湖底の骸骨

千羽稲穂

秘密を湖底から研磨する。

 彼は分かっていなかったけれど、あの告白がどれだけ私にとって嬉しかったことか。


 全て波にさらわれて流されてほしかった。私の中の記憶は感情を繋いで、あまりに美しく輝いていくものだから、彼を忘れられなかった。どれだけ彼にとって陳腐な言葉で、その場しのぎのかっこつけの言葉であろうと。


 湖岸沿いで波の音を聞く。夏の照り日が肌を焼く。日傘を差して、ずっと向こうの沿岸沿いを見つめる。船がいくつか浮いていた。


 夏真っ盛りのとき、私は死に場所を求めて静かな湖岸沿いを訪れていた。

 今日は死ぬにはうってつけの日で、バナナフィッシュが波打ち際を飛び跳ねていた。私には見えていないものがだだ漏れで、怖いものを表にするよりも、意識に蓋をする方がここまでくるには簡単だった。


 日焼け止めをしているのに熱視線でじりじりと肌が焼かれていく感覚があった。ほろよいを数缶、おいしい適当なおつまみを置いて、本を数冊片手に、日常のひとつとして、湖の中を進もうと思っていた。


 どうしても忘れられないことがあった。その記憶を取り出すたびに嬉しさと、騙された失望、裏切りが過ぎった。彼の言葉の何に信頼していたのだろう。


 誰もいないのを確認して、「嘘つき」と湖に放った。

 嘘つき嘘つき嘘つきって、これ、まるでメンヘラみたい。


 湖岸沿いで告白してくれた時に言ってくれたあの言葉を、かつて私は信じようと思っていた。この人は大丈夫と期待に期待を積んでいた。

 だから、誰にもその記憶のことは言わなかった。


 どんな告白をされたの?と、言われた時、私は「宝物みたいなものだから言わない」と口を噤んだ。

 それから宝石のように私の秘密の記憶を磨いた。あの時の記憶は、詳しくは誰にも言っていない。失恋した後も、今もずっと。それだけ嬉しかったから。嬉しかったことを磨くたびに、彼の軽薄な言葉の数におののく。私を喜ばせたい、と言った言葉は全て嘘で、恋愛や愛が軽いものだと知った。言葉がこんなに軽いものだなんて思ってもみなかった。


 時間の経過と共に言葉に磨きがかかる。彼は「別れない」と言ってくれたのに、今は誰もいない。


 愛はその場しのぎの言葉で出来上がってしまう。


 缶チューハイを流し込んで、湖の中へ。遠くの船が私を見た時、引き上げてくれるだろうか。


 一歩、一歩、踏みしめる。磯の匂いがする。ほんのりと、潮の匂いも。人工的でない、生きてる匂いが、まとわりつく。


 私の中の宝石、誰にも言えないものを、大切にしていた記憶を誰かに話したら、きっと秘密というベールは剥がれて、忘れられるのかもしれない。でも、このまま、言えずにしまっておいて、磨かれた宝石を日々眺めてもいたい。


 誰かに言われた言葉がこんなに嬉しいだなんて思わなかった。誰かとの記憶をどこにも出さずにいようと思ったのも初めてだった。

 こんなに、その人ではなく、記憶に縋る経験も初めてもらった。


 好きではない、けれど、責任、とってよね。


 ポケットにある、白い錠剤、もとい毒を煽って、ずんずんと前に進んだ。湖の水位は太ももからお腹へと上がる。湖の中で私が埃を撒き散らして、魚を驚かせる。毒が効いてきてふらつく。

 湖に身体を投げ出した。


 湖底に沈んだ私の身体。あわよくば、そのまま沈んでいたかった。


 身体はぶくぶくに白く太り、次第に水底にたまり、肉が削げ落ちて、骨となって白い輝きを増す。何もない眼球の空洞から私は外を見上げるのだ。宝石のような記憶が、骨の中にあるなど誰が思うだろうか。


 私は水底で秘密を抱えながら外界を見つめて、誰にも言えない、彼の告白を私の中で磨き上げていく。結局、あの記憶は誰にも言えないままだ。

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湖底の骸骨 千羽稲穂 @inaho_rice

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