Mille Fleurs(ミル・フルール)

菫野歌月

Mille Fleurs


 滅んだ都市。灰色の瓦礫。累々と横臥る屍躰。肉を漁る鳥たち。暗いそら

 貴婦人を乗せた一角獣が、その陰惨な路を歩いている。屍躰を踏み躙り蹴散らすせいで、真珠のような純白の体躯の脚の先だけ血によごれている。

 血に染まったような色の天鵞絨ベルベット長衣ガウンを着た貴婦人は、にんげん離れした静かな微笑を泛べている。その黄金の捲き毛はやわらかく、頬には確かに仄かな薔薇いろがさしているのに、石像のような佇まいだ。

 骸の山のなかに見えるのは甲冑を着た人、貴婦人のごとき長衣の人、そのほかいにしえの衣装を纏った市井の人びと。しかしよく見れば血を流し腐臭を放つそれらのあいだには学校制服やスーツ、革靴やスニーカーもある。一人ひとりの、その顔は。

 わたしは突然、自分がこの世界を俯瞰する第三者ではなく身体を持つ当事者としてそこに立っていることに気づく。やがて近づいてきた一角獣が目のまえで膝を折り、貴婦人がその背から下りた。そして慄然ぞっとするほど美しい微笑のまま、わたしに腕を差し出した――



 わたしは今のところ、自分を傷つけたいとか死にたいとかねがったことはない。

 誰かを殺したい、と思うことならあるが。

 学校の隣の席の子がある時期から目に見えて痩せ細り、やがて左手頸に繃帯を巻くようになったその秋ついに休学した。

 親しくしていたわけではないから事情は解らない。食を拒み、自分を傷つけるほどずっと苦しんでいたのだろうか。死にたかったのだろうか。その心の生温かい傷口を広げて見てみたい。鮮やかな血と闇が広がる容子ようすを思い描き、わたしは瞼を閉じた。

 そして彼女よりずっとまえから左手頸に繃帯を巻き、とっくに不登校になっている一つ歳下の従弟を想う。



 その古いやしきには大きなゴブラン織りの綴織画タペストリーがある。クリュニーの〈貴婦人と一角獣〉を想わせるそれは、より暗い、古い血のような赤い地の上に長衣の女性と一角獣が朧げに浮かび、その周りを千花模様ミル・フルールが囲んでいる。異様に古い。まさか中世のものではないだろうが、それを模して作られてから百年以上経っていても可訝おかしくはない。

 わたしは学校帰りのセーラー服のまま、暗く広い居間の壁に掛けられたその綴織画タペストリーの前に立っていた。雨のなかここに来てずいぶん従弟に待たされているが、このを眺めていると時間を忘れることができる。

 「小夜子さよこはそれ、いつも見ていて飽きないの。」

 いつの間にか跫音あしおとひとつ立てずにさとしが来ていたが、わたしは愕かなかった。哲はわたしよりも小柄で、もともと妖精のように気配が薄い少年だ。臥せっているわけでもないだろうに、今は寝間着にカーディガンを羽織っただけの恰好である。そして左手頸には相変わらずの繃帯。

 「飽きない。」わたしはもう一度綴織画タペストリーを見てから、別珍張りの応接椅子に腰かけた。哲もいつものように向かいに坐る。

 鈴蘭の形をした卓上の洋燈ランプが、わたしたちのよく似たかおを仄かに照らす。

 わたしは伯母が淹れてくれた紅茶を飲みながら、学校での出来ごとや最近読んだ本について簡単に話した。哲はただ時おり頷きながら聞いている。

 伯母に、週に一回ほど哲の話し相手になってやってほしいと云われている。少し面倒ではあるが厭ではなかったし、哲もさほど愉しんでいるふうではないが退屈でもなさそうだった。

 「あの画なんだけど、」

 哲が唐突に云った。

 「ぼくは気味が悪い。」

 「……わたしは綺麗だと思うけど。確かに普通の家の壁にかける雰囲気ではないね。」

 「一年くらいまえから妙な夢を視るんだ。」哲は画から顔を背けるように目を伏せる。「中世ヨーロッパらしい街が廃墟と化している。路は人々の屍躰で埋まって血と汚物にまみれていて――その上をあれにそっくりな貴婦人と、彼女を乗せた一角獣が踏み躙りながら通って行くんだ。その世界では彼らだけが光を帯びていて美しい。残酷なくらいに。」

