おかみ

おかみの事情

 旅館でのいつもの朝だった。あの先生が来るまでは。

 原稿ができたと連絡してきた特異なお人は、きっとそれだけでは終わらないのだろう。明日会えるかと聞いてきたので、スケジュールを見て不都合がなかったので了承した。

 約束したその日は何も予定にない日で助かった。

 なにか原稿だけではない予感がしていた。

 

「また、変なことを言い出さないといいけれど」

 そんなどこか嫌な予感を感じ取っていた。


 約束の当日は曇りだった。今日の空はおかみの心を代弁しているかのようだった。和装をしてロビーの掃除をしていた時のこと。先生が自動ドアを通ってやってきた。前沢さんという方ともう一人連れている。

「あら、佐藤先生。お約束の時間には少々早いのではないですか?」

「紹介したいしたい人がいるので早めに来たんですよ」

「こんにちは、入江です」


「こんにちは」

 おかみは戸惑ったように挨拶する。彼も彼ででどこかで見たことはないか考えるようにしていた。

「これはこれは。どこかで見かけましたか」

「いえ。なにか思い出しそうになったのですが、何だったかしら」

 何だろうか。この既視感は。どこかで見た客人だろうか。自分の中でザラリとした違和感がある。見たことのある容貌だと思うのに記憶がはっきりしないのがもどかしい。


「それでは、防音を施した部屋を手配いたしますので少々ロビーでお待ちください」

「はい」

 電子管理し始めた部屋の管理。11時からの予約を押して部屋を抑える。

 接客のチラシや消毒のチェックを済ませ、先生たちを呼びこむ準備を整える。

「副支配人、しばらく接客に入りますので。その間統率をお願いいたしますね」

「ええ。おまかせください」

 副支配人とは少しだけ仲が良好になった。まだまだ心配している節はあるようだけれど納得して率先して動いてくれている。先生のおかげで信頼が少しだけできたようだ。短期間とはいえ入ってくれる仲居ともスムーズに連携をとってくれている。

「ありがとう」

 時間よりは少し早いけれどくつろいでもらおう。

「どうぞ」

 客人3人にお茶を出していく。新しく連れてこられた男性の茶を飲むしぐさにまた既視感を覚える。

(なんでこんなに見たことがあるのかしら)

 幼いころからの習慣で顔を覚えるのは早い方だ。3回顔を合わせたらだいたい忘れない。父もそうだし母もそうだといっていた。客商売するには基本なのだろう。

「そちらの方はどこかでお会いしましたでしょうか?」

「ええ。やはり見覚えがありますか?」

「なんとなく見たような」

「この人は同郷でして、職業体験もここでだったそうなんですよ」

「そうでしたか。だから見覚えがあるのですね。きっとどこかで一緒になったことがあるんでしょうね」

 おかみが子供の頃はよく清掃に駆り出されていた。どのように時間をかけずに消毒できるか、どうやればゴミを効率的に集められるか。

 遊びが混じった子供の行動だが、それでマニュアルが作成されたり改定されたりもする。


「ええ。私はよく覚えていますよ。あちこちで部屋の清掃をさせてもらいました。随分改装されましたね」

「ええ。経営が変われば内装も替えるのが企業戦略というものです」

「確かにそういうものですよね」

「ええ」

 話しているうちに思い出した。

 どこかで見たと思ったら、父が絶賛していた子だ。

 3つ年下だから中学もかぶらない。だからあまり気にしなかった。

 子供ながらに手伝いで忙しい幼いおかみに向かっていったのだ。

「いつか縁があるかもしれない。彼はよく覚えておきなさい」

 父はそういっていた。確かに縁があった。

 本当に父は経営者として有能だったのだ。

 きっと彼は何かの才能を持っているのだろう。

 父は亡くなってもなお、おかみを助けてくれる。

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