scarlet philosophia⑥

「遅いからそろそろ帰るね」


 僕が読んでいた本に栞を挟み、立ち上がった瞬間、扉を強く叩く音が部屋中に響き渡った。最初は猛獣か何かが出たのかと思ったが、音が規則的に聞こえ、これは人間の手による物であると気がついた。


「スズナ……」


 不安げにスズナを見ると、彼女は非常に退屈だとでも言いたげな表情をして、「開けてみるといい」と言っただけだった。


 恐る恐る扉を開いてみると、ゆらゆらと揺れる明かりが視界に飛び込んできた。それが松明の明かりであると気がついた瞬間、今度は強い力で扉を開かれる。


「ルーベンス!」


 聞き慣れた声が聞こえたかと思うと、今度は強く抱きしめられる。それが母であると気がつくのと同時に、僕は彼女に抱きかかえられていた。


「あぁ、ルーベンス! 怪我は無い? 大丈夫?」


 母は僕を強く抱きしめながら、そう何度も何度も繰り返し聞いた。僕は意味が分からず、ただ、何度も彼女の言葉に頷いただけだった。


「魔女に何かされなかったか?」


 今度は先程と違う声が聞こえる。視線をその方に向けると、村の大人達が心配そうにこちらを見ていた。


「どう……した……の?」


 僕は状況を理解できず、思わずきょろきょろとしてしまう。手に持った松明の灯りに照らされた周りの大人達はみんな、物語に出てくるような、怖いグレムリンみたいな表情をしてスズナの小屋を睨み付けている。


「奴は忌まわしき魔女で、ずっと優しい表情をして私達を騙していたのよ……。きっと貴方を食べようとしていたの。あぁ、貴方が無事で本当に良かった……」


 母はそう言ってもう一度僕を強く抱きしめると、村の人達の所に、僕を連れて行った。


「悪い魔女……」


 譫言うわごとのように呟いた言葉は、僕の中で上手く解け合わず、地面に染みこんで消えてしまう。


「えぇ、そうよ。悪い魔女。悪魔に心を売った人間以下の存在よ」


 母からヒステリック気味に言われた言葉に、僕は咄嗟に違うと叫びそうになった。しかし、まるで喉にふたをしてしまったかのように言葉が出なくなってしまう。


「よく考えたら全部おかしかったんだよ」


 近くにいた男が、怒気を孕んだ声で言った。その声はまるで地響きのように低くて、僕は全身の毛が逆立つのが分かった。


「おかしい……?」


 僕は震える声で訊ねる。


「あぁ、そうとも。こいつが来たのは、村医者のスコットさんが死んですぐのことだった。私達にはそれがまるで救世主のように見えた」


 男はそう言うと、強く歯を噛み締めた。


「それを俺達はすんなりと。なんの違和感もそこには無かった。それに、スコットさんは老体だったとはいえ、突然死んでしまったのも、よく考えればおかしい。あれもこれも全部ヤツの魔法によるものに違いないんだ!!」


 男は吐き捨てるように言うと、庭に咲いている色取り取りの花や、スズナが僕にお茶を淹れてくれるのに使った植物を力任せに蹴った。


「やあやあ皆様お揃いで。今日はどうしましたか? 何かパーティーのお誘いでも?」


 その落ち着いた声に、大人達の目が先程よりも更に鋭いものへと変わる。皆一様に醜い顔をして緋色の髪をした魔女を睨み、口汚く彼女を罵り続ける。


「人殺し!」


 誰かが叫んだ。その声は何処までも悲痛に満ちていて、とても痛々しく感じられた。


「人殺し? 冗談はよして欲しいのですが……。わたしは誓って人を殺しはしません。それに、スコットさん……でしたっけ? 彼が死んだのはただの老衰ですよ。それだけは確かです」


「どうだかな」


 先程と同じ声が、そう吐き捨てた。僕はスズナが決して嘘を吐いているとは思えなかった。理由ははっきりとは分からないけれども、確かに、スズナは嘘を吐いてはいない。これだけは、絶対に。


 視線をゆっくりと上げると、スズナは涼しい顔で小屋の壁に凭れながら、こちらをじっと見つめていた。


「まあまあ、そんな怒らずに。どうです? 紅茶でも飲んで落ち付きませんか?」


 スズナは感情の籠もっていない声でそう言って指を鳴らすと、どこからともなく暖かそうな湯気の立つマグカップが彼女の手の中に現れた。それを一口啜ると、満面の笑みを顔に貼り付けてこちらを見る。


 その笑みが何処までも作った物だったから、僕は全身の毛が逆立つような気持ち悪さを受けた。


「……魔女だ」


 ある人が本当に小さな声で呟いた。けれど、その小さなつぶやきは石を静かな水面に投げ入れるかのように、徐々に大きな波紋になる。


 誰かが悲鳴を上げた。

 誰かが怒鳴り声を上げた。

 誰かが恐怖で、泣き叫んだ。


 そして、誰か一人が下に転がっている石を拾うと、勢いよくスズナに向けて投げた。


 だが、石はスズナに当たることは無く、不自然に空中で止まって落下する。それが恐怖を助長したのか、人々は次々に石を投げ始める。だが、どれもスズナに届くより前に情けなく落ちてしまう。


