環乃国物語 ~少年忍者と破戒僧~

漂月

「鉄鴉の哭く夜」

 環乃国(わのくに)が、まだ合戦に明け暮れていた時代の話。

 現在の田輪県宇戸市郊外にある小さな松林から、二人の物語は始まる。



 パチパチとはぜる焚き火を見つめながら、僧衣を着た屈強な男は静かに言った。

「そう怯えるでない。そこでは寒かろう。鍋も煮えたゆえ、ちと出てまいれ」

 応える者はいない。松林が夜風にざわめいているだけだ。



 しかし僧衣の男は松の枯れ枝を火にくべつつ、こう続ける。

「拙僧は将運寺にて修行せし揺海(ようかい)と申す者。元は武士の端くれゆえ、いささか強面ではあるがな。一敗地に塗れ、刀折れ矢尽き、今は隠遁の身。唯(ただ)揺れる海の如し……と、まあそんなところだ。さて、煮えた煮えた。おお、貝の出汁がよく出ておる」



 鍋の雑炊を椀にすくい始めたとき、何者かが背後にスッと立った。

 揺海はまるで頓着せず、雑炊をすくい続ける。

「その得物、おぬしの膂力(りょりょく)で拙僧を仕留めるにはいささか軽い。初太刀で仕損じて鍋の中身を浴びせかけられたら、さて何とする?」



「……ふん」

 子供の声だった。パチンと音がしたのは、得物を鞘に納めたからだろう。

 そしてすぐ隣に腰を下ろす。やはり子供だ。煤だらけの着物を着た、十代前半ぐらいの少年だった。



 腰に短刀を差した少年は、ぼさぼさの前髪の間から冷たい視線を投げかけてくる。

「クソデカいおっさんだな、本当に妖怪みたいだ……。雑炊ちょうだい」

「よいとも」

 揺海は何も訊かず、椀を差し出した。ひったくるように少年が椀を取る。



「貝が入ってるけど、坊さんってこういうのダメなんじゃ……?」

「些事(さじ)を気にするな。こうして人助けの役に立てば、貝たちの来世にも報いがあろう。ほれ、気にするべきはこちらの匙(さじ)じゃ」

「クソ坊主すぎる……」



 あきれた顔をした少年は、匙をつかんで雑炊をガツガツと食べ始めた。よほど飢えているようだ。

「はっはっは、よいよい。童が飯を食う様は心が和むな」

 揺海は笑うと、椀の蓋に雑炊をよそって自らも食べ始める。



 少年は雑炊を三杯食べ、鍋を空っぽにした。それから警戒心をまだ捨てていない表情で、揺海をじっと見る。

「ありがと、助かった。でも払うものはないよ」

「いらんいらん、拙僧は飯屋ではないぞ」

「それならいいけど……」



 少年は不機嫌そうにつぶやき、それから揺海に問う。

「あんた、どこの武士だったの?」

「鳴川家のかつての主君であった大沢家に仕えておったが、下剋上で主家が滅びたゆえ、今はこうして皆の菩提を弔っておる」



「大沢の侍か……」

 少年は束ねた長い髪を邪険に払うと、スッと立ち上がった。

「じゃあまあ死んじゃってもいいか」



 揺海は椀を手拭いで丁寧に拭い清めた後、それを懐にしまって立ち上がる。

「早合点は良くないぞ、童よ。拙僧に用があるのかもしれん」

「どっちだろうね!?」



 次の瞬間、二人はバッと飛び退いた。地面に手裏剣が突き刺さる。

「やっぱりオレの方みたい!」

「委細構わぬ。どのみち拙僧を見逃す気はあるまい」

 揺海は錫杖を構え、周囲を睨む。



 二人を囲んでいるのは四人。行商人に変装しているが、普通の行商人は手裏剣を投げない。全員が分銅鎖や短刀で武装していた。

 彼らは二人を包囲し、無言で間合いを詰めてくる。



 だが揺海は動じなかった。

「おぬしら、拙僧に殺生をさせるつもりか? なんと罪深い……」

 その言葉が終わるよりも早く、刺客たちが襲いかかってくる。



「遅いのう」

 錫杖を一閃し、最初の男を薙ぎ払う揺海。行商人に扮した刺客は木の葉のように吹き飛び、地面に転がって動かなくなった。



「い、一撃で……!?」

「鉄のついた棒で殴れば人は死ぬのだ、童よ」

 そう答える間に、次の刺客の分銅鎖を錫杖で受ける。鎖を絡め取ると、逃げる暇を与えずに刺客の喉仏を突いた。錫杖の先端が喉に食い込む。



「ぐっ!?」

 刺客が怯んだ瞬間、脳天に重い一撃を叩き込む。どさりと崩れ落ちる刺客。

「どうした、鳴川の雑兵の方がよほど手強いぞ? だが同時に掛かってこんのは何やら妙だな……」

 そうつぶやいた揺海に、少年が叫んだ。



「気をつけて! あいつ鉄砲を持ってる!」

「何!?」

 とっさに身構えた瞬間、パァンと炸裂音がした。



「むうっ!?」

 さすがに錫杖で鉛玉は防げない。

 だが倒れたのは刺客の方だった。火縄のついた短筒(たんづつ)が転がる。

