戌の日

藤泉都理

戌の日




 お産が軽く、たくさんの子を産む犬(戌)にあやかり、妊婦は妊娠六か月までに、十二支の「戌の日」に安産祈願を行うようになったと言われる。




 次から次へと慌ただしく流れゆく薄い雲によって月が隠れる、朧月夜だった。

 妊娠六か月に入った一人の女性が転ばぬように注意しながらも、早く帰らなければと急く心を押さえることはできず、自然と速足で泥地を進んでいた。


 神官のいない小さな神社からの帰り道であった。

 親子ともども安全に出産できますように。

 赤子が元気に生まれてきますように。

 そう熱心に祈り続けていたら、瞬く間に時間が過ぎ去っていたのだ。

 しかもいつの間にか雨が降っては止んでいたようだ。

 行きは固まっていた土が雨水と合わさって、泥水と化していた。


 叱られるだろうなあ。

 鬼の形相になった姑と旦那の顔を思い浮かべた女性がしかし、滑りやすくなった危険な泥地を早く過ぎ去ろうとしたのは、二人が心配していること、夜分だということに加えて、他に理由があった。


 噂が、流れていたのだ。

 朧月夜には、泥地に、巨躯の化け物が現れる。

 泥地の範囲や深度は関係ない。

 例えば、少雨でほんの僅かにぬかるんだごく狭い泥地であったとしても。

 巨躯の化け物は、




「あっ」




 現れると、言う。




 数百年も生きた大木たいぼくが如く、威圧感はあれど、清浄なものに非ず。

 百足むかでが如く巨躯の化け物は、時に朧月を覆い隠しながら、時に朧月を背に負いながら、ゆらりゆらりと前後左右に身体を揺らして、女性を見下ろした。

 眼は退化していて触覚に頼って生きているはずの巨躯の化け物の頭に付いている、大きな紅の目玉が二つ、確かに、女性を捕らえていたのだ。

 恐怖に蝕まれた女性は、やおら泥地に尻をつけたのち茫然と巨躯の化け物を見上げつつ、けれど、無意識の内に、両腕で腹を抱えた。赤子を守ろうとしたのだ。


 誰か助けてくれ。

 その言葉すら脳裏に浮かぶことはなかった。

 ただただ茫然と、しかし、赤子を守ろうとしながら、その巨躯の化け物を見上げることしかできなかったのだ。


 ゆらりゆらり。

 巨躯の化け物は二度、三度と、朧月を覆い隠し、朧月を背に負ったのち、パカリと口を大きく開いて、女性に襲いかかろうとした、その刹那。


 突如として、巨躯の化け物を隠すように女性の眼前に丸い物体が出現。したかと思えば。




「え?え?」


 女性は目を白黒させた。

 眼前に姑と旦那の泣いている顔が出現したかと思えば、二人にやわく抱きしめられたのだ。

 無事でよかった、無事でよかったと、大声で言われながら。


「え?え?え?」


 助かったのかな、あの丸い物体が助けてくれたのかな、助けてくれて、しかも瞬時に家まで運んでくれたのかな。

 混乱する女性の視界の端に、小さな柴犬が入った、ような気がした。








「ああ。くそっ。己の年じゃねえと、不便ったらありゃあしねえ」


 十二支が一支、戌は、己が担当する年でなければ、小さな柴犬の姿にしか変身できない己の身体に苛立ちを感じつつ、朧月を背にして女性の家を見下ろし、元気な赤子を産めよなと言ってのち、姿を消したのであった。


 女性の祈願が通じたのか。

 のちに元気な双子の赤子が生まれて、女性の産後の経過も良好で、親子ともども元気に暮らしたと言う。

 










(2024.1.18)



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

戌の日 藤泉都理 @fujitori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