思い出の君
かなぶん
思い出の君
渡された手紙に書かれていたその名。
目でなぞっただけでも高鳴る胸に、まだ想いが続いていることを知る。
こんなにも心が揺り動かされたのは久しぶりだった。
堪えきれず手紙を胸に抱きしめ、思い返すのは、封じた過去。
助けという言葉さえ知らず、全てを諦めていたあの日――。
始まりは憶えていない。
きっかけがあったのかさえわからない。
ただ、長く続いていたことだけは確か。
だからこそ、当たり前のように覆ってきた影を拒んだ時、飛んできた平手を受けて思ったのだ。
ああ、自分はなんて愚かなことをしたのだろう、と。
拒みさえしなければ、こんな痛みを受けることもなかったのに、と。
真に愚かなのは平手をしてきた影だというのに、自分を責め、自分を蔑み――だからこんな目に遭うのは仕方がないと、這わされる熱が過ぎるのを待つ。
それが「日常」のことで、「役割」なのだと思いながら。
――だがその日、「日常」は「異常」に、「役割」は「被害」に変わった。
薄暗い部屋の高い窓が割れ、狼狽え走り去った影と入れ違いに、光と共に降り立った少年によって。
「ここが、大神殿」
昼過ぎ、馬車から降り立った少女は目の前の白亜の建造物を仰ぎ見た。
青空に浮かぶ雲さえ霞む、荘厳な佇まい。
慣れない者なら気圧されるばかりの大神殿を前に、しかし少女は期待に目を輝かせると、御者から鞄を受け取った。
「お嬢様……」
神妙な顔の御者へは笑顔で手を振り、
「やはり、せめてお部屋までお持ちした方が」
「いいから! これくらい大丈夫だって。自分で持てる分だけなんだから」
「ですが」
「こんなところでやり取りしている方が悪目立ちするでしょう? ほら!」
ぐずぐずする御者の背中をポンポン叩いて宥めつつ、ついでに馬にもご挨拶。
「お前たちも、元気でね。彼をちゃんと送り届けてあげるんだよ」
「お嬢様ぁ……ぁああああああああっっ!?」
御者よりも聞き分けの良い馬たちは、返事代わりにいななくと、手綱の動きを待たずに走り出した。急な動きに振り落とされそうなものだが、そこは長年御者を勤めてきただけあって、すぐに体勢を取り戻した手が遠くで振られる。
その姿が見えなくなるまで見送った少女は、大きく息を吐く。
(まあ、仕方ないか。今生の別れでもないのに大袈裟な、なんて言えないからね)
ぎゅっと胸に引き寄せて握りしめた拳の中には、白い封筒がある。
大神殿のものと一目でわかる意匠が施された手紙が。
これまでの身分を捨て、大神殿に仕えることを記したソレは、誰あろう、少女の父からもたらされたものだった。
――結婚が嫌だというのなら丁度いい職がある。
直前までどういう会話をしていたのかはすっかり忘れてしまったが、そんな言葉と共に少女の父が渡してきたのは件の封筒。
正直に言うと、結婚が嫌と思ったことは一度もない。なんならこれまで父との会話の中で、話題に上げたことすらなかった。
ただ、結婚には嫌と明言できるほどの思い入れもなかっただけ。
そんな諸々を汲んだがゆえの、諦めのため息交じりの申し出に、少女は最初、父を不思議そうに見るだけだったが、手紙を読んで目を丸くした。
一人娘である以上、いつかは継ぐものと思っていた爵位を放棄し、大神殿に仕えること――ともすれば、結婚適齢期を前に勘当を言い渡されたに等しい内容にまず驚き、そして、仕える相手を知って更に驚いた。
――大神殿が擁する、神の寵愛の具現化と称される、神子。
それは少女にとって思い出深い存在であり、二つ返事で父と大神殿からの申し出を受けるに十分な理由となった。
(久しぶり……で、わかるかな? 私のこと、憶えているかな?)