 それを見た瞬間、揺海は残る一人の刺客に肉迫した。



「こっ、こいつ!?」

 刺客は仲間の落とした火縄銃を拾おうとする。

 刺客の姿勢が低くなった瞬間、揺海は錫杖で地面スレスレを薙ぎ払う。本来は鉄環で敵のくるぶしを砕く技だが、今回は刺客の横面を砕いた。



「ぎゃあっ!?」

 揺海は地面に落ちていた短筒を奪うと、血まみれで悶絶している刺客の喉に懐刀を突き刺す。

「童に害為す者に人の身は過ぎたるもの。輪廻して野辺の草からやり直せ」



 合掌して振り返ると、短筒を落とした刺客は既に事切れていた。傍らに少年が立っている。彼も短筒を持っていたが、こちらは火縄がついていなかった。

「おぬしが撃ったのか」

「まあね。あ、その短筒ちょうだい」



 少年は二挺の短筒を懐にしまうと、死体を漁り始める。

「お、こいつ弾薬(たまぐすり)持ってる。もらっとこ。ああ坊さん、早く逃げた方がいいよ。またすぐに追っ手が来るから」



 揺海は刺客たちの骸に手を合わせる。

(最初から火縄銃を使っておれば、拙僧など苦もなく倒せたであろうに。何やら妙だな。捕らえて吐かせるべきであったか)



 首を傾げつつ、揺海は少年に向き直った。

「おぬし、こやつらの事情を知っておるようだな。これも何かの縁だ。おぬしの名ぐらいは聞かせてもらってもよかろう」



 死体の懐に手を突っ込んでいた少年は、前髪を払うとそっけなく答えた。

「墨丸(すみまる)。天雷衆の抜け忍だよ」

 これが二人の出会いだった。


   *   *


 屈強な僧衣の男と、ぼさぼさ髪の少年。

 二人は松林を抜け、月明かりの下を歩いていた。

「なるほど、非力な童でも火薬を用いれば武者を倒せる。それに一見して丸腰の童なら警戒されにくい。道理ではあるな。人の道に背くことを除けば、だが」



 揺海が溜息をついてうなずくと、墨丸はつまらなさそうに返す。

「オレは戦で村を焼かれた後、人買いに捕まって天雷衆に売られたんだ。火薬の調合や火縄銃の手入れを教え込まれた。毎日煤で真っ黒になってね。ついた名前が『墨丸』だよ。元の名前は忘れちゃった」



「なんと不憫な……」

「他にも同じような子供が大勢いたけど、最後まで残ってたのはオレだけだった。他のヤツらがどうなったのかは知らない」

 それを聞いた揺海の表情が曇る。



「むう……。そうだったのだな」

「なんだよ?」

「天雷衆を多く雇っておるのは鳴川家だが、その鳴川領で『煤童(すすわらし)』という妖怪の噂を聞いたことがあるのだ」



「煤童?」

「さよう。人気のない山道などに煤まみれの子供が立っておってな。侍に駆け寄ってきてもろともに爆発するそうだ。もっともどこまで本当かはわからん。拙僧も見たことはない」



 揺海がチラリと見ると、墨丸はうつむいていた。

「……そっか。そうなったんだ」

「なに、あくまでも噂だ。案外、どこかで平和に暮らしておるかもしれぬ。思い詰めるのはよせ」

「オレは別に……他のヤツらなんかどうだって……」



 ごにょごにょつぶやく墨丸に、揺海は笑いかける。

「おぬしは自分で思っておるよりも優しい童だ。短刀ではなく銃を使えば、拙僧から飯も金も巻き上げられただろう。それをせぬのは良心が残っておるからだ」

「そんなこと……撃てば音がして追っ手に見つかると思っただけで……」



 揺海は楽しげに返す。

「撃たずとも脅迫ぐらいはできよう。だがそうしなかったのだ。その優しさが過酷な境遇のどこで養われたのかはわからぬが、おぬしの人生を幸あるものにしてくれよう」



「破戒僧のくせに、普通の坊さんみたいなことを言って……」

 呆れたように言う墨丸だが、揺海の歩みに遅れないようについてくる。離れる気はなさそうだった。



「ときに先ほど見たおぬしの短筒、火縄が見当たらなかったが」

「ああ、それか」

 墨丸はちょっとだけ誇らしげに笑う。

「オレのは『鉄鴉(てっが)』っていう特別製なんだ。ほら、見る?」

 墨丸が襟元をはだけて懐からニュッと出したそれを、揺海はじっと見る。



「火縄の代わりになっておるのは、その火打石か?」

「そう。だから火種がいらないんだ。ここんとこが鴉のクチバシみたいだから『鉄鴉』」

 銃を観察して撃発機構を見抜いた揺海だが、ふと首を傾げた。



「だが火打石の火花なぞで本当に撃発できるものか? いささか不安だが」

「大丈夫。この火打石は異国との交易で手に入れたヤツらしくて、火花がものすごく出るんだ。といってもやっぱり不発は多いけどね。それに発砲がほんの少し遅れるし、バネが強すぎて弾がブレるから、いいんだか悪いんだか……」



