俺たちは廃墟を抜け、草むらを掻き分けた。朝露で濡れた草が息が詰まるほど濃い緑の匂いを立てる。

「すげえ、何年ぶりだろう」

 後ろを歩くゴウナが半分目を閉じて笑った。



 不安定な岩場を降りると、足元の土が砂に代わった。

 まだ誰もいない海だ。砂浜は整備されていない。流れ着いたガラス瓶やプラスティック片が散らばり、遊泳禁止の錆びた看板が立っている。


 何の面白味もない海に、ゴウナは感嘆の声を上げた。

 砂色の水を掬って冷たいと言ったり、波打ち際まで行ってタグのついたスニーカーの先を鳴らしてみたり。

 馬鹿な犬を遊ばせているような気分だ。時刻は午前五時七分。今から寝ても出勤までに疲れは取れない。俺は浜辺に座りながら、スーツの裏地と革靴の底に砂が入り込むのを感じていた。



 ゴウナが全身から潮の匂いをさせて戻ってきた。

「帰ろうか」

 どんな部屋にでも行けるのに帰る家だけがない男にそう言われるのは不思議な気分だった。俺は座ったままゴウナを見上げる。


「お前、このまま外に入ればあの暮らしに戻らなくて済むんじゃないか?」

「カザマさんが帰れないでしょ。それに、無理だよ。ずっと野宿って訳にも行かないし。トイレに行こうと思ってドア開けただけで飛ばされちゃうんだからさ。どの道いつかは戻るよ」

「誰かと一緒に住めばいいんじゃないか。別の奴が扉を開ければいい」

「誰かって誰と?」


 俺は口を噤む。自分と、とは言えなかったが、それでもいい気がした。


 ゴウナは空との境が曖昧な水平線を見つめて笑った。

「昔、偶々辿り着いた部屋の女のひとが飼ってくれてたことはあるよ」

「飼うって」

「買い物行くときも遊びに行くときもふたりで。トイレと風呂のドアはいつも開けっ放し。おれは内職して稼いで女のひとが外で稼いで」

「それで?」

「慣れた頃、宅急便が届いてチャイムが鳴って、うっかりドア開けちゃってそれっきり。今あのひとどうしてるかな」


 俺が何か言おうとしたとき、遮るようにゴウナが呟いた。

「いいんだよ。おれ犯罪者だし、カザマさんに気遣ってもらえるような人間じゃないから」

「空き巣か? 仕方ないだろ」

「違う、おれひと殺してんだ」

 俺は息を呑んだ。


「偶々ドア開けて着いたラブホでお袋と親父に会ったんだ。おれはこんなことになってんのに、こいつら家じゃなくわざわざホテルまで来やがって、と思ったらね。気づいたらガラスの灰皿でさ」

 ゴウナの顔は朝日の逆光で見えない。

「本当かよ」

「マジだよ。四、五年前にラブホ夫婦殺人事件あったでしょ? あれ、犯人おれ」

「覚えてねえや」


 ゴウナはくるりと踵を返した。パンの袋を留めるやつで結んだ髪が跳ねた。

「戻ろうか」



 強く思い浮かべれば、望んだ部屋に近いところに行けるのだという。

 そう言いつつ、閉店中の蕎麦屋と新婚夫婦のアパートを経由して、見慣れた光景に辿り着いたのは三度目にドアを開けたときだった。


 がらんどうの部屋は俺の部屋の造りと似ていた。

 窓にはすっかり明かりの消えたラブホテルの赤いネオン。店名のHeaven's Hallが所々消えてHellになっている。

 隣室の五〇八号室が空き部屋だったことを思い出した。


「微妙にずれてんじゃねえか」

「ごめん、一回行った部屋には二度と行けないんだよ」

 俺は仕方なく窓を開けて、ベランダに出る。火災があった際は蹴破って逃げろと書かれた衝立を蹴るとひどい音がした。隣人からもらった鉢植えが置いてあったことを忘れていた。鉢ごと破れたなと思う。


「これ本当に蹴破れるんだ。昔から気になってたけど……」

 俺はゴウナを無視して、幸い鍵をかけていなかった窓を開けた。



 いつもの五〇七号室を朝の光が染めている。

 ゴウナは今度は律儀に靴を脱いで部屋に上がった。

「じゃあ……」

「待てよ」

 俺は帰りかけたゴウナを呼び止め、棚の扉を開けた。

 新卒研修のときに買って以来使っていないリュックサックに、非常用の缶詰と缶切り、カップ麺を詰める。職場の人間から海外旅行に土産にもらった訳のわからない菓子も。それから、カートンで買った煙草の残りと百円ライター。


 俺は中身の凹凸で歪な形になったリュックサックをゴウナに押し付けた。

「いいの?」

 俺は頷く。ゴウナは泣きそうな笑みを見せた。



 ゴウナはリュックサックを背負って、狭い玄関でスニーカーの紐を結んだ。青いプラスティックで留めた髪が馬鹿みたいだなと思う。


 奴は振り返って言った。

「ありがとう、カザマさん。おれ忘れないよ」

 こいつを何と言って送り出すべきだろう。俺は片手を挙げた。

「またな」

 ゴウナは一瞬迷ってから力強く頷いた。

「絶対またね!」



 玄関の扉を開けると、仄暗い美容室が広がっていた。ゴウナは一夜を明かした飲み友達のように、ごく自然にドアを閉めて去っていった。



 何もかもが夢みたいだ。

 机のうえのカップ麺の残りと、フローリングに広がった鉢植えの土だけが現実だと教えてくる。


 俺はベッドに寝転び、煙草に火をつけた。

 煙が朝日に混じって、部屋に満ちて行く。俺は煙草をふかしながら、仕事をサボる口実を考える。

 どうせ休むなら、ゴウナを風呂に入れて飯でも食わせてやればよかったなと思った。



 あれから、扉を開けるたびにあの男に会うかと考える訳じゃない。

 ただ、出張の多い役職をふたつ返事で受けて、各地を飛び回るようになった。


 知らない土地のホテルのドアを開けるとき、エレベーターの開ボタンを押すとき、先に扉を開けて上司を通すとき、ふとカップ麺を啜っているゴウナの姿を想像する。


 俺のマンションはその後、孤独死や隣のアパートの火災が続いて多くの住人が引っ越した。

 俺はまだ五〇七号室にいる。


 同じ部屋には二度と来られなくても、強く念じれば近くに行けると言っていた。幸い隣の五〇六号室もまだ空室だ。

 あいつがそうするかはわからないが。



 俺はあの日のようにベッドに寝転んで、Hellの赤いネオンを見つめながら煙草を吸っている。

 こういう日はいつもゴウナが来るような気がする。



 隣のベランダからバリンと何かが破れる音がした。

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五〇七号室のアネクメーネ 木古おうみ @kipplemaker

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