第55話

 最後に鉄枝はオルゲルを抱きしめてくれた。オルゲルは正気を保った自分を誉めてやりたかった。

 お店で夕飯を食べて帰りましょと言って、ナディアは再びオルゲルを連れ出した。

 ナディアの運転はなかなか荒っぽく、あまり安らげるものではなかったが、こんな車を一人で運転してオペラニアの道路を疾走する無量寿の女というものは、オルゲルから見ればかっこいいとしか言いようがなかった。

「ごめんね、鉄枝とのディナーじゃなくて」

「とんでもないです。そんなことしたら私、死んじゃいます」

「まー、ありがとう。そこまで好きでいてくれて」

 こんなファンの反応など、ナディアなら百万回ぐらい遭ってきただろうが、オルゲルにとってナディアのその言い方には社交辞令めいた響きもなく、またわざとらしさもなかった。

「私には何話してくれてもいいのよ。ま、私もそれなりにいろいろあったけど、まあ私は無量寿でも若い方だから。戦争中はまだ十代。あのころは検査なんてなかったから、多分無量寿だけど、真実は分からないって状態でね。あなたの複雑な気持ちも、少しは分かるつもりよ」

「すみません、そんな風に言ってくれて……」

「やだー、もっと気楽にしててよ」

 ナディアはそう笑いとばした。彼女がいいと言ってくれているのならそうしようとオルゲルは思った。

「でも今日はびっくりしました。まさか父の……」

「私も知った時はびっくり」

「あそこでは言いませんでしたけど、父は私がピアノをやめて彦郎剣をやるって言った時、あんなもの無量寿の暴力じゃないかって反対してきたんです。だから鉄枝さんにオルゴール作ってたなんて、本当に意外で」

「あはは。響平君、それ全然深く考えないで言ってると思う。ピアノ続けて欲しかったから拗ねたってとこじゃないかな。あの人らしいわあ、すっごく。オルゲルも響平君が生きてたころはさぞかし振り回されたんでしょ」

「あはは……」

 思わず笑ってしまった時、オルゲルの心の中にまで夜風が吹き抜けたようだった。

 ナディアが連れていってくれたのは古オペラニアのレストランだった。

「ここは行きつけのお店だから、なんでも安心してね」

 オルゲルはそこでコース料理をごちそうになった。個室ではなくテーブル席だったのは、オルゲルとしてはありがたかった。初対面の人と個室に二人きりはさすがに苦しい。

 ナディアは食べないのかと思っていたが、「一緒に食べたかったから、今日は朝からなーんにも食べてないの!」と言って、コースは二人分だった。

 ナディアが何を話してもいいのよと言ってくれたのに甘えて、オルゲルは両親や祖母の話、妹の話、そしてエッカのことをたくさん話した。マネージャーとは言え華やかな世界にいるナディアにこんな話をしても退屈させるだけかと思ったが、ナディアが喜んで聞いてくれたので、オルゲルはいつまでも自分の身近な人たちの話をし続けた。

 料理は素晴らしくおいしかった。最後に出されたヒカリ茶を飲んでいると、ナディアが訊ねてきた。

「ねえ、さっき学校へはまた一年生から戻るって言ってたけど、前と同じ学校?」

「はい」

「実はね、私の知り合いもボリーバンで高等学校をやってるの。あいにくドリントじゃなくてバルトゥスなんだけど」

 バルトゥスはボリーバン北部にある山間の都市である。ドリントとは千キロほどの距離がある。

「無量寿向けの学校なんだけど、今は人間の学生がほとんど。でも教職員は全員無量寿よ」

 ナディアはその学校のリーフレットをオルゲルに差し出した。

「へえ、こんな学校が……」

 もちろんそこだって決して楽園ではないだろうということはオルゲルにも分かっている。ただそういう所もあるということがオルゲルにとっては大切なことだった。

 学校ということで思い出すのはエッカのことだった。今日のラウルとの再会はなんとも消耗するものだったが、エッカは彼の妹なのだ。さぞかしいやなことがたくさんあっただろう。それでもオルゲルから見てエッカには荒んだところは全くなかった。エッカとのつき合いでオルゲルがいやな思いをしたことは一度もない。今となってはエッカへの思いは好きを通り越して崇拝である。

 しかし今のエッカから見てオルゲルはどうなのか。オルゲルは相当迷惑をかけたであろうことをエッカに謝りたいと思っているし、どんな形でも友達の関係を続けたいと願っている。だがその思いはエッカにとって、今日のオルゲルにとってのラウルのようなものであるかもしれない。