 そして墨丸はこう続ける。

「オレが追われてるのも、こいつを持ってるせいかもしれない。それに天雷衆秘伝の火薬術を知ってるオレは生かしておけないんだろ」

「そこまでわかっていながら、なぜ抜け忍になった?」



 すると少年はうつむく。

「もうイヤなんだよ、油断してるヤツを撃ち殺すの……。撃った後はみんな鬼みたいな顔で追ってくるし。逃げ遅れた仲間はみんな殺されたよ。ひどい殺され方だった」



 揺海はうなずき、墨丸の肩に手を置いた。

「それは確かに、さっさと抜けてしまうのが正しいな。おぬしは優しいだけでなく、勇気と賢さも兼ね備えておる」

「やめろよ、恥ずかしい……」

 そう言いつつも、少年は揺海の手を払おうとはしない。



 揺海は独り言のようにつぶやく。

「だがその話で得心した。追っ手が銃でなく手裏剣を使ったことといい、追っ手はおぬしを殺したくないのだろう。正確に言えば、殺す前におぬしから奪うものがあるのだ」



「『鉄鴉』なら殺してから奪えばいいだけだろ」

「さよう。それゆえ、他に奪うべきものがある。そしておぬしはそれを拙僧にまだ明かしておらん。違うか?」



 墨丸は歩みを止め、軽く溜息をついた。

「あんたイヤなヤツだな……。そうだよ、まだ隠してることがあるよ」

「話さずともよい。人は皆、互いに何かを隠しておるものだ」

 特に気にした様子もなく、スタスタ歩いていく揺海。



 背後から墨丸が追いかけてくる。

「聞かないの!? 巻き込まれて命を狙われたのに!?」

「話したければ聞くが、それはおぬしが決めることだ。まだ拙僧を信用した訳ではあるまい。おぬしは童ゆえ、くれぐれも用心は怠らぬことだ」

「変な坊さん……」



 ぼやいた墨丸だが、やはりまだついてくる。

「ま、いいや。あんた強いから、一緒の方が安全そうだ。飯も食わせてくれそうだし」

「それもよかろう。共に征くもどこかで去るも自由。おぬしが決めるがよい。今宵は山中で夜を明かすことになるがな」

 そう言って揺海は真っ暗な峠道を指差した。


   *   *


 鬱蒼と生い茂る森の中で、揺海は藪蚊を追い払いながらつぶやく。

「追っ手が掛かっておるとなれば火は使えぬ。それゆえ、いささか慎ましい寝床になってしまうが、命には代えられまい。これなら狩人にしか見破れぬ」



 二人が身を隠しているのは、落ち葉と枯れ枝で作った壁だ。木の幹に立てかけて夜風を防いでいる。

 墨丸がヒソヒソ声で文句を言う。

「それはいいけど、沢の近くで野宿するのはダメでしょ!? 何考えてんの!? 水音で周りの音が聞き取れないし、体冷やすって!」



 だが揺海は動じない。

「だからこそだ。追っ手はおぬしの知識と技術を熟知しておる。それゆえ、おぬしが沢筋で野宿せぬことも承知しておろう。そこにこの奇策の活路がある」

 揺海は枯れ葉を敷き詰めた寝床に転がると、頭から笠を被った。



「逃走中の野営など危険を承知の上で行うもの。どれほど危険でも、人は眠らねば生きてゆけぬ。明日を生き延びるために、今宵は死地にて眠るのだ」

 墨丸は枯れ葉の山に潜り込みながら、呆れたように応じる。

「メチャクチャだよ……侍ってみんなそうなの?」



「侍に限らず、長い人生にはそういう夜もある。無事に生き延びられたら、今宵のことを笑い話にするがいい。おやすみなされ」

「そうしよっと……。生き延びられたらね」


   *   *   *


 翌朝、墨丸は震えながら目を覚ます。梢の間から朝の日差しが降り注いでいた。

「うう……寒い……」

 指先まで冷え切っていたが、揺海にくっついて暖を取ったおかげか、どうにか凍死せずに済んだようだ。あまり良い眠りとはいえなかったが、とにかく一晩眠れたのは大きい。



(確かにこれで、今日一日は動ける。あの坊さんの言った通りだ。変なこともされなかったし、少し信用してもいいかも)

 そんなことを思いながら見回すが、あの屈強な男の姿はない。



(逃げたか。……まあそんなもんだよね)

 軽く溜息をついたとき、スッと陽が陰った。

「はっ!?」

 慌てて身構えるが、すぐに墨丸は警戒を解く。



「なんだ、あんたか」

「おはようござるな。まずは朝餉(あさげ)だ。これを食せ」

 差し出された椀に入っていたのは、茶色と緑の不気味な塊だった。茶色が味噌だというのはわかったが、緑色はわからない。とりあえず粘ついている。



「なにこれ、ヌルヌルしてる……」

「ウワバミソウの味噌和えだ。こういう沢によく生えておる山菜で、ミズと呼んだ方が通りが良いかもしれんな。筋を取ってから細かく刻んで粘り気を出し、味噌で和えた。いささか旬を過ぎておるが、まあ食うには困るまい。乾し飯(いい)もあるぞ」



 乾燥させた平べったい飯が椀に追加される。

 それをおずおずと受け取る墨丸。

「あ……ありがと」

「うむ、感謝の言葉は大事だ。拙僧も礼を言わねばな。ありがとう」

「なんで?」



 全く意味がわからずに首を傾げると、天を衝くような巨漢の豪傑は呵々と笑った。

「誰からも感謝されぬ人生ほど虚しいものはない。こうしておぬしから感謝されることで、拙僧も少しだけ人の心を取り戻せるのだ」

「わかんないな……」



 新鮮な山菜の味噌和えは意外なほどに美味しく、乾し飯と共に綺麗さっぱり少年の腹に収まった。

「これまた食べたい。まさかこんな山の中で、おいしいものが食べられるなんて思わなかったよ」

「それは良かった。拙僧がまだ武士だった頃に、山育ちの農民兵から教えてもらったものでな。武家だ侍だと偉そうに言っても、知らぬことばかりだと痛感させられた」



 揺海は椀の蓋の方で食事を済ませると、濡れ手拭いで椀と一緒に丁寧に拭い清めた。

「さて、参るとしよう。追っ手に見つかる前に姿をくらませておきたい」

「できる? あいつらも忍びだよ?」

「なに、忍びといえども人の子。御仏の力には及ばぬ」



 そう言いながら揺海は立ち上がり、一夜を過ごした寝床を潰し、枯れ葉と枝に戻してしまう。

「沢筋での野営は奇策ゆえ、痕跡は何も残せぬ。手の内を知られてしまえば二度と使えんからな」

(さすが元武士、駆け引きが上手いな)



