焔咲く、秋の緋の丘(四)

 何気ない一言のつもりだった。

 それなのに、何かが変わった。

 見上げるユウの顔は強張こわばっていた。そして彼女の向こうに見える彼岸花の群生は、それまでは背景の一つに過ぎなかったはずなのに、茎の一本、花弁の一枚に至るまでくっきりとした輪郭を持ってその存在を主張しだしていた。そして、そこはかとない禍々しさを漂わせて、わたしの視界に押し入ってきた。

 みるみるうちにわたしの視界が赤く染まる。曼珠沙華の群生はやがて溶け合い緋色の塊となり、青空を飲み込み、草花の緑を打ち消し、わたしたちの肌の色さえも塗り替えようとしていた。

 わたしの視界の中で、無言のユウが赤に侵食されつつあった。

 そしてわたしは気づく。

 ユウがわたしに会いたがったその理由わけに。

 赤い幻視を振り払おうと、わたしは勢いよく体を起こして、ユウと向かい合うように座り直した。視座が変わったからか、襲いかかってきた赤い靄は元の風景に戻っている。なんのことはない、ただの彼岸花の集まりだ。

 わたしはユウをじっと見つめた。彼女は何も話さない。

 だからわたしは恐る恐る、

「ねぇ、彼氏となんかあったと?」と小声で尋ねた。

 返ってきたのは沈黙。

 暑さの名残を含む風が、わたしたちをしっとりと湿らせていく。秋風に濡れて、紅い花は艶やかさを増す。そして無言のユウを見つめ続けるわたしの視界は、またしてもぼやけていく。花は緋色の大きな塊と化して再びわたしの視界を埋め尽くし、ハレーションを起こした。

 朱に染まる世界の中で、ユウは俯いて芝を睨みつけ、繰り出す言葉に迷っているかのようだった。

 そのユウの姿があまりにも哀しくて、わたしは意識して強く瞬きを繰り返した。瞼の裏から赤い残像が振るい落とされると、そこに在るのは何の変哲もない公園の景色。

 光さす青い空、芝生と遠景の緑、親子連れ。そして塊の赤は彼岸花。

 見つめ続けるわたしの目を直視することなく、それまでとは打って変わって小さな声で、ようやくユウは、

「別れた……」とだけ口にした。

 隠しきれない声の震えに、わたしは彼女が涙を堪えていることを知る。

「そっか……」、わたしが言うことができたのは、これだけだった。

 実は予感はあった。遅かれ早かれ、こんな日が来るんじゃないかと危惧していた。惚気話の中に出てくるユウとその彼氏。楽しそうな話の合間に、たまに彼女が漏らす不満から、どことなくふたりの温度差を感じていた。それでも、その温度差は時間がならしてくれるものだし、それを埋めようとユウが頑張っている姿を見てきた。だから、わたしの予感は杞憂であればいいと願っていた。

 すれ違いなのか、興味が他に移ったのか、それとも何か決定的な事があったのか。理由は聞かなかった。そんなものは、当人たちが心に秘めておくべきものだから。

「なんでやろうね……」

 そう言ってユウはわたしに抱きついてきた。


 抱きつかれ、ユウをあやしながらぼんやりと見つめる先で、曼珠沙華が風に揺れていた。

 風になびき花弁が震える。ゆらゆらと揺れるたびにそのあかが風景に溶けてゆく。

 ゆらゆら。風にゆらゆら。

 揺めきながら、やがて花の輪郭はかすみゆく。ユウの辛さを思うわたしも悲しくなり、目に映る世界はまたしてもぼやけ、緋色に染まっていく。

 世界はとてもとても、あかかった。

 今や曼珠沙華の赤は、深く碧い空に挑む激しいほむらのようだった。そして、取り囲むその炎の輪の中に、わたしたちは取り残されていた。

 ユウを思い心は悲しかったのに、わたしの目に映る世界は美しかった。

 緋のゆらめきのところどころに、黄や橙の、あるいは白の翳りが混ざりこむ。風は涼しさを運んでいるはずなのに、わたしは熱を感じ、肺が灼かれてしまうかのような息苦しさを覚えていた。

 けれどもその息苦しさの一方で、わたしは登坂時の体調の悪さが消えつつあることもまた感じていた。そもそも見たかった彼岸花。漫然と見つめ続けたそれは、消耗し切っていたわたしを癒していた。ぼんやりとした視界に滲む、炎のような曼珠沙華は、坂を上り切った達成感の中にいるわたしには、浄化の炎のようにも思えた。

 でもそのことに、わたしは罪悪感を募らせた。わたしが浄化と感じるこの焔は、ユウにとっては痛む心をさらに焦がす劫火でしか無いのだ。だから彼女を抱きしめる腕に力を込めた。先ほどまでの快活も、震えや激情すらも今はなく、ただ無感動に彼女はそこにいる。

 思わず天を見上げると、晴れた空。炎の届かぬ青い空。

 炎を逃れ、救いを求めたその碧空の深さにわたしは溺れる。青に沈みゆく。空気の重さで潰れてしまいそうで、息苦しい。空に背いて地に視線を落とすと、未だ曼珠沙華は燃えていた。

 逃れることもできず、わたしはただ焦がされ続ける。そしてユウもまた、この辛い時間ときから逃れられない。彼女は傷ついているけれど、それをわたしが癒すことも、代わってあげることもできない。

 その痛みは、誰しもが経験するであろうことだから。

 わたしも過去に経験したし、彼女もまたそうだろう。

 わたしもいつかまた経験するかもしれないし、彼女もまたそうかもしれない。

「大丈夫。だいじょうぶだよ」

 何が大丈夫なのかわからないまま、わたしは無責任な言葉を彼女にかける。

 厄介なことに、わたしたちはなぜか誰かを好きになり、そのことで喜び、傷つき苦しむ。

 今、赤い花が空を焦がす。未だ幼いわたしたちは恋をしては焦がれ、燃え立つ成就は束の間に、破れては胸を灼かれる。そして花はいよいよ鮮やかに、芝の緑をも燃やし始めていた。

 赤に染まった世界の中で、

「だいじょうぶだからね……」と繰り返した。

 語彙を失くしたわたしは、それしか言えなかった。


 ただただ静かに時間は流れた。


 彼女を抱きしめて、どれくらい経ったのだろう。

 おもむろにユウは身じろぎをして言った。

「ごめんね、マイ。ありがと」

 声の調子に少しだけ力が戻っていた。

 今はまだ弱々しいけれど、一二週間もすれば、また元気なユウになるだろう、そう思った。根拠なんてないけれどそんな気がした。

 体を起こした彼女は、わたしの腕の中から脱出すると、わたしの肩を両手で掴んで、もたれかかるようにボソッと言った。

「マイ……」

「ん? なに?」

「あんたの服、汗びっしょりで、私まで濡れてめっちゃ気持ち悪い……」

 予想外の言葉に、

「はぁ?」と漏らしたわたしは、思わず彼女を突き飛ばした。

「わぁっ!」と転がるように芝に倒れ込み、仰向けに空を眺めるユウは少しだけ目をうるわせながらも笑っていた。

 

 気がつけば、曼珠沙華はもう燃えていなかった。

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焔咲く、秋の緋の丘 舞香峰るね @maikane_renee

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