ふたりで

 私の物語には、当然だけれど足りないものが多すぎた。特に、対象年齢を全く考えていない文章が致命的だった。

 面白くはある――そう、陽凪は気遣ってくれた。けれどそれがお世辞であると私は直感していた。

 修正しつつ、あるいはその文章の裏に込められた多くの物語を明文化していった。どんな思いでその言葉を登場人物が口にしているのか。どんな場面なのか。

 言葉以外の、いわゆる地の文が壊滅的だった。

 いくつものメールを交わし、やがてらちが明かないとばかりに彼女は通話を望んだ。

 了承のメールを出して、私たちは初めて言葉を交わした。

『よろしくお願いしますね、ゆえさん』

「は、はい……ええと、あおさん」

 心臓が飛び出すかと思った。

 ヘッドホンから響くその声は間違いなく私の知る陽凪のものだと直感した。

 すでに彼女の声は風化して忘れていたはずなのに、魂の奥底に刻まれた思いが告げるのだ。成長した彼女の声そのものだと。

 同時に、彼女が私を「ゆえ」と呼ぶことにひどく動揺した。

 くるみゆえ――それは私のペンネーム。幼いころに陽凪と一緒に綴った物語の最後のページに刻んだ、私が確かにその作品を生み出したという証。

 気づいてほしいとばかりにメールで名乗ったその名を呼ばれたことに動揺したのはきっと、彼女ならばそれで気づくはずだという確信があって、私を彼女が昔のように「うい」と呼んでくれることを期待していたから。

 その期待は無残にも砕け散って。

『ゆえさん?聞こえますか?』

「あ、はい」

『主人公のさえちゃんがお友達になったカラスに「うるさい女」って言われるシーンなんですが――』

 放心している時間はなかった。

 矢継ぎ早に繰り出される質問に、何とか言葉を絞り出す。

 動揺を隠しながら、衝動をこらえながら。

 ねぇ、どうしてこれでもまだ気づいてくれないの――?

 問いは、そっと心に秘めて。

 私はただ、陽凪と一緒に作品を作れる今この時という時間が少しでも長くなればいいのにと、そう願い続けた。

 『さえのひみつ』――忙しい両親に放っておかれて寂しくてしかたがなかった少女さえは動物に話しかけるのが日課になって。ある日、カラスが突然声をかけてきて、自分が動物と話ができるようになっていることに気づく――

 どこかで見たことがあるような話である気もした。けれど、私の文章に陽凪の絵が加わった瞬間に、それは世界でただ一つ、ほかでもない私たちだけが作ることのできる物語へと変貌した。

