焔咲く、秋の緋の丘(二)

 わたしが気づいたことで、その水色の車は中央線のギリギリまで車体をずらして、ようやく追い越し体制に入った。だけどわたしの横に並ぶとハザード・ランプを瞬かせ、そのままゆっくりと並走する。ミラーを覗き込み後方からの車が来ないことを確認した運転者は、助手席側の窓を開けてわたしに声をかけた。

「舞香、だいじょーぶー? がんばれー」

 のんびりとしていて緊迫感がない、激励とは程遠い口調で話しかけてきたのは友達のユウ。追い越される緊張から解き放たれ、わたしは力を抜く。途端に速度も弱々しくなった。友人の口調に少しばかり苛立ちながらも、これ幸いとばかりにわたしはペダルに縛り付けられたビンディングされた足を解放し、地面に下ろした。

 わたしの行動が予想外だったのだろう。少し進んだところでユウは、戸惑うように車体を左に寄せるとブレーキを踏み、路側帯を跨いで停車した。アイドリングストップでエンジンの音が止み、急に辺りが静かになる。十数メートルほど先に進んだユウの車まで、わたしは自転車を押し進めた。

 自転車を降りて自覚したけれど、やっぱり今日は調子がサイアク。

 歩くのも億劫だ。

 ハザード・ランプが作る黄色い瞬きが、汗で滲む視界に痛い。

 チカチカとした音が響いてくるような気がして、それを耳障りに感じた。

 そしてペダリングを止めたその瞬間から、汗は一斉に身体中から滲み出て、そのままダラダラと流れ出した。さらっとした爽快感はなく、粘り気すら感じるような汗。その生暖かい汗が頬を首筋を、布地の下の背中を這うように伝っていく。

 あ、これはイヤな感じの汗だ、と思った。

 荒い息に胸を上下させながら、痩せ我慢をして平静を装ったわたしは、助手席側の窓を覗き込んで、運転席の友人に話しかける。

「ごめん、ユウ。今日は……、もう……少し、時間、かかりそう……」

 本当は丘の上で落ち合うことになっていた。本調子なら、わたしがユウの到着を待っていたはずだった。

 途切れ途切れの言葉の間に、激しい呼吸を繰り返した。胸の動悸は異常なほど高く、わたしは相当、弱って見えたことだろう。だからユウが心配そうに声をかけてくれた。

「キツそうなんだけど、やめたほうがよくない?」

 そう言ってユウは後部座席の窓を開けた。あらかじめシートが倒されていて、荷物がほとんど無い。用意周到で素敵。

 そもそも今日はユウの方から「話がしたい、遅くなるかもしれないから帰りは送る」と言って、強引にわたしの予定に入り込んできた。ユウがわたしの自転車に付き合うことは珍しい。彼女は運動が好きな人じゃないから、ユウと二人だと大抵は買い物とか映画とか街中で遊んだり、季節のお花を見にあちこちにでかけたりしている。

 そんな彼女が、今日はなぜかわたしの自転車に付き合っている。翌週はきっと始まっちゃうから今日は乗りたいというわたしに、それならゴール地点に向かうと言ってきた。

 彼女も彼岸花を見たいと思ったのか、それとも気まぐれか。それは分からないけれど、珍しくわたしも誰かと一緒に自転車をしている。頂上で落ち合うことになっていたけれど、実はわたしは出発を少し遅らせていて、もう少し上の方で計画的に彼女に抜かれる予定だった。颯爽と乗りこなす姿を親友に見せつけるつもりだったのに、まさか、よりによってこんなバッド・ディに当たってしまうとは思わなかった。

 

 やめた方がいいんじゃないという彼女の提案は、とても魅力的に思えた。けれども、ここでやめてしまうのは悔しかった。わたしは意外と頑固で負けず嫌いだったりする。

 本当はまだ登らなけれならないことに不安を感じていたけれど、

「けっこう調子が悪いけど、あと少しだから」とわたしは強がった。呼吸こそ少し落ち着いてきたけれど、本当はかなり調子が悪い。

 顔を曇らせて「そう」と口にしたユウは、

「じゃあ、上で何か飲み物とか買っとこうか?」と言ってくれた。

 パステル・ブルーの可愛い軽自動車から、彼女好みの曲が流れていた。わたしは名前だけしか知らない、お隣の国のアイドル・グループの曲だ。言葉も知らないから、何を言っているのかわからない。だからただ聞こえてくるだけの音。でもそれは、今の弱っているわたしにはちょうどよかった。

「コーラ。ノンカロリーじゃないやつ」

 喉に甘さと爽快感が欲しかった。ユウは一瞬だけ自分のお腹に目を落とし、次にわたしの全身にじっと視線を這わせた。身体のラインも露わなサイクルジャージ姿をまじまじと見られるのは、たとえ同性でも恥ずかしい。そんなわたしの気持ちを知ることなくユウは、

「何それ。カロリー気にしませんって嫌味か? ムカつくわー」なんて意地悪な受け取り方をする。もちろん冗談だってわかっているけど。補足だけど、ユウはカロリーを気にしたりダイエットしたりする必要はない。

 だけど冗談に付き合える余裕もないわたしは、

「あと、どうしてもダメな時には呼ぶから」と再び走る意志を伝えることに精一杯だった。

「わかった、じゃ上で」

 彼女は手を振ってから車を動かし、ハザード・ランプを消した。空色の車が重そうに坂道をのそのそと登っていく。非力な軽自動車の、とっても頑張っているエンジン音が静かな峠道に響いた。やがて青い空に溶けていったパステル・ブルーの車を追いかけて、わたしは重い足を再び動かした。休んだからか、少しだけ動きが楽になった気がした。

 でも、登坂車線に入って数十メートルもしないうちに、再びキツくなった。

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