 わたしは哲の透き徹るように白い貌と、淡い色のひとみをじっと見た。

 「一年まえって、あんたが学校に行かなくなった少しまえよね。」

 「そうだね。」彼は淡々と云う。「云っておくけど、ぼくが虐めに遭ったりしたわけじゃないよ。ただ、学校に行くと皆がその屍躰の山みたいになまぐさくて汚いものに感じられるようになって……、」

 哲はしばらく間を置いて云った。「実は、夢のなかでぼくは、最近はその貴婦人の立場で一角獣の上に乗っている。ぼくらだけがその世界で綺麗で、穢れがなくて、皆を――学校の皆を踏み躙っていくんだ。目が醒めるたびぼくは自分が厭になるのに、同時に、救われる。」

 わたしはなにも云えなくなった。

 哲が語った貴婦人と一角獣の夢を、わたしも視るようになったのはその晩からだ。



 十字架に磔けられ、鎖で縛られ、首を落として血を流す天使の絵。

 どす黒い色彩にべったりと散る赤。

 同じ美術部員のTが描いている悪趣味な絵を、わたしは軽蔑と羨望を込めて一瞥する。こういうものを描きたい気持ちは解らなくもない。だがそれをこんなふうに披瀝できる露骨さ、Tさんやばいよねと陰でささやかれるのも意に介さぬ逞しさは。

 ローズマダー。Tが大容量のチューブでたっぷりと使い、わたしが避けてしまう色。

 チューブから絞り出した暗紅色の絵具はナプキンに付いたばかりの経血に似ている。

 きわめて不快だ。

 わたしはほとんど白と灰と銀、わずかな黒、くすんだ茶色しか使わない。赤に限らず鮮やかな色が苦手だ。今は、萎れかけた白薔薇を自分で撮った写真を見て描いている。象牙や大理石を想わせるその仄かな色に忠実に。なるべく冷たく硬質な印象になるように。

 わたしは自分で自分の身体を切りつけたくないのと同じくらい、キャンバスの上に血を流したくない。

 夾雑物のない、どこまでも澄んだ世界を描きたい。

 わたしは自分以外のなにかを、誰かを傷つけたい欲望を隠匿するために、浄らかな白い薔薇に集中する。



 貴婦人がたおやかに差し出すその手を取れば、なにかとり返しのつかないことが起きる気がして何度も誘惑を斥けた。

 わたしがとうとうその手を取ってしまったのは、Aの絵がコンクールで入賞したと知った日の夢だった。

 Aは中等部のころから誰からも好かれる人格者であり、成績が良く絵の才能も学年中に知れ渡った優等生だ。

 わたしもAのことは好きだが、その絵には嘔気はきけがする。

 Aの絵の主な題材は家族や友人である。祖父母のくしゃくしゃの笑顔。編み物をする母親の手。保護施設から引きとった雑種の愛犬。美術室を訪れてモデルを務める笑い上戸な級友たち。それらをAは明朗な感覚で、残酷なほど完成されたデッサン力と観察眼で描き上げる。

 彼女は両親が美術系だから、長年絵画教室に通っているから、と云ったところでわたしに画才がないのは仕方ない。ただ、わたしがつたない筆で清謐な美の世界に手を伸ばそうとしては思い悩むあいだに、Aは雑多なもの、みや皺、ぼさぼさの毛、不揃いの歯列、笑窪、肌の赤み黄み青みといった、必ずしも美しいとは云えない生命の証を丸ごと包容してみせる、それも凄まじい技術で――それがときどき、苦痛だった。

 Aの題材がわたしの感性に近いものであったなら、わたしはむしろ悦んで崇拝者になっただろう。

 入賞したのは彼女に初めてできた姪っ子の、まだ目も開かない、グロテスクとさえ云える本当に生まれたばかりの肖像だった。その生誕を言祝ぐように、極彩色の無数の花々が画面の隙間を埋めている。

 大きなキャンバスに拡大した新生児の顔を描くとき、Aもまた血色を表わすのにローズマダーを使っていた。

 大嫌いだ。

 そう深く自覚してしまった日の夢で、わたしは貴婦人に誘なわれるまま一角獣の背に乗った。

 一角獣。真珠の毛並みをした、穢れを知らぬ美しいけもの。

 騎乗したぶん目線が高くなっただけで、この荒涼とした世界がなんと広く見わたせることか。夥しい屍躰。屍躰。屍躰。わたしは一角獣を駆り、冷たい風に長い髪を靡かせて笑った。卑しい者たちは息絶え血溜まりのなかでもう動くことはない。この仄暗い世界でわたしたちだけが浄く気高く、残酷に生きている――