 わざわざオンラインで共有しながら作業を進める陽凪は、この部分はこれでいいかと音声通話で確信しながら筆を進めていった。

 その流れるような動きは、彼女の膨大な練習時間を私に教えてくれた。

 きっと陽凪は、私と別れてからもずっと筆を手に取っていたのだと。陽凪がいなきゃだめだと筆を折った私とは違って。

 悔しかった。苦しかった。

 突き付けられた陽凪と自分の差にめまいがした。

 目をそらしたくて、けれど彼女が描く絵に引き込まれる私がいた。

 ラフが完成し、鉛筆のような黒で輪郭が浮かび上がり、水彩画の柔らかいタッチで色が塗られる。

 出来上がった作品は、世界最高の絵本だった。

 そして、その表紙には。

 私と陽凪のペンネームである「くるみゆえ」と「みそら あお」の名前が並んでいた。

『お疲れ様です、ゆえさん……ゆえさん』

「……う、ぁ……はい」

 感動であふれる涙が止まらなかった。ヘッドホンを押さえるように包み込みながら、少しでも陽凪の声を魂に刻み込もうと意識した。

 これで、終わってしまう。完成して、この夢から覚めてしまう。

 それが嫌で、けれど嫌と言い出せなくて。

 ただ、涙ばかりがとめどなくあふれた。

『……ゆえさん。あの、お祝いをしませんか?』

「おいわい……?」

『はい。完成パーティーです』

「行きます」

 自分でも驚くほど早く返事が口を突いて出た。通話の向こうで陽凪が息をのむ気配がした。

 無言の時間が痛かった。

 やがて陽凪は私の住んでいる街を訪ねてから、時刻と待ち合わせ場所を指定して通話を切った。

 陽凪に、現実で会える――今にも破裂してしまいそうなほどに心臓がバクバクと音を立てていた。

 しばらくパソコンの前から動くことができなかった。通信の切れた音声チャット、その画面をぼんやりと眺め、それから軽く頬をつねる。

 痛みが、これが夢ではないことを教えてくれる。

「……陽凪と、会えるんだ」

 小学一年生からだから、実に18年ぶりくらい。成長した自分を見られる気恥ずかしさと、成長した陽凪に会えるという興奮と、それでも陽凪は私のことを覚えていないのだという絶望が混じり、発狂してしまいそうだった。

「あ、着ていく服、どうしよう」

 迷いに迷った結果、袖や胸元にフリルのついた白と黒のボウタイドッキングワンピースを着ていくことにした。

 当日、この服を選んだことを激しく公開した。25にもなって少女趣味にもほどがあると、待ち合わせ近くのガラスに映った自分の姿を見てげんなりする。

 もう、陽凪はついているだろうか。こんな私のことをどう思うだろか。私を見て、坂部有為という古い友人のことを思い出してくれるだろうか。

 不安でいっぱいになりながら向かった先。駅前から少し離れたイタリアンレストランの前に彼女は立っていた。

 大きな黒のヘッドホンを身に着けた、青みがかった銀髪の人。

 少しだけ上を向いてその目に向かいのビルを映す彼女は、まるで物語のヒロインのように美しく、あるいはイラストが飛び出してきたように思えた。

 空色の瞳は静かに、何かを探すように虚空を見据えている。

 魅入られたように、私はその場から動けなかった。

 雑踏の中、立ち尽くした私の横を歩行者が通り過ぎていく。

 流れに逆らうようにして立ち止まっていた私に気づいた陽凪が目を瞬かせる。

「……有為うい?」

 そう、私を呼んだのは。

 都合よく解釈しようとする私の心がもたらした幻だろうか。

 近づきながら、彼女のすべてを目に焼き付ける。

 純白の振り付きワンピースを身に着けた彼女は、とても私と同じ25歳には見えない。透明感のある肌、宝石のように美しい瞳。艶めく銀髪は風に吹かれてさらさらと揺れ、顔にかかる髪をかき上げる姿はなまめかしい。

 ヘッドホンを外す彼女は、もう目の前。

 陽凪は、そうしてゆるりと笑みをたたえる。

「久しぶり、有為」

「……どう、して」

 やっぱり空耳ではなかったと。

 そう思う一方で、いつから気づいていたのかと、困惑で胸がいっぱいになった。

「うん、初めから気づいていたよ。だって、くるみゆえなんて、あの頃、わたしが名付けた名前なんだから」

「でも……だったらどうして言ってくれなかったの?私は、不安で仕方なかったのに」

「多分だけど、わたしの絵本を読んだんだよね。だから、気づいてくれた。……ならわかるでしょ?あの本は、わたしの本じゃない。みそらあおではなく、みそらあおと、くるみゆえの作品だったって」

「別に、盗作とか、そんなことが言いたいわけじゃ」

「わたしは、そう思いながら書いていたの。これを世に送り出していいのか、何度も迷った。でも、わたし一人……みそらあお一人の作品では、受け入れられなかった。本にならなかった。だから、有為の力を借りたの。あの頃、無限に広がっていると思った世界に浸って、あの頃の言葉を、思いを、時間を、拾い上げた。……それを有為が見てると知って、恥ずかしくて、怒られるんじゃないかって不安で、今更わたしがどんな顔をして『久しぶりなんて言うのか』って思ったらもう、どうしようもなかったの」

 空色の目が潤む。

 不安でしかたなかったのは私だけではなかったのだと。

 語る彼女は、ぽろぽろと本音をこぼし続ける。

「ごめんねって、最初に言っていればよかったと思うの。でも、言えなくて、だから、どんどん苦しくなった。つらくなった。言い出せなくなった。……でも、このままおしまいなんて嫌だから――んう!?」

