キツネ石

「キツネ石って知っていますか?」


 夏。蒸し暑い部屋の中で書類仕事をしていると、ふらっとやって来た学生がそんな事を言い出した。


「濡れていると翡翠に見えるが乾くと全く別の石になる物の総称だろう」


 糸魚川の海岸へ行くと良く落ちている緑色の石。初心者ほど「翡翠見つけた!」と騙されるそれは、まるでキツネに化かされたようだと「キツネ石」という名で呼ばれている。

 かく言う私も何度騙された事か。机の引き出しに眠る袋一杯のキツネ石を思うとため息が出る。


「で、そのキツネ石が何だというのだ」

「実は最近糸魚川で『キツネ石おじさん』が出るって噂になっていて」

「キツネ石おじさん?」

「何でも、『見本になるからあげる』といって貰った翡翠を後で見返すとキツネ石に化けているって言うんです」

「それは……良く居る親切なおじさんではないのか?」


 たまにベテランハンターが「見本」として小さな翡翠をくれることがある。その「キツネ石おじさん」とやらはその亜種、ただ単に親切心で行動している「キツネ石と翡翠の見分けがついていないおじさん」なのでは無いかと思ったが、どうやらそうではないらしい。


「それが、貰った時は確かに翡翠なんだそうです。でも、家に帰って改めて見てみるとキツネ石になっていると」

「キツネに化かされたような話だな」


 「先生こういう話好きでしょ」と学生は言う。「浮き潮」と言い、良くこんなピンポイントで情報を仕入れてくるものだと感心した。


* * *


 八月の終わり頃、私は親不知海岸に居た。直上から照り付ける太陽に身を焼かれないように上から下まで真っ黒いウェットスーツを着て、ヒスイ棒を片手に海に潜ったり砂利浜を歩いたり、どこからどう見ても「翡翠ハンター」としか言いようのない行動を取っていた。


 あれから糸魚川には何度か足を運んだ。


 フォッサマグナミュージアムへ行って勉強をしたり、インターネットで他の翡翠ハンターが拾った石を検索したりしているうちに、だんだんと翡翠とそうでない石の判別がつくようになり、三日も歩けば「ボウズ」で帰るなんてことは無くなった。

 相変わらず浜に転がる無尽蔵の石の中から翡翠を見つけるのは至難の業だが、一度見つかった時の達成感を味わうとつい何度も糸魚川へ通ってしまう。

 翡翠の魅力と言うのは恐ろしいと思った。


「こんにちは」


 浜辺に腰を下ろして一息ついていた時、同じような格好をした男性に声を掛けられた。


「こんにちは」


 浜ではよくある事だ。私も愛想良く挨拶を返す。


「採れましたか?」

「いえ、今の所目ぼしい石が無くて」

「そうですよねぇ。私もです。今日は波が穏やかだからな」


 男性は困ったような表情を浮かべた。

 夏は波が穏やかである。波に邪魔をされずに石を拾える一方で、大きな石が打ち上げられないので大物が出にくい。加えて海水浴客も増えるため、増々翡翠が拾えなくなってしまう。

 これをハンターの間では「夏枯れ」と呼んでいた。


「今日は何処から?」

「東京から。まだ初めて数回の初心者なんです」

「そうでしたか。私は地元の人間なので朝の散歩がてら良く来るんですよ」


 男性は胴長のポケットをゴソゴソと探ると真っ白な石を見せた。


「これ、小さい物で申し訳ないんですが、どうぞ」


 男性の掌の上には四角く角ばった真っ白な石が乗っている。


『キツネ石おじさんが出るって噂になっていて』


 ふと学生の言葉が脳裏を掠める。

 

 まさか、こんな人の良さそうな男が? いや、ただのお人よしおじさんだろう。


「ありがとうございます」


 私はその四角く角ばった石を受け取った。「お互い良いのが見つかると良いですね」と言って去って行く男性の後ろ姿を見届けてから、貰った石を観察する。

 角張っていて白く、太陽の光に当てるキラキラと輝く結晶がある。よく見るとミントグリーンのような緑が差していて、誰が見ても「翡翠だ」と分かる代物だ。


 「これがキツネ石に変わっていたらさぞ驚くだろう」なんて考えながら、絶対に他の石と混ざらないようティッシュペーパーに包んで鞄の中にしまった。


* * *


 帰りの新幹線の中、駅弁を食べながらふとあの翡翠の事を思い出した。


(もしかしてキツネ石に変わっているのではなかろうか)