 その一隅にあったセーラー服の骸の山に、Aとあの拡大された新生児がいた。



 わたしは白薔薇の絵を放棄した。



 夢のなかで、わたしは屍躰を踏みつけてもなにも感じなかった。目醒めれば自己嫌悪に苦しむというのに――これが、わたしの心の歪な正体なのか。

 一角獣に乗っては骸の山にいる何人もの知った顔を虚ろに見下ろす。そうして不意に顔を上げたあるとき、茫洋とした地平の彼方に巨大な建造物の影を見た。

 ――聖堂だ。

 まだ遠く、容子もよく判らないのにわたしは確信する。

 わたしはその建造物に痛切なほど惹かれた。この夢と現で、それだけが唯一の救済であるかのように。

 そこへ到るまで、あとどれほどの屍躰を踏まねばならないのだろう。



 同じ血のような色でも、綴織画タペストリーの赤が嫌悪を催すことはない。

 哲を訪ねる日はなぜか雨が降ることが多い。その日も例外でなく、わたしは薄暗い居間で雨音を聴きながらじっとその画に向き合っていた。

 現われた哲は上機嫌だった。そして左の手頸どころか手の全体、さらに右手にまで繃帯を巻いている。左手だけでは物足りなくなったのだろうか。幼いころに利き手を矯正された彼にとっては、右手を傷つけるのも容易いだろう。

 「手、そんなにしたら不便じゃないの、」

 「不便だね。」まだ高い、少女のように透き徹る声でわらう。

 その日の哲は妙に喋った。睫毛の長いひとみを輝かせ、わたしたち一家の昔話をしたかと思えばいつの間にかいま読んでいる詩集や哲学書について語っているという具合。終始にこやかで、繃帯だらけの両手で紅茶のお替わりまで淹れてくれた。

 「なにかいいことでもあったの、」

 「いや。」哲は首を振ったが、「このあいだ、一角獣の夢の話をしただろう。この一週間くらい、その夢におおきな石造りの聖堂が出てきてそこに入れるようになったんだ。そこもこわれてはいるけど構造のほとんどが残っている。壮麗で、ゴシック建築みたいだ……。そこには屍躰はない。だから、夢でそこに入れると気分がいいんだ。」

 ……哲にはわたしが視る夢の話はしていない。だがその一致を奇妙に思うより、哲が久びさに見せるやわらかなみのほうが気になった。心からの安らぎを得たようなその儚げな貌に、わたしも安堵してよいのか、それとも心配すべきなのか。

 哲にとっての骸の山は学校の同級生だと云っていた。

 哲が進学した男子校は彼にとってあまり良い環境ではなかったらしい。哲は中学受験の模試では常に上位の成績だったが、体調を崩して志望校に落ち、そこは辛うじて合格した滑り止めだった。

 幼稚な同級生たち――彼らは教師に莫迦げた悪戯を繰り返し、英語で正しい発音をする者を揶揄い、保健の授業内容を下劣な冗談にし、休み時間に読書する者を嘲笑うと云う。そんな知性と縁遠い連中ならば、わたしも卑しい存在のように踏み躙り排除したいと希うだろう。そしてそんな自分に怖気おぞけ立つだろう。

 だがそれだけでは自傷や不登校の理由にはならないと思う――わたしの感覚では。

 不意に現われた聖堂。殖えた傷。安らかな咲み。それらは哲の心の底の痛ましい願いを示唆していたのだろうか。



 女子校はわたしにとって安全地帯であるはずだった。

 「あとで、独りで読んで。」

 冬の初めの冷冽な光が教室に低くさしこむ日のこと。

 宿題のノートを返却するさい、若い男の教師がそっと挟んだ白い封筒にわたしはぎくりとした。数学の成績はそれなりに良いはずだ。なにか問題があるのかと気が気ではなく、休み時間になってすぐ封を開けた。

 恋文だった。

 わたしはその教師が好きだった。恋愛の意味ではなく。彼は容姿も振る舞いも端正で生徒間の人気は高い。だがそれ以上に、彼はわたしが好きな数学の美しさをいっそう教えてくれたのだ。質問をしに行けば熱心に的確に指導してくれ、授業では扱っていない知識をも授けてくれた。純粋にわたしの知性が認められているのだと思っていた。

