組長、クソ垂れ時の襲撃

脳幹 まこと

クソくらえ


 黄昏時たそがれどき

 拳銃の感触を背中に覚え、馬陸やすで組の組長は観念したように両手を上げた。

 この白髪の組長は暴虐の限りを尽くしてきた。男は殺し女は奪う。物品は売り払うか焼き尽くす。そんな野蛮な生活を繰り返し、気づけば組長の座まで乗っ取った。

 無論、彼の命を狙う者は星の数いた。しかし、厳重な警備体制と、彼自身の異常な防衛本能によってすべてかわしてきたのである。


 そんな彼がなぜこのような有り様になっているか。それは彼が年に一度の四月三日に必ず、わざわざ東京にある本部から四時間かけて僻地へきちにある具足ぐそく第三公園の公衆トイレに立ち寄って大便をすることが分かったためである。

 いつ来るのかは年によって違う。しかし、必ず一人でふらふらと男子トイレへと入っていくのだ。そして十分ほどしてしたり顔で本部に戻っていく。それを対抗組織の蜈蚣むかで組が探知したのである。長年に渡る執念の調査の賜物だった。


 そして今年、コートが欲しい肌寒さの四月三日の夕暮れ、具足第三公園に入った明らかにカタギでない初老の男の背中に、冷たく黒い棒が突きつけられたのだ。



「馬陸組組長、馬陸 下路次やすで げじじだな」

「――その声は蜈蚣の小倅こせがれの一匹か。大物でも差し向けるかと思ったが、存外にしけていやがる」


 下路次と呼ばれた男は、上げていた両手をおもむろに下ろす。葉巻を一本取り出し、火をつけた。

 この行為を質問への肯定と見なしたヒットマンは続けて告げた。


「遺言があったら聞こう」


 具足第三公園には人がめったに寄りつかない。田舎というのもあるが、長年野放し状態である点が大きい。草は茫々ぼうぼうで、遊具は錆つき、照明も点滅を繰り返す。

 その中にある小さいトイレに至っては落書きや煙草が散乱し、水道が辛うじて通っている程度の有り様である。和式の便器に溜まる水は赤黒く濁って、強いアンモニア臭を漂わせる。


 煙を吐き出して、下路次は言った。


「クソがしたい」

「ふざけてるのか?」

「こんな状態でふざけてどうする。どうせ死ぬならスッキリした状態でいたい、それだけのことだ」


 何の躊躇もなく、まるで当然かと言わんばかり言い放つ様に、ヒットマンは気圧けおされた。

 この男が大物であるのは間違いない。このふてぶてしさは常人のモノではない。だからこそ、命の危機とでも言うべき状態ですら、こういった態度が取れるのだ。


「お前がクソ溜まったまま火葬されたいキワモノなら話は別だがな」


 大して吸ってもいない葉巻をもみ消し、そのままトイレの個室に向かおうとする組長。「撃つなら撃てよ」と背中が語る。

 冷静になれ。呑まれてはいけない。いつでもれる。

 ヒットマンはそのように自分を律した。個室のカギがぎこちなく閉まった。


 小便、放屁の音が沈黙のトイレに木霊する――

 刺激臭を漂わせる個室に向けて、ヒットマンはずっと気になっていた問いを口に出した。


「どうして四月三日にここでクソをするんだ?」


 この習性は明らかにおかしい。あまりにおかしすぎて、これを最初に突き止めた蜈蚣組の調査員がずっと笑い物にされていたほどだ。三人目の証人が出たこと、そしてその人が発言力のある幹部だったことで、ようやくまともに受け取るに至ったのである。

 今の今ですら、本当は替え玉の類なのではないか、という疑念が消えない。それだけ馬陸 下路次という男は恐ろしい存在だった。武力を抱えつつも平穏を保っていた裏の世界を殺伐なものに変え、目的のためなら表の住人をも躊躇いなく犠牲にする。ご法度としたことを全て破ってきたような人物なのだ。


