井戸にスイカを冷やして待ってるね！！
――随分と時間が経ってしまった。
何も言わず彼女は僕の頭を撫でてくれた。いい大人がみっともないと、普段ならその手をすぐに振り払うだろう。
だけど抗うことが出来なかったんだ。彼女の細い指先。その心地よい感触はまるで幼い頃、母親に頭を撫でられたかすかな記憶を思い起こさせる。
「真美、いや
「私の呼び方は昔みたいに真美でいいよ、陽一お兄ちゃん」
「じゃあ真美、君はなぜあの頃の少女の姿のままなんだ？」
いきなり核心に触れた質問をぶつけてみた。
「それは……」
真美の表情が一気に曇る。困ったときの眉の動きは子供の頃とまったく変わっていない。
彼女が現れたのは何か深い
考えを巡らせようとしたその時、停めていたバイクに置き忘れた携帯電話が激しく振動した。ハンドルに取り付けたスマホホルダーはとても便利なのだが降りる時に忘れやすいんだ。
「いったい誰だ？」
慌ててスマホの画面を見ると数え切れない程の着信とメッセージが表示されていた。
ヤバい、マナーモードのままだった。着信のほとんどは実家にいる妹の
「ごめん、真美。僕は家に帰らなきゃいけないんだ」
慌ててバイクに掛けた上着を着込んて、急いでその場を立ち去ろうとする。
駄目だ！！ もう一度この場所に来なければならない。真美が二度と僕の前から消えてしまわないように……。
「また後で必ず迎えに来るから、真美が僕の前に現れた
バイクに跨がりつつ彼女に声を掛ける。真美は無言でこちらに顔を近付けてきた。
僕の乗るバイクの車種はヤマハトレーシーだ。伝説の名車ＲＺの血統を受け継ぐ、じゃじゃ馬の誉れ高いスクーターだ。二サイクル車特有のチャンバーサイレンサーの甲高い排気音で僕の声が聞き取りにくいからだと思った。
「なっ！？ 真美、いきなり何をするんだ！！」
次の瞬間、真美の行動に驚いてしまった。彼女が僕の頬にいきなりキスをしてきたからだ。
柔らかい唇の感触にあの柿の木の下で見た桃色のリップが鮮やかに蘇る。あっけに取られる僕の耳元に彼女のささやき声が聞こえた。
「私ね、陽一お兄ちゃんを大好きな気持ちはあの頃から全然変わっていないよ……」
真美はその目に涙を浮かべていた。
先ほど僕を抱きしめてくれた大人のような彼女はもうどこにもいなかった。キスをした一瞬だけあの日の純粋無垢な少女に戻ったかのように見えた。
そのまま彼女は手を振りながら僕のバイクを見送ってくれた。バックミラーに写る彼女を僕は視界の隅にいつまでも捉えていた。彼女はなぜあの頃のままの姿なのか？
そこにはとてつもなく深い闇が横たわっているように感じられた。バイクの車輪に伝わる路面の継ぎ目、その段差を乗り越える振動と共鳴するように僕の胸も激しく痛んだ。
＊＊＊＊＊＊＊
真美の県営住宅からの帰路、まだ冴えない頭の中で考えた。
僕の初恋だった幼馴染の少女。彼女との結末はどうだったのか……。
過去に考えを巡らすには僕の家はあまりにも近すぎた。県営住宅から橋を渡り左右の田園風景に囲まれた道路、緩いスロープを駆け上がると国道にぶつかる。
国道は砂を運ぶダンプカーの多い街道として大型車の往来も激しい道路だ。消防小屋を横目にバイクを右折させる。
この消防小屋も子供の頃、良く真美と遊んだっけ。過去の記憶のフタが次第に開いてくるのが自分でも分かる。
だけど頑丈な鎖でがんじがらめにされてどうしても開かない記憶も存在した。
開けてはならないパンドラの箱、自分の指先に刺さった
自宅に続く細い道を駆け下りて白い橋を越えたらもうすぐ我が家だ。珍しい堀抜きの井戸が道路脇の敷地にあり地下からの天然水が湧き出ている。
この地域に特有の
良く名水と言って商売している観光地があるが、それよりも良質な水が止めどなく湧き出ている。たまに知らない人が、家から離れた井戸で勝手に水を汲んでいるが、別にケチ臭いことは言わないので、井戸の近くには
