それはどこまでも青い空

サクラクロニクル

おそらく、たったひとりの

 モノクロームでも空が晴れているかどうかはわかる。寒風を頬に受けながら、陰影のついた空を詩乃しのはずっと眺めていた。ところどころに雲があるということがわかる。それでも端末に表示される天気の判定は快晴だった。空を占める雲の割合が一割未満のとき、それは快晴だと判断される。天気アプリにそれほど高い正確性がないことなどわかっていた。すこし考えればいいだけのことだ。自分の見ている空をスキャンしてくれるわけじゃない。この街のどこかで空をみあげるひとつの機械の視点に立たなければ快晴の快晴たるゆえんなどわからない。

 待ち合わせの時間まであと五分ある。でも、遠くに治奈はるなの姿が見えた。二〇年代前半の地雷系ファッションを決めた少女。すべてがグレースケールでも問題のない見た目。なにか起きるとすれば、それは詩乃が物事に差別的な視線を向けるときくらいだろう。

 治奈は目の前までくると、前髪で隠れていた片目をさらけだしてこちらのことをまっすぐに見た。進路の問題で別々の大学にかようことになってしまったけれど、その仕草は高校のころとなんにも変わっていない。

「待たせちゃってごめんね、詩乃ちゃん」

 左右の瞳がどちらも視界のなかに入っている。なのにどちらもおなじように見えた。明るい色だ。おそらくは。

「ぜんぜん待ってないから、気にしなくていいよ」

 文字にすればなんの違和感もないけれど、詩乃の言葉遣いはどこか歪んでいる。自分ではそう思っている。ボイスメモに登録した自分の声を聞けばわかる。関西風のしゃべり方をしている。でも、いくらがんばっても修正できなかった。詩乃はそれを自分自身の限界と見切りをつけた。タイムパフォーマンスが低い。だから彼女の関西風標準語はいまでもファジーに歪んでいた。

「うそつき」

 そういって治奈は笑う。ひまわりのような笑顔だ。こんな定型的な表現が完璧に似合うひとは他に見たことがない。そう意識すると詩乃の頭は痛んだ。その痛みの理由を深く考えたくない。彼女の指が触れる頭の一部分には、いまでもはっきりと手術の痕が残っていた。


 一髪千鈞いっぱつせんきんという言葉がある。一本の髪の毛で千鈞を支える危険な状況または行為のことを指す。一鈞は三〇斤のことを指し、一斤については時代によって重量が異なる。語が成立したころの値を使うとなかなか面倒なことになるので、現代において使われている一斤六〇〇グラムという計算を採用すると、一髪が支えなければならない重量は一八トンだ。髪の毛の一般的な耐荷重量はせいぜい一五〇グラムなので危険とかいうレベルではない。

 その千鈞に匹敵する重量を持つものといえば車両総重量が二五トンまでと法律で決められている大型トラックがある。

 詩乃の記憶にあるかぎり、彼女はそれとギリギリのところで接触したことがある。当たった場所は頭だ。危機一髪は髪の毛一本ぶんで回避したときに使える言葉だが、実際は逆で一本分ぶんだけぶつかってしまった。その結果どうなったかというのは推して知るべしというところだ。そのときに手を引いて被害を軽減させてくれたのが隣にいてくれる治奈。おそらく。

 こんなに頼りないのは彼女にそのときの記憶がほとんど残っていないからだ。彼女の頭のなかにはフルカラーの世界とグレースケールの世界のふたつが保存されている。その境目がひどくあいまいで、しかもフルカラーの世界はところどころが欠けていた。

「手、にぎってもいいかな」

「許可なんていらないよ」

 治奈は大胆なファッションセンスをしていると思うけれど、中身はひどく内向的で臆病だ。慎重といってあげたほうがいいか。そんな彼女だからたかが手をにぎる程度のことにすら許可を取ったりする。

