第56話(終)

 紗白は私室にある事務机に座って、オルゲルはその横のスツールに座らせられていた。紗白の私室の机やベッドの上には様々な書類や封筒が山積みになっていた。

 まずいろいろなことに対する紗白への礼を述べた。本心を言えばゲンザについて聞きたかった。しかし大人が敢えて公にしていないことを子供に聞かせてくれるはずもないと、そこは最初から諦めた。

「あの、去年の月穹なんですけど。紗白さんに切符をいただいたあの時です。私見たんです。あの時その一帯にいた人たちもみんな見ました。月で男の子が歩いているのが映ったんです。そのことを月の図書館のリリアンさんに話したら、月の無量寿が月穹中に出歩くなんて絶対有り得ないって言われました。その後月刻録を読んだら、時夫さんのことが書かれていました。時夫さんの写真も見ました。リリアンさんからはこうも言われました。月穹の時に見える月の内部は、今その時の月ではない場合もあるって」

 オルゲルはそれ以上言葉が続かなかった。紗白が顔を歪めて泣いている。

「それは時夫だ。それ以外有り得ない」

 見たかった。紗白はそう言って今にも顔を伏せんばかりの勢いで泣いた。オルゲルは恐かった。月刻録にあった紗白の生年は二五六二年。単純に引き算をすれば彼女は今年四四七歳だ。それほどの歳月を生きてきた者が今、年端も行かないオルゲルのことさえ眼中にないさまでいる。

 オルゲルは目の前の紗白に、ごめんなさい、失礼します、と言って椅子から立った。

 来年どこからでもいいから紗白には月穹を見て欲しい。そしてそこに時夫が映って欲しい。

 それが実現するのなら、千回でも祈る。オルゲルはそう思った。


 ある意味無量寿は人間ではない、ともオルゲルは思った。こんなにも長い間、人間らしい心に縛られて、それでも生きていける。それはもう人ではない。

 無量寿というのならむしろ恨みと慟哭こそが無量の生命ではないのか。無量寿とは、底なしの感情が操るからっぽの亡者なのかもしれない。

 ――私もいつかはそうなるのかな。

『それはない』

 突然頭を殴られたように、オルゲルの心の耳に倶李の声が響いた。

『体が病まないのと同じように、無量寿は心も病まない。せいぜい悪夢を見るぐらいだ。だから生きていける。だからみんな暮らしを持っている。そういうものなんだ、こいつらは』

(それ、一応励ましてくれてるの?)

『好きに取れ。とにかく紗白はすぐ元に戻るさ』

(そんなんだ)

『本当に分かっているんだか。なあ、雲雀と話をしろよ。私をいつ鉢に植え替えるか』

(うん)

 倶李は本当に私と一緒に行っていいのか。オルゲルとしてはついそう訊ねたくなった。しかしもう聞かなかった。

 帰りたいものは帰りたいのだ。それ以上でもそれ以下でもない。

 帰ったところで自分は家族にとって有害な存在で、帰りたいなどと思うことは、どこか間違っているのではないか。その考えはずっとあった。今でもないわけではない。

 でもそんなこと、誰でも分かりきっていることではないか。誰でも分かりきっている正しいやり方とやらが、そんなに重要なことだろうか。望んで共にいること。それ以上に重要だろうか。

 多分倶李だってもうそのぐらい単純に考えているのだ。

 紗白のありさまを目の前にして、かえってオルゲルの中で望みは一つになった。


 燕巣は無事ドリントの飛行場に着陸した。放送室では雲雀がフルートを演奏していた。オルゲルを送り出す雲雀の音色が燕巣全域に鳴り響く。

 オルゲルの荷物の中にはバルバラがあげた木刀も含まれていた。

 部屋を出ていく前にオルゲルはバルバラに言った。

「この部屋、ありがとうございました。いい部屋でした。あと木刀も。大事にします。もう道場とか、行けるのかどうか分かりませんけど」

「礼なんかいらないよ。まあ、うまくやれよ」

「ここか月にいるのが、一番いいんだろうなって思います。でも私はドリントがいいから」

「そりゃそうだろ。おばあさんと妹を大事にな」

「はい」


 紗白とバルバラに連れられて燕巣の通路を歩く間じゅう、大勢の乗組員たちが方向も階も違う通路から顔や身を出してオルゲルに挨拶したり、手を振ったりした。変な人たちだとオルゲルは思いながらも、一応笑顔には笑顔で応じた。作り笑いではなく、実際うれしかった。さようなら、さようならと言いながら、心の中で一人一人に言った。さようなら、たくましい人たち。

 紗白とバルバラだけが無口だった。


 オルゲルは緊張していた。入院中も会ってはいたから、ようやくの再会というのとは違う。ただドリントでの再会は今日が最初だ。真っ先になんと言うかが肝心だと思っていたので、それをうまくこなさなければと内心必死でいた。きっと私のせいでいやなことが散々あったに違いない。まずは「ごめんね、大変だったでしょう」と言おうと決めていた。

 俱李の声がした。

『二人ともお前に会いたがっている。空気で分かる。だから行けよ、オルゲル。外は風が強いぞ。かつらをとばされるなよ』

(本当に?)

『空気は嘘をつかない』

 滑走路をカートで移動している最中から泣けて仕方がなかった。もう少し堂々としていなければ、特にフリューに申し訳ない。妹の前でだけは被害者のような振る舞いはしたくなかった。

 滑走路をすぎて貨物受取用のエリアに入った。静海の空港に比べると、ドリントの飛行場はやや狭い。建物に入って、そこにヴァンダとフリューの姿を見ると、もうオルゲルはろくに立っていられなかった。紗白とバルバラが両隣から支えて歩かせてくれたが、二人がそうしてくれていることも認識できていなかった。袋に入った倶李だけは決して手から離さなかったが。

 フリューにもオルゲルの姿ははっきりと見えていた。フリューはもしオルゲルに会っても絶対泣くまいと心に決めていた。しかし無駄なことだった。

 よく見るとヴァンダが何かを頭上にかかげている。オルゲルはそれに見覚えがあった。光詰草ひかりつめくさが描かれた絵ハガキだ。去年、交流試合で月に滞在した時にオルゲルが書いて投函したものだ。

 声にならない声を必死で出しながら、オルゲルは言った。

「帰ってきたよ」



(終)

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オルゲルと不実李(ならずのすもも) 猪鹿珠 @sisikan522

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