大神殿の入り口で手紙を提示し、これから自室として使う部屋に案内された少女は、侍女服に着替えつつ、期待と不安の入り交じった顔をしていた。
神子と出会ったのは今から十年も前のこと。
それからゆえあって、しばらくの間寝食を共にしていた神子は、その役目のために大神殿へ住まいを移す。
劇的だった出会いとは違い、別れは驚くほどあっさりしたものだが。
(……元気、だったよね、きっと)
まずはその姿が見たい。
声を聞きたい。
できれば、笑っていて欲しい。
少女の願いは尽きるところを知らず、この日のために一人で着用できるよう練習した侍女服のスカートをひらめかせながら、これから仕える主の下へ向かう。
(確かこの時間は、中庭の東屋で休んでいるんだっけ)
今日はご挨拶だけで良いでしょう――そう言って案内役だという司祭から渡された簡易的な地図を頼りに、不慣れな廊下を歩いていく。
雨風除けの祝福が施された大神殿内部は、ところどころ自然光を取り入れる造りになっており、人々の憩いの場である大神殿そのままに、薄暗さは感じられない。その一方で、地図に書かれた通り奥へ向かえば向かうほど、人通りが少なくなっていることに気づく。
すでに大神殿の関係者以外立ち入り禁止の区域に入っているのだから、当然と言えば当然かもしれないが、造りが一々広さを求める分、空間が寒々しい。
思わず自分の身体を抱くように腕を回したなら、耳に笑い声が聞こえてきた。
一瞬、幻聴かよからぬ存在を思い浮かべかけたが、すぐに違うと知った。
(なんだろう、あれ……)
話に聞いた中庭と思しき場所に出たなら、笑い声の主たちがお茶会をしていた。
奥にある東屋を囲うようにテーブルと椅子が配置され、お茶やお菓子が景色と香りに彩りを添えている。
しかし、可愛らしくセッティングされた場所には誰も見向きもせず、司祭と思しき若い娘たちは東屋で誰かの話を聞いている真っ最中らしい。
一幅の絵画のような光景を前にして、少女はしばし魅入る。
が、彼女たちを周りに侍らせた相手と目が合ったなら――。
(……ん? あれ? もしかして……まさか?)
見慣れない姿から自分の侍女であることを察したのだろう、優雅に近づいてきたその姿に、少女は何度も目を瞬かせた。
「神子様……ですか?」
信じられないと面持ちでそう尋ねたなら、ふんわり微笑んだその人は言う。
「初めまして。クリスの妹ですね」
「あ…………はい、初めまして」
きっと周りの若い司祭たちには、あまりの美しさに魅了されてしまったとでも思われたことだろう。だがその実、少女は的中した予感に人知れず、ダラダラと汗をかいていた。
――やってしまった。
最初に浮かんだのは、そんな言葉だった。
向かってきたボールをただ蹴っただけなのに、子どもの足から出たとは思えないスピードで舞い上がった球体は、吸い込まれるように高い塔の窓をぶち破った。
「く、クリス! ヤバくね? あれ!」
「言われなくてもわかってる! お前らはとりあえず散れ!」
その場にいた全員が全員、こんなことになるとは思っていなかったためか、囃し立てる声は誰からも聞こえず、それに余計危機感を煽られて、ボールを蹴り上げた子ども・クリスは駆けだした。
良い感じの当たりに喜んだ分、あの窓の先に誰もいないことを祈りつつ、高い塔の持ち主にバレる前に辿り着かなければと目測する。
(あれくらいなら……いける!)
日々、木登りだけでは飽き足らず、細い枝を器用に渡って樹上を征くクリスにとって、厳めしいだけの石造のでこぼこした壁は、登るには何の障害にもならない。
あれよあれよと窓まで到達しては、自分の影と共に差し込まれた光から、床までの距離を測って躊躇なく飛び込み、着地。
(良かった、あった!)
