天使と私の危機一髪

海野夏

✳︎

 今日はライブだからその前にゆっくり見ておこう、とスタジオのあるビルの屋上に上がる。何となく、本番前のルーティーンみたいなもので、私が元気を届けないといけない人たちのいる街を見ておきたくて始めたことだった。

 許可をもらって、階段を上って、ドアの鍵を開けようと思ったら既に開いていた。

 誰かいるのかな?

 少しだけドアを開けてみようと思って、ドアノブに手をかけると私の考えなど知らぬというかのように、大げさに泣き喚いてドアが全開になった。

 先客は天使だった。


「……何見てんだよ」

「あ、びっくりしたぁ……。天使かと思った」


 天使は屋上をぐるりと囲む柵の上に座っていた。胡乱げな目は綺麗な海色。私の存在を見定めるように視線を向けているけれど、そんな表情でも美人で、同じグループにもよそのグループにもこれほどの美貌を持つ人はいなかった。


「あっ、あの、危ないですよ天使さん!」

「危なくていいんだよ。これから飛ぶんだから」

「……やっぱり、天使なんですか?」

「さっきから天使って何」


天使さん(仮名)にお願いして、おだてて、宥めすかして、泣き落として、ようやく柵の上からこちら側に降りてもらうことができた。その頃には彼女から残念なものを見る目で見られていたけど、私の評価なんか今はどうでもいい。

何はともあれ、降りてきてくれてよかった。


「せっかく苦労して登ったのに」

「あはは……」


同じ高さに立つと天使さんは随分と背が高くて、やっぱり神様に作られた傑作なんじゃないかと、少し心穏やかでない感情になった。


「私の邪魔して何したいの? 売れないアイドルの浮橋遊日うきはしゆうひさん」

「……何で、知ってるんですか?」


ひやりと背筋に氷を当てられたような感覚。急に現実に戻された。

アイドルなんて言っても、テレビに出たこともない地下アイドルグループの端っこにいるうちの一人だ。推してくれる人はほとんどメインメンバーに取られて、数少ないファンは人気がなければワンチャン付き合えるだろうって見下した下心が透けて見えているような人ばかり。歌も踊りも容姿も、突出したものがない。私一人いてもいなくても、きっとお客さんは気づかない。


「気づくよ。ライブで見たし」


俯いていた頭上から声が降ってくる。見上げると、彼女は私を見下ろしていた。


「うちの妹がああいうの好きだったんだ。私も一回だけ一緒に観に行って、妹の推しの、端っこにいた鈍臭いのが気になってさ」

「鈍臭い……」

「妹がいたらまた行くこともあったかもね。……なんて、無い話だ」


目から慈愛の光が消えるのを見た。私は彼女の事情を何ひとつ知らないけれど、彼女が飛ぼうとした理由に思い至り、申し訳なくなった。私は彼女の悲しみを思うより、自分を見ていてくれた人に出会えたことが嬉しかった。


「——あぁ、そうか。飛ばせてくれないなら、アンタを使わせてよ」


妹が推した末端アイドルが遥か高みに上り詰めれば、少しは心が晴れるだろうと。そんな無茶な話を真面目にする。


「どこにいたって分かるように有名になって、まだ生きててもいいやって思えるように私を騙してよ」

「ま、待ってくださいよ、わたしが、そんな、上り詰めるなんてできると思うんですか……?」

「さぁ? できなきゃアンタの知らないところで私がいなくなる、ただそれだけのことだ」

「わたしなんかに命をかける気ですか?!」


なんの冗談だと言おうにも、彼女の目は本気で、さっき柵の上に座っていた姿を思い出すと冗談とも言い切れない。


「私、自信がなくて、いつもこの屋上から飛んじゃおうかなって思ってるんですよ。勇気がなくてできないだけで、そんな臆病者なんですよ」


だから馬鹿なことは言わず諦めて、と言おうとした。


「でもアンタなら、さっきみたいに危機一髪で救ってくれたりするんじゃない?」


そう言って綺麗に笑った言葉の通じない天使は、アイドルとしての私を救い上げた。




「——というのが、私と天使さんの馴れ初めでした」


テレビで遊日を見るのも珍しくなくなって、何とはなしにかけていた番組から小恥ずかしい惚気話が聞こえてきた。前に収録で私の話をしても良いかと連絡してきたけど、これか。

今度こそ飛んでやろうかな、と以前は考えられなかった冗談まじりの独り言がこぼれた。

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