第一〇回世界公平文学賞

後藤文彦

第一〇回世界公平文学賞






 特に職業作家というわけではない一般人が日記やエッセイ、小説など各種の文章をウェブ上に公開し始めたのは、一九九〇年代後半のウェブ黎明期だ。当時はブラウザーから簡単に文書をアップできるツールもなかったし、それ以前にインターネットにアクセスできるスマホのような手軽なデバイスもなかったから、ウェブに自分の文章をアップする人というのは、パソコンを持っていてインターネットにアクセスできる人に限られた。更には、ウェブページを書くためのマークアップ言語の書き方を自分で調べて勉強することも厭わないような、どちらかというと技術系やオタク系の限られた母集団がウェブの住人であった。



 二〇〇〇年代からパソコンは一般家庭に普及し始め、多くの人がインターネットにアクセスするようになった。それに伴い、技術的な知識がなくてもブラウザーの操作だけで手軽にウェブ上に文章や画像をアップできるブログツール各種も普及し、ごく普通の人々が、日常の出来事や旅行記などをウェブに公開するようになっていった。すると、ウェブ黎明期からのウェブの住人の一部は、一般人による内容のないコンテンツがネット空間のリソースを浪費して、ウェブを玉石混淆にしていると苦言を呈し始めた。しかし、こうした傾向は二〇一〇年代にスマホが普及し始めてからは、ほぼ必然とも言うべき流れとなった。誰もが自分の日常の一コマをスマホで撮影し、それをウェブにアップして一言を添える。するとそれに誰かが反応してコメントをつける。そんな仲間内の日常報告の用途にウェブを利用するニーズが開拓され、ウェブに日常を手軽にアップできる各種のサービスが次々に展開された。



 こうしてウェブには、特に内容のない普通の人々の日常の一コマが、数行の文章のつぶやきやスマホで撮影した写真や動画として日々 大量にアップされ蓄積され続けた。一方で、それまで発表の場を持たなかったアマチュア創作家たちは、自分たちの作品(文学や絵画、音楽や自身のパフォーマンスの動画など)をどんどんウェブに公開し続けた。プロの作家の場合、購入者のみ閲覧可能といったアクセス制限をかけたがる傾向が強かったが、中には自作品をウェブに完全に公開して、アフィリエイトや投げ銭など、自作品を販売する以外の方法で生計を立てるプロも少しずつ増えていた。



 こうした中で、ウェブに公開されている一定水準以上の優れた作品だけを効率的に鑑賞したいという需要が生まれた。もちろん文学や音楽といったそれぞれの領域ごとに、オリジナル作品を収集して公開し、レビューを書き込ませるサイトなど、ウェブ上の優れた作品を紹介しようとする試み自体は、様々な手法で続けられてはいた。もっとも、その多くはアフィリエイト収入を得ようとするサイト運営者の思惑がサイト設計の根底にあり、優れた作品を収集することはもとより、大部分の凡庸な作品でも、如何にいい作品と見せかけるかという広報手法に、これでもかというほどの過多な演出が施された。純粋にいいものに効率的に巡り会いたいだけの鑑賞者たちは、結局、自分自身で一つ一つ作品を鑑賞していかないと優れた作品を発見できず、ウェブという巨大データベース検索システムがまるで使い物にならないことに、苛立ちを覚えていた。もちろん検索エンジン側も、内容がないにもかかわらず検索順位を上げようとするサイト内の姑息なステマ操作を無効化して、できるだけ検索者の意図に合致する内容のあるサイトのみを選別する機能も進歩してきてはいたが、如何せん、内容のないサイトが膨大すぎて、なかなか検索エンジン側の選別機能の進歩に期待するにも限界があった。例えばある種の創作作品の選別に関して、仮に検索エンジンの選別機能を駆使して、ちゃんとオリジナル作品を鑑賞できる状態で公開しているサイトの絞り込みまでは成功したとしても、その作品が「いい作品か」どうかということまでは、実際にその作品を検索者が鑑賞してみないことにはわからないので、やはり作品を虱潰しに一つずつ鑑賞してみる以外の選別方法はないのだった。



