scarlet philosophia⑦

 ――五年後


 汽車の三等車はうんざりするほど人で溢れていた。


 それでも、運良く席に座れた僕は、窓からの景色を横目に古びた医学書のページを捲っていた。擦り切れそうなほど何度も読んだその本は、貰ったときよりも遙かにぼろぼろになっている。


 僕は本をぱたりと閉じ、外の風景に目を向ける。外には煉瓦造りの家の屋根が数多く見え、もうすぐ目的地であるロンドンに着くことが推測できた。


 家のある村から出て一日と少し。早く駅に出て、思いっきり身体を伸ばしたい。僕は窮屈に身体を動かしてぼんやりとそんなことを思う。


 そう言えば、彼女がいなくなった次の日、村に魔女がいた記憶は僕以外の人間からはすっかりと消えているようで、大人達は昨日のような醜い表情を、誰一人していなかった。母も、相変わらず僕に「強い男になれ」とは言っていたものの、一度たりとも魔女については話さなかった。一度、不思議に思った僕が母に尋ねた事があるが、寝ぼけてるんじゃないよ、と一喝されてしまっただけだった。


 それから何度も彼女は僕が作り出した妄想の中の人物だったのでは無いかと考えたが、今持っている本が、そうではないのだと教えてくれた。


 やがて、汽車は徐々にその速度を落とし、目的地であるアローラ・シティへと辿り着いた。僕は人の波にもまれつつ、なんとかホームに降り立つと、持っていた旅行鞄から一通の封筒を取り出す。その中から一枚の紙を取り出して、これから向かわなければならない目的地を調べる。


「えっと……学生寮に行く前に医学部の学長に挨拶に行かなきゃいけないのか……」


 僕はこれからの予定に少しだけうんざりして溜息を零すと、重い荷物を持ちながら歩き出す。あれから僕は必死に勉強して、医学の道に進む事を決めた。きっかけがスズナであるのは否定できないが、それでも、医者に掛かるためにはいちいち隣町に行かなければならないことを含め、自分がなんとかしなくてはと考えたのも事実だ。母にそのことを相談すると、泣きながら喜ばれたのは少しだけ嬉しかった。


「よし。頑張ろう」


 僕はもう一度気合いを入れ直し、一歩を踏み出そうとしたとき、懐かしい緋色が視界の隅をちらついた。


 驚いてそちらを見ると、確かに緋色の髪の毛に、白色のキャペリン帽を被った女性が、ゆらゆらと僕の少し前を進んでいく。


「ま、待って!」


 僕は重い荷物を持ちながら必死になってその後ろ姿を追うが、後ろ姿は止まること無くどんどん先へと進んでしまう。人に何度もぶつかりながらも、僕は追い続ける。間違いない。あの美しい緋色をした髪を、人肌とは違う暖かさを持つ髪を、僕は見間違えるはずがない。


 やがて、駅の外に出たとき、階段を降りた広場の中央で、懐かしい顔がこちらを見つめていた。自らを「緋色の魔女」だと称し、僕に未来をくれた優しい女性――スズナは僕の姿を確認すると優しく微笑んだ。


 そして、彼女は手を軽く上げると、その身体が一瞬で炎で燃え上がり、彼女は消えてしまった。


 急いで彼女のいた場所に向かうと、一通の綺麗な装飾を施した封筒が落ちていた。僕はそれを拾い上げると、そっと封を切る。


『知を愛し、そして、世界を愛しなさい』


中にはそれだけ書かれた紙が一枚入っているだけで、他には何も入っていなかった。僕はそれをぎゅっと胸に抱いて、スズナらしいなと笑った。


 あの夜、スズナと別れてから本当に色々なことがあった。嫌なこともあったし、良いこともあった。それでもスズナと共に過ごした期間はそれらなんかよりも、何倍も素晴らしかった。


 いつか、僕が医者になったときはなんとか探し出してお礼を伝えたいと思う。彼女はいつものように家で育てているハーブを摘み、それらで淹れたお茶で僕を出迎えてくれるだろうか。もしかしたら、本を読みながら、こちらを見ずにいらっしゃいと言って出迎えてくれるかもしれない。


 そして、今度は僕がスズナに何かを教えてあげられたらなと思う。きっと、彼女は僕なんかよりもずっと知識が豊富だけれど、それでも、何か一つだけでも僕の学んだことを伝えられたらなと思う。


 彼女はこの世界のどんな人より、いや、きっとどんな魔女よりも知を愛しているのだから。


 見上げた空は何処までも澄んでいて、まるであの緋色の魔女が、微笑んでいるようだと。そう思えた。


                〈了〉

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