 詩乃は治奈のことをカノジョだと思っている。男女関係を示す彼氏彼女のカノジョだ。今日こんにち的にいえばパートナーのほうが妥当かもしれないが、そんな表現は配慮とかいうものがなければ生きていけない世界に住んでいる意識だけが高い人間どもがやればいい。

 にぎりしめるとあたたかった。それは詩乃が冷めていることを示している。

 なんだか違う。

 なぜだか詩乃はそう思ってしまう。

 週末ごと、ふたりはかつてフルカラーだった小田急線沿線の駅をひとつずつめぐるという行為をくりかえしている。その旅費はアルバイトで得た収入から出していた。詩乃の実家は太かったが、なぜか奨学金で借りさせられているし、独り暮らしを強制された。女の子にそんなことする親いるか? 普通は心配だから実家にいろっていうものではないのか? だが詩乃の両親は独立独歩を重んじる先進的思想の持ち主で、義務教育ではない高校のころから詩乃は奨学金漬けにされていた。世界がまだフルカラーだったころ、詩乃はそんな自分の境遇に疑問を抱かないほどに幸福だったともいえるかもしれない。

 その日の昼食は町田でマックだった。その日選ばれた店舗はいつもおなじだ。別に世界で一番おいしいから選んでいるわけではない。習慣だった。ビックマックをラップで注文しておなかを満たすのが詩乃のやりかただったらしい。

「いつもいっぱい食べるよね」

 治奈がきらきらと笑う。彼女がいつもどおりフィレオフィッシュをちまちまとかじっていた。

「食べないとやってられんところもあるからね」

 ポテトを高速で口に運びながら詩乃は笑ってみせた。そうしたはずだけど、もし写真を撮られたら、どれが笑顔でしょうクイズに不正解を叩きだす自信があった。つまり、彼女は笑顔をという造花をつくるのが下手だった。

 町田はぐちゃぐちゃなところ、というのが詩乃の印象だった。駅周辺にビルが密集しており、そこから離れると一気にすかすかな土地が広がっている。高校時代はここが彼女たちにとっての都会だったらしい。まあそうかもしれない。余計なところにいかなければこの過密な感じが気分を高揚させてくれそうだ。いまではひとが多すぎることばかりが気になって、詩乃は縫い目を探すように人間と人間の隙間を治奈といっしょに歩き回った。

 その日も成果はなかった。

「おつかれさま、詩乃ちゃん」

 帰りの電車のなかで、ふたりは大量の人間に挟まれながら寄り添う。

「そっちこそおつかれさま」

「ううん。わたしはだいじょうぶ。詩乃ちゃんといっしょだから」

 ひまわりが咲く。ひまわりは東に向く。そんなことを思った。それはゲームの仕様だったな、と思いながら、詩乃は治奈の肩に自分の身をあずけた。


 一〇項目の出費を自力で捻出しなければならない詩乃は、割と過酷な生活を送っているかもしれない。でも彼女にはいくつもの幸福があった。死ぬような事故からすくってくれる相手がいることもそうかもしれないが、ショートスリーパーでなおかつプログラムとゲームに詳しいというのが生きるうえで非常に役に立った。秘密保持契約のせいでこのアルバイトについて治奈に話せないのを除けば、彼女はまあまあ幸せな生活を営んでいると思われる。大学生活との両輪はなかなかの骨だが、まあいい、と詩乃は思ってる。

 どうせこれはおまけだからね。

 彼女は自分のてのひらをなぞりながら治奈のことを想う夜をすごす。

 どうしてだろう。

 どうしてうちは、治奈のことをこんなにも愛せないのだろうか、と。


 その破綻は、詩乃が思っていたよりもずっと早くやってきた。詩乃のなかで、治奈とわかれるときがくるとすれば自分が社会人になったときのことで、社会人というのは大学を卒業して企業に就職した状態を定義としていたから、あと二年くらいはもつのではないかという気がしていた。