 だからレビューサイトを運営するブロガーたちは、「当たり」を見つけるや、これこそ「埋もれた傑作」と大々的に宣伝した。それまでどのメディアでも取り上げられず完全に埋もれていた傑作を掘り出したレビューサイトは、途端に人気サイトの仲間入りをする。こうしたレビューワーたちが掘り出した作品がどれだけ埋もれた作品であるかを評価する際に使われだしたのは、NIFという指標だ。



 NIF(ノーインパクトファクター)は、学術論文における被引用数を示す指標であるインパクトファクターにヒントを得て考えられた指標で、ある作品がどれだけ話題に登らずリンク等で参照されていないかを表したものである。簡単に言えば、インパクトファクターの逆数のようなもので、NIFが二〇を越えることは「埋もれた作品」と見なされる目安となった。ちなみに、作者が発表せずに隠していた作品など、誰からも完全に参照されていない作品のNIFは無限となるため、NIFがつくには何らかの媒体に公開されている作品であることが条件となる。



 二〇三〇年にNIFが公表されて以来、NIFの大きい埋もれた作品はウェブ上で紹介された途端に被リンク数が増え、NIFがたちまち下がってしまう。そこで、作品発表から現在までの年ごとのNIFを連続した十年で平均したときに最大となる十年の平均で求めたNIFをNIF一〇と名付け、埋もれた作品(厳密には、十年以上 埋もれていた時期のある作品)を表す指標には、もっぱらNIF一〇が使われるようになった。



 NIFは作品がどれだけ埋もれていたかを数値化するには確かに有用な指標ではあったが、その作品が優れた作品であるということを保証するものではない。そこで、内容があるかどうかの選別には一定の成功をしている検索エンジンの選別機能に、更に内容の良し悪しまで判断させられないかということが、試みられるようになっていった。



 これは絵画や音楽、文学といった各芸術の分野ごとに具体的な手法は異なっているが、基本的な考え方は共通している。その基礎となったのは一九三〇年代の数学者によって「形の美しさ」の尺度として提案された「美度」とでも言うべき指標である。これは何らかの方法で定量化した形の「複雑さ」に対する「秩序」の比率で表わされる。もちろん、美しさというのは人間の価値観に依存するものだし、ある程度の大衆が共有する美的価値観とはいえ、単純化した数式で表現するのは容易なことではない。しかし、絵の具をぶちまけたような抽象絵画、調性やリズムのない現代音楽など、大衆から支持されない「わからない」「誰でも真似できそうな」前衛芸術を排除するには、こうした定量化アルゴリズムを搭載した美度フィルターは極めて有効だった。



 人々は美度フィルターの判定を参考に「当たり」の作品を選別するようになっていったが、それは既に評価の定着している偉大な芸術家の古典作品であっても、例外ではなかった。美度フィルターは、複雑さに対する秩序の比率を評価の軸としているため、各分野で定着している芸術作品の評価など完全に無視していた。一部のクラシック音楽愛好家の間では、美度フィルターのアルゴリズムは偏向していると論争が巻き起こった。例えば、バロック期のフーガのように一定の規則を満たして構造が展開し、同じパターンの繰り返しが少ない曲は、音符密度が小さくとも、美度は九〇%前後と高く評価されたりする一方、古典派以降のパターン化されたアルベルティバスのような伴奏にメロディーが乗っているような曲では、多少、和音や音符密度が大きくても、美度はせいぜい八〇%ぐらいだったりした。といっても、これでも美度は高い方で、わかりやすいコード進行にメロディーが乗っている人気のポップスの美度は、七〇%前後に留まった。ちなみに、調性やリズムのない現代音楽の美度は一〇%ぐらいだったから、美度は「まるでいいとは思えない」ものを排除するには、十分に有効だった。痛快なのは、高度な数式を駆使して作曲した傑作とされている複雑・難解な現代音楽の美度が五%と判定されたりすることだ。



