羽をたたむ、傘をひらく

文月八千代

第1話

「じっとしていることが苦手だ」と初めて思ったのは、小学校に上がったときだった。

 幼稚園では自由に動き回れる時間が多かったのに、小学生になった途端、四十五分も机に縛り付けられる。

 みんな違和感を抱かないんだろうか? なんて思っていたけれど、たぶんどうも思っていなかったんだろう。みんな揃って真正面にある黒板を見ながら、先生の話に耳を傾けていた。

 私も同じようにしていたものの、心は別の場所にあった。


 勉強は好きだ。新しい知識を得ると、そこから伸びる枝の先が気になってワクワクする。でもそれより私の心を動かしたのは、教室の大きな窓の外に広がる青空や、あちらこちらに飛び回る鳥たちだった。



――飛ぶように、生きてみたいな



 最初は世間知らずの子どもの戯言でしかなかったものが、やがて実現するなんて。

 教室の外の世界を夢見ていた私が知ったら、なにを思うんだろう? そうやって考えてみると、なんだかおかしかった。


 大学を出てオフィスに通わなくていい仕事を手にしたあとは、あちこちを転々としながら暮らした。あるときは大都会。あるときは田舎町。またあるときは、海の見える小さな街……といった具合に、住んでみたいと思う場所を渡り歩いていた。

 そんな私を心配した母は頻繁に「どこかに落ち着けば?」と連絡をよこしてきた。そのたび「はいはい」とあしらっていたら、母はため息交じりに「羽のある人をひとつところに留めるほうが無理なのよね」と漏らした。


 なるほど。私の背中には羽がある。だから教室の窓の外に憧れて、じっとしていられなかったんだ。飛び立てる力を手にしたあとは、渡り鳥みたいに旅を続けていたんだ。

 そうやって母の言葉に納得しながら、私はまた羽ばたいた。

 いまの街へ来たのは、数ヶ月前のことだった。

 誰もが「住みやすい」と言う街だからしばらくここにいようなんて思っていたけれど、私は言葉にできない息苦しさを感じていた。


 こういうのは、たまにある。

 空気が合わないとか、水が合わないとか……そういう理由がなくても、相性が悪いと感じる街があるのだ。

 例えるなら人が百人いたとして、そのなかに苦手な人がひとりやふたりいる、なんてものに似ている気がする。

無理して暮らそうと思わない。お金はかかるけれど、そうなったら引っ越せばいいだけの話だ。


 だから私は身軽に動けるよう、あまり多くのものを持たない。それに日常生活で使わないものはダンボールに入れたまま、クローゼットにしまっておくのだ。

「この街ともお別れかな……」

 独り言を呟きながら、ダンボールの整頓をしていたとき、ガムテープの残りが少ないことに気づいた。




 慌てて出掛けた買い物先で、突然の雨に降られた。 

 家を出たときには、気持ちいい青空が広がっていて、天気予報も低めの降水確率を告げていたのに。

いま、目の前ではざざざざと音を立てながら、雨が天と地を線で繋いでいる。

「まいったな」と頭をかく私は、開いては閉まるを繰り返す自動ドアの前で立ち尽くしていた。そんなとき。


「あの。よければ、傘、いかが?」

 すぐ横から声がした。そちらに目をやると、私より背の低い、ふくよかな中年の女性が立っていた。にこやかな表情をたたえて。

「え……えっと……」

 こんなに雨が降っているのに、どうして? と首をかしげる。すると女性はハッとした顔をしたあと、慌てて口を開いた。


「私はね、迎えが来てくれることになってるの。だから、ね」

 ぐい、と傘が押し付けられる。

 それはコンビニで売っているようなビニール傘ではない。深みのある紫色で、白く縁取りがしてある。まるでアジサイのような、細いフレームの傘だった。

 きっと私はひどく困った顔をしていたんだろう。女性はまた、今度はさっきより目を見開いて、ハッとした顔をする。そしてニコリと笑いながら言った。


「もう古いものだし、使い終わったら捨ててしまって構わないから。ね?」

「あ、あの……返さないと。というか……」

 困ります、と言おうとした瞬間、ハザードランプをちかちかと光らせた車が滑り込んできた。

 隣にいた女性は「よいしょ」と掛け声をかけて買い物バッグを肩にかけ直し、一歩、また一歩と歩いていく。

 声をかけられないまま車に乗り込む様子を見つめていると、静かに開いた車窓から女性が顔を出す。


「もしよければ、雨が降ったらその傘をさしてここへ来て? 私もそれを狙って来るし、あなたも荷物にならないでしょう?」

「え、と……」

 言葉が出なかった。

 突然の申し出に驚いたのと、もしも、ずっと雨が降っていたらどうするんだろう、という疑問があって。でもそれは傘をもう一本用意すれば済む話だし、私がずっと傘を持っているのも違うと思った。女性の提案に頷いた私は「ありがとうございます」と言って頭を下げ、カチカチとウィンカーを出しながら発進する車を見送った。

 風に乗って皮膚に触れる雨は冷たい。けれど胸には、温かいものが湧き出していた。



 部屋に戻ってからスマホで天気予報を見てみると、しばらくは晴れ、晴れ、曇。雨が降るという予報はどこにもなかった。

「いつ傘を返せるんだろう」と思いながらテレビをつけてみると、ちょうど「沖縄が梅雨に入りました」と告げる声が聞こえてきた。


 そうか、梅雨ならば。


 玄関に立てかけた傘を見ながら、気付いたんだ。ずっと心のなかでくすぶっていた願望が、どこかに消えていることに。理由は、たぶん……。

 それから、ダンボールに入れたままだった本を数冊取り出した。雨の日は鳥が外を飛びたがらないように、私も羽を畳んでみようと決意して。

 このあとのことは、ゆっくり考えてみればいい。


 そうだな……梅雨の静かな雨のなか、頭上に紫色のアジサイを咲かせながらでも。

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