 墨丸は感心し、この大男への信頼をまた少しだけ深めた。

 しかし墨丸はすぐに後悔することになる。


   *   *


「御仏の力っていうから、法力でも使えるかと思ったのに!?」

「そんなもんありはせん。抜け忍が夢を見るな」

 二人は今、大きな寺院の敷地内にいる。豪商の屋敷と見間違えそうなぐらいに立派で、瓦から庭石に至るまで贅が尽くされていた。



「だいたい何なの、この無駄な立派さは」

「この如泉院は近隣の末寺を束ねる由緒正しい門跡寺院でな、拙僧が学んだ将運寺も末寺のひとつだ。それゆえときどき世話になっておる。今回も助けを得られよう。もっとも、御仏の心にはいささか背くかもしれんがな」

「どういうこと?」



 すると揺海は苦笑した。

「じきにわかる」



 それから二人は雑用係の僧に案内され、奥まった座敷に通された。

「揺海様、申し訳ございません。螺言(らごん)様は本山にお出かけでして、明日までお待ちをとのことでした。御指示により、こちらに御寝所と昼餉(ひるげ)を用意しております。お弟子様もどうぞ」

「承知いたした。いつもかたじけない」

 丁寧に頭を下げた揺海は墨丸を手招きする。



「ここなら追っ手の心配はあるまい。昼飯にしよう」

 二人は向かい合い、鯉が泳ぐ池を眺めながら膳を囲む。

「たかが昼飯なのに、おかずが三品もある……。おまけに具の入った汁物も。坊さんってみんなこんな食事してるの?」



 揺海は汁物の塗り椀を取りながら苦笑する。

「そんな訳なかろう。この寺院は荘園と兵を有しており、さらに近くの港も支配しておる。実質的にはそこらの領主と変わらん。庭の池も鯉も籠城戦の飲食に用いるためで、庭木も薪にするために植えてある。そういう寺だ」



「なるほど、領主の城館みたいなもんか。ところで」

 墨丸は奥の間を見た。

「なんでまだ昼間なのに布団が敷いてあるの? あんな立派な布団初めて見た」

「うむ、何やら誤解が生じておるようだな……」

 渋い顔をしつつ、揺海は汁をズズッとすすった。



 しばらく無言のまま布団を眺めていた墨丸は、ぼそりとつぶやく。

「『鉄鴉』の火打石、異国との交易で入ってきたって言ったでしょ」

「ああ、そう申しておったな」



「質のいい火打石がないと『鉄鴉』は使い物にならない。でも『鉄鴉』だけの鉄砲隊を作ろうと思ったら、あの火打石がたくさん必要になる。だからどっさり仕入れたんだけど、その隠し場所を知ってるのはオレだけなんだ」