 一方、小説など文学作品の「良さ」を判定するアルゴリズムも、自動翻訳やセンマンティック検索の発達により、読者の「好み」に応じて各種の判定ができるように進歩していた。ブラウザー上で、ユーザーは自分が読んだ作品の「良さ」をクリック数で入力することができる。多くの作品を読み、その評価を入力すればするほど、判定ツールはユーザーの好みを学習し、ユーザーがまだ読んでいない作品に対してユーザーの好みで「良さ」指数を一〇〇点満点で判定してくれるのだ。



 二〇二〇年代、自動翻訳の飛躍的な進歩・実用化の中で自然言語の構文解析も発達し、文章の文法的な構造を成立させる最小限の骨格部分、その他の修飾語といった関係性に留まらず、物語のあらすじを説明するために必要な最小限の骨格部分とその他の修飾や修辞のための部分といったことも分析できるようになっていた。二〇二〇年代後半から、検索エンジンで検索された文章の要旨を要約して示す機能が実用化され始め、これはビジネスの場面でも学生たちの間でも大いに重宝した。どれだけのページ数の資料であっても、要約ツールはユーザーの要望に応じて一ページにでも、一行にでも要約してくれた。こうした要約機能はAIと連動し、動画の要約にも活用されていった。既に二〇二〇年代前半から、若者たちは映画やアニメ等の動画を早送りして「必要な」部分だけを見て、さっさと結末を知ることが新たな視聴スタイルとして定着していたが、自分で早送りしなくても、AI側がそれをやってくれるようになったのだ。



 しかし、中にはAIでもなかなか要約できない作品というのもあった。小説で言えば、修飾や修辞のための表現がなく、常に物語が進行し続けるような作品の場合は、要約が困難だった。もちろん、物語のあらすじを紹介しているページなどは、そこから更にあらすじを抽出するのが難しいということにはなるが、ウェブ小説の場合、余計な修飾を廃した密度の濃い作品ほど圧縮率が下がるため、あらすじ抽出ツールの圧縮率が、どれだけ余計な修飾や修辞を含んでいるかの指標としても利用されるようになった。もちろん、あらすじ化のレベルは何段階かを選べるのだが、あらすじが物語として理解できる一番ゆるいレベルの圧縮をかけたときの、元の文字数に対するあらすじの文字数の比率が、作品のあらすじ密度を表す指標として利用されるようになっていった。



 そんな中、「良さ」指数だの圧縮率の指標が流行する前に人気を獲得していた作家たちは、一定の人気を保ち続けてはいたものの、各種の定量化指標が自分たちの作品が薄っぺらで密度が低いことを暴いてしまうので、いまいましく感じていた。



 一方、「良さ」指数の妥当性を評価すべく、真面目に研究している人たちもいた。例えば、「良さ」指数による定量的な評価がなかった過去の時代のベストセラー作品に対して「良さ」指数を求め、果たしてそれが同時代に発表された他の作品の「良さ」指数よりも有意に大きいのかということを調べてみたのだ。すると、NIFが二〇以上のその時代の埋もれた作品の中に、ベストセラー作品よりも遥かに高い「良さ」指数を示す作品が結構あるということがわかってきた。予想された結果ではあるが、要は大衆は必ずしも自分が「良い」と思うものを選んでいるわけではなく、話題の作品や流行の作品を自分も読んで反応することで、自分も流行にのっているつもりになり、他人からもそう評価されたいといった各種の大衆心理が、作品の「良さ」自体よりも売上に影響するということだ。



 人々が「良さ」指数をもとに作品を選ぶようになった二〇三〇年代においては、ベストセラーも「良さ」指数の高い作品が占めるようになってきたし、各種の文学賞すら、選考委員が「良さ」指数を参考にして評価するようになってきていた。つまり、「良い」ものを求める読者たちは、選考委員の主観的評価なんて当てにはせず、「良さ」指数による客観的評価の方を信頼するようになっていたため、もはや、文学賞を人間が評価するのはやめたらいいのではないかというのが時代の流れだった。






