でこぽん

香久山 ゆみ

でこぽん

「ええっ、この子に何か憑いてるということですか」

 母親が驚きの声を上げる。遊び疲れた幼女は、ファミレスのソファの上で母の膝に頭を載せてくうくう眠っている。こうして見ると、ふつうの女の子にしか見えない。しかし。

 俺に代わって、父親が神妙に頷く。なるほど、彼は娘に何か取り憑いていることに気付いていたから、成仏せずずっとそばにいたのか。

 昼間、動物園でトラに食われて、そのまま消滅したかと思われた父親は、事件のあとどこからともなくひょっこりまた姿を現した。それもそうか、現実のトラが幽霊に噛み付けるはずもない。擦り抜けるだけだ。

 同じくトラに食われた少年幽霊も戻ってきたが、彼はそのまますうっと成仏してしまった。檻から出してやりたいと訴えていた対象に、頭から喰われたのが余程ショックだったのだろう。

 それよりも、この女の子だ。

 日中はウン十年振りの動物園に浮かれて気付かなかったが、思い返せばおかしなところがいくつもあった。――一日の間に異様に伸びた髪。いくら足が速いからと、幼稚園児が中学男子に追いつけるだろうか。何より、彼女は

 生きている人間が幽霊に触れられるはずがないのだ。「パパ食べられちゃった」と言って、クスクス笑っていた様子を思い出し、背筋がぞっとする。嫌な予感がする。何かとてもまずいものに憑かれているのではないか。

「何か最近変わったことはありませんでしたか?」

「いえ、特には……」

 母親が困惑の表情を浮かべる。

 店員が食後のデザートとコーヒーを持ってきたが、誰も手を付けない。ミニパフェは、注文主が眠っている間にどんどん溶けていく。誰もいないはずの父親の席にも、ちゃっかり水が置かれたが、当然飲まれることなく水滴がテーブルの上を濡らしていくだけだ。

「人から恨みを買ったりだとか」

「まさか。幼稚園児ですよ!」

 だよな。母親自身にも心当たりはないし、最近周りで人が亡くなったということもないらしい。

 せめて何が憑いているのか分かれば、解決の糸口になるのだが。本人は大人たちの気も知らず、猫みたいに体を丸めて気持ち良さそうに眠っている。

「家に変なものを持ち込んだりは。……知らない人から何か貰ったとか、川原の石を拾って帰ったとか」

「ありません」

「では、何か神聖なものに触れたとか。ご神木を傷付けたとか、お地蔵を蹴飛ばしたとか」

「私が仕事で忙しいせいで、最近はどこにも連れて行ってやれていません。家と幼稚園の往復です。あとは、公園に立ち寄るくらいで」

 先日まで幽霊の父親とかけっこしていた公園か。

 ふと視線を遣ると、父親が頭の上で手をパタパタ動かしている。娘は寝ているのに、いい齢したおっさんが一人で手遊びか? いや、彼は至って真剣な面持ちだ。俺は視えるだけで、幽霊の声を聞くことはできない。だから、見えるものから汲み取るしかない。

 父親が頭から伸ばした掌を真剣に前後に動かす。

「ウサギ?」

 父親が首を横に振る。

 手を頭の上に付けたまま、口を尖らせる。どうやらアヒル口にしたいらしいが、ひょっとこにしか見えない。

「……へんたい……?」

 憤慨した父親がテーブルを叩く。テーブルの上のコップがカタカタ揺れる。ポルターガイスト?! と、視えない母親が慌てる。

 冷静を取り戻した父親は作戦を変えるようだ。握り拳にした右手を頬の横でごろごろ動かし、ぺろんと舌を出す。俺はぞっと身の毛がよだつが、なんとか堪える。分かった。

「猫だな?」

 正解! 父親霊がズームインポーズで喜色満面こちらに人差指を向ける。

「あ。猫なら心当たりがあります」

 母親が言う。

「公園に野良猫がいるみたいで、この子いつも木の上に向かってにゃあにゃあ話し掛けるんです。けれど、私は一度もその姿を見つけられなくて……」

 それか。父親にアイコンタクトを送ると、彼も頷く。

 窓の外はすっかり夜だが、今から公園に向かうことにした。

「あの……」

 母親がおずおずと質問する。

「この子に、猫の霊が憑いているっていうんですか?」

「ええ、たぶん」

「放っておくとどうなるんですか? 猫の耳が生えたり、しっぽが生えたりするんですか? 語尾がニャーになったりするんですか」

「分かりません。が、可能性はなくはない」

 さすがにそんなことはないと思うが、動物霊は初めてなので、どうなるのか見当もつかない。母親は少し考え込むようにしてから、思い切った様子で口を開いた。

「この子に猫耳としっぽが生えるとか、すごくかわいくないですかっ」

 目が爛々としている。まじだ。父親も満更でもなさそうな顔をしている。この人達、親馬鹿だ。

「……今は良くても、齢取ったら、猫ババアとかいって近所のガキにいじめられますよ」

 無視して席を立つと、彼らも少し残念そうな様子で席を立った。

 本当に、こんな冗談で済めばいいのだが。ミニパフェのてっぺんの季節外れのデコポンが、溶けたアイスクリームの中にずぶずぶと沈んでいった。


 夜の公園に着く。ひと気はない。

 母親から、娘がいつも見上げる木を確認する。眠ったままおんぶしていた幼女を近くのベンチに下ろし、母親とともに待機していてもらう。

 俺は、父親霊と二人でくだんの木を見上げる。

 しんとしている。

 じっと見上げるも、猫の姿は見えない。

「あの! 娘はいつも木の上に向かってニャアニャア話し掛けています!」

 動きがないのを見かねたのか、ベンチから母親が声を掛ける。

 ちらと父親を見る。

 彼も俺の方を見て、にこっと微笑み頷く。

 だよな。幽霊は声出ないもんな。ベンチを振り返ると、幼女はぐっすり寝ている。わざわざ起こすことではない。

 意を決して、樹上に向かって口を尖らせる。

「にゃ……、にゃあぁあ~……」

 変な裏声になってしまった。

「探偵さん! そんな小さな声じゃ猫ちゃんに聞こえませんよ!」

 ベンチから母親が発破を掛ける。めちゃくちゃ聞こえてんじゃねーか!