「でもオルゲル、地元に未練あるでしょ。ま、これはあくまで選択肢の一つってことで」

「よっぽど疫病神だなって分かったら、ここに行きます」

「オルゲル、そう考える気持ちは分かる。でもね、人のこと疫病神って思う奴こそ疫病神よ。私は絶対そう思う」

 ナディアが励ましたくてそう言ってくれているのは分かっていたが、今のオルゲルにはこういう強い励ましはかえってつらかった。ナディアはさらに言った。

「とにかく、離れたくない人の手ははなさないで」

 その言葉の強さを受け止めかねながらも、オルゲルは「はい」と言った。


 店を出た後、さすがに食後とあってナディアの運転も穏当なものだった。しかしやはり速いことは速い。

「ナディアさん、スピードちょっとだけ落としてもらえます?」

「あ、さすがにとばしすぎだった?」

「ううん、景色をもっとじっくり見たくて」

「なるほど。了解」

 さっきより落ち着いた視界で広がるオペラニアの夜景は美しかった。でもこの町で鉄枝を見るのはもういいかとも思った。映画でも雑誌でも、これからも鉄枝のファンはやめない。ボリーバンにツアーでやってきたら絶対に見にいくだろう。ただこの町で見る必要はないと思った。

『いいのか?』

(倶李。どうしたのいきなり。あ、一応気を使ってずっと黙っててくれた?)

『一生の楽しみみたいだったからな』

 かつて鉄枝やナディアと俱李は話をしたことはあったんだろうか。もしそうだとしたら俱李も本当はナディアと話したいのではないか。オルゲルがそう思っていると、

『うん。まあでも、いい』

 と言われた。


 翌朝、また空港が騒々しくなる頃合に、山ほどある機長あての船内便の書類の中に、ゲンザから紗白あての手紙が含まれていた。業務に忙殺されているうちに、紗白が実際にその封筒を開けて中身を読んだのは、昼すぎになってからだった。

『師匠殿

思うところあって今日でここから降りることにしました。例の物はこのまま持っていきます。拾ってもらった恩を仇で返すようで申し訳ない。給与処理はそちらの都合にお任せします。少しオペラニアをぶらついてからボリーバンで暮らします。住所が決まったら知らせます。ばかな真似はしませんので、そこだけはご案じなく。どうかお健やかで』

 ほどなく、ゲンザの「自己都合による退職」が燕巣で告示された。

 ゲンザの出奔は、燕巣の乗組員の間でよくも悪くも話題となった。本当はいるのではという噂も出たが、彼がいつもつけていたレンガ色の丸い帽子がごみ箱から発見されて、誰もがゲンザはもうここにいないと確信した。オルゲルにとってはショックだった。アポロニア劇場で慌ただしく会ったのが最後だったのだ。バルバラに何か知らないかと訊ねたが、分からない、と言われた。

 バルバラにはゲンザがこのタイミングで出ていったのが分かる気がした。保身のためもあるだろうが、ゲンザとカブトワリの件が巡り巡ってオルゲルの身を危うくするかもしれないことを案じたのだ。

 滝鶴にはせっつかれているバルバラだったが、報告は結局していない。オルゲルがそこに巻きこまれるかもしれないと思ったからだ。しかしゲンザに先を越された形となった。


 ゲンザがいなくなって落ちこんでいるオルゲルに、昼食の後バルバラは外出へと誘った。

「気分転換にどうだ。必要なもんもあるだろ。おばあさんや妹にお土産でも。あ、欲しいもんあったら私が買ってやる」

「いえ、町中はもう……」

「じゃあ燕巣ん中の売店にでも行こうぜ。土産になりそうなもん探そう」

 売店は売店というよりスーパーマーケットのようだった。いろいろな国の食べ物や菓子も並んでいたので、ヴァンダやフリューが好きそうなものを選んだ。それと、園芸品コーナーで倶李を入れるための簡易な鉢とそれを入れる袋を買った。倶李のためのものを手に取りながら、倶李を鉢に移す時はゲンザも一緒がよかったのにと寂しさがこみ上げた。

「ありがとうございます。いろいろ買っていただいて」

「いいよ、こんなの」

「聞きたいんですけど、紗白さんに会うことって無理ですかね。忙しすぎるかなあ。まだ聞き取りも続いてるみたいだし」

 それなら機長に聞いてみるとバルバラは言った。バルバラはなかなか一ヶ所にいない紗白を探し回り、こじ開けるようにして話をしに行った。

「すみません、一瞬で済みますから。あの、オルゲルが話をしたがってます。到着までに会ってやってください。あいつも機長が忙しいのは分かっています。長話するつもりはないって」

 紗白は疲れた顔をしていたが、構わないと言ってくれた。

「明日離陸して、高度が安定したころにいつでも来てくれ。しばらくは事務処理ばかりだ。ここでしているから」

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