 文学賞の審査に初めて公に指標を導入したのは、二〇三三年の第一回世界公平文学賞だ。世界公平文学賞の前進は歴史的なノベーロ文学賞であるが、自動翻訳の発達していなかった二〇三〇年代以前の時代においては、英語に翻訳された文学ばかりが対象になっているとか、政治的な恣意性があるとか、落選作品の中に受賞作より優れた作品が埋もれているなど、様々な批判も受けていた。そこで、ノベーロ文学賞選考委員会は大幅な改革を行い、二〇三三年からは、自動翻訳可能なすべての言語を対象として、年ごとの応募作品のみを対象とし、応募作品を自動翻訳により中立作業言語に翻訳した上で、「良さ」指数を用いたできる限り客観的な評価で受賞作を判定するものとして、文学賞の名称を世界公平文学賞と改めた。



 世界公平文学賞には、大衆文学部門と純文学部門の二つの部門があった。大衆文学部門の評価を「良さ」指数により客観判定するのは比較的簡単だった。ブラウザーから収集された全世界一億ユーザーの「平均的」好みで判定した「良さ」指数――通称「大衆受け指数」――を採用すればいいからだ。大衆文学部門の応募作で最も高い大衆受け指数は、だいたい八〇ぐらいになるのが普通だった。



 一方、純文学部門の判定をどうするかは難しい問題だった。考え方は、誰にとっても「そこそこ良い」ものではなく、それを「良い」と思う人にとって「すごく良い」ものということだ。そこで世界公平文学賞の選考委員会は、まず大衆受け指数七〇以上で自動的に予選を行い、予選通過作品二〇編に対して選考委員が主観で選考を行って受賞作を決めていた。しかし、大衆文学部門に比べて選考が公平ではなく、選考委員の好みに偏向していると批判を受けることになった。そこで第一〇回世界公平文学賞からは、純文学部門も完全に指数のみによる自動判定を導入することになった。誰にとっても「そこそこ良い」ものではなく、それを「良い」と思う人にとって「すごく良い」ものを判定するのは難しい。個人の好みで「良さ」指数を判定すると九〇以上になることはよくあるが、大衆受け指数は高くてもせいぜい七〇ぐらいに留まる。誰かにとって最高の作品というのは、他の人にとっては癖が強すぎて「良い」と思われなかったりするため、誰もが「良い」と思うものというのは、当たり障りのないそこそこの作品にしかなり得ないということだ。そこで世界公平文学賞の選考委員会は、純文学部門の評価は、個人の好みで「良さ」指数九〇以上と判定するであろうユーザー数の多さで判定することにした。具体的には、応募作品のうち、今や検索エンジンの標準仕様となった「良さ」判定ツールが収集した全世界のユーザー一億人の「好み」ごとに判定した「良さ」指数が九〇以上となるユーザー「好み」の数――通称「九〇ユーザー数」――が最も多い作品を受賞作とするということだ。閾値を九〇とするのがよいのか九五とするのがよいのか、そこは選考委員会の価値判断とはなる。例えば、応募作品で最大の九〇ユーザー数は、一億ユーザー中数千人というオーダーになる。こうした作品は、選考委員が読んでみるとなかなか独特の作品だが、確かに何らかのインパクトを有する個性的な作品であり、受賞作と判定するに相応しいと「価値」判断された。一方、九五ユーザー数が最大となる応募作品では、九五ユーザー数は一億ユーザー中数人に留まる。このような作品は選考委員が読む限り、あまりにも奇異な奇書のような作品ばかりで、世界公平文学賞の純文学部門にはそぐわないという価値判断がなされたため、九〇ユーザー数が採用されたという経緯だ。ちなみに、純文学部門の受賞作と判定される作品の大衆受け指数はせいぜい七〇ぐらいにしかならない。つまり、大衆文学部門は誰もがそれなりに「良い」と思う作品、純文学部門は一部の人がすごく「良い」と思う作品という賞の選考意図は、この客観評価によってより客観的に体現された。