 一歩、踏み込んで。

 彼女の唇を閉ざさせる。

 言い訳がましい唇には、唇を重ねることで。

 あの頃は私のほうが背が高かったのに、気づけば十センチくらい離されたしまった彼女に。

 背伸びをして、届けようと必死になって。

「……何するの!?」

「ちょっと腹が立ったから」

「腹が立ってキスって、おかしいでしょ」

「腹が立ったけど、愛おしくもあったから」

 不特定多数の人がいる前でキスなんて、私にしてはずいぶん大胆なことをしたと思う。けれど、羞恥に顔を赤くして、ふわりと握った手の甲で唇を隠してひるむ陽凪を前にすれば「ご馳走様」なんて答えが口を突いて出そうになる。

「……私はね、嬉しかった。全然力量が足りない私を、陽凪が見出してくれて、またあの頃のように一緒に物語を作れるのが楽しかった」

「力量が足りないなんて――」

「事実でしょ。だって、私が書いた話は、完成した絵本には原型もないんだから。初めて一人で書き上げたあの話は駄作だった。でも、駄作が傑作に変わっていく……二人で変えていくのが、楽しかった。その楽しさは、私一人のものだったんだよね?私が昔のようだって、楽しんでいる間、陽凪は一人苦しんでいたんだよね」

「ちが、そうじゃ――」

「ごめんなさい。才能のない私は、陽凪を苦しめるだけに終わったんだよね」

「違うから、話を聞いて」

 強く両肩をつかんで、陽凪が迫る。その美しい顔が視界いっぱいに映って、心臓が駆け足になる

「……楽しかったよ。本当に、楽しかった。ずっと、苦しかったの。絵本作家になりたくて、何度も何度も賞に応募して、出版社に持ち込みをして、でも届かなくて、足りないものが多すぎて……それでも諦めなかったのは、有為との幸せな時間が記憶にあったから。私が絵本作家になれたのは有為のおかげ。そのあとも、有為との物語を自分が汚しているようで苦しくて、でも有為に届いたと知ってうれしくて、恥ずかしくて……有為と一緒にまた作品を作れて、本当に楽しかった」

 ありがとうと、そう笑いながら、今度は陽凪が、私の唇をふさぐ。

 私がこれ以上、自分を卑下する言葉を口にしないように。

「有為はさ。才能があるよ。物語を作る才能が。物語を、面白くしていける才能が。……ううん、きっと、わたしたち二人が集まって、ようやく天才の後ろ髪に手が届くようになるの。わたし一人じゃだめで、有為とわたし、二人なら、どこまでだっていけるの」

 ああ、そうだ。

 私たち二人なら、どこまでだって行ける。あの頃、無限に物語世界を広げていたように。

「……もう、親の夜逃げなんていう仕様がないことで離ればなれになることもない。だから、今度こそ、わたしと一緒に物語を作ってくれる?わたしたち、二人で」

「もちろん。こんな私でよければいくらだって協力するよ」

「だから、こんな、なんて言わないでよ」

 花が咲いたように笑う陽凪が、私の手を取って笑う。

 私もきっと、心から笑っていた。

 そうして私たちは、絵本完成の打ち上げ兼、新しい絵本の作製のための話を始めた。

 陽凪が笑い、私が笑う。

 陽凪が反論し、私も反論する。

 私が絵をかき、陽凪がそれを修正する。

 陽凪がシナリオを書き、私がそれにつけ足す。

 互いに意見をぶつけ合い、どこまでも高めあう。

 ようやくはまった歯車は、高速で動き出していく。

 私の中はもう、空っぽではなかった。

 次から次へとあふれ出す物語はとどまることを知らず、紙面はボールペンの黒で埋まっていった。

 そうして、私たちは次の物語を作っていく。

 これは、二人で作る物語。

 私たち二人が紡ぐ、私たちの物語。

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君と綴る物語 雨足怜 @Amaashi

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