すぐに見つかったボールに顔を輝かせては、さっさと拾って逃げるべく、光の中から暗がりへ両手を伸ばして近づいていく。
クリスの頭の中は、証拠のボールさえ回収すれば誰も自分たちを追求できないだろうという、子どもの発想ながら、非常に狡い考えでいっぱいだった。
だからだろうか。
「いやっ!?」
「!?」
ボール方向からの甲高い声に、心臓が大きく跳ねた。
一瞬、ほんの一瞬だけ、(ぼ、ボールが喋った!?)と混乱したが、目をこらせばすぐに違うと気づいた。
小さく華奢な身体を更に縮こまらせ、カタカタ震えながら怯えた目でこちらを見ている少女。影の中でも淡く光を反射する髪は長く、服なのか布なのかわからないものに包まれた身体には、ところどころ傷がついているようだった。
「げっ!? もしかして怪我させた!?」
振り返れば散乱した窓の破片がある。
壁際にいる少女のところまで届くほどではなさそうだが、そんなこと、落ち着いている状態でなければわからず、窓を壊した手前、余裕のないクリスは慌てて少女の前に跪いた。突然の行動に大きく震えた少女の大きな瞳から涙が零れたなら、余計にクリスは青ざめる。
「だ、大丈夫か? どこか痛む? 簡単な手当ぐらいならできるんだけど……。もしもそれより酷そうなら、近くにオレの伯父上がいるから――そうだ! これから呼んでくるから、ちょっと待っ――うわっ!!?」
怪我人がいる以上、窓を割って怒られるのは二の次だ。
そう思って窓から外へ助けを呼びに行こうとしたなら、細い腕が伸ばされ、胴体にしがみついてきた。
(コイツ、思ったより力があるな……! けど、力の割に小さすぎる……)
ただ引き留めるというよりも、縋るようなしがみつき。
肩に埋められたせいで顔は見えないが、不規則な揺れと滲む感触に、泣いているのだと察するのは難しいことではなかった。それでも嗚咽を堪える泣き方は、よく笑いよく泣き、よく怒る自分や仲間たちにはないものでクリスは眉を寄せた。
(なんでこんな泣き方……。でもまあ、これだけ動けるのなら、とりあえずヤバそうな怪我はなさそうだ)
出会ったばかりのヤツをすぐに理解できるわけがない。
早々に深く考えることは止め、自分が今わかることだけに安堵を得つつ、しがみつく背中に触れる。それだけで大きく揺れる身体に、(自分からしがみついてきたくせに、なんなんだよ)と思いながらも、あやすように叩き、撫でてやる。
「悪かった悪かった。ビックリさせたよな」
かける言葉もあまりなく、手持ち無沙汰に周囲を見渡す。
(コイツの部屋……ってわけでもなさそうだ。どっちかってーと、物置小屋? その割には荷物があんまりねぇけど)
内装に興味があるタイプでもないが、そんな感想を抱いていれば、窓の外が騒がしくなってきた。
(……まずい。誰かとっ捕まったか。アレンならまだいいが、大人は冗談通じねぇからな。身分だの何だの、ウダウダとめんどくせぇこと言いやがる。せめて捕まったのが伯父上なら、他のヤツらも面倒に巻き込まれないんだが……ん?)
