焔咲く、秋の緋の丘(三)

 わたしはひとり、数台の車に抜かれながら一心不乱にペダルを回し続けた。

 睫毛に乗った汗とアイウェアの内側にこもる熱気で前も見づらい。少しでも風を感じたくて、わたしはアイウェアを外した。

 視界が一気に明るくなった。

 道路沿いの至る所に、彼岸花が顔を出している。もしもこれが下り坂なら、連綿と続く赤い残像のラインが視界の隅に映ったことだろう。でも、弱々しい登坂では、波打ちながらそり返り広がる赤の花弁の一枚、花茎の一本に至るまでくっきりと目に飛び込んでくる。

 一つの花がようやく後ろに流れたと思ったら、次の花。そしてまた次の花。いくら漕げども速度は上がらず、風も感じず、ただ暑さと苦しさだけが蓄積していく。その苦しさのせいなのか、彼岸花がなんとも不気味なものに思えてきた。破裂したかのように広がる花弁のおどろおどろしさ。飛び出すしべの奇怪さ。葉のない茎の滑らかな不気味さ。曼珠沙華は、わたしを不安な気持ちにさせた。

 こんな花の群生を見たら、どうなるのだろう。襲いかかる赤の塊に恐れおののき、卒倒してしまうかも?

 そんなことを思っていたら、ようやく開けた景色が目に飛び込んでくる。


 やっと、頂上。

 

 達成感よりもそのまま倒れ込みたかった。

 だけどそこから数百メートル、荒い呼吸の中、重たい足を動かしてユウの元へと向かう。

 公園の片隅、親子連れが遊ぶ中央部から最も離れたところでユウは芝生に座り込み、ぼーっと呆けたように空を眺めていた。

 夏の面影がまだ少しだけ残っていて、ユウを取り囲む緑は未だ鮮やかだった。その緑が補色の赤を引き立てている。彼女の背後では、彼岸花が朱い炎を吹き上げるかのように咲いている。まるで世界を焦がしているかのようだった。

 わたしの姿を認めた彼女は、軽く手を振って「舞香、お疲れー」と声をかけてくれた。自転車を降りたわたしは車体を抱えて芝生に入り、フラフラと彼女の元へと辿り着いた。自転車を地面に寝かせたわたしはヘルメットを外し、荒い呼吸の合間をぬって「ごめんね、待ったでしょ」と詫びをいれた。

 そうしてユウの横に座ったけれど、あまりの疲れにそのまま芝の上に仰向けで寝転んだ。見上げた秋の澄んだ青が、汗の刺激で潤んだ目に染みた。瞳に映る空はおぼろだった。

 わたしの息が落ち着くまで、ユウは待っていてくれるらしい。時間はたっぷりある。女の二人組と見るや、見定めるような視線を浴びせたり、声をかけたりするような、そんな無粋な邪魔もここでは入らない。ボール遊びに興じ、駆け回る子どもたちの声が聞こえてくるだけ。時折、樹々を揺らす風の音。穏やかで、だからわたしはこの公園が好きだ。

 ユウはじっとわたしを見ていた。いや、その視線はわたしというより呼吸のたびに上下する胸にあった。あんまり凝視しないでと声に出そうとした時、ユウが、

「ねぇ。そのカッコ、恥ずかしくなかと?」と聞いてきた。

 サイクルジャージは身体のラインが露わになるから、当然恥ずかしい。でも慣れって怖い。

「昔は恥ずかしかったけど、これで街歩くわけやかしね」とわたしは返した。

「ふうん?」と答えながらユウは、おもむろに体を動かした。そして、

「ひゃっ!」

 この素っ頓狂な声はわたしの叫びだ。

 突然のことにわたしは飛び起き、「ちょっ! なんしよーと!」とユウに抗議の声をあげた。ユウの手がわたしの胸に悪戯を仕掛けたのだ。

「いや、こんなとこになんかいいもんがあったけん」

 彼女は何を言ってるのだろう。お返しとばかりにわたしもユウの胸に手を伸ばしたが、彼女は身をよじらせてそれを阻む。両手を組んでガードも堅い。あきらめたわたしは再び寝転んだ。ファラオの棺のように、胸の上で両手をクロスさせて。

 わたしたちはこんなところで何をやっているのだろう。

 ゴメンねと軽い口調のユウは、寝転ぶわたしの顔をまじまじと見つめ、

「ねぇ、あんた今、彼氏おらんとよね」と聞いてきた。

「うん」と短くわたしは返した。

「寂しくなかと?」

「別に」

 これは儀式のようなやりとりだ。ユウはわたしの恋愛動向をいつも気にする。でも、今のわたしはあまりそのへんに興味がなかったりするから、すぐに話は終了する。

 だけどこの日のユウは、

「てかさ、気になる男性ひととかもおらんと?」と聞いてくる。

 今日はロング・ヴァージョンか? と心の中で苦笑いをしたわたしは、

「いないねー。別に今は、彼氏欲しいとか思っとらんし」と応えた。

「なんで?」

「なんでだろーね」

「仕事関係の男性ひととかから、られたりはするやろう?」

「そりゃあね」と言いつつ、脳内に子泣き爺と砂かけ婆が思い浮かんだのは内緒だ。

「そん中にいい男性ひとはおらんと?」

「うーん。あんまりピンとこん。無理して誰かと付き合おうとは思うとらんし」

 わたしは元々恋愛とかには疎い上に、今は仕事や趣味が楽しすぎて、あんまりそちらには目が向いていない。ヒトカラなんて言葉が市民権を得たこの時代は、本当にありがたい。でもユウはおひとり様が苦手な人だったりするので、わたしは彼女からよくご飯とかに誘われる。

「仕事優先?」とユウが聞いてくるから、

「かも」とわたしは言う。

 いつもこんな感じで、訊くのはユウで答えるのはわたし。

「でた、若者の恋愛離れ。この仕事中毒ワーカホリック女」

「はぁ? 仕事だけやかし。自転車しとるし、本も読んどるし、あと楽器とか色々」と自転車を指差してわたしは言った。文章綴りカクヨムをしていていることは内緒だったりする。助詞のひとつで一時間くらい考えたりしている、なんて言おうものなら、めんどくさい女認定されてしまう。

 でも実は、ユウも同じくらいめんどくさい女で、

「あんた、少子化問題、なんとも思わんと?」なんてめんどくさいことを言い出す。

 わたしたちの会話はこんなバカなことばかり。気は合うのに趣味や嗜好の方向性が全く違う、でもお互い押し付けないからいつもこんなだ。

 でもこの日のユウはどこかしつこくて、

「ならマイはさー、マッチングアプリでもすれば?」となおもこの話題を続ける。

「やだよ怖い」

「あんた、慎重すぎ。みんなやっとーよ」

「みんな? じゃ、ユウもやっとーと?」

「やっとらん。だからマイが試してみて、よかったら私もやる」

 これは冗談の応酬。

「ユウはなん言いいよーと?」

 これはいつものおバカな雑談。

「そもそもユウは彼氏おるよね」

 だったはずなのに、わたしの言葉で唐突に空気が変わった。


 風の揺らぎが消え去って、突然世界から音が消えたように感じた。

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