放火事件

 火事が起きたと聞いた朝、正直何をしていたか覚えていない。

 その日は普通に仕事に行っていたはずで、何事もなく家に帰ってきていたと思うが、気付いたらベッドの中にいた。おそらく何の異常もなかったはずだ。

 寝たかも覚えていない。だが夢を見ていたような気がしていた。彼女と一緒に同棲していたころの夢だ。


 半年前まで僕は彼女と一緒に暮らしていた。僕の仕事が辛くなり、何もかも嫌になって一人暮らしをしたいと告げた。彼女の意見はなにも聞かず、ほぼ一方的に家を出てしまった。その日から交際しているかも曖昧で、でも完全に切れたわけでもなく、でもお互いに連絡はなく、それでも普通に日常が過ぎていった。

 その時の夢を見た。僕が泣いている彼女を振り払って家を出ていったあの日の夢だった。

 ここ最近ずっと、そんな夢を見ていた。


 すごく寝覚めが悪い。ちゃんと寝れた気もしなかった。アラームが鳴る前に目が覚め、のそのそと起き上がった。

 あの事件から今日で一週間くらい経っていた。ぼう、っとしつつ、仕事のために朝支度をしていると、自分のスマホから突然着信音が鳴った。慌てて手に取ると、友人の雄也からだった。

「もしもし」

「あぁ直人突然悪い、ニュース見て不安になってな……大丈夫か?」

「大丈夫、ってなにがだよ」

「おいあの事知らないわけないだろ?火事のことだよ」

 火事、ときいて身体が固まる。思考を振り払い、平静を装う。

「……あー聞いた気もする」

「おまえ本当大丈夫か? 絶対わかってるだろ。ていうか聞いたか、あれ放火らしいぞ」

「放火?」

「ニュースでやってた。だから、その、アイツ、そのせいで」

 沈黙が流れる。電話の先で雄也が慌てているのを感じた。

「いや、悪い。まあでも、何だ。あまり思い詰めすぎんなよとだけ言いたくてな。マジで、お前何回電話かけてもかからなかったから余計心配で」

 そう言われて着信履歴を見ると、雄也からの着信が今日、昨日、一昨日、その前の日から……とびっちりと埋まっていた。なんで今まで気付かなかったんだと自分でも引くくらいの履歴だ。

「うわ……ほんとだな、なんかマジで悪いな」

「なんかあったらすぐ言えよな」

 ありがとう、と言い通話を終えた。

 なんだか呆けた気分のまま、ジャケットを羽織り玄関を出ていく。ポストを開けると一通の手紙が入っていたが、中身は見ずにぐしゃりと胸ポケットに入れた。なんだか見てはいけない気がした。思考を消すように僕は早足で駅へと向かった。


 その日は晴れやかな天気で、仕事の調子もすこぶる良かった。いつもは機嫌の悪い課長も表情が明るかった。どうやら今週の業績がとても良かったらしい。なんだか薄気味悪いが、無駄にいびられずに済むのでよしとする。

 廊下でベンチに座り、ささやかな昼休憩中にぼうっと天井を見つめていた。その時、頬にひやっとした感触が急に僕を襲った。小さく悲鳴をあげる。

「おつかれ」

 同期の山川がそう言いながら缶コーヒーを僕の頬に当てていた。

 驚く僕をみてくすくすと笑いながら、山川は腰まである長い髪をなびかせた。頬に当てられたコーヒーを手渡してくる。

「なんで寒いのに冷たいやつなんだよ。でもありがとう」

「その方が目が覚めるかなと思って」

「もう覚めてるけど。お昼過ぎだぞ」

「本当かなぁ。なんだか今日上の空だったけど。まあ今日も、か」

 馬鹿にするように山川がニコリと笑う。

「何だよそれ」

「いやいや。心配なだけよ。佐々木くん、ここ最近ずっとぼーっとしてる気がするから」

 朝の雄也と同じようなことを言う。僕は少しだけ動揺した。

「そんな事ないと思うけど……」

「まあ、今度またみんなで飲みに行こ。そん時に色々聞いてあげるよ。なんかあるでしょ?」

「ねーよ。まあ……飲みには行く」

 満足そうに微笑んだ山川は、じゃあねとデスクを離れていった。何しに来たんだ。

 でも……。

 そんなにぼーっとしているんだろうか。

 ふと今朝の手紙のことを思い出し、胸ポケットから封筒を手に取る。宛名はやはり彼女の苗字だった。きっと親族の方だろう。

 僕は立ち上がり、それを不要な書類と一緒にシュレッダーにかけた。シュレッダーの中の紙屑を処理した後、僕は午後の仕事に向かうためデスクへと戻った。


 なんだか一日、一日が早く過ぎているのを感じる。朝起きて仕事に行って長い時間働いていたはずなのに、気付いたらベッドの上でダラダラしている。そんな毎日だった。

 TwitterとインスタとLINEをずっと行き来し、特に面白みのない投稿を見てはいいねボタンを押した。時々返ってくる雄也からの連絡に適当に返信をする。大体が僕の体調の心配をしてくれている内容だ。

「元気だっつの。なあ」

 ふと誰かに話すように言葉が出る。別に誰もいないのに、返事が返ってくるのを待った。

 何を待ってんだ、僕。

 スマホを充電器に挿し、布団に潜り込んだ。

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夢の中で 櫻崎 @Ivy-Book

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