「なるほど、連中が血眼で追いかけてくるのも道理よな」



 揺海は特に驚いた様子もなく、漬物をかじる。

「だが童のおぬししか知らぬのは、いささか奇妙だな」

「簡単だよ。オレと大人の忍び二人で隠した後、帰るときに敵の忍びたちに襲われたんだ。二人は殺されたけど、おかげでオレは自由になった」



「しかしおぬしが生き残っていることが、天雷衆に知れたという訳か」

「うん。そこからは逃げて逃げて……あんたが助けてくれなかったら、さすがにちょっとヤバかったかも。命の恩人だよ。ありがと」



「なに、当然のことだ。だがおぬしを救うために四人も殺めたゆえ、せめておぬしには生き延びてもらわねばな。この土地を離れ、どこかで新しい生活を始めるがよい」

「いや、無理でしょ……。ていうか、火打石のことが気にならないの? 最新型の鉄砲を作る材料だよ?」



 しかし揺海は気にする様子もない。

「他人の物に興味はないな」

「売れば大金になるんじゃない?」

「かもしれぬが、それはおぬしが決めることだ」

「なんだよ、つまんないなー……」



 墨丸は唇を尖らせたが、揺海は笑った。

「拙僧への恩返しなら気にせずともよいぞ。拙僧はただ、おぬしに幸せになってほしいだけだ。恩返しならそれで十分すぎる」

「昨日会ったばっかりの赤の他人に、よくそんなこと思えるよね? 本気で言ってる?」



 すると揺海は笑うのをやめて、ふと遠い目をする。

「おぬしは似ているのだ。少しだけな」

「誰に?」

 揺海はニヤリと笑った。



「誰しも隠し事はあるものゆえ、『昨日会ったばかりの赤の他人』には教えられぬな。はっはっは」

「ええー……?」


   *   *


 その夜、墨丸は前夜とは打って変わって穏やかな時間を過ごした。

 揺海は板間に正座し、ここで借りた書物を読んでいる。

 墨丸は『鉄鴉』を分解して火薬の残り滓(かす)などを落としていたが、ふと気になって声をかけた。



「あんた、字が読めるんだ? すごいね」

「高札も読めんのでは情勢を探ることはできんからな。武士を捨てた身だが、武士として培った特技で食いつないでおる。皮肉なものよ」

 苦笑しつつ、項をめくる揺海。



「おぬしは読み書きを教えてもらえなかったのだな」

「うん。火薬や銃の扱いは口伝で。図とかは見せてもらったけどね。『お前たちは字なんか読めなくてもいい』って言われてた」



 そう言いながら墨丸は書物を覗き込んだ。

「これは何が書いてある本?」

「これか。不老長寿を得る秘儀が記されておる」

「うわ、そんなのあるんだ!?」



 すると揺海は微笑む。

「というのは嘘だ」

「だましたな!?」

「さよう。読み書きができぬと、このように簡単に騙される。天雷衆はおぬしたちを都合良く使うため、読み書きを教えなかったのだろう」



 そう言って揺海は書を閉じ、墨丸に向き直った。

「おぬしも読み書きと算術を学べ。拙僧で良ければ教えよう。それができればもう銃など持たずともよくなる。商家や武家に奉公できるからな」



「めんどくさいけど、そうすりゃ一生喰いっぱぐれないか。考えとくよ」

「うむ」


   *   *   *


 薄暗いお堂の中に、様々な風体の男たちが集っていた。行商人、巡礼、旅楽師、浪人、農民、漁師、炭焼き職人。

 誰かが口を開く。



「『石』は見つかったか?」

「ダメだ。皆目見当がつかん」

「あいつら隠すだけ隠してくたばりやがって」

「生き残りの小僧、墨丸だったか? あいつはまだ捕まらんのか」



「その件だが、鳴川領宇戸城近くの松林で小助たち四人の骸を見つけた。二人は棒か何かで殴り殺されている。おかげで短筒を一挺失った」

「全員やられたのは痛いな。だがあのガキの腕力で殴り殺せるはずがない。となると」

「……急いだ方が良いな」



 薄暗いお堂の中には誰もおらず、外ではフクロウらしき何かがホーホーと鳴いていた。


   *   *   *


 そして翌朝。

「やあやあ揺海殿、大変お待たせして申し訳ない。鳴川の殿様が、また無理難題をふっかけてきましてな。大沢殿の時代が懐かしい」

 にこやかに現れたのは、豪華絢爛な僧衣をまとった糸目の青年だった。墨丸が見た感じ、僧というよりは商人のような雰囲気を漂わせている。



 その視線が墨丸を捉えた。

「なるほど、揺海殿の好みはこういう……」

「螺言殿、そうではござらん。子供の前ゆえ、そのような話はやめておきましょう」

「ああ、そういうことで。いや、これは大変失礼いたしました。美童の弟子を取られたと聞いて、てっきり」

「いやもう良いので……」



 苦り切った顔をしている揺海を見て、墨丸は内心で首を傾げる。

 揺海は軽く咳払いをしてから、改めて螺言に一礼する。

「鳴川領の領民たちは、年貢が軽くなったことに喜んでおります。大沢の家臣だった身としてはいささか複雑な心境ですが、民が喜ぶ姿は悪くありませんな」



「わかります。現世の衆生を救うのが我らの務め。来世の方は御仏に丸投げしますが」

「ははは」

 揺海は笑いつつ、報告を続ける。

「ただし年貢の軽減は今年まで。来年からは大沢家の水準に戻すので、気の早い者は案じております。いくつかの村では麦の作付けを増やす相談をしておりました。年貢に取られませんからな。それと宇戸城に兵の出入りが」