 だけどそれは、単に詩乃にとって都合がいい状況を夢想していただけにすぎなかった。彼女は治奈の都合をまるで考えていなかった。

 いつもの場所で待ち合わせをする。ふたりの最寄り駅で時間をつぶす。

 治奈が時間になっても来ない。

 連絡もなかった。

 詩乃は三〇秒で走り始めた。走りながら遅すぎたと思っていた。五分三〇秒前に走りだせたことを公開していた。

 その日の天気は快晴。詩乃の目には空が映らない。だから彼女は頭上に雲がひとつもない状況に気づかなかった。

 合鍵を使って部屋に入る。音楽が聞こえる。夢に咲く花という、すでに解散したバンドの曲が聞こえていた。治奈の好きな曲だった。

 治奈は真っ白なシーツのうえで血まみれになって横たわっていた。

「……………………」

 なにかいいたい。気の利いたことを。でもなにもいえなかった。大量の三点リーダ…………………………が頭のなかに浮かびあがる。それがいまもっとも気の利いた台詞だった。

 詩乃の理性は、ただちに救急車を呼べといっている。けれどしなかった。

 治奈は自分の手首を縦に引き裂いている。らしいやりかただ。

 寝息が聞こえる。

 机のうえには薬の残骸が大量に転がっていた。クエチアピンとフルニトラゼパムだった。前者は鎮静剤で、後者は睡眠薬だ。薬には処方してよい上限が決められている。それをはるかに超える量がそこにあった。考えられるのは、これらが計画的に集められたということだ。メンタルクリニックをはしごするような危険をやりとおさなくても、ただ飲まずにとっておくだけで量を確保することはできる。絶対にやってはいけないことだが、薬本体を監視することができない以上、いまの社会ではどうあがいても阻止することができない死角だともいえた。

 その横に、いくらかの写真が置かれている。それと手紙。

 手紙?

 紙には「ごめんなさい」とだけ書かれていた。

 写真にはふたりの少女に囲まれた過去の詩乃が映っている。

「…………せやったんか」

 ようやくいえたことがそれかよ。詩乃は自分のことが嫌になった。

 フルカラーを知っている詩乃は、モノクロームでは色の識別ができないと思っていた。でもそれが何色であるかのヒントはある。輝度だ。

 詩乃の右側には、地雷系ファッションで固めてる、まるで電飾みたいに笑う派手な少女がいた。両方の瞳の色がまるで違う。輝度の違いでそれがわかる。

 もうひとりはブレザーを着た、控えめに笑う女の子。瞳の色の違いがわからない。おそらく、治奈だった。

 よわよわしく息をする治奈の手をにぎる。

 違うことの意味がようやくわかった。そしてどうしてそれを治奈が隠し続けていたのかも。どうしてどうしていまになって治奈がこんなことをしたのかも。

 詩乃はどれくらいの錠剤をカノジョが飲んだのか調べてから、独り暮らしの家のベランダに出た。理論上、死にはしないだろう。まだ。出血も、まあ見た目ほどたいしたことはないだろう。たぶん。わからない。わかるはずがない。詩乃は別に医者でもなんでもないのだから。

 詩乃は手のなかに一葉の写真をおさめている。

 治奈と、詩乃と、知らないだれか。

 知らないだれかはどこにいったんだろうな。

 空を見あげて、写真と見比べる。

 濃淡の差がはっきりしない、べったりとした空。

 いま自分の頭上に広がっているのも同じだった。

 きっとそれはどこまでも青い青い空なんだろう。

 詩乃はスマホの連絡先のなかにある、治奈とおなじ苗字の他人のデータを消した。それからねむりつづける少女のくちびるに自分のものを重ね合わせる。

 今度はうちが助けたればええんやろ。

 だいじょうぶや。

 こいつは自分の生き死にを天に任せるほど弱いやつとちゃう。

 詩乃は模範的な119を済ませると、すっかり冷め果てた治奈の手をにぎりしめた。

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