君と綴る物語

雨足怜

おもい、ふくらみ

「ねぇ、おうじさまにむかえに来てもらおうよ」

「えー、ここはおひめさまが自力で脱出するところじゃない?」

 握ったクレヨンは自由帳の一か所で止まったまま動かない。

 私は機転を利かせたお姫様が自分の力で脱出して、迎えに来た王子様をあっと驚かせるストーリーを推す。

 ひなぎは王子様の登場を推す。

 二人で意見を戦わせ、その結果、実はお姫様をさらうことに反対していた魔王様が、お姫様に手を貸して二人で脱出を図るシナリオになった。

 細部を決めた私たちはそれぞれにクレヨンを手にして絵を描き始める。

 家の片隅で、そうして私たちは連日連夜、物語の創作を続けた。


 そんな思い出を唐突に思い出したのは、きっと、目の前の少女が胸に絵本を抱きしめ、母親と思しきお母さんに熱烈な語りを披露していたから。

「あのね、まおーさまがね、おひめさまをたすけるの。つらかっただろう、ってやまって。でもね、おひさまがね、いいの、わたしも、おうじさまのおきさきにさせられそうになって、なにもいえずにいるようなひとだからって……そこにね、あいがあるの。ふたりでね、てをつないで、だっしゅつして、すきだって。でも、そこにおじさまがきてね、まおーさまにあっちいけってして、おこったひめさまが――」

 いかにこの絵本が面白いか、つたないながらに言葉を重ねる少女。

 貸出カウンターで演説を披露する我が子を前に、母親は苦い顔をしていた。

「じゃあこっちの絵本を返す?」

「や!」

「じゃあこれは?」

「これもいや!」

「でも六冊しか借りられないのよ?私の本はもう全部借りるのを諦めたの」

 だから選んで――突き付けられた問いに、少女は涙目になる。

 救いを求めるように、彼女は受付に座る私を見る。どうかこの魔王ははを倒してくれと、そう言いたげに。

「……ごめんなさいね。ほら、ユナちゃん。あっちでもう一回選ぼう?」

「いーやぁあああ!」

 カウンターにのせられていた絵本を手に取った母親は、少女の腕を引きながら受付から離れていく。

 そうして、本当にいいのかと二人の背中をちらちらと見ながら、次の人が本の貸し出しを頼んでくる。

「……あの、司書さん?」

「失礼しました」

 はっと割れを取り戻し、笑みを浮かべて貸し出しの手続きを進める。

 その間もずっと、私の視線は泣き叫ぶ少女が胸に抱きしめた絵本から離れなかった。

 『まおうさまはあいをつげる』

 仕事帰りに思わず買ってしまった絵本を、家に帰って真っ先に鞄から取り出す。

 制服を脱ぐのさえ後回しにして、絵本を開いて読み始める。

 子ども向けの絵本を読むのなんて、十分もかからない。けれど、それは私にとって、数時間か、数日か、あるいはもっと長い時間であるように思われた。

 ずっと、探していた。

 ずっと、求めていた。

 その答えが、この絵本の中にはあった。

「……陽凪」

 目を閉じれば、瞼の裏に彼女の顔が思い浮かぶ。

 青みがかった長い銀髪に、空色の瞳をした女の子。まるで物語の中から現れたお姫様のような彼女に、幼いながらに劣等感を抱いていた。

 けれど、一度一緒に物語を考え出すと、私たちはただの友人として激論を交わすことになった。

 どんな話がいいか、夢想し、意見をぶつけ合い、クレヨンを走らせる。

 何十冊と自由帳に綴った私たちの物語は、私たちの絆の証。

 それは、けれど小学一年生のある日、唐突に失われた。

 陽凪は、何も言わずに私の前から姿を消した。転校した。

 私たちの結晶である、物語を手にして。

 そうして、私と陽凪は生き別れ、そのまま今日まで生きてきた。

 彼女との時間があったからか、私は物語にはまり続け、小説を愛し、やがては司書になった。

 そうして仕事をしながらも、時折自分でペンを手に取って、あるいはキーボードに向かって、けれど己の手で物語を綴ることはついぞなかった。

 だって、今の私には足りないものがあったから。

 物語を生み出そうとするたびに、心の中のうつろが邪魔をするのだ。空しくなるのだ。

 陽凪がいないのに、今更物語を書いてどうするのだと。

 その、はずだった。

「……陽凪はまだ、書いているんだ」

 『まおうさまはあいをつげる』――そのペンネームをそっとなでる。

 みそら あお。青色に青色を重ねたその名前は、彼女の髪と瞳の色から連想して、私が名付けた彼女のペンネーム。

 それを、彼女は使っていた。

 まるで、私に見いだされることを求めているように。

 そう思い立ったらもう止まらなかった。

 パソコンにかじりつくように向かってSNSを開く。

 震える指で彼女の名前を入力して検索。

 そうして、彼女のプロフィールのイラストを見て、投稿された文章を見て、確信した。

 彼女こそ、嬉野陽凪。私が幼少期を共にした、私の親友だと。

 仕事の依頼と書かれたリンクにカーソルを移動して、手が止まる。

 私はどうしたいのか――少なくとも、仕事を依頼したいわけではなかった。

 そうして、私は断腸の思いでマウスから手を放して考える。

 私は、陽凪とどうしたいのかと。

 今更陽凪に会って、それで?

