亜熱帯の次の朝に
スギモトトオル
本文
『昨日の話は、無かったことにして頂きたい』
几帳面なボールペンで綴られた手書きのメモをそこまで読んで、ぐしゃりと握りつぶした。
ベッドの上からスマホを取り上げて、時刻と日付を見る。午前九時、日曜日。無造作に頭を掻く。そうか、休日だった。
何か飲み物を飲もうとキッチンへと向かう途中で、握ったままだったメモを無造作にゴミ箱へ放り捨てる。軽く舞ってくれと思いながら。
冷蔵庫を開ける。牛乳のパックと、飲み残しのシャンパンを取り出した。頭上の食器棚からマグカップを取りながら、蓋を開いたシャンパンのボトルをシンクに逆さまにした。
どっぽどっぽと、ピンクのアルコールが炭酸の細かい泡を浮かべながら流れていく様子を無感情に見下ろして、流しがベタつかないように、シャンパンが流れ切った後から水道水で洗い流す。綺麗さっぱり。
レバーを上げて水を止める。シンクの底で渦巻いていた水道水が、ごろごろ音を立てて流れ切る。その様子を眺めていると、急に胃からこみ上げてくるものがあった。
まずい。咄嗟に手で口を押さえるよりも先に、マグカップの牛乳を飲み下す。喉まで上がって来かけた感情と胃の内容物が、牛乳でむりやり押し戻される。ごほっ、ごほっ、と咳き込みながら、溺れかけたみたいに乱れた呼吸を整える。
ちくしょう。ぐい、と口を拭いながら、ついでに指の腹で涙も拭き取る。下着姿にカーディガンを羽織っただけの恰好で、朝から台所のシンクに吐いたりなんかしてやるもんか。
ましてや、たった今さっきフラれた女のことなんかでさ。
とりあえず、落とさずに寝てしまったメイクを洗い流し、部屋に散らばった適当なシャツとパンツを身に着ける。途中、熱いシャワーでも浴びようかと思ったけど、下着を脱ぐのがなんだか億劫で、やめにした。
(……ひどい顔)
鏡に写った自分を見た。寝癖で髪を乱した、不細工な
メイクをやり直して、どこかに出掛けよう。幸い、まだ日曜日は始まったばかりだ。二人分の皴のついたベッドのある部屋なんかに、これ以上は居たくない。
今日が平日だったら、仕事に集中して忘れることが出来たのに。
そう考えた後で、どうして今日という日曜日に予定を入れず一日空けていたのか思い出して、また胃がムカムカしてきた。
もういっそ、吐いてしまった方が楽になるのかもしれないと思いながらも、いや、絶対に負けてなるものか、という頑なな意地がもたげてくる。胃液がこみ上げるのを無理矢理飲み込んだら、涙があふれてきた。
ちくしょう。せっかくのメイクがやり直しだ。
パーッと出掛けてやろう。とびきりのお洒落をして。
こういうときは、買い物に限る。
近所のショッピングモールに出向き、服屋を巡って気に入ったロングスカートとニットを買い、書店に入って、文庫落ちを待っていた小説を単行本で買い、ドラッグストアで切らしていた頭痛薬と目薬を買い足した。
一階のカフェでさっそく小説を開きながらカフェラテを楽しんでいると、傍らに置いたスマホが振動した。
『着信中 藤本 理恵』
画面に表示されたその名前を、じっと見つめる。『登録された名前です』という表記がいやに憎らしく感じる。だけど、どこかに安堵を感じている自分もいる気がして。
Bluetoothで繋いでいるイヤホンからは、急かすような着信メロディが。もう10コールくらいは放置してるけど、スマホは鳴りやまなかった。
「はい。もしもし」
通話ボタンを押し、話しかける。椅子に深く腰掛けて、頬杖をついて。スマホはテーブルに置いたまま、イヤホンの内臓マイクで。
『……あ、繋がった。川原さんよね?』
声の主は、ちょっと緊張したような硬い響きで話し掛けてきた。
「はい」
『よかった。あの……部屋にいないから』
「部屋?」
予想外の言葉に、思わず眉根が寄る。
「何の用があって部屋に戻ったんですか。留守だったでしょう、勝手に入ったんですか」
『ち、違う! 勝手にって……びっくりして、心配して……』
「ああ、フッた女がショックで自殺でもしてないかって? ご心配なく、私はこの通りピンピンしてますから。おあいにくと、丈夫なもんで」
『フッた……? じさ、つ……? ねえ、ちょっといきなり何のはなs…………』