 わああ! 俺は羞恥に顔を覆って、公衆便所に駆け込んだ。

 やばいやばい、顔真っ赤だ。ばしゃばしゃと水で顔を洗う。

 これは仕事だ。鏡の中の俺に向かって言い聞かせる。恥ずかしいことじゃない。俺だって、小さい頃は猫好きでにゃーにゃー言ってたはずだ。幼心を取り戻せ!

 パンッ! と顔を叩いて、便所から出て、木の下に戻る。

 夫婦とも夜目にもにやにやしてるっぽいのがムカつく。一応母親に水を向けてみると、「あ、私視えないんで」とにべもない。

 無心だ。俺は猫だ。

 小さく息を吸って、吐き出す。

「ンミャーオ。ミャァーオ」

 探偵さんお上手! 秘したる特技ですね! ベンチより母親の合いの手が入る。外野の声を無視して鳴く。

「ミャーオ、ミャーオ」

 静かな夜に、おっさんの鳴き声が響く。頼む、早く出てきてくれ。

「ミャーオ、ミャーオ」

 暗闇に小さな光が見えた。猫の目だ。葉が茂る間からゆらりと姿を現す。漆黒の毛並み。すらりとしなやかな体だが、しっぽはケンカで切れたのか、パンダのしっぽみたいに短い。が、霊が視える者ならば、二又ふたまたに伸びているのが分かるだろう。

 トンと樹上より猫が降り立つ。

 警戒する様子もなく、近付いてくる。じっと俺を見つめてごろごろ鳴く。その瞳が、どことなく動物園での幼女に重なった。

「探偵さんに懐いているみたい」

 ベンチから移動して来た母親が言う。

 なんとなくこの猫に覚えがあるような気がしたが、思い出せない。気のせいかもしれない。

 目を覚ました女の子が、「ニャーちゃん、ニャーちゃん」と小さな手を伸ばすも、黒猫は見向きもしない。俺の足元にするりと身を絡めて離れない。

 女の子から猫の気配はもうすっかり消えている。

 ふと女の子が顔を上げ、きょろきょろ頭を動かす。

「どうした?」

「あれ? パパは? どこ行ったの。パパ、いない」

 不思議そうな表情、少し心許ない様子で女の子が言った。それを聞いた母親の方がいっそう不安げな顔をする。

 俺も驚いて顔を上げる。

 いる。

 さっきからずっと同じ場所に、猫を挟んで母娘の真正面に父親は立っている。じっと妻子を見つめている。俺に向かって口を開きかけたが、結局何も言わずに閉じた。ただ二人を見つめたまま、静かに微笑んだ。温かく慈愛に満ちた表情で。少し淋しそうな微笑を。

「いますよ」

 俺は、母娘に伝える。

「彼は、ずっとあなた達のそばにいて見守っています。いつも、いつまでも。あなた達の幸福を祈っています」

 母親はぐっと涙ぐんだが、泣かなかった。代わりに娘の手をぎゅっと握った。

 幼い娘はまだ理解できないようできょとんとしている。しかし、堂々とこう言った。

「うん。見えないけど、パパがいるのは分かるよ。だってパパ、わたしのこと大好きだもん」

 わたしもパパ大好き! と聞き終えぬうちに、見えないのをいいことに父親はおいおい号泣している。少しだけ、先程より姿が薄くなった気がする。

 いつの間にかアルタイルが南の空高く昇っている。すっかり遅くなってしまった。

 親子を自宅近くまで送って別れた。

 願わくば、今夜もう一晩だけでも家族がともに過ごせますように。マンションに並んで帰っていく三人の後姿を見送った。

 俺はたった一人、住宅街を帰路につく。家々からは夕餉を終えて食器を洗う音、テレビの音声、本読みする子供の声、いーち、にー、さーん、と風呂場で数をかぞえる親子の声、団欒の笑い声。静かな夜に包まれて、様々な家族の気配。独りの家に帰ることがほんの少しだけ寂しいと思われた。

 いや。

 今夜は一人ではなかった。公園からずっと、あの猫がついてくる。

「お前が憑いていたお蔭で、あの子は幽霊が視えていたんだな」

 気紛れに話し掛ける。

「ニャー」

 こいつも律儀に返事してくれる。イエスかノーかは不明だが。俺には幽霊の言葉も、猫の言葉も分からない。

「もしかして、あの子が父親に会えるように、力を貸してやってたのか?」

「ニャー」

 猫の真意は分からないが、結果、父娘は一緒に動物園へ遊びに行くことまでできたのだ。

「あ、待てよ。そういえば……、動物園でトラの檻を開けたのもお前か?」

 立ち止まって猫を睨めつける。猫も立ち止まるが、聞いているのだかいないのだか、後ろ足で器用に首筋を掻いている。

 まあ、いいか。この猫からはさほど不穏な感じはしない。(といっても、猫の倫理観は分からんが。)きっと、幼女の無邪気さと猫の気紛れによって引き起こされたハプニングだったのだろう。

 俺が歩き始めると、猫もまたゆっくりついてくる。

「お前、どこまでついてくるんだ」

「ニャー」

「うちまで来る気か?」

「ニャー!」


 夏の終わり、俺の事務所に小さな同居者が一匹増えた。

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