 眩暈めまいがした。

 そこにはわたしの髪だのだの俯向いた貌だのといったことが書かれていた。そして彼が創り上げたわたしの架空の人格が褒められていた。もしよければ、今度二人で逢おう――

 前の席の子が、どうしたの、と訊ねてくる。わたしは茫然としてなにも考えず手紙を見せてしまう。さらに数人が覗きこむ。

 信じがたいことに、彼らは歓声を上げた。ええっ――すごい――「禁断の恋」だ――

 「気持ち悪い。」

 わたしがぼろぼろと泣きはじめて、彼らは現実に帰ったようだった。ようやくこれが恋物語の筋書きではないと気づいたのか、不安げに顔を見合わせる。

 わたしはその手紙を学級の担任に見せた。

 その数学教師は学校から消えた。

 事の次第はいつしか学年中に広がり、大方はわたしに同情的だったが、あの教師を慕っていた何人かはわたしを悪く云っていたようだ。わたしは気にしないよう努めていたがやがて限界が来、冬休みの一週間まえから学校を休んだ。



 わたしは何度も、数学教師やわたしを誹る生徒の骸を原型がなくなるまで踏み潰す夢を視、そのたびに飛び起きた。どんなに疎ましい相手でも、屍躰のなかに知った顔を見るのはもう厭だ。

 それでも、このおぞましい世界は心地よい。

 美しい悪夢。もう誰も蹂躙したくないという気持ちと、うるわしい一角獣とどこまでも進みたいという気持ち。

 聖堂にはまだ、辿り着けない。

 哲はもう内部なかへ入った。それはどんなに美しく荒れ果てた風景なのだろう――



 「小夜子も不登校か。」

 揶揄うようなことばとは裏腹に、洋燈ランプが照らす哲の微笑は気遣わしげだ。

 「この一週間だけよ。冬休みが明けたらちゃんと行く。」

 「なにがあったの。」

 あれから何週間も経っているし、もう大丈夫。そう思っていたのに話す途中からわたしは泣いてしまった。そしてそれ自体が悔しくて涙が止まらなくなる。あの程度の人間に、こんなにも深く傷つけられたなんて。

 哲は静かに椅子から立ち、傍まで来た。おずおずと小さな手を伸ばし、わたしの肩をそっと撫でる。見上げると愕くほど真剣で悲痛な顔をしていた。

 「小夜子はなにも悪くないよ、何も。」

 「……哲はやさしいね。」

 「違うよ。」

 哲は淋しげな声で云い、不意にどこか遠くを見るような、物思いに沈むような顔をした。

 「ぼくは偽善者だ。」



 中学の同級生にFという奴がいた。小学校のとき通っていた塾から顔見知りの、大人しくて気立てのいい奴で、ぼくと一緒であの学校では勉強ができるほうだったから、入学してしばらくは気が合って色いろと話せた。あのままでいられたら、友だちになれたかもしれない。

 ぼくもわりあい真面目に授業を受けていたけど、真面目というだけで揶揄われたのはなぜかFだけだった。Fは動きが遅くぼうっとしていて、どこか他人の嗜虐心を煽るところがあった。

 Fは丸っこい体型をしていたせいか豚と呼ばれるようになった。名づけたのが、同じクラスの三人組だった。そんな奴らに限って身体の成長だけは早く、声も低くてもう高校生に見えるような連中だ。

 怖かった。

 その三人が瑣細なことでいちいちFを笑い者にする。Fは園芸部で花を育てるのが好きだったけれど、そんなことまで莫迦にした。そして肩を突いたり、足を引っかけて躓かせたり、……最初はその程度だった。

 少しずつ、Fの物がなくなったり、机の上に卑猥な落書きをされたり、育てた花を踏み躙られたり、陰湿な行為が増えた。ぼくは失くしものを一緒に探したり、落書きを消すのや花壇の片づけを手伝ったり、Fになるべく親切にしようとした。あの三人がいないところでは。

 三人がいるところでは、ただ傍観していた。

 クラス全員がそうだった。

 やがてFの顔や身体に痣ができるようになった。体育の着替えのときに見えた、あいつの背中やお腹の赤黒い痣が、忘れられない。

 中二になってからのことはよく憶えていない。いっぽうでFにやさしいふりをしながら、そんなもので救われるはずのない、増長エスカレートしていく行為から目を背けるのに必死だった。