馬陸ウチ組員ガキどもにもよく訊かれる」


 下路次はふふ、と笑って、それから喋り出した。



 俺はガキん頃から、憂さ晴らしに息子ガキをぶん殴る父と、男をとっかえひっかえして俺を「失敗作」と呼んだ母に、毎日を込められてた。

 他の奴らが幼稚園行ってる間、毎日町中のジジババの家行って「お手伝い」して駄賃カネを貰ってな、一家の悪名が広がるたびに引っ越しだ。ここはその引っ越しの場所の一つさ。

 当時の俺は自分のことを「良い子」だと思ってたし、そうでなきゃいけないとも思った。両親が困るだろうからってな。

 ろくな服も着せてもらえないまま、また小遣い稼ぎさ。土下座して泣きついて大人の同情を買う。「自分は天涯孤独で、身寄りなんていない」なんて芝居まで打って、なんとか取り入ろうとしていた。

 ま、警察呼んだりされるのが大半で逃げるのがしばしばだったがな――


 そん時だよ、あいつに出会ったのは。

 小学校にも通えず、やむなくここでクソしてたところを、突然あいつに覗き込まれた。やられた時はそりゃ驚いて下脱いだまんま隅に逃げたさ。


 腰砕けになっている俺を見て、あいつはひたすらゲラゲラと笑った。


 そん時は三月の下旬で、地方の小学校は春休みだったらしくてな。

 そういうわけで平日の昼下がりでも学校に通ってる奴らにばったり会っちまったってことだ。

 クソを見られた後も、あいつは俺の後ろをついてくる。ゲラゲラ笑いながら、だがこちらが見ると「こっち見んな、うさぎ」とあざけってくる。

 あいつは事あるごとに俺を「兎」と呼んでバカにし続けた。理由は聞いてないが、大方縮こまってクソをしてる様子が兎みてえに見えたのだろうな。

 ほら、ガキによくいるだろう? 他人を見下せば自分の価値が上がると信じてやまない奴が。


 運が悪いことに、俺の家はあいつの近所だった。

 春休みの間、ネチネチと絡んでくる。もちろん、カネを稼がないと愛の鉄拳が待っている。しかし、いくら振り切ろうとしても捕まった。俺よりガタイが一回り大きかったからな。

 あいつからの暴力は怖くなかった。罵倒だって慣れてはいた。

 ただ、なぜか親にやられる時とは違う、どろどろとした感情があった。そいつはどんどん溜まっていった。



 その年の四月三日は月曜日で、新学期のはじまりの日だった。


 青い空、桜の木、ランドセルを背負った子供。

 俺はいつも通り、奴らが全員いなくなった後で演技をしに町に向かった。

 一人一人道行く人たちにすがりついて、なんとか食い扶持をもらえないかとお願いし続けた。

 子供心にもクソだと思う奴らばかりだったが、夕方までやり続けて、ようやく人の良さそうな爺さんから財布の中身を頂戴出来た。当時からすりゃ大金だったな。


 その帰り道は完全に浮かれててな、ようやく褒めてもらえると思ってたんだが――なんでかうちの前にな、あいつとさっきの爺さんがいるんだよ。理由はさっぱり分からんが、どこかで尾行されてたのだろうな。

 ともかく逃げた。逃げた先がなぜだかな、ここだったんだよ。


 個室に入るちょっと前に、慣れた手が頭に置かれた。「財布よこせ」だの「クズ野郎」だの声が聞こえてきた。あのゲラゲラ笑いも健在だ。


 このままいったら、おわるな・・・・・・・・・・・・・


 反射的にあいつの股間を蹴り上げていた。そん時のあいつは実に笑える間抜け顔してたな。

 そのまんま、あいつの首根っこを掴んで思い切り和式便器のクソひり出すとこに押し付けてやった。そのはずみであいつの鼻から血がこぼれたが、そんな程度では気が済まない。そのまま、そいつの後頭部めがけて全体重で踏みつけてやると、あいつ、物凄い声で叫んだんだ。

