堕ちてしまった。だから、追うことはできず気づいた時にはもうやつの姿はどこにもなかった。


 海の岩礁に開いたブルーホールのような縦穴にスマホの光を差し込むも、その底は見えない。

 どこまで繋がっているのだろうか。

 御子柴が言った、地獄、なのだろうか。

 水に満たされた地獄。確かに息もできないような場所だ。


 そもそもこの巨大な地下水路すらも人が作った場所なのだろうか……それとも遠野物語のマヨイガのような場所なのだろうか。

 

 しかし、そんなのはどうでもいい。そんなことに興味を示すのはアササボンのような怪異専門家の仕事だ。

 きっと地獄に堕ちよう。俺は上流の方に振り返って決心した。

 しかし、困ったな。

 水に満たされた場所ではどうやって小説を書くべきか。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




 引っ越しというのはそう何度もあることじゃない。

 しかも、新婚生活の拠点となる場所であるのならば人生の分水嶺をどちらに進むかという絶対的な決断を迫られるようなものである。二通りならいざ知れず、住む場所というのは不動産屋が隠し持っている数だけあるのだ。駅が近いのがいいか、部屋はどれくらいか、風呂トイレ別は勿論のことながら、ディスポーザーはあった方がいいか、収納の数はどのくらいか。事細かくシミュレーションしておく必要がある。


 だが、これは一応敵情視察。


 俺は近場の不動産屋でいい物件がないか相談することにした。

 将来、子供が生まれることも見越しておくべきかというのも大事な争点であるな、と思いつつ、自動ドアをくぐる。オフィスの清涼な風が最新式の霧ケ峰のエアコンから放たれる。

 汗ばむ肌を取り払って爽やかな心地になったところで、タイミングよく奥の席からキッチリスーツの若者がシベリアンハスキーのような人懐っこさを漂わせながらやってくる。


「こんにちは! 本日はどのような物件をお探しでしょうか」

「いやぁ、新居をね。結婚したものだし新居はどんなものにしようかって最近考えていて」

「あ、新婚さんでいらっしゃいましたか!」

「あぁ、こう見えても。妻はまた郷土資料館にこもりっきりで……いや、そんなことはどうでもいいな。まぁ、新婚生活の拠点に良い物件はないかと思って相談に」

「そうでしたか! そうでしたか! わっかりました、ではこの“御子柴”が精いっぱいお客様の物件探しをお手伝いいたしましょう!」


 不動産屋の男は晴れた日の太陽のような笑顔でそう言った。

 御子柴、そんな、不穏な名前を。


 ふと、ネームプレートが彼の胸元にあったからそこを覗き込んでみる。


「クドウ……君、工藤さんじゃないのかい? というか、私も名前は工藤なんだがね」

「あぁ、そうでしたそうでした。工藤です。いやぁ、大学時代から名前を偽る癖が治らなくて」


 見た目の割に、なんだか変な男だ。偽名を使う癖? 上辺ばかりを気にしているというのは癪に障る。人間なんでも中身だ。馬鹿でも、腐っていても、シャンとする心構えがない奴に俺はイライラした。さっき拭われた汗すらも急に沸騰してきた感情に再び沸き立つ。


 だが、それとも本当に?


 それでも、こうしておくのがいい。


「きみ」

「はい!」


 俺は彼の丈夫そうだった鼻っ柱に拳を当ててやった。

 懐かしい感覚が来た後に彼が吹っ飛ぶ音がして、不動産屋内は壮絶な空気になった。

 痛そうに鼻を擦りながら頭に「?」が浮かんだ彼を見ると嗜虐心がそそられた。


「次にふざけたこと言ったら今度は前歯をへし折るぞ。え?」


 なんだか懐かしいセリフを吐いた後に、俺は警備員に押さえつけられた。




 







 

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画皮 @edogin

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