甲高い排気音で妹から久しぶりに文句を言われないよう家の手前でエンジンを切り、惰性で走らせながら車庫にトレーシーを停める。
時刻はもう午後五時だ。玄関の鍵を出来るだけ音を立てずに開ける。鍵は換えられていないのですこし安心した。
ドアを後ろ手で押さえながら玄関内に身体を滑り込ませる ふうっ、何とか気付かれなく帰宅出来た……。
安堵しながら後ろを振り向くと、鬼のような形相の妹が立っていた。
「うわっ！」
驚いて手にしていたヘルメットを落としてしまう、
「陽一お兄ちゃん、おかえりなさい」
声のトーンが低いのが逆に怖い。
一つ年下の妹、
僕が帰って来るのを首を長くして待っていてくれたんだろう。それを完全に放置だ。かなり激怒しているな、それは当然だろう。メールしたのはお昼前だからそれから何時間も経っている。
「何でお兄ちゃんは連絡のひとつも出来ないの？」
「ひさしぶりに故郷が懐かしくなって友達の家に顔を出して来たんだ」
まったくの嘘ではない。真美の家という部分は省略したが……。
「じゃあ何で一本電話してくれないの。バイクで事故でも起こしたのかと日葵はすっごく心配してたんだよ！！」
妹の日葵の言うとおりだ。バイクで戻ってこなければ最悪の事態を考えてしまうだろう。
「本当に悪かったよ日葵、お前に心配を掛けてしまって……」
日葵が深い溜息を漏らしながらつぶやいた。
「本当に無事で良かった……」
やっと昔と同じ明るい笑顔を見せてくれたな。先ほどまで怒りで紅潮していた頬も普段の落ち着きの色を取り戻している。
日葵はあれからかなり成長しているが僕がこの家を飛び出した頃のまま、整った顔立ちと長い睫が印象的な美少女の面影は今も色濃く残っている。
高校時代から髪型は変わったようだがショートボブの黒髪は良く手入れが行き届いており、妹の髪に浮かぶ天使の輪みたいな輝きが、兄の僕でも思わず二度見してしまうくらい目にも鮮やかだった。
「これからは気をつけるよ。日葵に大きな貸しが出来たな……」
両手を組みながら兄妹にしか知らない子供の頃にふざけ合ったポーズでおどけてみせる。
「そうだよ、後でしっかりお兄ちゃんに命令するから覚悟しておいてね！！」
日葵の命令は過去を振り返ると結構キツめな物が多い。
「僕の身体で払うのだけは勘弁してくれよ……」
自分の身体の前で腕を組み胸を押さえながらイヤイヤのポーズをする。
「馬鹿、お兄ちゃんのド変態！！ そんなのいちばん要らないから。都会に行っていつもの悪ふざけがさらに磨きが掛ったんじゃないの！！」
日葵の顔がみるみる真っ赤になり玄関に転がるヘルメットをこちらに投げつけてくる。少し調子に乗りすぎたようだ。
「おっと危ない！！」
ヘルメットを上手くキャッチしながら妹の脇をすり抜け二階への階段を駆け上がる。
懐かしい実家の匂いだ。先ほどの非現実的な出来事から少しだけ自分の中に日常が戻ってきたのがとても嬉しく感じられた。
「おかえり陽一お兄ちゃん……」
階段下から僕を見上げる日葵。いつのまにか見違えるほど綺麗になっている。僕が家を飛び出すのをいちばん悲しんでくれた、たった一人の妹。
「おう、ただいま！！ 今まで心配を掛けて悪かったな」
「その言葉はとても嬉しいけど後でお仏壇に向かって言ってあげてね。きっとお母さんも喜ぶと思うから……」
「ああ、そうするよ、ありがとな日葵」
……そんな平和な夕方の一コマだった。
僕は懐かしい我が家に帰って来て心から安堵していた。これから自分の身に何が起こるかも知らずに、つかの間の安息に身をまかせていたんだ……。
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