どたん ばたん どたん

会多真透

どたん ばたん どたん

 地鳴りを思わせる轟音とともに男は目を覚ました。


 ベッドに潜り込んだまま軽く頭をもたげ、しばらく様子を窺ってみたものの辺りはしんと静まり返り、これといって変わり映えのしない景色がカーテン越しに差し込む月明かりに仄かに照らされ、じっと身を潜めている。


 男はふたたび枕に頭を沈めると目蓋を閉じて、暗闇を湛えたがんの奥深くへとまた意識を置こうとした。しかしどうにも上手くゆかない。そこで男ははたと気がつく、いやに喉が渇く。ひとたび雑念が頭をもたげてしまえばおちおち眠ってなどいられるはずもなく、仕方なしに男はむくりと上体を起こし、両足を台所のほうへ向けた。


 どたん


 先刻よりはいくらか大人しい音、壁に拳を打ちつけたような。


 どたん ばたん


 いや、そうではない。どうやら物音はこの寝室の天井から、即ち真上に位置する部屋の床から発せられているらしかった。


 どたん


 サイドチェストに置かれたデジタル表示の時計は、三時十五分の時刻を明確に知らせている。

 普段であれば、管理会社を通じて苦情を申し立てる程度の心の余裕は持ち合わせていたはずなのだが、何故だか今晩に限っては腹の虫を如何ともしがたい。


 どたん ばたん どたん


 不規則に繰り返される耳障りな物音は、男の平常心をじわじわと逆撫でする。


 どたん ばたん


 遂に腹に据えかねた男は乱雑にカーテンを払い除け、窓を開け放った。

 そこにはついぞ見たことのない巨大な満月がどっかと待ち構えていた。その輪郭は易々と撫でられるほど間近に迫り、天上から滔々とうとうと降り注ぐ青白い光が、ここら一帯を昼日中と見紛うほど明るく浸している。その光景は狂気をも孕んでなおのこと神々しかった。


 どたん ばたん どたん


 次に物音を耳にするなり男は躊躇ちゅうちょなくベランダへと降り立ち、物干し竿を手にすぐさま部屋の中に引き返した。そしておもむろに天井に狙いを定めると、その先端を向けてひと息に突き上げた。すると思いの外あっさりと物干し竿は天井を突き破り、三分の一ほどの長さが見えなくなったところで何かに『がつん』とぶつかり、動きを止めた。


 もしや床に着いたのか。不測の事態を前に、男はとにもかくにも下ろすほかあるまいとあらためて力を込めた。ところが物干し竿はうんともすんとも言わない。目一杯の力で引き抜こうと試みても、やはりびくともしない。何食わぬ顔で奇妙にぶら下がっているばかりだ。


 何だっていうんだ。忌々しい。ひとつ大きく息を吐き、自分自身をなだめすかしながら男は物干し竿をしっかと握り直した。そうして両手にあらん限りの力を込めようとしたその瞬間、男の手が竿からぬるりと滑り落ちた。同時に、これまで頑なに動こうとはしなかった物干し竿が目にも留まらぬ速さで天井に呑み込まれ、あとには小さな穴がぽっかりと取り残された。呆気に取られた男は真っ暗い穴の行く末をただただ見据えていた。


 このまま眠ってしまおうか、数瞬そんなふうにも男は考えた。いつの間にやら物音はぴたりと止んで、部屋の中には耳慣れたいつもの静寂が取り戻されていた。だがどうだ。そもそもは向こうが始めたこととはいえ、現状を鑑みると些かこちらに分が悪いようにも思える。修繕のための費用など、男はびた一文払いたくはなかった。


 いいや。こんな夜更けに手前勝手に喧しくされて、平然と眠っていられるほうがどうかしている。そうだ。あくまで非は向こうにあるのだ。自分はけしかけられて否応なくこのような対応を取るに至ったのであって、そこに悪意はなく、結果天井を穿つことになろうともそれは物の弾みでしかない。しかしながらあの物干し竿を捨て置くのはいくぶん気掛かりだった。


 毅然とした態度で乗り込めば、相手もそうそう強くは出られまい。男は寝巻のままやむなく表に出た。


 上の階の住人とは、男はまったく面識がなかった。それどころか今の今まで空家だと思っていたくらいだ。よしんば何者がそこに住まおうとも男には知ったことではなかった。傍迷惑な人間でさえなければ。


 共用階段を上がり、突き当たりの部屋の玄関先で足を止める。表札は出ていなかった。それから男はインターフォンのボタンを押し込んだ。

 扉の向こうからチャイムの音色が微かに聞こえる。けれどもそれきりだ。もう一度。やはり別段、反応はない。さらにもう一度。さんざっぱら騒ぎ立てておきながら、今さら居留守なんかでやり過ごせるはずないだろう。男は思わず扉に手を掛けていた。

























 照明の落とされた廊下はまっすぐに奥へ奥へと延びており、その先にはおそらくリビングが続いていた。何かしらの影がその中でちらちらとうごめいている。それはほんのりと白く、うっすら赤みを帯び、ときたま緑色に輝いた。


