第15話 ~最終章~

月が見ていた (15)



あの事件から一年。

俺は、都内の閑静な住宅地にある官舎へと引っ越していた。


朝7時。出勤時間だ。

玄関で靴を履いていると、廊下をパタパタと追いかけてくる足音がする。

「恵吾、お弁当、また忘れてるわよ。」

「ああ、そうだった。いつもありがとう。」

一人暮らしが長かった俺は、どうしても弁当を忘れそうになる。

弁当の入った、俺にはちょっと可愛いすぎるバッグを受け取る。

「私のお弁当より、仕出し弁当の方が美味しいってことなのかな…。」

少しむくれた表情で、彼女は言った。

「いや、そんなはずないだろ。感謝してる。かほり、毎朝、ありがとう。」

かほりは機嫌を直したのか、

「行ってらっしゃい。今日もご安全に。」

彼女はいつもの屈託のない笑顔で手を振り、俺は空いた方の手でそれに応じる。


一年前の、あの事件。

あれを機に、俺の人生は大きく変わった。

数え上げたらキリがないが、一番大きな変化は、

『守りたいもの』

が増えたことだろう。


それまでの俺は、どちらかと言えば『仕事バカ』で、あたかも刑事ドラマの刑事の

ように、殉職することさえも厭わないくらいの気持ちでいた。


でも、今は違う。

『守りたいもの』

が増えたからこそ、自分の命も守らなければならないことに気づけたのだ。


不運にも命を落としてしまったが、一之宮豊には、さまざまな意味で感謝している。


朝食の片付けを終えたかほりは、リビングにある小さな仏壇に手を合わせた。

『今日も無事に朝を迎えることができました。豊。ありがとう。』

写真の中の豊が、優しい微笑みを向けてくれた気がする。


会社は、今月いっぱいで退職することになっている。

後任者への引き継ぎで残業が続いているが、恵吾が自分より先に帰宅することはごく稀である。

夕食の下拵えを済ませ、身支度を整えて家を後にする。

一ヶ月後には式を挙げ、『有松かほり』としての人生が始まる。

自分の中に芽生えた新しい命を、恵吾と二人で育んでいる生活に幸せを感じている。

「男の子なら、名前は『豊』にしよう。誰よりも幸せな子どもに育てよう。」

恵吾はそう言っている。私も、その意見に賛成だ。



お互いに一日の仕事を終え、ダイニングで遅い夕食を摂る。

今日あった良いこと、そうでないことを話しながら、和やかな時間は過ぎていく。

この時間が、たまらなく愛おしい。


リビングのテレビは、今日の出来事を語る。

喜ばしいこと、痛ましいこと…

世の中では、様々な出来事が、それぞれの物語を紡いでいる。


コーナーが、ニュースから天気予報に変わる。

キャスターが心持ち目を輝かせながら、今夜は特別な満月であると告げる。

私達は、残りの食事をいそいそと済ませ、上着を羽織って満月を見る支度をした。

恵吾はいつの間にか、ちゃっかり缶ビールを片手にしている。

恵吾の、非番の前の晩のお楽しみだ。


並んでベランダに立ち、夜空を見上げてみるが、厚い雲が次々に流れている。

「こりゃ、見られないかも知れないな。」

恵吾が残念そうに呟く。

「そうねぇ…。」

私も、ため息混じりに相槌を打つ。

「体が冷えるから、中に入ろう。」

恵吾が私を気遣い、部屋に戻ることを促して踵を返したその時、

「あっ!」

と私が声を上げる。

驚いた恵吾が振り返り、夜空を再び見上げる。

「おっ!」


厚い雲に切れ間ができ、少しずつ夜空が明るくなる。

朧げだった光は、ゆっくりとその輪郭を明瞭にしていく。


「来た!満月!」

二人揃って、子どものようにはしゃいだ声を上げる。


満月を眺めながら、かほりは言った。

「思い出したんだけど、あの晩も満月だったの。恵吾は知らないでしょ?」

「いや、俺も知ってる。晩飯は何にしようか、月を見ながら考えてたから。」

恵吾は笑いながら答える。

「綺麗な満月を見ながら、そんなことを考えてたの?」

かほりはくすくすと笑った。


あの事件の夜も、月は全てを見ていた。

『悪事は、白日のもとに晒される。』

どんな手を使って覆い隠そうとしようが。

どんな手を使って消し去ろうとしようが。

その時が来るのが早かろうが、遅かろうが、

必ず、その時は来る。


「あ、動いた!」

かほりが摩るお腹に、俺は頬を当てる。

「いてっ!蹴られた!」


ベランダで寄り添い、笑い合う二人を、月は微笑みながら見ていた。

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月が見ていた 朝比奈 礼緒菜 @Reona_Asahina

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