 そんな不安と期待が混じったような気持ちでティッシュペーパーの包みを開けるが、そこにはやはり白と緑が混じった翡翠があった。


(やはり『キツネ石おじさん』とは翡翠とキツネ石の判別が出来ないお人好しおじさんなのだ)


 噂は噂だ。少しがっかりしたような気持ちで帰路に着いた。


 休みが明け、大学が始まると暫く糸魚川へも足を運べなくなり、だんだんと「キツネ石おじさん」の存在も忘れていた。私の机の周りにはいつの間にか翡翠やキツネ石が鎮座し、わざわざそれを見に来た学生たちと石談義をするようになっていた。


「そういえば、教授が翡翠を拾い始めるきっかけって何だったんですか?」


 ある日、いつものように珈琲を飲みに来た石仲間の学生が唐突に尋ねた。


「ああ、沖君って知っているかい。彼に教えて貰ったんだよ」

「沖君?」


 学生は彼の名前を聞くと怪訝そうな顔をした。


「沖君って、あの沖君ですか?」

「うん?」

「石拾いをしていて波に攫われたっていう……。ほら、ニュースにもなっていたじゃないですか」


 そう言って学生はスマートフォンで調べた新聞社のネット記事を私に見せた。


 昨年の出来事だ。冬の波が高い日に、沖君は糸魚川へ翡翠を拾いに行った。波が高ければ高いほど、大きな翡翠が採れやすくなる。危険だが、海岸へ向かうハンターは少なくない。

 そこで彼は波に攫われた。近くで見ていた人によると波にのまれる直前、彼は手に大きな石を持っていたそうだ。「あの人、大きいのを採ったんだな」と思った瞬間、あっという間の出来事だったという。


「本当に沖君だったんですか?」


 学生は少し上ずった声で尋ねた。


「ああ。ああ、間違いない」


 ネット記事に掲載されている写真を見て何度も頷く。

 沖君が行方不明になった事は大学の石仲間の間で少しの間話題になっていたらしい。ただ、翡翠拾いをしていて高波にさらわれるというのはごく稀にある話らしく、そのうち話題に上らなくなったそうだ。


「多いという程ではないのですが、水難事故は珍しくないんです。翡翠を拾っているとどうしても意識がそちらに集中してしまうので、高波が来ても気付かない。そうして行方不明になってしまう人が過去にもいて」


 沖君もその一人だった。


「知らなかったよ。彼が……そうか」


 行方不明ゆえ、葬儀を出していないしまだ墓も無いらしい。ご家族は未だに糸魚川へ通っては彼を探しているのだと学生は語った。


 学生が帰った後、沖君から貰った翡翠を袋から取り出した。「翡翠は翡翠を呼ぶ」と聞いたのでお守り袋に入れて持ち歩いていたのだ。


「あれ」


 最初に見た時とどうも様子が違う。翡翠独特の輝きやつるつる感が消え、少し粉を吹いたような……そんな印象だ。


「石英だ」


 袋から転がり出たそれは、真っ白な石英だった。沖君は確かに「翡翠」だと言ってくれたはずだが。


『「見本になるからあげる」といって貰った翡翠を後で見返すとキツネ石に化けているって言うんです』


 そう言ってニヤニヤと笑う沖君の顔が頭に浮かぶ。


「まさか」


 あれは沖君自身の事を指していたのだろうか。


* * *


 日本海側なだけあって、冬の糸魚川は荒れる。海岸に打ち付ける波が高い日には、歴戦のハンターも海岸には近づかない。命あっての物種だ。


 高い波しぶきを上げるテトラポットを眺めながら、ヒスイ棒を片手に浜を歩いた。沖君は今もこの海のどこかに居る。


「おはようございます。今日は荒れてますねぇ」


 すれ違うハンター達に挨拶をしながら、大物の翡翠を狙う。

 浜を歩いていれば、いつかヒスイ棒を片手に浜を歩く沖君と再会できるのではないか。そんな気がするのだ。


『あれは良い翡翠を欲深い翡翠ハンターに自慢したいだけなのだろう』


 自分の口から出た言葉を思い出す。

 波に攫われる直前に沖君が拾い上げた、真っ白で大きな石。


「君は私に自慢したかったのか?」


 小さく呟いた独り言は誰の耳に届く事もなく、荒々しく打ち付ける日本海の荒波にあっという間にかき消されたのだった。


 

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糸魚川の怪談 スズシロ @hatopoppo

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