 二〇四二年の第一〇回世界公平文学賞の純文学部門において、ちょっとした波乱があり話題を呼んだ。九〇ユーザー数が五〇〇〇の作品が受賞作となったが、この作品はAIを用いて生成したものであると応募者が告白し、失格を申し出たのだ。更に九〇ユーザー数で二位から十位となる作品は、すべてこの応募者が過去にAIを使わずに書いた作品で、しかも応募開始日までのNIFの最小値がすべて二〇を超えるような完全に埋もれた作品群だった。世界公平文学賞はAIの利用は認めていなかったが、一人の応募者が複数の作品を応募することは認めていたし、既発表の公開された作品であっても、応募開始日までのNIFの最小値が二〇を超えていれば応募を認めていたので、これらのうち特に二位の作品は、一位の失格による繰り上げ受賞の候補となった。しかしこの応募者は、今回の応募は問題提起と話題作りによる自身の資金獲得が目的だったとして、二位以下の自作品の受賞についても辞退を申し出た。ちなみに、この二位から十位の作品は、この応募者が第一回から第九回までの世界公平文学賞に応募し、落選したものだ。つまり、大衆受け指数七〇に達せずに落選し続けた作品が、九〇ユーザー数では三〇〇〇ユーザー数以上を獲得し、純文学部門の上位を独占したということになる。これは、これまでの純文学部門の審査方法に一石を投じた。この応募者の応募作以外にも予選で排除された埋もれた名作があったかもしれないのだから。



 さて、九〇ユーザー数が五〇〇〇の作品が失格となり、その次に九〇ユーザー数が多い第二位から第十位の作品も辞退されてしまったため、受賞作を出すかどうかが議論されたが、第二位から第十一位までの作品は、九〇ユーザー数が三五〇〇台から三一〇〇台の狭い範囲に固まっており、第二位も第十一位も大きな差はないと選考委員が判断し、第十一位の作品が繰り上げ受賞することになった。この作品の作者は、既に成功した人気作家で、世界公平文学賞の客観評価で自分の作品がどう評価されるかに興味を持って大衆文学部門と純文学部門のそれぞれに一編ずつ応募したのだ。大衆文学部門の方でも、この作家の作品が大衆受け指数八〇を獲得し、大衆受け指数七五の二位を引き離して問題なく受賞作となった。純文学部門はいわくつきではあったものの、この作家が受賞し、世界公平文学賞初めての両部門同時受賞ということでも話題を呼んだ。






 私は子供の頃から人の役に立ちたいと思って努力してきたのです。最初は医者になろうと思い、医学部に入りました。しかし、幸か不幸か在学中に私は自分に文学の才能があることに気づいてしまったのです。この才能を開花させることは自分にとっての芸術的義務であり、私が医者になるよりもより多くの人の役に立つことができると悟りました。以来 私は人を楽しませ感動させる作品を書くことを自分に課してきましたが、今回の受賞で私の作品がその役割を果たせていることが客観的に示されたと思います。このような評価の機会を設けていただき、世界公平文学賞には心から感謝いたします。






 わたしは自分が良いと思うものを読みたいだけ。でも世の中にはわたしが良いと思う作品がないから、自分が良いと思うものは自分で作るしかない。わたしにはその才能があるわけではないから、自分が良いと思える作品を生み出すにはとても時間がかかるし、効率も悪い。でも、不可能というわけでもないと当初のわたしは考えていた。簡単に言えば、自分が「良い」と思う表現を生み出せるまで、妥協せずに自分が「良い」とは思えない水準の表現はすべて厳格に却下し続けることだ。もちろん、わたしはあまり才能に恵まれているわけではないから、自分が「良い」と思える表現をたまたま生み出せるまでには、膨大な試行錯誤の時間を要してしまう。恐らく、ここで多くの創作者は、自分の限られた時間と試行の中で生み出せるものが、自分の「良い」と思える水準には達していなくても、世の中の多くの人にとっては十分に「良い」ものと評価されるだろうとの見積りから、適当なところで妥協して作品を創作しているものと邪推する。しかし、わたしはそのような作品を創作することには興味がない。わたしの創作の目的は、飯の種ではなく、名声を得ることでもなく、自分が「良い」と思う作品を自分が読みたいということにつきる。わたしとかなり感性の近い人が、わたしよりも才能があって、正にわたしが良いと思う作品を書いてくれたなら、わたしは是非その作品を読みたいと思う。しかし残念ながら最新の嗜好検索で検索しても、わたしが「良い」と思う作品を書いてくれている人は見つからない。わたしが自力で作らない限りは、わたしはわたしの読みたいものを読めないのだ。でも、それをやれる人は自分しかいないから、創作を続けるしかない。しかも、自分でも「良い」と思えるものが仮に作れたとしても、自分はその作品の結末や細部を既にわかっている状態でしか鑑賞できないのだ。と、当初は思っていたけど、作戦を変えることにした。