 螺言は真顔になり、少し考え込む様子を見せた。

「駐留する兵は増えているようですか?」

「さすがにそこまではわかりませんでしたが、煮炊きの煙がかなり増えております。昨年の今頃よりも城内に荷馬の出入りが多く、道端が馬糞だらけで難儀しました」



「ふむ……やはりそうか」

 螺言はうなずき、フッと微笑む。

「わかりました。ところで他にも何かある様子ですね?」

「螺言殿の目はごまかせませんな。例の天雷衆が動いておる模様。宇戸城の近くをうろついておるのを見ましたが、どうやら抜け忍を追っているようでした」



 墨丸は驚いたが、ぐっと平静を保つ。自分がその抜け忍だと知られる訳にはいかない。

 螺言の方も少し驚いた様子だった。

「抜け忍など捨ておけばよいものを、わざわざ追うとは」

「さよう。別の仕事でもさせた方が良いはず。そうでないということは……」



「ふむ、それは……いや、うんうん。さすがは『鬼氷川』の揺海殿」

「その名はもう忘れてくだされ」

「これは失礼いたしました。螺(にし)の戯言(たわごと)ですので、どうかお忘れください」



 自らの名とかけた洒落を言った螺言は、ふと真顔になる。

「ですがやはり、今の地位にしておくのは惜しい。しつこいようですが、当院の兵を教練する坊官になって頂けませんか?」



「再三のお誘い誠に恐縮ですが、拙僧の腕は錆び付いておりますゆえ、お役には立てますまい。御寛恕を」

 笑いながら頭を下げる揺海。



「うーん、仕方ありませんね。ですが私は諦めておりませんので、このお話はいずれまた」

 螺言が軽く手を叩くと、静かに戸が開いて侍僧が盆を差し出した。ずしりと重そうな巾着が載っている。



「わずかばかりで心苦しいのですが、拙僧の気持ちです。路銀の足しになさってください」

「かたじけない」

 揺海は恭しく盆を受け取ると、巾着を懐にしまう。



「揺海殿、他に入り用のものはありませんか?」

「味噌玉と芋がら縄を少々。草鞋も新しいのが欲しいですな。それと、この子に着せるものを頂戴できれば」

「お安い御用です。すぐに支度させましょう」

 螺言はうなずき、来たときと同じように笑みを浮かべながら去っていった。


   *   *


 墨丸は真っ赤な顔をして、姿見の前に立っていた。

「こ、これはいくらなんでもやりすぎだろ……」



 彼は今、染みひとつない新品の水干を着ている。見るからに高級な品で、随所に華やかな刺繍が施されていた。

 やや古風な趣味ではあるが、庶民の粗末な着物とは段違いだ。少なくとも抜け忍が着るようなものではない。



 ただ丈がやけに短いのが気になった。上が立派なだけに下の無防備さが気になってしまう。

 太ももを隠そうと四苦八苦しつつ、墨丸は揺海の方を向く。



「こういうのって、楽師とかが踊るときに着るものじゃない!?」

「僧が寵童に着せることも多いな」

「寵童って!?」



 旅支度をしている揺海は、当たり前のように返す。

「多くの宗派の僧は妻帯できぬが、弟子の童を連れ歩く分には何の問題もない。それゆえ、そういう抜け道を使う者も中にはおるという話だ」

「おおおオレはやらないからな!?」

「当たり前だ。だが『そういうこと』にしておけば、何かと丸く収まる」



 揺海はそう言い、自らの僧衣の裾を軽く叩いた。。

「人は着ているもので身分を示す。おぬしの今の格好を見れば、誰もが『ああ、どこかの武士か坊主に仕える稚児だな』と思うだろう。そしてこうも思う。『こいつの主と揉めると面倒そうだから手出しはやめておこう』とな」