従兄弟のアレン含む仲間たちの安否を気にしていたなら、騒がしかった音が別方向からも聞こえてきた。そこで薄暗い中、ぽっかり開け放たれたままだった扉に今頃気づいたクリスは、音が外から中へ、段々とこちらへ近づいているのを聞く。
しかも何やら、「いけません!」だの「いかに公爵様と言えど、これ以上は」だの聞こえてきたなら、誰が来るのかを知った。
程なく、
「……これは、どういう状況だ、クリス?」
「ども、伯父上。窓を割ったのはご想像通り私ですが、それ以外はさっぱりです」
少女にしがみつかれたままでは隠れることもできず、伯父に叱られることを覚悟したクリスは、引き攣った愛想笑いで従兄弟の父である公爵へ肩をすくめてみせた。
だがあの日、伯父に叱られることはなく、それどころか初めて褒められた。
当時はあまり理解していなかったが、後にそれとなく知ったのは、あまり知りたくはない内実。
聖職者の一族に産まれた特別な少女は、両親の死と共に一族の中でも権威ある者に引き取られ、その手厚い庇護の下、健やかに過ごしている――と長年思われていた。いや、そう信じられていた。
一国に収まらない聖職者という肩書きゆえに、ほとんどの者が身を守るための不自由以外、少女は自由だと疑わず、その特別さゆえに、一族の中でも限られた者しか少女と会えないとしても、その平穏は不変と思い込んでいた。
それなのに――やはり少女のため広く公にはされなかったものの――明らかになった事実は、惨たらしい有様だったという。
名ばかりの庇護下での生活実態は言わずもがな、流行病とされていた両親の死さえ、掘り起こせば出てくる疑惑の数々。
伯父は元々、少女を引き取った男への心象があまりよくなかったらしい。
どうよくなかったかの詳細を聞いたことはなかったが、身内であるはずの少女への仕打ちを思えば、ろくでもなかったことだけは容易に想像できた。
しかし、先に述べた通り、相手は国すら及び腰になる聖職者の由緒ある家系。領地にいようとも、聖職者の身分を盾にされては、自身も敬虔な信者である伯父には疑いだけで手出しできるものではなかった。
何か一つだけでも、綻びを見つけられたなら。
激務の合間も絶えず目を光らせていたらしいのだが、それがまさか、常日頃から手を焼いていた、いたずらっ子からもたらされるとは夢にも思っていなかったようだ。
そして始まった、クリスと少女との束の間の生活。
閉じた世界で歪んだ思惑に晒され続けていた傷は深いものであったが、徐々に自然な笑顔や、思いを伝える口が取り戻されていったなら、誰もが少女を好きになった。
ただ、恋心まで発展するのは稀で、そこから告白まで至った者はいなかった。
なにせ、少女の隣にはいつもクリスがいて、他の入り込む余地がなかったのだ。
少女が――神子が大神殿に住まいを移すその日まで、二人はいつも一緒にいた。
(ああ、でも、そう言えば、湯浴みの時は別だったっけ。……こういうことか)
久しぶりに会った神子を前に、感動の再会がすっかり消し飛んでしまった侍女は、部屋に戻った己の主を改めて見た。
思い出の「クリス」について熱弁を振るう神子は、「初めて会った妹」の前でもお構いなしに、当時の秘めていたらしき想いを長々語っているのだが。
あの頃と変わらない艶やかな長い髪、成長して増す一方の美貌は、まあ想像通りだったとして――首元から覗く喉のでっぱりや広い肩幅、太い骨格は、つまり……。
(女の子だと……可愛らしい子だとずっと思っていたのに。まさか、彼女が男だったなんて……!)
走馬灯のように巡るのは、自分が彼女――彼にしてきた数々の行為。
自分の着ないドレスを着せ、したことのない化粧を施し、思った通り、自分以上に可愛らしく仕上がった彼の姿に喜んでは、彼もまた、満更でもない様子だったのに。
だからこそ、大神殿で神子に仕えると聞いた時、親友と会えると喜んでいたのに。
(しかも部屋に戻ってからずっとこの調子……。いや、薄々気づいてはいたけど。確かにあの頃の私は、女の子にモテていた自覚もあるけど……。でも、まさか)
――男だった神子もまた、「クリス」を男と勘違いし、なおかつ惚れていたとは。
幼い頃の愛称「クリス」――本名「クリスティナ」は、複雑な心境になりながらも決意する。
黙っておこう、と。
男の「クリス」が好きならそれでいいじゃないか。
どの道、神子は男にせよ女にせよ、生涯伴侶を持つことはない。
――ならば。
幼い頃、神子の変化を間近で見てきたクリスティナは、せっかく育まれたその想いが崩れてしまうことを恐れ、神子の侍女の他「クリスの妹」という役割に徹し抜くことを誓う。
自分こそが「クリス」だという事実を秘密にして。
思い出の君 かなぶん @kana_bunbun
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