あたしは、ただ、貴女のことが好きだったんです――お仕置き編

 あれから数日が経った。あたしは自宅で過ごすことができている。

 というのも、解放したサーシャさんがあたしを警察に突きだすことをしなかったのだ。しえるさんは通報するべきだと怒り心頭だったそうだが、サーシャさんが説得して、不問にしてくれたそうだ。もちろん、「スティリア」には出禁になり、サーシャさんにも接近禁止にはなったけど、それだけで済んだというのは奇跡である。サーシャさんには電話で深くお詫びをして、永久の別れを誓った。

 許されたといえ、あたしの破滅的な気持ちが完全に霧散したわけではない。心のどこかで自分の惨めな終末を期待していて、もう一度サーシャさんの前に現れれば、罪深い快楽の頂点に至るのではないかと思ってしまっている。

 だが、そんな希望的な破滅の快楽は、一人の女性の帰還によって、無残にも打ち砕かれたのだった。


 自宅の玄関の鍵が開錠され、人が入ってくる気配がする。あたしはこの家の合鍵を持っている人が誰であるのか知っているので、彼女がリビングに来るまでソファーに座って待つ。

「あら。居るのであれば、開けてくれてもいいじゃない」

 彼女――豆ははこさん――は、あたしを見るや、けっして邪気を感じさせない笑顔であたしに言った。

 あたしが何も言わずにソファーから立ち上がると、豆ははこさんは上着を脱ぎ捨ててこちらに寄ってくる。そして、あたしの耳元でささやいた。

「なにやら、”おいた”をしたそうね」

 あたしはそのセリフを受けて恐怖を覚えるが、なんとか冷静さを保とうとする。

「どうして、そう思うのですか?」

 強がってみせるあたしに、豆ははこさんが、ふふ、とサーシャさんのような声を漏らした。サーシャさんと違うのはその圧力プレッシャーである。

「あなたには言ってなかったかしらね。私も”あの店”にはよく行くのよ」

 背筋に凍った鉄柱を突き刺されたような衝撃が身体に走った。豆ははこさんは、そんなことを気にもとめず、あたしの首筋に両手をあてる。まるで首を絞めるかのように。

「もう、すっかり跡が消えちゃったわね。だからかしら、ちょっとだけ自分のことを忘れてしまったのね」

 豆ははこさんは、美しく冷たい瞳をあたしに突きつけてくる。あたしは睨まれたカエルのように身動きがとれず、首筋には汗が流れる。

「いいのよ。これはあなたの責任ではないわ。あなたのことを放っておいた私がいけないの。そうでしょう? だってこれは、飼主の過失ですもの」

「豆はは……」

「んー?」

「申し訳ございません。――ご主人様」

 ご主人様は、何も出来ないくせに悪さだけはするあたしを、慈愛と侮蔑をこめた視線で包み込む。瞳、首、肩から胸へ、そしてつま先まで。あたしがサーシャさんにしたような這いずり方で。

「いいのよ。やってしまったことは仕方ないわ」

 ご主人様は、鞄から黒革製の首輪を手に取る。

「ずっとこの家にこもっていて、さぞ運動不足になっているでしょう。少し、散歩しましょうか」

「はい。ありがとうございます。ご主人様」

 あたしはこの先に何が起きるのか理解はしている。だからといって、それを拒むことは許されない。

「そうね。私の家までお散歩しましょうか。ようちゃん」

「はい。ありがとうございます。ご主人様」

 あたしは犬なんかではない、”ちゃんとした”人間である。首輪くらい、自分でつけることができる。だから、できるだけ手早く革製のそれをつけて、リードである鎖をご主人様に渡す。

「お願いします。わたしにお仕置きをしてください。ご主人さま」

 ご主人様は、四つ足の醜い獣になったあたしの頭を撫でてから、慈しみの笑みを降り注いだ。

「あら、ようちゃん。あなた、どうして人間の言葉を話しているのかしら?」


(終)

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あたしは、ただ、貴女のことが好きだったんです 犀川 よう @eowpihrfoiw

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