 その様子を見て、俺は無性に面白いと思った。人は踏みつけるとこんな音がするんだと。何度も試したらあいつはぐったりしたきり動かなくなった。


 俺はウズウズしたまま公園を出た。それからはあのウズウズを求めてガキから今まで変わらず悪行三昧だ。あの日、四月三日は俺の第二の誕生日と言ってもいい。だから俺は毎年ここに寄ってクソをする。

 その度に思い出せるのさ。名前も知らねえあいつの間抜け面と、踏みつけた時の音が――



 グプ、ゴポポ、グヌプポ。


 大便を洗浄するにはあまりに頼りない音が聞こえてきた。


 下路次の話を聞いてヒットマンは思った――奴は確実にここで仕留めなければならない。

 奴のイカれ具合は、想像をはるかに超えている。そんなこと・・・・・のためにわざわざ何十年も僻地のトイレに向かったというのか。話してはいなかったが、おそらくは組長になる前、裏の世界に足を踏み入れる前の時点から、ずっと、ずっと立ち寄ってきたのだろう。暴力の記憶を刻みつけるために。

 こんな化け物を野放しにしたら、馬陸組、蜈蚣組どころの話でない。どんな厄災を引き起こすことになるか、考えただけで震えてくる。

 個室のドアが開いたら、容赦なく弾丸をぶち込んでやろう。


 そういった考えを見透かしたかのように、ドア越しに低い声が聞こえてくる。


「おいおい、クソした手も洗わせてくれねえのか。随分とみみっちいモンだな。蜈蚣はそんな小物ばかりなのか」


 くだらない挑発だ。

 その程度で揺らぐような素人ではない。

 既に日は沈み、ただでさえ光の当たりが悪く、照明もつかないトイレは臭いも相まって不気味な闇の空間と化している。馬陸 下路次という男を象徴しているかのようだ。


「それじゃあ、開けるぜ」


 奴が銃器やドスといった凶器を持っていないとは思えない。

 初弾できっちりと仕留める。最悪相討ちでも構わない。


 ドアが勢いよく開いたと同時に、バンという破裂音が一回だけ鳴った。



 極限状態において、視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚の五感は冴えわたり、脳内は超高速で回転し、すべての動きはスローモーションになるという。


 その状態に達していたヒットマンは勝利を確信した。

 銃弾を放ったのは自分の方だ。奴は撃つことが出来なかった。

 発砲と同時に射線上から身も躱していた。


 完璧だった。そう思ったのだ。


 直後、スローモーションの状態で彼の視覚が捉えたものは――自分の眼前に散弾銃のように散らばって飛んでくる小さな球形の物体だった。

 これらは一体何なのだ。間違いなく銃弾ではない。研ぎ澄まされた聴覚ですら音を捉えることはなかった。

 そう分析しているうち、次の衝撃がやってくる。それは嗅覚だった。臭い。臭すぎる。

 トイレからほとばしるアンモニア臭ではない。まさか、これはまさか。


 兎の――兎のひり出すような――コロコロうんちではないか――


 ただでさえ、このトイレは狭い。ほんの少し身体を躱した程度では、十数粒はあろうかというコロコロうんちを回避しきることはできなかった。

 それ故にこのコロコロうんちの感触を、顔面の皮膚で味わうことになった。当人の意地の悪さはうんちであっても同じようだ。コロコロうんちは着弾と同時にべちゃりとへばりついた。

 更に運が悪いことにその一つが唇に触れてしまい、鋭敏となった味覚から強烈な生理的危機を知らせる信号が流れてくる。

 

 様々な衝撃が重なったヒットマンの思考は三秒間だけ虚無に還った。

 しまった、と思ったときには既に彼の腹に風穴が空いていた。初老とは思えない程の身体能力があったことも完全に想定外であった。


 二重の苦しみに悶絶するヒットマンをよそに、下路次は手洗い場で手を洗った。蛇口からは褐色の鉄臭い液体が垂れて、彼の手を清めていった。

 今年でここに立ち寄れるのも最後かもしれないな、とぼんやり思いつつ、組長はため息をついてこう呟いた。


「クソくらえ」

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組長、クソ垂れ時の襲撃 脳幹 まこと @ReviveSoul

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