おしいれのなか
九十九 千尋
せまいばしょのなか
俺には付き合って二年になる恋人が居る。名前はさよりという。
今年の新年のあいさつに、初めて彼女の実家を訪れた時の話だ。
彼女は暗所恐怖症で、曰く「子供の頃に怖い
だが、出迎えてくれた彼女の母は優しく、笑顔で彼女と話している。父親は既に亡くなっているらしく、仏壇に小さな遺影が飾ってある。お位牌は一つ。
女二人、久々だという帰郷、彼女たちの会話は途切れることなく進み、俺は太もものあたりがソワソワしていた。
「あ、すみません。ちょっと、お手洗いをお借りしても良いですか?」
彼女の案内で用を足し、戻ろうかと思ったがお手洗いの前に彼女が居ない。
お手洗いへ続く廊下に面した和室から、彼女が俺を呼ぶ声がする。今晩の「おかずは何にする?」ぐらいのトーンで話しかけられたこともあり、俺は警戒せずに彼女の呼ぶ方へと赴いた。
すると、彼女は和室の押入れを指出して淡々と、他人行儀に言った。
「ここ、私が昔閉じ込められてた押し入れ」
見れば、小さな押し入れだ。年季の入った色褪せたふすま戸、黒い引手を止める釘は赤く錆が浮いている。言われれば不気味に見えなくもないが、いたって普通の押し入れに見える。
「へぇ、ここが? そうか、幼い頃は押し入れに閉じ込められたのか。俺が言うこと聞かなかった際に、服をひん剥かれて家の外に追い出されたのと同じ感じ?」
「なにそれ」
彼女は笑って答える。しかし彼女は押し入れから視線を外さずに居る。
俺は彼女の母親のにこやかな笑顔から頭を離して、彼女に提案する。
「なあ、この押し入れ、俺入っても良いか?」
彼女は最初こそ笑っていたが、俺が真剣なことを感じ取り、徐々にどぎまぎしてくる。
まあ、確かに他人の家の押し入れに入りたいっていう奴がどこに居るのかと。まして彼女の実家に初めて来た彼氏が言う事ではない。だが、彼女のトラウマ解決の一助となるなら、この押し入れは開けて、中に何もないことを彼女に伝えるべきだと俺は思った。
彼女は視線を逸らしながらも、俺が押し入れに入るのを了承してくれた。
その際に、彼女は妙なことを、ぽつりぽつりと口にした。
「あのね、私が幼い頃、悪いことをするとおばあちゃんが来て私を押し入れに閉じ込めたの。押し入れの中は暗くて、おばあちゃんに、ずっと開けて欲しくて、押し入れの壁に「ごめんなさい」って書き続けてたから……割と中は不気味になってるかも」
「書いたって、筆記用具か何か持ち込んでたの?」
「爪で……」
「爪!?」
「そう、血が出るまで書いてた気がする」
「そら大変だったな」
確かに、トラウマの元凶である場所の中に「ごめんなさい」と血文字で書かれているのを、何も知らずに見つけたら面食らっていたかもしれない。俺の役目は「何ともなかった」という証明なのだから、無駄に驚くことは避けたい。
「それで、おばあちゃんも流石に押し入れからそんなカリカリ音がして謝り続けられたら居心地が悪いから、さおりを出した、と」
「ううん、押し入れから出してくれてたのはお母さん」
「お母さん、って、さっきの?」
頷いて答える彼女を脇に、俺は押し入れに手をかけ、がたつきスムーズに開かないそのふすま戸を力を入れて引く。中には古い家電や古いカメラ、今は使っていないだろう物が追いやられていた。俺はそれらを適当に引っ張り出し、押し入れを見ようとしない彼女に一言断って中を覗き込み、壁一面に書かれたある文言を見つけて絶句した。
なんとか平静を装い、俺は彼女を安心させる。
「ああ、ほんとだ。酷い字で書いてある。『おばあちゃん ごめんなさい』だな。雑巾ある? 消しとくよ?」
彼女に雑巾を頼み、俺は押し入れの中にあった秘密をふき取った。
その後、居間に戻る道すがら、彼女の母親と会い、三人で居間に戻った。
彼女の母親は、俺に非常によくしてくれた。だが、俺は彼女を連れ、一刻も早くこの家を出たかった。予定では彼女の実家に泊まるはずだったが、その日は急遽、駐車場で車中泊をすることを選んだ。
「そういえばさ」
俺は車内の天井を見上げながら、さよりと並んで横になっている最中に聞いた。
「おばあちゃん、ってどんな人だったの?」
やや確信に迫るその言葉に、彼女は詰まりながら「厳しかった」とか「怖かった」と続け、最終的には一言に要約された。
「小さかったからかな。よく覚えてない」
「そっか」
よく捉えるならば、祖母は
その答えは、押し入れの中で消したあの文言が告げている。
おかあさん ごめんなさい
おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい
おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい
おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい
おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい
おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい
おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい
おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい
おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい
おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい
おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい
おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい
おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい
おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい
おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい
おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい
おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい
おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい
おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい おかあさん ごめんなさい
俺は、彼女の母親のにこやかな笑みを思い出し、心底寒気がした。
おそらく、彼女の脳がセーフティをかけ、自身の記憶を改ざんしたのだろう。
「良いおかあさん」と「悪いおばあちゃん」、その二人を作ることで、母親の二面性から目を背けた。彼女が本当に怖いのは、暗闇じゃなかった。そしてそうまでして、彼女の脳は母親に彼女自身を縛り付け続けているのだ。
彼女のトラウマは、彼女の頭蓋という“狭い場所の中”で造られていたのだと考えると、俺は胸に何かが詰まる様な気持ちになった。
彼女との実家の縁がまだ残っている間は、このことは秘密にしなければと思った。
まだ、おばあちゃんに出てきてもらっては困る。
おしいれのなか 九十九 千尋 @tsukuhi
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