 あの日。

 放課後、図書委員の仕事が遅くなって第二校舎の階段を下りていたとき。

 踊り場のトイレから幽かな嗚咽が聞こえた。中を覗いて――認識して――次の瞬間には逃げだした。

 一瞬でもはっきりと見えた。

 個室の前でFが倒れて泣いていて、例の三人が取り囲んでいた。Fは鼻血を出し、頭から肩までのあたりがびしょ濡れで、下着を下ろされていた。一人がその姿にカメラを向けて――

 ぼくは今度こそ先生に云おうと決めた。それなのに――次の日登校したら、待ち伏せしていた三人に声をかけられたんだ。昨日、第二校舎のトイレの前、通ったよね。

 そう訊かれてぼくは、笑った。……笑ったんだ。

 「確かに通ったよ。でもなにも見てない。」

 我ながら完璧な笑顔だったと思う。三人は、そうか、とぼくの肩を叩いて去って行った。共犯者みたいに。

 その日からFは学校に来なくなった。

 でもどういう経緯か、ついに三人の行為も教員たちに露見した。ぼくは聴き取りでそれまでに見たことをやっと話した。三人は自主退学した。そしてFも。

 そうして学級のなかに表面上の平和が戻った。でもぼくは、なにごともなかったかのように自分たちだけ平和を享受しようとする皆が怖くて、気味悪くて堪らなかった。――一角獣の夢に救われるようになったのはこのころからだ。

 でも本当は、ぼくだって傍観していただけなのに。それどころか、自分より下等と見做した他人を踏み躙って気持ちよくなるなんて、Fを踏み躙ったあの三人と同類だ――

 Fに再会したのは今年の春。

 この近くの駅のトイレの前で、Fがうずくまっているのを偶然見かけた。なにかフラッシュバックしていたのかな。ぼくは駆けつけて、大丈夫かい、あのときはごめんみたいなことを一方的に捲くしたてた。

 そのときのFの眼は、氷のように冷たかった。

 「偽善者……。」

 ――だからね、小夜子。それ以来ぼくが夢のなかで踏みつけているのは、本当はもう学校の皆なんかじゃない。

 ぼく自身。いくつものぼく自身の屍躰の山なんだよ。



 画材店の年末最後の営業日、わたしは油絵具の棚からローズマダーの小さなチューブをを手に取った。

 外では雪が降っている。赤い絵具の使い途は、まだ判らない。



 神さまどうか、あの子を助けてください。あの子の罪は赦せないとしても。

 もうあの夢を視なくて済むように。

 醜くても血の通ったこの世界で、自罰するのではなく前を見つめて、本当の意味での贖罪ができるように、どうか。



 哲が自殺した。

 自殺しようとした。

 一命はとり留めた。だが彼はとうとう、小さな傷で生と死のあわいを夢見るだけでなく、その一線を超えてしまった。だからもう、それまでの哲は死んだのだ。

 最近は調子が好いから、もう頻繁に来てくれなくても大丈夫。冬休みが明けてからそう云われ、しばらく経ったころだった。

 伯母は憔悴してほとんどなにも話さない。僅かに知れたのは、意識が戻らず、このままでは脳に障害が残る可能性があること。もう左手が使えないかもしれないこと。

 わたしをそっと撫でてくれたあのやさしい、か細い小さな手。

 凄絶な出血量を思い、わたしはしばらく食事が喉を通らなかった。



 正気を保つために学校へ行った。哲のことは誰にも話していない。誰もなにも知らず、平和に過ごしているのは不思議だった。

 美術部にも顔を出した。しかしなにも描く気がせず、とりあえず手近な静物を鉛筆デッサンしていた。

 「あの白薔薇の絵、もう描かないの、」

 意外にもそんなことを訊ねてきたのはAだった。

 「うん。もうどうすればいいか判らなくなってしまって。」

 「そう。……あの絵、好きだったのに。」

 お世辞でもないようでまた意外だなと思っていると、Aはしばらくもじもじとして、意を決したように云った。「モデルになってほしい。」

 「え。」

 「小夜子さんみたいな人を、ずっと描いてみたいと思っていて。」

 「……それは、どうして。」

 Aは少し恥ずかしそうにゆっくりと、ことばを選びながら云った。

 「わたしは目に見えるものを全部描こうとする癖があるでしょう。でも小夜子さんはその向こうの、目に見えないもの――遠くて、儚くて、手が届かないような――なにかとても神聖なものを、描こうとしている気がして。