「ば、化け物……!」


 誰か一人が手に持っていた火の点いた松明を勢いよく投げた。これも地面に落ちてしまうのだろうか。僕はぼんやりとその光景を眺めていると、松明は綺麗な弧を描き、彼女の背後へと何の抵抗もなく吸い込まれていく。


 火も最初は小屋の床を照らしているだけだったが、やがて徐々に燃え広がり始める。スズナはそれを少しだけ視線を動かす事で確認すると、家の壁からそっと離れる。その瞬間だった。家は先程とは打って変わって勢いよく燃え上がり、やがて、炎は小屋全体を包み込んだ。


 燃え上がる小屋がスズナを背後から照らし、巻き上がった風は彼女の髪を悪戯に揺らした。


「あっ……あっ……」


 僕の口からは言葉とは言い難い物が零れては消えていく。スズナの顔は暗くてよく見えなかったが、きっと彼女は退屈そうな表情をしているのだろう。僕が彼女と出会った、あのときのように。


「ざまあみろ……ざまあみろ魔女め!! これが私達人間を騙したお前の罪だ! 罰だ!」


 僕を両腕で抱きしめる女性が狂ったように叫んだ。彼女の瞳は何処までも濁っていて、そして何も写してはいなかった。この闇の中にある暗い森も、燃えさかる小屋も、緋色の髪を持つ魔女も。何一つ、写してはいなかった。


 僕はその瞳が、まるで虚空のようだ。そう思った。きっと彼女だけでは無い。村の人々の目は全てこのような目をしているのだろう。


「罪……ね……」


 消えてしまいそうなほど小さな声が僕の鼓膜を揺らした。その瞬間全ての物が動きを止める。村人も、僕を抱きしめる母も、そして、小屋を包み込む炎も。


「え?」


 僕だけが。いや、僕とスズナだけが今、この世界で動くことが出来ていた。


「悪かったね。ルーベンス」


 スズナは僕の側まで近づくと、悲しそうな表情を浮かべた。


「知ってたの……?」


 僕の言葉に、スズナはただ頷いてみせる。


「もちろんさ。君と初めて会ったとき。その日から、今日のこの時間に、こうなることは決まっていたよ」


 スズナはしゃがみ込むと、僕の頭をそっと撫でた。


「以前、薬草を採りに行った際、魔法を解くには鍵が必要だと言ったことを覚えているかな?」


 僕はその言葉にゆっくりと頷く。


「実はね。君と出会ったとき、既に鍵は外れていたんだ」


 スズナはそう言うと、悲しそうに微笑んだ。まるで僕に申し訳ないとでも伝えるかのように。


「鍵……?」


「そう、鍵。私が自らの正体を明かすこと。それこそ、わたしがこの村にかけた、魔法が解ける鍵になるなんだよ」


「どうして……?」


 僕の口からは気が付けばそんな言葉が漏れていた。


「簡単なことさ。もうここですることは既に終わっていたから。それだけだよ」


 スズナは立ち上がると、くるりと一回転した。緋色の髪が、彼女の動きに合わせて、揺れる。それはまるで、炎が舞うように、動いているかのような印象を僕に与えた。


「わたしがこの村に受け入れられていたのは、わたしがそういう魔法を掛けていたから。その魔法が徐々に解けてしまった。ただそれだけさ」


 それから、スズナは、だからもう出て行かなくてはならないんだ、と掠れる声で続けた。


「行って、しまうの……?」


 スズナは僕の言葉に、無理矢理な笑顔で、小さく。けれど確かに頷いた。


「嘘だ……スズナ……ねえ、お願いだ……どうか僕も……」


 僕の声は情けが無いほどに震えていて、今、目の前にある現実を受け入れたくないと、心が叫んでいた。


「わたしは魔女。君たち人間とは違う。だから――」


 彼女はそこで言葉を句切ると、指を強く鳴らした。その瞬間世界の時間が動き始め、様々な音や光が僕らを覆った。


「君とはここでお別れだ、ルーベンス」


 スズナは穏やかな笑みを浮かべて僕を見た。


「スズナ……ねえ、お願いだよ……行かないでよ……」


 僕は必死に彼女に手を伸ばすが、母に強く抱き留められて近づくことは出来ない。


「スズナ、僕を一人にしないで、もっともっと沢山の事を教えてよ……」


 スズナは小さく首を左右に振ると、もう一度指を鳴らす。次の瞬間には、彼女の手にはキャペリン帽が握られており、彼女はそれを優雅な動作で被った。


「また会える日を楽しみにしている」


 スズナは僕の顔を見て、悲しそうに微笑むと、そのまま小屋に向かって歩き続ける。


「それでは皆様ごきげんよう! またお会いできる日を心より! 楽しみにしておりますよ!」


 緋色の魔女はそう高らかに告げると、燃えている小屋に自らの身を沈める。その瞬間炎が先程よりも激しく燃え上がり、空を朱く照らす。


「――――――ッ!!!!」


 彼女を呼ぶ僕の声は形にすらならず、誰の鼓膜を揺らすことも無かった。それでも僕は、気を失うまでずっと、魔女の名を叫び続けた。

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