「すみません」


 鬱憤を晴らすかのようなよほど大きな男の声は、暗がりに融けてたちまち有耶無耶になる。


「すみません」


 足元には女物のはきものが散乱していた。


「あのう」


 まさか。人っ子ひとりいないとでもいうのか。急に気味の悪くなってきた男はそれならばと、ともかく物干し竿を一刻も早く持ち帰ってしまうため部屋に上がり込んだ。


 玄関の扉が閉ざされると視界はすっかり奪われてしまう。反射的に男は、靴箱の脇にあるはずの照明のスイッチに手を伸ばした。しかし辺りは依然として真っ暗闇のまま。やむを得ず暗晦あんかいな道のりを男は壁に手を這わせ、前方に見やるおぼろげな明かりを目印にして進んでゆく。


 そこにあったのは一台のテレビだった。フローリングに直置きにされたブラウン管テレビが、がらんどうのリビングの片隅で煌々と点されていた。

 画面には、生まれたばかりの赤ん坊の泣き喚く様子が延々と映し出されている。けれどもただの少しも音がしない、産声を上げない赤ん坊はずいぶんと息苦しそうだ。その一種異様な生々しさに軽い眩暈めまいを覚えた男は、すぐさまそっぽを向いて寝室の扉を開ける。


 寝室の床にはたった一か所、暗夜に煌めく一等星のごとく目映く輝いた場所があった。それこそは男の空けた穴に他ならなかった。しかしながらあの程度の衝撃で床が抜けるとあっては、ろくすっぽ気も休まらないではないか。明らかな構造上の欠陥だろう。

 男は膝を突き、ぽっかりと空いたその穴の縁に指を添わせてみる。それからおもむろに四つん這いになって、床下を覗き込んでみた。

 

 そこからは未だ青白い月明かりに照らし出された寝室が、たしかに確認できる。目の当たりにした男はつと顔を上げる。カーテンの掛からない、この部屋の窓から見通せる夜の風景には今し方、自身の部屋のベランダから目撃したあの巨大な満月は影も形もない。ここはほとんど真っ暗闇だ。それなのに、何がどうなっている。

 男はまたしても穴の中を覗き込む。刹那、鈍い物音が男の耳元で弾けた。


 がつん


 頭の裏側がちかちかと閃いて、にわかに右の目は何物をも捉えられなくなる。そうして腹の底から沸々と込み上げてくる異物感、その切っ先が男の脳天を貫いた。


「あが」


 男はもんどりを打って床の上にうずくまった。


 どたん ばたん どたん


 ほとばしる激痛にのたうち回り、小刻みに震える手を辛うじて目元に充てがってみる。眼球がはまっていたはずの穴は空ろになり、そこから生温かいものがどろり、どろりと、止めどなく流れ出していた。


「おご。うぎぎぎが」


 どたん ばたん


 もはや虫の息だった。それでもなお男を突き動かしたのは、飽くなき生への執念だった。こんなところでむざむざくたばってなるものか。一度きりの人生、やり残したことがまだ山ほどある。

 ほとんど無意識に、男は残されたもう片方の目を頼りに玄関を目指していた。芋虫さながらにままならぬ体をくねらせ、床を這いずり、のそり、のそりと前進する。それはもう独善的なまでに。


 どたん ばたん どたん


「ひぬ。ぐ」


 死に物狂いで突き出した頭を強か何かにぶつけた。力なく右の手を伸ばし触れてみると、それは華奢な丸太の柱のようで、血の気の引いた人間の足首のようだった。


「いたい、で、しょう」


 やけにねんごろな口振りの女の声。女はしずしずと男の足元へ回り込み、そこに転がる足首の一方をむんずと掴み上げる。意識の混濁した男は、それが自身に差し延べられた救いの手だと信じて疑わなかった。この土壇場において幸いにも一命を取り留めたのだと。彼女こそは命の親だと安堵したのも束の間、その手は男をあさってのほうへと引きずりだした。


 どたん


「いたい、で、しょうね」


「あ。ああ」


 たちまち男は声を上げるつもりが、口を開いたところでその言葉はまるで言葉の体をなしていなかった。身をよじり、足掻いてはみたもののその抵抗を物ともせず、女はずるずると男の体を引き連れてゆく。


「メを、つぶさ、れると、いたい、で、しょう」


 どたん ばたん


 女は訥々とつとつと男に語り掛けながら、遂に窓を開け放った。そうして往生際の悪い男を、赤子の手を捻るも同然に外へ引っ張り出した。


 どたん


 男の体は軽々と宙をたゆたう。まるで水底に沈んだ地上を真っ逆さまに望み、傍らには病衣に身を包んだ女の姿。女は欄干の上に素足で立ち尽くし、その細腕ひとつで男を支えていた。

 ふたたび姿を現した真っ青な満月は、はち切れんばかりに膨らんで見えた。


「メを、つぶさ、れると、ね、むねが、とても、いたいの、よ」


「うう。ああ」


 ぬらぬらと湿っぽい女の髪が、折からの夜風に舞い上がる。世にも醜悪にひしゃげた笑みは、憎悪と哀情とが内々でせめぎ合っていた。その顔を目の当たりにすると男は今晩、出くわした咄咄とつとつ怪事かいじのすべてを理解した。


「ごめんなさいね。わたしのかわいい――」


 次の瞬間、女は欄干から足を踏み外した。

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