「……それって丸く収まってんの?」

「少なくとも短筒の出番は減るだろう。おぬしの追っ手も、まさか煤まみれで弊衣のおぬしがこれほど変貌しているとは思うまい」

「そうかな……そうかも……」



 そう納得しかけたが、やはり猛烈に恥ずかしい。着物からは甘ったるい香の匂いがするし、綺麗に結われてしまった髪は優雅に風に流れている。

 改めて鏡を見ると、やはり別人だ。



「確かにこれならバレないかもしれないけど、目立つのは良くないんじゃ……」

「沢で野宿するのと同じように、これも敵の裏をかく奇策だ。何かあれば拙僧がおぬしの身元を保証する。名を聞かれたら『華千代』とでも名乗っておけ」

「女の子みたいな名前だな……。ていうか誰それ」



 すると揺海は事もなげに答える。

「拙僧の幼名だ。おぬしは揺海の下で学問を学んでいる名主の子ということにしておこう」



「ちょっと待って、あんたって子供の頃は華千代って呼ばれてたの!?」

「はっはっは、似合わんだろう?」

「想像しただけで笑える。ねえ、華千代ちゃん?」

「何か御用かな、墨丸殿?」

「あははははは!」



 二人で顔を見合わせて笑ったところで、墨丸は唐突にこう言った。

「あんたのこと、なんだか気に入った。『鉄鴉の石』の隠し場所を教えてあげるよ。全部好きにして」

 揺海が怪訝そうに手を止める。



「……良いのか?」

「いいよ。螺言だっけ、あの偉そうな坊さんにあげたら褒美ぐらいくれるだろ? 代わりに読み書き教えてくれよ」



 揺海は荷物を置き、嬉しそうに微笑んだ。

「そういうことであれば喜んで」


   *   *   *


 その翌日、二人は港の裏手にそびえる山にいた。

「なんともまあ変わった場所に隠したものだな」

「絶対に見つからない場所に隠せって言われて、オレの組頭が選んだ場所がここなんだ。最初は岬の洞窟に隠すつもりだったらしいけど、なんか急に変更になったとかで」



 海を一望できる山の中腹を歩いていくと、やがて崩れかけた廃寺が現れる。

「あそこか」

「うん。手水鉢の底に敷いた砂利がそれ」



「なるほど、石を隠すなら石の中という訳か。確かにこんな廃寺の手水鉢など誰も使わぬし、鉢の中に砂利が沈めてあるのも別に珍しくもない」

 手水鉢には沢の水が流れ込んでおり、水底に沈んでいる砂利はどこからどう見てもただの石だ。



 冷たい清水にチャプチャプと手を浸しながら墨丸が笑う。

「これなら見つからないし、散らばっちゃう心配もないだろ? 手水鉢に隠すのはオレの案なんだぜ」

「おぬし、出会ったときよりも笑うようになったな」

「べ、別にいいだろ……」



 墨丸は少し頬を赤らめてから、揺海を見上げる。

「で、これどうする? 持って帰る?」

「それを決める前に、ひとつ解決しておきたい疑問がある」

 揺海は周囲を見回し、それから墨丸をじっと見つめた。



「交易品の高価な火打石を、なぜこんな場所に隠す必要があったのだ?」

「いや、だから見つからないようにだろ?」

「見つからないようにするだけなら、忍者屋敷の庭にでも撒いておけば良かろう。ここは取りに来るのも様子を見るのも不便すぎる。岬の洞窟にしてもそうだ」



 そう言って揺海は火打石をつまみ上げる。

「察するに、おぬしを追っている連中は普通の場所にこれを保管できぬ理由があったのだ」

「保管できない理由ってなに?」

 興味津々といった顔の墨丸に、揺海は微笑みかけた。



「わからん」

「わかんないのかよ!?」

「拙僧の知恵などたかが知れておる。だから突き止めるのだ」



 揺海は火打石を一粒だけ懐にしまうと、スタスタ歩き出した。

 後ろから墨丸が慌てて追いかけてくる。

「ねえねえ、あれほっといていいの!?」

「今はな」

「どういうこと!?」


   *   *   *


「ここが『鉄鴉石』の在処(ありか)か」

「間違いない。如泉院の僧たちが話しているのを聞いた」

 巡礼風の男がそう言うと、行商人風の男がうなずく。

「となると、墨丸は寺に逃げ込んだようだな」

「それなんだが……」



 巡礼と行商人に化けた男たちが話していると、炭焼き職人風の男が慌てた声をあげる。

「なんだこりゃ!?」

「どうした?」

 すると炭焼き職人風の男が手裏剣と石を打ち合わせる。小さな火花が散ったが、それだけだった。



「『鉄鴉石』にしては火花が弱すぎねえか?」

「そりゃそうだろ。こりゃ違う。色は似てるが普通の石だ」

 男は石を投げ捨てる。半ば水没した洞窟に硬い音が響き渡った。

 男たちの視線が巡礼風の男に向けられる。

「おい、これはどういうことだ?」



 巡礼風の男が慌てる。

「俺は確かに聞いたんだ。『短筒を抱いた傷だらけの童が運び込まれて、岬の洞窟に大事なものを置いてきたと言い残して死んだ』と」



 すると漁師風の男が立ち上がりながら言う。

「これは罠だ。すぐに立ち去……」

 銃声が轟き、男がぐらりと倒れる。

 続けざまに数発の銃声が洞窟内に反響した。



「くそっ!?」

「戻るな! 入り口から撃たれてる!」

「じゃあどこに逃げるって……」

「いいから灯を消せ! 的にされるぞ!」



 男たちの叫び声に、銃声が幾重にも重なる。

 銃声は真っ暗な洞窟内に反響し、やがて止んだ。


   *   *   *


「仕留めたか?」

 ぽつりとつぶやいたのは、洞窟の入り口で火縄銃を構えている男だった。旅の僧の姿をしているが、銃の構え方は明らかに本職のものだ。

 同じような男たちが他にも二十名ほど火縄銃を携えていた。

 彼らは全員、如泉院の鉄砲衆だった。



 火縄銃に弾を込めながら、別の男が答える。

「おそらくまだ生き残りがいるだろう。だが潮が満ちれば居場所はなくなる」

「なるほど、ここから出さねばいいのだな。承知した」


   *   *   *


 暗闇の水面に、ざぶりと影が立つ。

「はあっ……はあっ……はあっ……くそ……」

 ずぶ濡れになった忍びは周囲を見回した。



「何人いる?」

「四人だ。五平と佐吉がやられたのは見た。才三はどこだ?」

「あいつは水に飛び込む前に脚を撃たれていた。あの脚では水面まで息が続くまい」



 彼らは水没した洞窟の中を泳いで、近くの浜辺に脱出していた。

 上下すらあやふやになりがちな暗黒の水中を泳ぎ切れたのは、彼らが同様の鍛錬を何度も経験していたからだ。常人には到底不可能な離れ業だった。



 四人の忍びは月明かりだけを頼りにざぶざぶと浜に揚がる。

「発砲炎で一瞬だけ見えたが、撃ってきたのは坊主だったぞ」

「如泉院の連中か。帰参して報告しないと」

「ああ、すぐにここを離れよう」



 幸い、ここには敵の鉄砲隊は見当たらない。漁村や港からも離れていて人目はない。このまま街道に出てしまえばどうにでもなるだろう。

 だがそこに、月を覆い隠すように黒い影が立ちはだかる。



「天雷衆の忍びとお見受けする。ここを通ることはまかりならん」

「敵か!?」

 忍びたちは棒手裏剣や苦無(くない)を構える。火薬は海水で濡れてしまって使い物にならないし、重い武器は捨ててきてしまった。

 だが相手はたった一人だ。



「手早く仕留めろ」

 忍びたちが駆けだしたとき、黒い影は大音声で叫んだ。



「遠からん者は音にも聞け! 近くば寄って目にも見よ! 我こそは氷川重五郎長春! 今は揺海と申す! 討ち取って手柄にせい!」