「いきなりなのはどっちですか」
相手の言葉を容赦なくぶった切って、可能な限り冷たく言い放つ。
「だいたい、ずるいと思わないんですか。”なかったことに”なんか、出来るわけが無いでしょう。その気がないなら、最初から誘ったりしないでくださいよ。まんまと浮かれて部屋にまで連れて帰って、まるきりバカみたいじゃない」
自分の口が次々と非難の言葉を受話器の向こうへ投げつけるのを自覚していた。朝に飲み込んだ感情たちが、堰を切ったように吐き出される。
「本当、どうせ笑ってたんでしょう。バカな女が引っ掛かったって。ただの遊びなのに」
『ちょっと待って、いったい何を言っているの? あなた、どこにいるの?』
困惑した声でそう問われ、興奮していた私は場所もわきまえず、怒鳴るように場所を伝えた。
すぐ行くから、絶対に待ってて。そう言って、彼女は通話を切った。
店内の異様な視線を身に受けながら、私はカフェオレのストローを咥えた。
ああ言われて、素直に待ってしまう自分に呆れながら。彼女に会えることに、どこか期待して喜んでいる自分に。
「ああ、いた。やっと会えた」
彼女は季節外れにかいた汗を流れるままに、息を激しく乱しながら現れた。店内に入るや否や素早く見渡して私を見つけ、一直線に向かってくる。
心臓が跳ねる。乱れた彼女の髪が、耳からこぼれて怜悧な目元に掛かっている。私の大好きな泣き袋と、すらりと通った鼻筋。ああ、彼女だ。
「何しに来たんです」
私は視線を外して、出来る限り無表情を装う。吐き捨てるように。
「何しにって……もしかして、読まなかった? 書置きをしたんだけど」
「読みましたよ。読んだから私は……」
「だったら、どうして私が帰るまで待っててくれなかったの」
「帰るって……」
「え?」
言葉に詰まる。互いに、困惑混じりの思案顔になって、彼女は慎重に口を開いた。
「あなた、もしかして最後まで読まなかったわね?」
「…………」
たらり。何故だろう、私の方にまで汗が伝播してきた。
「いや、だって、あんなの……」
「どこまで読んだのか、正直に言いなさい」
「『昨日の話は、無かったことにして頂きたい』」
「…………え、そこだけ!?」
純粋な驚きを見せる彼女。ばつが悪い思いで、うなずく私。二人の間の沈黙には、もはや重さは無かった。
深く重いため息。
「まったく……」
「だ、だって、だってぇ……!」
ムキになって反論しかけた私の鼻先に、一枚の紙が突き付けられる。びっくりする私に、彼女が説明する。
「これ、あのメモの書き損じ」
「え?」
「字がっ」
今度は彼女が恥ずかしそうに顔を逸らして、
「あんまり気に入らなかったから、書き直したの。その書き損じがこれ。部屋に置いたのと内容変わらないから。読んで」
運動後の乱れは治まっているはずなのに、彼女の頬は朱かった。
受け取って、恐る恐るその畳まれたメモ用紙を開く。
読んで、私は恥ずかしさと照れと嬉しさで、彼女以上に真っ赤になった。
「ほら、帰るわよ。コレ、ちゃんとした場所で、ちゃんと渡したいから」
彼女がカバンから取り出した上品な色の小さい紙袋には、ジュエリーショップのロゴが印刷されていた。
彼女の目を見れなくなってしまった私は、無言で視線を伏せて、こくこくとうなずく。
ほら、と差し伸べられた手をこわごわ取って、しなやかなその指に導かれる。
私たちは、昨晩を共に過ごしたアパートの部屋へ戻るために、その店を後にした。
* * * *
昨日の話は、無かったことにして頂きたいです。
もう一度、ちゃんとした時に、ちゃんと想いを伝え直したいので。
明日、貴女のための指輪を買ってきます。もちろん、ペアで。
昨日みたいな、お酒の回った勢いで、頭も体も熱くなった状態でなんて、嫌なの。
私は私で、真剣なつもりだから。
だから、少しだけひとりにしちゃうけど、いい子で待っていてね。
出来れば、とびきりのお洒落をして、待っていてね。
* * * *
〈了〉
亜熱帯の次の朝に スギモトトオル @tall_sgmt
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