 自分が「良い」と思える表現をたまたま生み出せるまでに要すだろう膨大な試行錯誤の時間を使って、別のアプローチができないかと考えてみた。十年ほど前、機械学習による文体模倣ツールをあらすじ解析ツールと連動させて、有名作家の作品を模倣するAI作品が登場し始めた。わたしは、プログラミングや自然言語処理といった領域の知識やスキルを持ち合わせていなかったけど、これまで「良い」作品を生み出そうと費やしてきた時間を、こうしたAI作品を生み出すスキル修得のために費やしてみようと思い立った。わたしが「良い」と思うわたしの感性をAIに学習させることで、わたしが「良い」と思うものをAIに生成させる方が、近道なのではないか、そう思い至ったのだ。



 わたしが開発している文学生成AIは、まだまたわたしが満足できるレベルのものは生み出せてはいない。わたしの好みで判定した「良さ」指数は、八〇ぐらいを叩き出せるようになった。これを世界公平文学賞純文学部門の判定方法で判定すれば、九〇ユーザー数は三〇〇〇程度となり、世界公平文学賞純文学部門であれば、受賞する確率が高いことはわかっていた。名声を得ることはわたしの直接の目的ではないけど、文学生成AIの開発には、それなりの資金が必要となる。資金提供をしてくれるスポンサーを手っ取り早く得るために、世界公平文学賞に応募して、受賞した後に失格を申し出ることにした。それから、大衆受け指数七〇以上の判定でこれまで落選し続けたわたしの作品に関しても、今回の純文学部門の客観評価を用いれば、十分に受賞作になり得ることも確認できて満足した。選考委員や関係者には多大な迷惑をかけることになり、本当に申し訳ないことをしたと思う。一方で、わたしの作品や文学生成AIは話題となり、多くの企業や個人から資金提供の申し出を受けている。今後、文学生成AIから得られた利益の一部は、世界公平文学賞選考委員会に継続的に寄付させていただきたいと思う。現状の文学生成AIの最大の課題は、巨大データベースと連動した機械学習システムを稼働するための並列コンピューターのスペック不足だった。資金援助により、これらのシステムを構築することさえできれば、わたしの「好み」に限らず、任意のユーザーの「好み」で判定した良さ指数が九五以上になるような作品を随時 量産できるようになると見積もっている。いずれは、世界じゅうのユーザーが文学生成AIサーバーにアクセスし、ユーザーそれぞれの「好み」で心から満足できる作品を際限なく読めるようになるだろう。そしてこの手法は、音楽や絵画など他の芸術分野にも応用可能だ。もちろん、表現したいという人間の欲求はなくならないから、人間が創作するという行為は趣味として残り続けるだろうし、人間が苦悩して生み出した作品を鑑賞したいという嗜好を持つ人もいるから、プロの創作者も一定数は残り続けるかもしれない。しかし、自分が心から本当に「良い」と思う作品を鑑賞したいのなら、芸術生成AIを利用すれば確実に個人の鑑賞欲求が満たされるようになる――そんな日が訪れるのが楽しみでならない。






        了





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