 海を揺るがすほどの迫力に、手練れの忍びたちが一瞬怯む。



 その瞬間、逆に揺海が駆けこんできた。

「戦場(いくさば)にて臆せば死あるのみ!」

 錫杖が唸りを上げ、忍びの頭蓋を叩き割る。



 最初の一人が倒された瞬間、忍びたちは自分の役目を思い出した。

 一番体力の残っていた忍びが短刀を構え、揺海と対峙して叫ぶ。

「お前たちは行け! ここは俺が食い止める!」



 後の二人は後ろも振り返らずに走り去る。

 だが残った忍びが短刀で切り込むよりも早く、錫杖が槍のように繰り出された。

「うごっ!?」

 鳩尾を突かれ、砂浜に崩れ落ちる忍び。

「身を挺して仲間を守る覚悟、お見事! 涅槃へ参られい!」

 骨が砕ける鈍い音が響く。



 それを背後に聞きながら、残る二人の忍びは砂浜を走っていた。足場が悪く、思うように駆けられない。

「な、なんだあのバケモノみたいな坊主は!?」

「氷川長春っていえば『鬼氷川』以外に誰がいるんだよ! あの強さ、間違いない!」

「けどあいつは鹿ヶ原の合戦で死んだはずじゃ……」



 その会話を遮るように銃声が闇を貫いた。

「ぐっ!?」

 忍びの片方が倒れる。胸を撃ち抜かれており、致命傷なのは明らかだった。

「だ、誰だ!?」

 最後の生き残りの前に、短筒を手にした少年がスッと立った。



 忍びは身構えるが、相手は子供。しかもさっき弾を撃って銃は空のはずだ。

 それよりも問題なのは、その子供の顔だった。

「墨丸……生きてやがったのか!?」

「ううん、『天雷衆の墨丸』なら死んだよ。あんたも死んでくれ」



 会話をしながら、忍びはじりじりと距離を詰める。銃相手に距離を取るのは逆に危険だ。接近して一気に倒すしかない。

 その隙を作るために、忍びは演技する。



「まさか俺まで撃つ気じゃないだろうな? 俺はお前の師だぞ?」

「あんたからは火薬の調合を教えてもらったっけ。けど本当に嬉しいよ、『煤童』にされた仲間の仇をオレの手で討てるからね」

「知ってやがったのか……」

「まあね」



 その瞬間、忍びは苦無で突きかかる。

「このクソガキ! 弾切れなのはわかってんだよ、死ね!」

「えっ!?」

 驚いた様子の墨丸。



 銃声が再び轟き、最後の忍びがどさりと倒れる。

「なん、だと……?」

 動かなくなった忍びを見下ろしつつ、墨丸は銃口から漂う煙を吹き消す。



「びっくりした……。オレがあんたらの短筒を一挺拾ってたの、まさか忘れてた訳じゃないよね? 最初に撃ったのは拾った方だよ」



『鉄鴉』を懐にしまった墨丸は、向こうから駆けてくる揺海に手を振った。

「大丈夫、終わったよ。あはは、そんなに心配そうな顔すんなって!」


   *   *


 僧衣の鉄砲隊が音もなく立ち去るのを見送った後、墨丸は揺海を振り返った。

「結局、『鉄鴉石』はどうなるの?」

「おそらく天雷衆との裏取引に使われるだろう。螺言殿の笑顔が目に浮かぶな」

「え、でも天雷衆の忍びをあれだけ殺しておいて……」



 すると揺海は首を横に振った。

「螺言殿は鳴川家の力を削ぐために天雷衆の弱体化と離反を画策しておってな。それが奏功し、天雷衆は二派に分裂したようだ」



「あんたが宇戸城の近くの松林にいたのって、まさかそれ?」

「さよう、探りを入れておった。ともあれそういった事情があり、おぬしの上役たちは『鉄鴉の石』を隠す必要があった。おおかた反主流派だったのだろう。隠した後に襲ってきたのは、おそらく天雷衆の主流派だ」



 背筋がひんやりしてくる墨丸。

「じゃあオレが抜け忍になってなかったら、どう転んでも詰んでたんじゃない?」

「おそらくはな。いずれの勢力にとっても、おぬしを生かしておく理由がない」

「こわ……」

 首をすくめる墨丸に、揺海は穏やかに言った。



「だが命懸けで隠した『鉄鴉石』にも、大した意味はなかろう。憐れなことだ」

「新型銃の材料なのに?」

 すると揺海は首を横に振った。



「『鉄鴉』は強いバネで火打石を叩きつけるために狙いがブレやすい。しかも火花が火皿に飛び込むかは運任せの上、撃発まで一瞬の間がある。この欠点を克服するには、とにかく数を揃えて隊伍を組み、数十挺・数百挺で斉射するしかあるまい」

「確かにオレも、さっきの狙撃は火縄銃を使ったけど」



 その言葉に揺海はうなずき、さらに言う。

「『鉄鴉』だけの鉄砲隊を作るには火打石がもっと必要だ。あれっぽっちでは足りん。命と物を磨り潰し合うのが戦の定めゆえ、とにかく数がいる」

 説明を聞いた墨丸はうなだれた。



「じゃあオレの『鉄鴉』って、合戦じゃ役立たずなの?」

「そんなことはない。良質の火打石が安定して供給されるようになれば、鉄鴉隊も現実のものとなろう」

 それを聞いて少し嬉しそうな顔をする墨丸。



「そっか。まあいいや、もうオレには関係ないし」

「そういうことだ。過去と決別するため、名も改めた方がよかろう。どうせ天雷衆につけられた名だ」

「そうだね。じゃあ華千代にしよっと」

「それは拙僧の幼名ゆえ返せ。そうだな」



 揺海は砂浜の海水をすくい、サラサラと流した。澄んだ水が月明かりに煌(きら)めく。

「今後は『墨丸』ではなく『澄丸』と名乗ってはどうかな?」

「一緒じゃん?」

「字が違うのだ。字が」

「そんなこと言われても字がわかんないし。あ、読み書き教えてくれる約束だよね?」



 揺海は嬉しげにうなずく。

「忘れてはおらんぞ。この件が済んだら将運寺に戻り、様々な学問を教えよう」

「そっちのお寺はごはんおいしい?」

 少し困った顔をする揺海。



「如泉院と比較されると困るのだがな。しかし育ち盛りの子に精進料理はいささか寂しい。なじみの猟師から猪肉でも分けてもらうか。味噌で煮込むととろけるように旨いぞ」

「貝雑炊のときも思ったけど、坊さんって肉食っていいの……?」



 すると揺海はおかしそうに笑った。

「はて、拙僧が僧だといつ言ったかな? 出家だの得度だの拙僧とは無縁だぞ」

「いやでも『拙僧』って!? それにその格好!」

 墨丸が困惑した顔をするが、揺海は動じない。



「自らを何と呼ぶかはその者自身が決めることであろう。この出で立ちも、落ち武者であることを隠すためだ」

「将運寺で修行したって言ったよね!?」

「修行はした。武者修行をな」



 楽しそうな揺海の顔を見て、とうとう墨丸は大声で叫ぶ。

「詐欺だ! また騙したな!?」

「そうそう、騙されぬように学ばねばな」

 墨丸はふてくされた顔でこう言う。



「やっぱり名前は華千代にする!」

「いかんと言っておるだろうが。おぬしを拙僧のような男にしたくないのだ」

 しかし墨丸はニヤリと笑った。

「だって自分をどう呼ぶかはオレが決めることだろ? 学んだよ?」

「いや、それは一人称の話であってだな……」



 二人はくっついたり離れたりしながら、夜の砂浜を歩いていく。

 砂浜に二人の足跡が残り、澄んだ海がやがてそれを優しく洗い流した。

 この砂浜は今もそこにある。

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環乃国物語 ~少年忍者と破戒僧~ 漂月 @Hyogetsu

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