 そんな小夜子さん自身を、一度描いてみたいと思った。そうしたら、わたしに足りないものが解るかもしれないから。」

 「…………。」

 見抜かれていた。わたしの傲慢な希みを。

 わたしは他人を見下し、心のなかで惨殺しなければ自意識を保てないような凡庸で卑劣な人間だ。それなのに、わたしは夢のなかであなたを殺したのに、あなたはその明るいまなざしで、そんなふうにわたしを見ていたのか――わたしは、顫えた。

 わたしはモデルになることを承諾した。

 Aの筆でわたしのどんな姿が抉り出されるのか、見届けなくてはならない。



 気温はぬるみ、花樹の蕾はふくらみはじめた。

 隣の席の子が期末試験の少し前から復学した。身体は痩せたままだが、もう手頸に繃帯はない。あとは試験さえクリアすれば進級できる見込みだそうだ。

 わたしはもう二度と数学を好きになれないと思っていたが、新たに数学担当になった年配の女の先生はそんな憂鬱を薙ぎ払ってくれた。

 Aがわたしを描きはじめてしばらく経つが、絵がどうなっているかは見ていない。撮った写真をメインに描くのでわたしがずっとAの前にいるわけではなかった。完成するまで、見る勇気は出せそうにない。

 Tは相変わらず元気に血だらけの絵を描いている。

 哲の意識はまだ、戻らない。



 わたしは久しぶりに真白なキャンバスの前に立っている。

 白い絵具をペインティングナイフにとり、ためらいながら全体に塗りつけていく。僅かに混ぜた銀色がかすかにきらめくマーブル模様を作る。

 パレットの上にほんの少し、ローズマダーを絞り出す。

 わたしは迷ってから、指でその絵具を取った。

 いちめんの雪のような下地のやや上に、指を置く。その指をすっと下に引く。

 指を置いた始点は血を想わせる鮮やかな赤で、その下は下地の白と混ざって淡い薔薇水晶の色になる。

 哲を描こうと思った。

 具象画としてではなく。

 彼の水晶のように澄みきった本質と、そこに流れる生命を。繊細で、臆病で、生きて、死のうとした痕跡を。その血潮を。

 わたしは慎重に、もう一度指にローズマダーを取る。



 わたしはセーラー服のまま一角獣に乗り、荒廃した世界を進んでいく。

 いつしか路を覆う屍躰の山は跡絶えていた。

 生者も死者も絶えて縹渺とした領域を、純白のけものは優美に歩き続ける。

 遙かな路の果て、ついに聖堂に辿り着いた。

 廃墟と化した巨大な石造りの建物。一角獣が姿勢を低めて促したので、わたしは下りて聖堂に入った。けものは静かにいてくる。

 壮麗な穹窿アーチと柱が幾重にも連なる廊の先、苔した至聖所の罅割れた祭壇の前に哲がうずくまっていた。寝間着にカーディガン姿のまま、両の手頸から赤い血を流して。わたしは傍らへ膝をつき、そのほそい肩を抱きしめた。

 「……莫迦ね、あんたは死に損なったのよ。」

 わたしは半ば自分に云い聞かせるように、掠れた声でささやき続けた。

 「大丈夫。もう大丈夫だから、戻っておいで。」

 一角獣は円らな黒い瞳でわたしたちを見守っている。やがてけものは哲に近づき、その蒼ざめた頬にやわらかな鼻先を寄せた。すると、少年の手頸の傷から血の替わりに光が滲み、そこから白く輝く小さな芽が吹き出でた。

 見る間に清らかな白銀の花が生まれ、それが種を落としまた花ひらく。それは聖堂のいちめんに広がり次々と咲き零れていった。降り積もる雪のように静謐に。瞬く星のように澄明とうめいに。

 輝く花は聖堂の外まであふれ、滅んだ大地に広がって、やがてあの死者たちをも覆うだろう。そのとき彼らは浄められ、蘇るだろう。

 そうしてわたしたちを中心に、この世界で千の花々ミル・フルールが仄暗い光芒を放った。



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Mille Fleurs(ミル・フルール) 菫野歌月 @violet_k

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