 何も言わずに別れた理由を問い詰める?私と陽凪の共同で作り上げた物語について、盗作だと訴える?少なくとも『まおうさまはあいをつげる』は、私と陽凪が書き上げた、あのつたない物語が原型になっているのは間違いない。

 そのどれも、私の心が求めているものとは違った。

 手は、マウスに伸びない。ただ、彼女のページに目が釘付けになるばかり。

 私は何をしたいのか。私は、陽凪とどうありたいのか。

 少し迷って、恐る恐るダイレクトメールを送ろうとしてはじかれる。

 相互フォローなしには連絡できない設定にしているみたいだった。

 それはそうか。彼女はもう、いくつもの絵本を描く売れっ子なのだから。彼女と別れてから一度も筆を執らなかった私とは違って――

 しびれるような気づきが、私の背筋を走り抜けた。

 ああ、わかっていた。わかっていたんだ。

 だって、彼女のSNSページを見て、私は真っ先にお仕事以来のリンクへとカーソルを移動させたのだから。

 私は、陽凪ともう一度、あのころのように物語を綴りたい。

 二人でああだこうだと言い合いながら、私たちの傑作を作りたい。

 ただそれだけで、けれど、その敷居は今やひどく高くなっていた。

 けれど、それでも。

 目を閉じ、深く深呼吸して覚悟を決める。

 心は決まった。あとは、実行に移すだけ。

 フォローだけした彼女のページを閉じ、代わりにワードを起動する。

 そうして私は、もう何百回繰り返したかわからないためらいの儀式を経て、人生で初めて、一人で物語を書き始めた。

 私の隣には、誰もいない。

 幼少期、互いの家の片隅で寝そべりながら議論したあの頃のようにはいかない。

 誰もいない。誰も意見をくれない。

 この作品が面白いかどうか、誰も評価してはくれない。

 けれど、私の手は止まらなかった。

 怖くはあった。もし面白くなかったらどうしよう。今の陽凪に、面白くないと突っぱねられたらどうしよう。

 その時にはもう、私は生きていけない気がした。

 だからだろうか、私は鬼気迫る勢いで話を書き連ね、何度も何度も推敲を重ねる。

 くしくも今日は土曜日。私を阻むものは何もなかった。

 あれだけためらい、進むことのなかった物語はあっという間に完成を迎えた。

 窓の外でチチチと雀か何かが鳴き出す頃。

 私は暗記するほどに読み返した短い物語を保存し、それを添付して、お仕事以来のメールを送った。

「…………はぁ」

 金縛りから解放されたように、ごろりと床に寝転がる。

 ずっと同じ姿勢でいたからかひどく体が凝っていた。目はかすんでいて、眠気もひどい。とりわけ頭は熱を持っていて、重かった。

 かつては平気だった徹夜がこれほどまでにつらいと実感して、時の流れの残酷さを呪った。

 そして、祈った。

 どうか陽凪が、私と仕事をしてくれますようにと。

 私を原作者として、絵本を描いてくれますように。

 無理だと、わかっていた。初めて物語を綴ったようなこんな私の作品が、彼女の目に留まるはずがない。

 その一方で、彼女が気づいてくれることを期待する自分もいた。もう一度、昔のように一緒に作品を作れたら――そんな思いから、私は思い立ったが吉日とばかりに液タブを購入してしまった。

 公務員とはいえ、都会での一人暮らしはお金がかかる。突然の出費に財布は悲鳴を上げていたけれど、今を逃せば私の夢はかなわない、そう思ったら止まれなかった。

 夢があった。

 自分の作品が、物語が、多くの人に読まれる夢。

 絵を勉強した。小説の書き方を学んだ。けれどそれらは、物語へと昇華することはなかった。

 だって、より正確には、私がなりたかったのは作家ではなく、陽凪と一緒に物語を世に送り出す人だったのだから。

 その叶わない夢に、私は必死に手を伸ばしていた。

 もうすぐ25歳だというのに、どうして私は今更こんな夢に突き動かされているというのか。

 窓のサッシに手を置いて都会の朝の光景を眺めながら、私は深い、深いため息を漏らして頬を張った。

 陽凪からの連絡は、なかなか帰ってこなかった。忙しいだけか、あるいは返事をする価値もないほどに私の物語がお粗末なものだったのか。あるいは私が、幼いころに一緒に物語を夢想した坂部有為だと気づいて、どう返事をすればいいのかわからなくなっているのか。

 答えは、ちょうど一週間後の日曜日のメールによって判明した。

 社会人としてのありふれたテンプレートの下、綴られた言葉に私は強い胸の高鳴りを覚えた。

『一緒にこの作品を世に送り出しましょう』

 その言葉に、私は声にならない歓声を上げた。

 それは悔しさゆえの悲鳴だったかもしれない。じれったさからくる悶えだったかもしれない。あるいは、緊張の糸が切れたが故の衝動だったのかもしれない。

 果たして、私は絵本作家の「みそら あお」と一緒に絵本の作成を始めた。

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